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黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第一一話 霧の向こうから聞こえる
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四 たった一人の友のため

「あの怪獣はなんなんだ」

「いや、怪獣じゃない。恐竜なんだって。リドサウルスっていうらしいよ」

「早く殺しちまえよ」

「いや、生け捕りにして研究すべきなんじゃない?こんな機会滅多にない」

「それよりも捕まえてどっかに繋ごうぜ!見物料取れば大儲けできるぜ?」

「何言ってんのよ!町が壊されてんのよ!?」

「自衛隊でもなんでも呼んで早く殺してよ!税金払ってんだから!」

 遠巻きに事態を眺めている人間たちの間を抜けながら、朱音は彼らの話す言葉を聞いた。勝手なことを言う。人間は地球上にあるものは何でも自分たちのものだと勘違いしている。

 勝手にあの恐竜を刺激して、自分たちと同じ人間である戸部を突き落として、それを見て怒り出した恐竜に、今度は死ねというのだ。どちらに人間味があるか分かったものではない。

「怒っているわね」

 美琴が恐竜の様子を見て言った。あの恐竜は、全てを壊そうとしているようだった。ただ、命を奪っていないことだけは救いだった。

 恐竜の体長は二十メートルほど、足を地面に振り下ろす度に地響きが聞こえそうな大きさだが、すぐ近くを何十人という人々が走っているにも関わらず誰ひとりとして倒れているものも、怪我をしているものもいない。その中には、懲りずに恐竜に向かってシャッターを下ろしているものや、ビデオカメラで中継を行おうとしているものさえいる。

 あの恐竜の葛藤は朱音にも分かった。「大切なものを失うと、全てを壊したくなるか、全てから目を背けたくなる」という戸部の言葉を思い出した。この恐竜は、ずっと目を背けてきた。自分と、そして他のものを守るために。

 だが、その抑圧していた感情が決壊してしまった。

 どんな動物だろうと、妖怪化して長い年月を生きれば霊体が発達し、高い知能を持つようになる。この恐竜も同じだ。戸部と心を通わせ、彼が崖から突き落とされて怒り出したことからも分かる。この恐竜は、ただ凶暴な怪物などではない。

 人間への憤激(ふんげき)と、変わってしまった世界への愁傷(しゅうしょう)の中でも、彼は他者を傷つけることだけは踏み止まっている。全てを壊してしまいたいのに、できない。そんなことをしてもかつての情景が戻って来る訳ではないことを知っているから。その姿が、朱音には堪らなかった。

 爆竹を破裂させたような音が白み始めた空に轟いた。銃声だ。見れば、何人かの警官らしき男たちと、民間人らしい男たちがそれぞれ拳銃と猟銃を恐竜に向かって構えている。

 恐竜は首や体から血を流し、苦しげな咆哮を上げた。振りまわした尾がビルの側面に当たり、窓ガラスを粉砕する。

「信じられますでしょうか!?この映像に映っているあの巨大生物は、特撮ではありません!本物なのです!本物の恐竜が町で暴れています!あ!今現地の人たちによって恐竜に対し発砲が開始されました!専門家によれば恐竜の名前はリドサウルス、白亜紀に生息していた種類のようです!しかし何故白亜紀の恐竜が現代に現れたのでしょうか!?」

 レポーターらしき男が恐竜から離れた場所でカメラに向かってそう喋っている。

「生け捕りにするべきという声も上がっており、麻酔銃が使われていますが、ほとんど効き目はないようです!恐竜は暴れています!このままでは殺害もやむを得ないでしょう!」

 朱音は嫌になって、髪の毛でカメラとマイクを叩き壊した。カメラマンとレポーターの二人は突然の出来事に茫然としている。朱音と美琴はその間を走り抜けた。

「朱音、あの恐竜はこの時期にだけ現れるのでしょう?」

 美琴に問われ、朱音は頷く。

「ならあの恐竜が生息している異界に行くための境界が、もうすぐ閉まってしまう可能性があるわ。急がないと」

 朱音ははっとした。もしあの恐竜が異界に変えることができず、人間界に取り残されるような事態になれば、あの恐竜の平穏はなくなったようなものだ。見世物にされるか、研究材料になるか、殺されるか、どれも彼の望んだものではないはずだ。そして、ただ一人心を通わせていた戸部にさえ会えなくなる。あの霧笛の音さえも、もう聞くことができなくなる。

 ただそれだけのことも、人の世界に現れた異形のものには許されないのか。

 再び発砲が始まる。恐竜の体からは血が流れる。恐竜は苦痛と怒りの咆哮を上げた。そして、前足を人間たちの頭上に振り上げた。

 理性を無くしかけている。彼が最後に自分に課した自制さえも崩壊しようとしている。それだけは、守ってやりたい。一瞬の怒りで全てを壊してしまうことの虚しさは、知っている。

