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黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第一一話 霧の向こうから聞こえる
45/206

三 海原は霧に覆われて

「その恐竜は、仲間がいると思っているのでしょうかね?」

 朱音がそう問うと、戸部は首を横に振った。

「いや、違うでしょう。彼は、一定の距離以上に岬に近付こうとはしなかった。どうしてだと思いますか?」

 逆に問われ、朱音は首を傾げる。

「きっと、この岬の先にある景色が、彼の生きていた時代のものとは全く違ってしまっていることを知っているんだと思うんですよ。それがどんなに寂しいことか。もう仲間たちも、仲間たちと共にいた世界の面影も、残っていないのだから」

 戸部は小さく息を吐いた。

「それでも、霧笛の音に惹きつけられずにはいられない。それは唯一、かつて自分が仲間たちと暮らしていた時代を思わせる音だからなのでしょう。私もその気持ちは分かる」

 戸部は少しだけ声を低くした。

「私の家族が、ずっと昔に死んでしまったことは話したでしょう?」

「ええ」

「私の妻と子供はね、海で死んだんです。私が灯台を守っている間にね。船に乗ってある島に遊びに行って、その帰りだった。急に海が荒れて、船が転覆。そのまま帰らなかった。私は後悔しましたよ。海で船を守る仕事をしていたのに、自分が守りたいものは、何も守れなかったとね」

「そうだったのですか……」

「それから私は、ずっと孤独だったんです。もし妻や子供の面影を、少しでも感じられるなら何でもしたと思いますよ。だけど、それは叶わない。人は大切なものを失うと、二度と傷つかないために、全てを壊してしまいたくなるか、全てから目を背けたくなるかになると思うんです。私もそうだった。精神的に不安定になってね、それで故郷であるこの日暮町に帰って来て、この日暮灯台で働くことになりました。そして、彼と出会いました」

 戸部は近くに落ちていた石を拾って、海に向かって投げた。それは崖の下に落ちて行って、やがて見えなくなった。

「初めて彼と会った時、私はその孤独を感じましたよ。海の底のような、冷たい孤独を。彼は何万何千という時を、ずっと独りで過ごしていた。それが分かってしまった。私なんかより、ずっと彼は長い間孤独を味わっていたのだろうと思っいました。それと同時に、私は同じ孤独を分け合う仲間を見つけた気がして、癒されたんです。この恐竜も同じなんだとね」

 朱音が頷くと、戸部はすまなそうに言う。

「すみません、老人のつまらない一人語りなんて聞かせてしまって」

「いいえ、そんなことはありませんよ。それに、私も分かります。私もずっと昔に、妹を海で亡くしましたから……」

 全てを壊したくなるか、目を背けたくなる。衝動が外に向かうか、内に向かうかの違い。その言葉が身に染みた。そんな経験が、かつての朱音にもあった。

「そうでしたか……、君も」

 戸部は頷いて、言う。

「あまり詳しいことは聞かないでおきます。君にとっても辛い記憶だろうから」




 それからしばらく、二人は黙ったまま海を見ていた。既に月は高く昇って、夜は深みを増していた。

 やがてどこからか海に霧が広がって行った。白い霧は海の表面を覆い、視界を閉ざしていく。そしてその霧の向こうから、低い、空気を震わせるような咆哮が聞こえてきた。

 まるで悲しみを誘うような、切なさを響かせる声だった。

「来たか」

 戸部はそう呟いて、立ち上がった。

「この灯台ではもう霧笛は使われていません。だけど私は、あの友人のために、一年にこの時期だけ、霧笛を鳴らすんですよ」

 戸部はそう言って、あの恐竜のために霧信号所に入って行った。やがて日暮岬から、先程の方向とそっくりの霧笛の音が、夜霧の中に響いた。

 再び霧の向こうから咆哮が聞こえた。その音は、先程より近くなってきている。朱音は微かな妖気を感じた。それもあの咆哮が聞こえる方角からだ。

 考えてみれば、いくら恐竜と言えども何万年もの間を生き続けられるとは考え難い。あの恐竜がいつ最後の一匹になったのかは分からなかいが、恐らくあの恐竜が生きた時間はその寿命を超えている。

