一 霧の向こうから聞こえる
この岬では、一年に短い間だけ、霧が海原を白く染める時期がある。
霧はどこまでも続いている。まるでその向こうにいるものを隠すようだ。その海を見守るように白い灯台が一つ建てられていた。そして、一年に一度だけ、その岬を訪問するものがいた。
それは、海中を進み、海原を掻き分け、その灯台を目指してやって来る。懐かしい、たった一人の友に会うために。
霧の向こうから聞こえる、霧笛の音を目指してやって来る。
第一一話「霧の向こうから聞こえる」
朱音は潮風の匂いを吸い込んで、大きく息を吐いた。海の匂いは好きだ。故郷を思い出す。
朱音は岬の先に立っていた。この岬は、日暮岬というらしい。千葉県にあるこの岬に、朱音は美琴に調査を命じられてやって来ていた。
海面からこの岬の上までは、二十メートルほどの高さがある。海を覗いてみても、濃い青がこちらを見返すだけで、どれくらいの深さがあるのかは分からない。そういう海の神秘性が朱音は好きだ。遠くから見るだけならばこんなにも綺麗な水の広がりが、一度その中に入ってしまえばどんな力をも飲み込む脅威となる。妖怪にも人間にも、計り知れない大きさが海にはある。
日暮岬には一つ古い灯台があるくらいで、他に建物は見当たらない。緑が地面を覆っており、その先にある空や海の青と良い対比となっている。
海に来たのは久しぶりだ。黄泉国にも海はあるが、屋敷のある御中町からはかなり距離があるため、滅多に行くことはない。だから調査のためとはいえ、こうして海に来れたのは嬉しい。朱音は海の向こうを眺め、波が岬に当たって砕ける音を聞きながらそんなことを思う。
「さて、どうしましょうか」
そう独り言を漏らして、岬を崖に沿って歩く。調査に来たは良いが、現在のところは特にこの辺りに異変はないようだった。霊気も妖気も感じないし、風が強いことを除けば空も快晴で、何か起こりそうな気配さえない。
やはり夜まで待つ必要があるだろうか。その間、何をしていよう。朱音は強風に靡く長髪を直しながら、朱音は考える。調査には一人で来たから、話し相手もいない。
本当は美琴と一緒に来たかったのだが、彼女も黄泉国の仕事もあるし、元々外に出たがらない人だから仕方がない。朱音は溜息をついて、それから灯台の前にいる人影に気がついた。
その人間は灯台の前に立ち、海原を見つめていた。髪はほとんどが白く、皺も多い顔に柔和な笑みを浮かべている。恐らく六十歳くらいの年齢だろう。厚い眼鏡をかけたその老人もまた、朱音に気がついたようだった。
「珍しいですね、こんなところに若い人が来るなんて」
にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべて、その老人は朱音に声をかけた。朱音はとりあえず、笑顔で会釈する。特に悪い人ではなさそうだが、どうしてこんなところにいるのだろう。ここには自分とこの人以外、誰もいない。
「貴方も灯台が好きなのですか?」
「灯台、ですか?」
「おや、違うのか」
穏やかな表情のまま、老人は「そうか」と頷いた。
「ここの灯台は有名なのですか?」
朱音が問う。
「有名と言うほどでないが、日暮岬に来る人と言えば、あの日暮灯台を見に来る人くらいのものなのですよ。私も、その一人なんですがね」
老人は白い灯台を見上げながらそう答えた。朱音も灯台を見上げる。高さは二十メートルほど。他に建物のないこの岬で、ただ一つ、誇らしげに空に向かって聳え立っている。
改めて見てみると、確かにこの岬にただ一つ居を構えているという華々しさと、ただ一つだけで潮風にさらされている侘しさという正反対の二つの雰囲気を持っているようで、赴きのあるように思えてくる。この老人の灯台を見つめる目がそうさせるのだろうか。
