一 境界の道の旅
「君はなんていう名前なの?」
僕より少し大きくて、銀色の髪をしたその色白の少女は、僕に向かってそう尋ねてきた。
僕が戸惑っていると、少女は僕の手を取ってにっこりと笑い、言った。
「私は小町、葛葉小町っていうんよ」
僕は少し緊張しながら、自分の名前を言った。
「僕は……池上恒」
第一二話「鬼哭の古道」
「ん~、いい天気」
小町が玄関を出てすぐ、空に向かって両腕を伸ばしながらそう言った。恒もその後に続いて、日光の下に出る。
九月に入ったばかりの空は澄んでいて、涼しげな風が吹いている。小町の言う通り良い天気だ。気温は高過ぎず、低過ぎず。これからしばらく歩くことになると伝えられていたから、ありがたかった。
「じゃあ行ってくるから、留守を頼むわね」
美琴が屋敷を振り返って、良介と朱音に向かって言った。
「いってらっしゃいませ」
二人に見送られ、三人は屋敷のある山の石段を降りる。前に美琴、その後ろに恒と小町が並んで続く格好だ。
公は、今日から先日話していた小町の故郷である異界に連れて行ってもらうことになっていた。確か異界の名前は「夢桜京」今回は人間界を通らず、異界から異界へと移動するらしい。
「恒ちゃん、相当歩くから覚悟しないとだめよ?」
小町が悪戯っぽく笑いながらそう言う。
「相当って、どれくらい?」
「ええと、私も最後にはあの道を使ったのは大分前やから、詳しくは覚えてへんけど、少なくとも一日以上はかかったような」
「え、一日歩き続けるの?」
恒が聞くと、前にいた美琴が答えた。
「そんな訳ないでしょう。一日かかるのは事実だけど、途中にある旅籠に泊まるわ。人間界で新幹線や飛行機を使えば速いけれど、たまにはのんびりしたのもいいでしょう?」
「そうですね」
昼間の黄泉国には、妖怪の姿は少ない。妖怪にとっての昼は人間にとっての夜に当たるからだと恒は聞いていた。黄泉国の中心街である御中町の中をしばらく歩いていくと、やがて建物がまばらになって、石畳だった道も砂利に変わった。
今までこんなところまで歩いてきたことはなかったから、恒にとっては新鮮な景色だった。
「ここから先は産巣村っていうんや。ねえ、美琴様」
小町が言うと、美琴は頷いた。産巣村には大きな家が何件か離れて建っていて、その間を田圃だったり畑だったりが埋めている。農業地域のようだ。石畳と大小様々な建物で囲まれた御中町に比べると、自然豊かな場所だった。緑と水辺が多いせいか、より気温が涼しく感じる。
産巣村の中心を通る広い道をしばらく行くと、白い砂浜に出た。近くには港があるようで、何隻か船が停泊している。その向こうには港町もあるようだ。
ここまで真っ直ぐ歩いて来るのに既に一時間以上。結構疲れた。
砂浜の上を三人で歩く。海の景色は人間界とあまり変わらない。
「あそこに桟橋が見えるでしょう?あれが目的地」
美琴が指さす先には、木でできた古い桟橋があった。海に突き出るようにして設置されたその先端には、赤い鳥居が設置してある。船の乗り降りのために作られたものではなさそうだった。
桟橋の上に足を乗せると、ぎしりと木がきしむ音がした。本当に古いようだ。
美琴は鳥居の前まで来ると、右手で鳥居を軽く叩いた。すると鳥居に囲まれた部分の景色が歪み、全く別の景色が現れた。
「ここは境界そのものに繋がる珍しい境界でね、黄泉国にもここしかないの」
美琴はそう説明して、境界の中に入って行った。小町と恒もその後ろに続く。
「ここが境界……」
境界の中で最初に目についたのは、細い道だった。自動車が一台通れるか通れないかくらいの幅の道で、その両側には木の柵があって、その向こう竹藪が続いているようだった。道は真っ直ぐで、終わりが見えない。
「そう。異界とはちょっと違うやろ?境界は色々な人間界や異界に繋がっているから、結構複雑な道が続いてるんや。だから道を分かっていないと全く目的地に着くことができないんよ。ねえ、美琴様」
「そうね。でも境界は異界や人間界の空間的距離を無視して色々な場所に繋がっているから、異界に住むものはもっぱら長距離の移動には境界を使うわ。人間界に行くものは少ないから」
美琴はそう答えて、歩き出した。恒と小町もその後を追って歩き出す。
人のいない、舗装もされていない山道を、一人の男が歩いている。後藤という名のその男は、両手で黒い寝袋を引き摺っている。中には何か入っているのか、地面にこ擦るようにして運んでいる。