 あの恐竜は、既に妖怪化している。正確には妖怪化と言っていいのか分からないが、強い妖気を持っていてることから考えるに、肉体が変化しているのは確かなのだろう。




 しばらくの間、朱音は霧笛と咆哮のやりとりを聞いていた。その応酬だけが、あの恐竜の孤独を癒すものなのだろう。何千何万年もの孤独。自分には、耐えられそうにない。

 朱音は海を見つめる。咆哮の主は、少しずつ霧の中を進んでいる。




 私は霧信号所の窓から、霧に閉ざされた海を見つめていた。あの柳谷(やなぎや)という()は、信頼に足る人物だ。私たちと同じように家族を海で亡くした女性。誰かに私の友人のことを言い振らしたりはしないだろう。

 ずっと昔からの友人は、今年もやって来てくれた。言葉も通じない、姿も見えない彼との会話はただこの霧笛によってだけ行われる。何十年もの間、続けられ、交わされてきた会話。

 ずっと昔、一度だけあの恐竜と相見(あいまみ)えたことがある。この灯台で働き始めて、初めてこの季節が来た時のことだ。

 あの恐竜のことは、先代の灯台守から聞いていた。それでも、最初は信じていなかった。昔から恐竜は好きだったが、本当に恐竜が現代に存在するなど、夢物語だと思っていた。

 だが、恐竜は確かに現れた。海が急に霧に覆われて、その向こうから咆哮が聞こえた。それは教えられた通り、この灯台が発する霧笛と似た音だった。

 私が霧笛を鳴らすと、あの恐竜も同じ声で返事をした。

 恐竜はこの岬のすぐ側に顔を出して、私を見た。私も霧信号所を出て、彼を見返した。不思議と怖くはなかった。それはきっと、あの恐竜が私と同じ目をしていたからだろう。深い孤独に沈んでしまった目だ。

 恐竜は長い首を私の方に向けて、じっと私を見ていた。怯える訳でもなく、攻撃してくる訳でもなく、ただ私を見つめていた。少しずつ朝日に照らし出されて見えてきた体は灰色に近い緑色をしていて、最初は首長竜の一種かと思ったが、ひれではなく四つの足がついているのも見えた。

 私たちはしばらくの間、無言で見つめ合っていた。朝日が完全に昇ってから、恐竜は一声悲しそうに鳴いてから、私の元から去って行った。私はその背中が霧の中に消えるまで、ずっと見つめていた。

 あの恐竜は、たった独りで生きているのだと分かった。私と同じだ。そしてその日、私はあの恐竜のために毎年ここで霧笛を鳴らすことを決めたのだ。

 私はもう一度、霧笛を鳴らした。再び恐竜の咆哮が返って来る。そして、その鳴き声がいつもよりも近いことに気がついた。私は目を凝らし、まだ太陽は昇っていない、月明かりに照らされた外を見る。

 そこに、懐かしい友人の顔があった。

 



 朱音は目の前に現れた恐竜の顔を見上げていた。深い緑色をしたその肌はごつごつとしていて、(わに)の肌を思わせた。

 恐竜の霊気からは敵意は感じられなかった。むしろ、朱音のことを興味深そうに見ている。恐らく、妖気に惹かれたのだろう。きっとここには、この恐竜以外に強い妖力を持ったものが来ることは今までなかった。だから同じように妖気を出している朱音に興味を持ったのだろう。

「あなたは、寂しいのですね」

 朱音はそっと、その鼻先に指を触れた。冷たいゴムのような感触がある。

 自分もかつては、独りだった。妹を亡くし、自分も(あやかし)と化して、ただ行くべき場所もなくさ迷っていた。その頃のことを思い出した。あの時美琴と出会わなければ、未だに独りだったかもしれない。