「朱音!」

「はい!」

 具体的な言葉は必要なかった。朱音は髪の毛を一気に伸ばした。その約半分は近くのビルに突き刺さり、そしてもう半分は恐竜の体を包むようにして巻き付いた。

 朱音は渾身の力で恐竜の上半身の動きを止めた。前足は、腰を抜かした警官たちに到達する前に、空中に留まった。

 朱音は歯を食いしばって、恐竜の体を支えた。ビルに刺した髪が音を立てて抜けて行くのが分かる。

 警官の中の一人が、震える手で拳銃を構えようとするのが見えた。まだ懲りないのか、そう思った時、美琴の太刀がその銃身を切り捨てた。

「早く逃げた方がいいわよ。あの支えがなくなったら、あなたたちがどうなるかは想像が付くでしょう?」

 朱音もぞっとするような冷たい声で、美琴は言った。頭上の恐竜に対する恐怖か、それとも紫の目をした少女への恐怖か、人間たちは這うようにして、その場を離れて行った。

 朱音はゆっくりと恐竜の体を地面に下ろした。恐竜の体から、巻きつけていた髪を離す。恐竜は、体から血を流しながら朱音を見た。

「こんなことをしたって、あなたの生きた時代は返ってこないんです!全てを壊したって、ただ全てがなくなって、何もない世界が残るだけじゃないですか……。それは、あなただって分かっているはずなのに……」

 朱音の言葉で、恐竜はむき出しにしていた敵意をいくらか収めた。そして、空を見上げて悲しい咆哮を上げた。海の底に沈んで行くような、悲しい咆哮だった。




 私は聞いた。その悲しげな声を。冷え、傷ついた体はまだ上手く動かなかった。それでも、私は全身の筋肉に動くことを命じた。友が私を呼んでいる。それに応えない訳にはいかなかった。

 私は何とか霧信号所に辿り着いた。私はこの数十年の間のことを思い出していた。毎年この時期になると、灯台にやってくるものがいる。彼との交流は、私の心の支えだった。

 私は霧笛を鳴らした。その音は、空を伝って遠くまで鳴り響いた。




 その咆哮に、答える音があった。空気を震わせるような、低く、それでいて良く響く音だった。そして、それは恐竜の咆哮に良く似ていた。

 霧笛の音だ。朱音と美琴がその方向を振り返ると同時に、恐竜もまた振り向いた。そして、再び、空に向かって吠えた。その声は先ほどよりも、少しだけ高く、喜びが混ざっているようだった。

 霧笛の音は再び返ってきた。戸部が霧笛を鳴らしている。朱音は確信した。

「ほら、まだあなたにも、あなたを受け入れる人が残っているのですよ」

 朱音が言うと、恐竜は静かに瞼を閉じ、一度だけ頷いてから歩き出した。自分を待つ友の元へと。

 再び動き出した恐竜に、人間たちがざわめき始める。先程の警官たちの何人かが銃を構えるが、朱音の髪によって武器を取り上げられた。

「朱音、前に出て守ってあげて。私は後ろにいるから」

「……はい」

 朱音は恐竜の前に出た。恐竜の背中は美琴が守ってくれている。昇る朝日を背に、恐竜は歩いている。それを邪魔するものは許さないつもりだった。




 岬では、灯台を背に寄り掛かって戸部が立っていた。未だに体は回復していないようだったが、表情は笑顔だった。

「無事だったか」

 戸部は恐竜を見上げて、そう言った。言いたいことは恐竜も同じようだった。一度だけ、恐竜は鼻先を戸部に擦りつけた。

「心配をかけたね」

 戸部がそう言って恐竜のごつごつとした皮膚を撫でると、恐竜は低く声を漏らして、戸部から顔を離した。そして海原に目を向ける。

「境界が閉じかけているのね」

 美琴が言った。もう別れの時間のようだった。

 陽は既に高く昇り、海面を青い色に染めている。恐竜は一度朱音たちの方を振り向いてから、霧のない海に体を沈めて行った。彼が生きることのできる安息の地。太古から変わらない海底の世界。朱音はずっと、恐竜の背中を見つめていた。そして、その巨体はやがて深い海の中に見えなくなった。

 海の向こうにある失われた世界に、あの恐竜は帰って行った。あとにはただ、潮風の匂いと、静寂だけが残った。

 戸部はいつまでも、その海を見つめていた。そして、ぽつりと呟くように言った。

「また、来年までのお別れだ」

 朱音はその言葉に頷く。

「そうですね……」

 朱音は海を見つめる。一年に一度だけ開く境界。それは来年も、またずっと未来に到るまで変わらない。この海が白い霧に包まれたなら、あの恐竜はたった一人の友に会うために、海を渡ってやって来る。

 来年もまた、この時期になれば日暮岬には霧が立ち込める。きっとその日が来たならば、海原の向こうまで霧笛の音が鳴り響くことだろう。



異形紹介

・リドサウルス

 映画『原子怪獣現る』(原題『The Beast of 20,000 Fathoms』)に登場する恐竜。その名前の「Rhedo」はこの映画で特撮を務めたレイ・ハリーハウゼンのイニシャルR・Hに、ドラゴンのDを加えた名前から作られている。

 この映画の中でのリドサウルスは核実験によって蘇った太古の恐竜であり、翌年に公開された『ゴジラ』にも影響を与えている。四足歩行の恐竜で、肉食。さらに血液は放射能によって汚染されているためうかつに攻撃できないというモンスターであった。

 この映画の原作はレイ・ブラッドベリの『霧笛』という小説である。原作ではあるがプロットは映画とは全く異なっており、『霧笛』は長い時を孤独に生きてきた恐竜に対する郷愁を誘う物語である。

 余談だが、レイ・ブラッドベリとレイ・ハリーハウゼンは親友同士であり、共に恐竜が大好きだったようだ。

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