後藤はある大木の前で立ち止まった。そして寝袋を肩に抱えると、大木の後ろに回った。その瞬間に、空間が歪んで後藤の姿は山の中から消え去った。
後藤は土が剥き出しになった細い道を歩いていた。道の両側は背の高い石垣で囲まれており、その向こうに何があるかは分からない。しかし、後藤にとってはそんなものはどうでもよかった。
土に寝袋を引き摺った後を残しながら、迷いなく道を進んで行く。やがて、周りを木々に囲まれた、開かれた空間に出た。半径十メートルほどの円形の部分だけ木にも石垣も存在せず、背の低い草が一面に生えて草原のようになっている。
後藤はその草原の途中で寝袋のジッパーを下ろすと、中に入っていたものを引っ張り出した。それは人間だった。スーツ姿の女性で、顔は鬱血し、目は虚ろだった。頸部には紐のようなもので首を絞められてできたのであろう紫色の細い痕がある。
後藤は死体を野原の中心に放り出した。その周りには、どの体の部分とも分からない骨が散乱している。しかし頭蓋骨がいくつも転がっていることから、それが一人分の骨だけではないことは明らかだった。
後藤がこの場所を見つけたのは、全くの偶然だった。仕事もなく、未来もなかった彼は自らの命を絶とうとある山の中に入って行った。生きる理由もなかったし、もう人生には疲れていた。だから選んだのが、この名も知れない山の中だった。ここなら誰にも邪魔されることはない。
後藤は首を吊るために良さそうな木を探して、一本の大きな木を見つけた。その中から自分の体重でも折れそうにない枝を探そうと幹の周りを回っていた時、不意に目の前の景色が変わった。
後藤は石垣に挟まれた道にいた。最初は何が起こったのか分からなかった。とりあえず後ろに戻ってみると、再び山の森の中にいた。
幾度かその時空の歪みに入っては出ることを繰り返して、安全なことを確かめてから、後藤は石垣の道を進んでいった。死のうとしていたのに安全を執拗に確かめるのは、自分でも滑稽だった。
景色はしばらく変わらなかった。しかし、やがて道が開けて、あの円形の広場に出た。そこには何もなく、また誰もいなかった。
そこでしばらく佇んでいて、後藤はあることを思いついた。それは、働くことなどしなくても生きていける方法だった。しかし、最悪の方法でもあった。
どうせ死ぬつもりだったという彼の心情が、その行動を後押しした。後藤はその空間に誰もいないことを入念に調べてから、一度元の世界に戻った。そして、最初の殺人を犯した。
山の麓には小さな町があった。真夜中にはコンビニ以外の店は閉まってしまうような、小さな町だ。その人気のない道を選んで、後藤は誰かが通るのを待った。
最初は、自分にできるか心配だった。だが、路地裏に隠れた彼の前に、酔っ払ったサラリーマンの男が現れた時、ほとんど考える前に手が出ていた。工事現場に落ちていた角材で男の頭を殴って気絶させた後、後藤は急いでそれを人のいない山の中へと連れて行った。
夜に山を歩けるほど山に詳しい訳ではなかったため、麓に近い森の中で男の首を絞めて完全に息の根を止めた後、明るくなるまで待っていた。そして朝日が昇った後に死体を抱えて昨日の場所まで行った。相当の重労働だったが、山自体がそこまで大きくなかったことや、その場所が山の道路からほど近いところにあったことが幸いだった。
そこにある境界は、やはり開いていた。後藤は死体を担いだままその中を歩いて行った。体力のなさから途中何度も休む羽目になったが、誰もいないこの場所では人の目を気にする必要がなかった。
やがてあの円形の広場で、一つ目の死体を捨てた。その日はそのまま草むらの上に寝転がって眠った。尋常ではなく疲労していた。
やがて起き上がった後藤は、死体の財布を漁った。給料日が近かったのか、財布の中には五万円ほどの現金と、カード類が入っていた。
後藤はその財布を持ち出して、元の世界に帰った。どうやらこれで、まだ生きていけそうだと思った。
それから、後藤は金がなくなる度に殺人を繰り返した。死体が絶対に見つからないという安心感が、彼の行動力を増幅させた。
後藤は死体の横に胡坐をかいて、煙草に火を点けた。
もう殺人を犯し始めてから半年近くになる。その間に殺した人数は、十人。大量殺人犯と言われても当たり前の数だ。だが、誰も後藤と失踪した人間を結び付けようとする者はいなかった。
