三 いつまでも
美琴は一人旅籠の部屋で座椅子に座っていた。小町と恒の二人は、どうやら二人でどこかに遊びに行ったらしい。これだけ歩いたのにも関わらず意外と元気だ。
屋敷から持ってきた本を美琴は机の上に置いた。境界でも空の変化は変わらない。窓の外を見れば、空は赤く染まり始めている。
今日ここで一晩泊って、明日の朝に出発すれば昼には夢桜京に着くだろう。
夢桜京に行くのは久しぶりだ。といっても、二年振りくらいだからそこまででもないか。ただ、あの異界は自分にとっては黄泉国の次に近い異界だと、美琴は思っていた。
初めて夢桜京に行ったのはもう千年以上も前になる。まだ人間の世界は、今で言う平安時代と呼ばれていたころのことだ。
夢桜京の主である白面金毛九尾の狐、玉藻前とはそんな時代からの付き合いだ。互いに最も古い友人の一人であり、また国の領主同士でもある。あのころは、異界にここまでたくさんの妖が住み着き、発展して大きくなっていくとはどちらも思っていなかった。
昔は妖怪も人間の世界に住んでいるものたちの方が多かった。だから、異界の主である自分たちの責務はそこまで大きなものではなかった。そのため、よく互いの異界に交流しに行ったりしたものだ。
今はもうそんなに簡単に黄泉国から離れられなくなってしまった。もし何かがあの国で起きた時、主である自分がいなければどうにもならないからだ。あれだけの妖が住んでいるのだから、それも仕方がない。
自分で選んだ道なのだから、後悔はしていない。しかし、たまに昔のような自由が懐かしくなることもある。
美琴は天井を見上げて、小さく息を吐いた。
美琴は、玉藻前のことを藻と呼ぶ。それはかつて、みすず自身がそう呼んで欲しいと美琴に告げたからだ。
みすずが自分の義妹を黄泉国に住まわせて欲しいと頼んできた時は、驚いた。彼女は義妹のことを本当の妹のように可愛がっていたから、たった一人でこちらに寄越すとは思いもしなかった。
それが小町だ。黄泉国に来た理由は本人から聞いた。生まれた時から決まってしまっていた自分の立場が嫌だったのだろう。その気持ちは分からないでもない。
最初は美琴も自分の屋敷の空き室に小町を住まわせるつもりだったが、彼女はそれじゃあ義姉や母の権威の下で生活しているのと変わらないから、と断った。自分で屋敷下の空き家を見つけて、今でもそこに住んでいる。
黄泉国では、玉藻前の義妹、という権威は通用しない。妖怪社会はそれぞれの異界同士の独立意識が高いためだ。その代り、誰かに最初から色眼鏡で見られることもない。小町にとってはその方が良かったのだと思う。それに、恒に会えたことも。
黄泉国に来た当初より、小町は大分明るくなった。特に恒と一緒に過ごすようになってからは尚更だ。きっと彼女も、自分を頼ってくれる誰かが欲しかったのだろう。それまではずっと、何かを与えられる側だったから。
下の方で、お幸の「おかえりなさいませ」という言葉が聞こえた。どうやら小町と恒が返ってきたようだ。美琴は伸びをして、座椅子から立ち上がる。
太陽が森の向こうに消え、夜が来ようとしていた。人工的な明りのないこの場所では、まだ太陽が完全に落ちていない状態にも関わらず、ほとんど何も見えなかった。
後藤は適当な木に体を寄り掛からせて、ただひたすらに時間が過ぎるのに身を任せていた。何もやることがない。死体から奪った金で遊び呆けていた後藤には、この時間は苦痛でしかなかった。
だからと言って、元の世界に戻れば警察が自分を探している。もし見つかれば今までの犯行を黙っている自身はなかった。苛立ちから後藤は地面を殴る。
このままどうすればいいか、全く分からない。ずっとここで生きて行く訳にもいかない。まるで先が見えない。あの自殺を考えていた半年前に戻ったようだ。
後藤は溜息をついた。季節が夏なのが救いだった。寒さだけは考えなくてよい。とにかく暗いうちは何もできない。ひと眠りしよう。そう考えて、後藤は地面に横になり、目を閉じた。
その後藤から数十メートル離れた場所に、石井小枝子の死体は横たわっていた。その死体の近くで羽ばたくような音がして、巨大な何かが降りてきた。
それは石井の死体に顔を近付けると、匂いを嗅ぐような仕草をしてから、その死肉を啄ばんだ。それは一羽だけではなかった。何羽ものそのものたちは石井の死体に群がり、肉を食い千切っていく。
その中の一羽が、「いつまでも」と鳴いた。
旅籠の夕食はこの境界の森で取れる山菜をふんだんに使ったと言う野菜中心の料理だったが、中々おいしかった。量も多く、満腹になるまで食べた後、恒は小町に誘われて一階の広間に向かった。美琴も誘ったが、「私がいたら話し辛いでしょう?」と言われて断られた。