「驚いたな。こんなところまでやって来るなんて」

 いつの間にか隣に立っていた戸部が言った。恐竜は戸部の方を見て、そっとその鼻先を彼に寄せた。戸部は一瞬戸惑ったが、すぐに優しく笑って、恐竜を撫でた。恐竜は、ゆっくりと(まぶた)を閉じる。この二人の間には、言葉ではない絆があるのだろう。

 この恐竜がこの岬で起こる異変であることは確かなようだ。霧が出た時に一瞬強い霊気も感じたのは、恐らく境界が開いたせいだ。境界の中には、一定の時期、一定の時間だけ開くものもあると聞く。

 そう考えると納得が行く。この恐竜は、この時期にだけ開く境界を通って、仲間の鳴き声に似た霧笛を聞くために、ここにやって来る。唯一この世界に残された自分と同じ存在の面影に(すが)るために。

 戸部は、愛おしそうに友人の瞳を見ていた。孤独という言葉で繋がれた、二人の関係。

「君は、私を友人として認めてくれるのかい?」

 戸部がそう尋ねると、恐竜はそっと老人の顔を嘗めた。それが答えのようだった。戸部は眼鏡を取って、目の下を拭った。でもその顔は、とても嬉しそうな笑顔だった。

「ひとつだけ、君に言いたいことがあったんだ」

 戸部は眼鏡を掛け直して、恐竜に視線を向けた。恐竜は澄んだ瞳で戸部を見つめている。

「私はもう若くはない。しかし、私が死んでしまったら。もうこの灯台で霧笛を鳴らすものはいない。だけどきっと、君は私が死んでからもずっと生き続けるのだろう。私はそれが、心残りだったんだ」

 恐竜は、全てを分かっている、というようにゆっくりと頷いた。もしかしたら、恐竜ももうすぐ戸部に会えなくなることを悟って、ここにやって来たのかもしれない。数万年の時の中で、たった一人見つけた友人のために。

「本当に、君に会えてよかった」

 戸部が抱きつくようにして恐竜の鼻先に触れると、恐竜も目を閉じた。下弦の月は二人のことを優しげに照らしている。それはまるで、お伽噺(とぎばなし)の中の光景のようだと、朱音は思った。




 戸部が恐竜から離れると、恐竜は彼に向かって小さく鳴いて、背中を見せた。もう帰らなければならない、その背中はそう語っていた。

 大海原の霧の向こうに、恐竜は帰って行くのだろう。戸部も朱音も、黙ってその後ろ姿を見送ろうとした。




 だが、それをさせようとしない者たちがいた。

「本当にいたぞ!UMAだ!ネットで見た通りだ!」

 若い男の声だった。朱音と戸部がその声のする方を慌てて振り向くと、カメラを持ったたくさんの若い男たちがこちらに向かって走って来るのが見えた。

「世紀の大発見だぞ!早く写真だ写真!」

 男たちは一斉にカメラを構えた。朝霧に包まれた日暮岬の静寂は、彼らによってずたずたに破かれた。

 男たちは容赦なく恐竜に向かってカメラのフラッシュを浴びせかけた。夜の中に強烈な閃光が(ほとばし)る。それは、暗い海の底と夜の闇を行き来していた恐竜を刺激するのに、十分過ぎるものだった。

 恐竜は苦しげな咆哮を上げて、岬にぶつかった。地面が揺れ、崖の側面が崩れる。しかし、男たちは尚も写真を撮り続ける。

「何をしてるんだ、やめてくれ!」

 悲痛な声を上げ、戸部が男たちに向かって行った。朱音は慌ててその袖を掴もうとしたが、遅かった。老人は若者たちの中に立った一人で立ち向かって行った。

 朱音は髪を縛る紐を解こうとした。自分が妖怪であることがばれてしまうが、そんなことを気にしている状況ではなかった。戸部は男たちの中で揉みくちゃにされながら、尚も恐竜を苦しみめるものを排除しようと手を伸ばす。