ひとつはその死体が一切見つかっていないため、全員行方不明として扱われていたこと、そしてもうひとつは、その対象が無差別だったためだ。最近後藤は親の車を勝手に使って犯行に利用するようになっていた。そのため、どの場所で被害者となる人物を見つけるかは、ある程度自由が効くようになった。
金が無くなっては、適当な場所で適当な人間を見つけ、人気のないところで殺すなり気絶させるなりして、運ぶ日々。もう罪悪感などとっくになくなっていた。
死体は、この場所に来る度に白骨化していた。何かが死体を食っているのか、それとも腐敗が異常に速いのか、それは分からなかったが、どうでもよかった。自分に危害がないのなら、それでいい。
煙草をその辺に放り、死体の鞄を漁る。中から現金を取り出して、自分の財布に入れた後、立ち上がった。これであとひと月は暮らせる。
後藤は死体を放置したまま、歩き出した。その後ろに何が現れているとも知らずに。
境界の景色は、進むごとに変わって行った。竹藪を抜けると、下に大きな湖が広がる長い長い橋に、それが終われば木々に囲まれた森の道になった。その道のところどころには、人間界や異界へと繋がっているのであろうぽっかりとその空間だけ景色が変わっている部分もあった。
「ああいうところから出ると、本当にどこ行くか分からへんのよ。北海道に繋がる境界のすぐ近くに沖縄に繋がってるのがあったりするの」
小町が歩きながら説明した。かれこれ五時間くらい歩いているように思うが、意外と疲れていなかった。知らないうちに体力がついてきたのか、それとも境界の空気の効能なのかは分からない。それを聞くと、小町は笑って言った。
「そりゃあ恒ちゃんのお父さんは妖怪やから。黄泉国で暮らすようになって大分経つし、少しずつ妖怪に近付いていってるんやない?」
「何か嬉しそうだね」
そう尋ねると、小町は「そやねえ」と笑って、言う。
「だってその方が恒ちゃん長生きできるからね。私は嬉しいな。恒ちゃんだけ年老いて行って死んでいくのは見たくないやん」
それはそうか、と思う。妖怪と人間の寿命は段違いだということは知っている。人間が生きられるのは精々百年前後、だが、妖怪にとっては百歳くらいは若者の域に入るらしい。何とも気の遠くなる話だ。
恒自身は半人半妖だから、普通の妖怪に比べれば寿命は遥かに長いが、妖怪に比べれば短くなると聞いた。それでも、普通の人間の何倍も生きられるというのだから、実感がわかない。
「そういえば小町さんはさ、どうして故郷を離れたの?」
「私?そうやねえ」
小町は口元に人差し指を当て、考えるような仕草をした。
「私ね、母も兄も、そして義姉も有名でね、夢桜京では知らない人は誰もいないくらいやったの。だから私は、何々の娘、何々の妹、って扱いやった。それが不満でね、私は私、小町として扱ってほしかったんやね」
景色は林道のまま変わらない。小町は話を続ける。
「まあ家族が皆凄いのに自分だけは、っていうコンプレックスもあったんやけどね。とにかく私の立場なんて関係ない場所に行きたかったんやね。だから、私の母さんや姉さまの知り合いだった、美琴様の黄泉国に行くことになったの」
小町が「ね、美琴様」と同意を求めると、美琴は振り返って「ええ」と頷いた。
「夢桜京の主である玉藻前は私の古い友人なの。良介や朱音よりも付き合いは長いわ。もう千年以上になるかしら」
また気の遠くなる数字だ。それだけ長い間交友を保っているのもまたすごいと思う。
「やからね、美琴様は私のことを快く受け入れてくれたの。感謝してますよ、美琴様」
「分かってるから大丈夫よ」
小町の言葉に美琴は微笑して答えた。
「小町さんも大変だったんだね」
恒がそう言うと、小町は頷いて、言う。
「恒ちゃん相手だからこういうこと話してるんやからね。恒ちゃんは必要以上に同情したり、馬鹿にしたりせえへんから。だから、あんまり他の人には言わへんでね?」
「分かってるよ」
恒がそう言うと、小町は満足そうな笑顔を見せた。
「恒ちゃんのことは信じてるから」
恒は頷く。子供のころからずっと一緒だったから、お互いの性格は良く知っている。だけど、小町が自分の過去をほとんど知っているのに対して、自分は小町の過去をあまり知らない。それだけは少し不公平だと、恒は思った。