広間では机が規則正しく並べられていて、その周りに座布団が敷かれていた。二人は窓際の小さな席を見つけて、向かい合って座った。
「なんか美琴様に悪いね」
恒が言うと、小町は「そうやねえ」と首を傾げた。
「美琴様も気を使ってくれてるんやろかね」
小町はそう言って、窓の外を見る。空には見事な三日月が浮かんでいる。
「ねえ恒ちゃん、私たちが初めて会った日のこと、覚えとる?」
「覚えてるよ。どうしてだか夜だったよね」
恒は思い出す。祖父母の家で暮らしていた時、夜にふらりと現れた銀色の髪をした少女のことを。
祖母は「この子が恒ちゃんのお友達になってくれるんだって」と、嬉しそうに言っていた。あまり社交的な子供ではなかった恒には、そのころ友達と言えるような存在は誰もいなかった。
その日から、小町は一人で遊んでいる恒の側に、ふらりと現れるようになった。最初はどう対応すればよいのか分からなかった恒だが、小町は何度も遊びに来てくれた。そのうちに、いつの間にか普通に接することができるようになっていた。
「あの頃の恒ちゃんは可愛かったなあ。お姉ちゃんて呼びながら私のとこにとてとて走ってくるんやもん。そして私がいなくなると必死に探そうとしてね」
小町はそう懐かしそうに笑う。
「あの頃は小町さん以外友達がいなかったんだよ」
「それよ、恒ちゃんいつから私のこと小町「さん」だなんてさん付けで呼ぶようになったの?」
「いつからって……、中学ぐらいからじゃないかな。いつまでもお姉ちゃんなんて呼ぶ訳にもいかないし」
「反抗期ってやつやね」
「違うと思う」
小町は楽しそうに笑った。この人が泣いているところを見たことがないと、恒は思う。自分の前では絶対に小町は本気で怒ったり、涙を流したりしない。そして、恒に対して憐れみや同情の感情を向けることもなかった。だから、小町と一緒にいるのは苦痛ではなかった。
「ねえ小町さん。美樹っていう女の子のこと覚えてる?」
「覚えとるよ。交通事故で死んじゃった子やろ?」
小町は少しだけ表情を曇らせた。
「うん。あの人が僕の見た最初の幽霊だった。美樹さんが僕に、自分みたいな見えない誰かを助けてほしいって言ったんだ」
恒は思い出す。そう言って笑い、夜空に消えて行った彼女のことを。
「知っとるよ。恒ちゃんが言ってたから」
小町は優しげに微笑んだ。小町だけは自分が幽霊を見たことを受け入れてくれた。他の友達は怖がるか、馬鹿にされるかのどちらかだった。
幽霊なんてものはいないと、みんなは言っていた。いるとしても人に危害を加える悪い奴だと言われた。それにむきになって反論したりもした。色々な幽霊を見て、怖い幽霊も確かにいたが、ほとんどの幽霊は皆悲しそうな顔をしていたから。
それが原因で小学校高学年のころにはいじめにあった。誰にも話したことはなかったけれど、おそらく小町は気付いていたと思う。
あの頃は唯一自分に普通に接してくれる小町が救いだった。必要以上に避けることも、また必要以上に優しくすることも小町はしなかった。彼女の側にいることは、居心地が良かった。
「美琴様も言っていたね。ああいう死んでしまった人たちを救えるのは、霊感がある人たちしかいないんだって」
「そうやねえ。恒ちゃんも美琴様も優しいから。霊感がある人が皆そう思う訳やないんよ」
それは知っている。霊感があるということは、いいことばかりではない。人には見えないものが見えて、それを人に話せば疎まれ、なんでこんなものがあるんだと思ったこともある。
だから、自分の全てを受け入れてくれる小町と一緒にいるのは楽だった。でも、それでは駄目だと思った。自分と仲良くしていれば、この人も一緒にいじめられるかもしれない。そう思って、恒は小町から距離を取った。
もちろん、本人にそんなことを言うことはできない。きっと言えば小町は悲しむだろうから。
「でもさ、小町さんはどうして小さなころから僕の側にいてくれたの?」
恒は前々から疑問に思っていたことを聞いた。
「うん?ええとね、前に私の兄が半妖怪やってことは話したやろ?」
恒が頷く。
「兄から色々と話は聞いてたから、恒ちゃんも色々悩むんやろなって思ってね。それに、恒ちゃんは美琴様がある結界を掛けていたの。普通の妖怪が、恒ちゃんには近付けなくなるって言うね。そのおかげで、恒ちゃんは高校生になるまで無事に育つことができたんよ」
「でも、小町さんは?」
小町も妖怪だ。でも、自分の側にいることができた。