「邪魔だよじいさん!」

 十人ほどいる男たちの中でも特に背が高く、屈強な男がそう言って、戸部を突き飛ばした。痩せた老人の体は呆気(あっけ)なく弾き飛ばされ、そして崖から足を踏み外した。

「戸部さん!」

 朱音に選択肢はなかった。自らも崖を飛び降りながら、その落下速度に加えて髪を伸ばす。そして戸部が海面か岩場にぶつかるよりも前に、しっかりと自身の髪の毛で彼の体を包んだ。

 朱音は空中を落ちながら、恐竜の姿を見た。恐竜は落ちて行く戸部を見て、それから怒りの咆哮を上げ、前足を岬の上に乗り上げさせているところだった。その光景を最後に、朱音の視界は海に染まった。




「戸部さん、しっかりして下さい!」

 砂浜の上に気を失った戸部を横たえて、朱音は呼びかけた。種族、針女である朱音の妖力の属性は水、一人ならば水中での活動は平気だが、人間である戸部はそうもいかない。髪の毛を使って衝撃はかなり軽減したが、老体には落下と水没の負担は大きいはずだ。

 とりあえず呼吸と脈拍を確認する。気は失ってはいるが、体に大きな異変は無さそうだ。だが、安心している訳にはいかなかった。あの恐竜がどうなったのか確かめねばならない。

 戸部は一分ほどで目を覚ました。何度か目を(しばた)いて、朱音に焦点を合わせた。

「柳谷さん……」

「良かった、目が覚めたんですね」

「助けてくれんですか、すみません」

 上体を起こそうとする戸部を、朱音はそっと止めた。戸部は白い砂の上に体を預けたまま、尋ねる。

「あの恐竜は?」

「分かりません。だから私が見てきます」

 朱音は立ち上がる。

「一人では危険ですよ」

「分かっています。でも、戸部さんもあの恐竜は放ってはおけないでしょう?」

「それは……」

 あの恐竜が今何をしているのかは分からないが、人前に出ただけで大騒ぎになるのは確実だ。捕らえられるか、最悪殺される可能性もある。戸部もそれは予想がつくはずだ。

「分かりました。しかし、気をつけて」

「大丈夫です。戸部さんも気をつけて」

 朱音は言って、砂の上を駆け出した。とにかく急がなければならない。遠くから、あの霧笛のような恐竜の咆哮が聞こえる。

 砂浜からコンクリートで舗装された道路に飛び上がった時、懐かしい妖気を感じて、朱音はその方向を見た。

「朱音、そこにいたのね」

 月を背に美琴が立っていた。一日も離れていた訳でもないのに妙な懐かしさを覚えながら、朱音は美琴の元に走り寄る。

「美琴様、ここで起きている異変の正体は分かりました。ただ、ひとつ問題が起きてしまって」

「分かっているわ。あの恐竜のことでしょう?今は町に向かって進んでる。どうやら人間が何かちょっかいを出したみたいね」

「早く止めないと」

「そうね、私たちも急ぎましょう」

 美琴はそう言って、紫の和服を纏った。朱音も髪に妖力を通わせる。

 女妖怪二人は互いに頷き、走り出した。




 恐竜は、悲しげな咆哮を上げた。もうこの世界には、自分の居場所はないのだと、そう思い知った。

 心のどこかでそれは分かっていた。だからこそ、あの岬から陸に上がることはしなかった。あの人間が、自分のために懐かしい音を出してくれるだけで、十分だった。

 それなのに、他の人間たちは大切なものを壊してしまった。あの老人を壊してしまった。この長い孤独の中で、自分を癒してくれたたった一人の大切な命を。

 恐竜はそれが許せなかった。そして、この長い時の中で初めて陸に上がった。そして、変わり果てた大地を見た。

 あの古代の光景はもうなかった。自分とともに生きていた生き物たちは、誰もいなかった。地上は様々な人工物に覆われ、そこに生活するものも、植物も、空の色も、全てが変わっていた。

 そんなことは分かっていたはずなのに、恐竜はそれを目の前にして、溢れ出す感情を抑えられなかった。

 全てを失った古代の竜は、全てを破壊するために進み始めた。



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