「そう。私も妖怪。だから、本当は恒ちゃんの側にいることはできへんかったはずよね?でもね、妖狐族にはある秘術があってね」
小町はそう言って、少しだけ得意げな顔をする。
「人化の術っていう術なんやけどね。これは変化の術を得意とする妖狐族だからこそできる術やの。自分の体を、少しだけ人に近いものにする、それが人化の術。だからね、私の体は今、妖と人との中間におるのかな?半妖怪とはちょっと違うんやけど。これは妖狐である私しかできへんかったことやから」
「小町さん、僕のためにそんなことしてくれてたんだね」
「うん、そんな気にしなくてええんよ。私は後悔してへんから。こうして恒ちゃんに会えたんだしね」
小町はそう言って、屈託なく笑った。恒もつられて笑う。本当に、小町に会えたことは幸運だったと思う。
だがその時、恒の耳に声が聞こえてきた。耳の奥に直接響くような、冷たい声。こういう声には聞き覚えがある。
霊の声だ。誰かに対して強く訴えかけるような。しかも複数の声が混じり合っていて、誰が何を言おうとしているのかが聞き取れない。だが、平穏な訴えではないことは経験から分かった。
「小町さん、何か聞こえない?」
「え?別になにも……」
とにかくここで座っている訳にはいかなかった。恒が急に立ち上がると、小町は驚いた顔をして恒を見た。
「どうしたの恒ちゃん?」
「霊の声が聞こえるんだ。それもたくさんいる。放っておけない」
「霊……?」
小町は目を閉じて、意識を集中させているようだった。
「確かに聞こえるかもしれへん。でも本当に微かな声や。よく聞こえたね恒ちゃん」
「とにかく行かないと」
「分かっとるよ。でも私も付いて行ったっていいでしょ?」
小町が立ち上がる。二人は旅籠の出口を目指し、歩き出した。
後藤は自分の周りを取り囲む何者かの声で、重い瞼を持ち上げた。最初は寝惚けていて自分がどこにいるのか分からなかった。だがすぐに、自分は誰もいないはずのあの世界にいたことを思い出した。
誰かが追ってきたのか、後藤は急に怖くなって体を起き上がらせた。だが、そこにあったのは彼が考えていたものなどよりもずっと恐ろしいものだった。
黄色に光るたくさんの目が、彼を見下ろしていた。暗闇の中、三日月の光に照らされたその目の主の輪郭がおぼろげに見えた。
人間ではない、巨大な鳥だった。翼を折りたたみ、地面に立った巨大な鳥が後藤を見下ろしていた。
「な、なんだお前ら!」
後藤は後ずさって、すぐに木の幹に背中をぶつけた。鳥たちはその場にたったまま、視線だけを後藤の方に動かす。
「いつまでも」
確かにそう聞こえた。あの鳥の中の一羽が鳴いた声だった。
「いつまでも」「いつまでも」「いつまでも」「いつまでも」
「いつまでも」「いつまでも」「いつまでも」「いつまでも」
何羽もいる鳥たちが一斉に鳴き出した。淡々とした人間の口調のようなその声は、後藤を震え上がらせた。
鳥は後藤に近付くこともせず、ただ闇夜の下で不気味な鳴き声を上げ続けた。だが、暗闇に目が慣れてきた後藤は、さらに恐ろしいものを見る破目になった。
鳥たちの顔は、人間の顔に似ていた。それも自分が今まで殺してきた人間の。その数はちょうど十羽。彼が殺した人数と一緒だった。後藤はもう我慢できなかった。
立ち上がって走り出そうとした時、今度は別の異変が起こった。
広場の中心部で、何かがかたかたと音を立てた。その音はやがて大きさを増していき、がちがち、がしゃがしゃという何か固い大きなものがぶつかりあう音に変わった。
後藤は恐る恐るその方向を見た。そこに、巨大な骸骨が三日月を背にして立っていた。
骸骨は眼球のない目で後藤を見て、喉のない口で咆哮を上げた。
異形紹介
・以津真天
顔は人間、体は蛇、鋭い爪を持っており、曲がった嘴には歯が生え、翼長は一丈六尺(約4.8m)もあったという不気味な鳥の妖怪で、「いつまで、いつまで」または「いつまでも、いつまでも」という奇妙な鳴き声を上げるという。また、火を吐くこともある。
この妖怪が鳴くのは野垂れ死にした死体の側であり、「いつまで死体を放っておくのか」という意味であるらしい。また、野たれ死んだ人々の怨霊がこの妖怪を生み出すのだともいう。
「太平記」で初めて描かれ、この際は「鵺」退治の例に倣って弓で撃ち落とされた。
最初にこの妖怪について触れたのは「太平記」であるが、この頃はまだ名前は無くただ「怪鳥」とだけ記されていたものを、江戸時代になって鳥山石燕がこの妖怪の絵を描く際に「以津真天」という名を付けた。