「この灯台はね、もう無人になってしまった。ここだけじゃない。もう日本のどの灯台を探しても手動で動く灯台はないんです。全て、自動で動くようになった。科学の進歩というものはすごいものですね」
老人は白い灯台を愛おしげに眺めている。何か特別な思い入れでもあるのだろうか。
「灯台に詳しいんですね」
朱音がそう尋ねると、老人は静かに頷いた。
「私はね、昔、灯台守だったんですよ。いくつもの灯台を転々として、最後に務めたのがこの灯台でした。この日暮町は私の故郷でもありましてね。今もここで暮らしていて、たまにこの灯台を見に来るんです」
老人は懐かしそうに目を細めた。そういうことだったのか。この灯台には、この人の様々な思いが宿っているのだろう。
ここは、この人にとって思い出の場所なのか。朱音は少しだけ、老人に親近感を持った。自分にも故郷に思い出の場所がある。その場所も、ここと同じく岬だった。
「申し遅れたね、私は戸部、戸部博人と言います。お嬢さんのお名前は?」
「私は、柳谷朱音と申します」
「美琴様、朱音は?」
良介の問いに、縁側の部屋で座椅子に座っている美琴は、本から目を上げることなく答える。
「千葉県に調査に行ってもらってるわ」
「一人でですか」
良介が近くの机の前に腰を下ろしながら問うた。
「ええ。今回はそんなに危険な事件ではないの。ただ、ある地点で毎年定期的に境界が開く場所があるみたいだから。黄泉国に繋がる境界ではないみたいだけど、何かあるといけないからね」
「そうですか、じゃあゆっくり煙草が吸えるな」
良介が嬉しそうにそう言って、どこからか煙草盆を持ってきたかと思えば、早速懐から煙管を取り出した。刻み煙草を丸めて、雁首の火皿に詰め、人差し指に灯した青い炎で火を点ける。
それを一口吸って、ゆっくりと吐き出す。人間界のものと違って、異界の煙草の葉と妖力の火を使っているから、中々消えることはない。ただ、美琴は煙草を吸わないため、どんなものなのかは良く分からない。
「体に悪いわよ」
「妖怪が簡単に体壊してたまりますかいな。朱音がいると怒られるんですよ、壁が汚れるって」
「きっとあなたの体も心配してるのよ」
美琴がそういうと、良介は「それは分かってますよ」と言いながら、また口から煙を吐いた。
「それにしても、何の本呼んでるんです?」
「これ?『失われた世界』」
美琴は良介に表紙を見せた。
「コナン・ドイルの奴ですか。懐かしいですな」
「ええ。でもこういう風に太古の生態をそのまま残してる異界って珍しいのよね。妖怪なんかよりずっと前の生き物たちだから」
恐竜などの古代生物は、シーラカンスなどの例外を除いて現在の科学では絶滅したとされていることが多い。だが、ごく稀にその古代の環境をそのまま残した異界が存在する。そこでは今でも古代生物が生き残り、かつてと変わらない生活を繰り返している。まさに失われた世界、だ。
そういった異界には、基本的に異形が干渉することは少ない。彼らは我々よりもずっと古くから生きているものたちだ。干渉するとすれば、人間に見つからないようにすることぐらいか。科学の食い物にされるのは不憫だ。
「日本にもそんな異界があるのですかね」
良介が煙を吐き出しながら言う。
「さあね、あるとしても、ずっと海の底だとか、地の底だとか、そんなところに境界があるのでしょうね。簡単には見つからないわ」
そう言って、美琴は本を閉じ、立ち上がった。
「どこか行くんですか?」
「ええ。朱音には先に行ってもらったけれど、そろそろ私も行こうと思ってね。結構特殊な現象が起こっているみたいだから私も確かめないと」
戸部という名のこの老人は、現在は小説を書いて生活しているのだと朱音に語った。
「へ~、すごいですね」
「作家と言っても、しがないSF作家だがね。売れっ子という訳じゃないんですがね」
戸部は照れ臭そうに笑って、そう言った。
「でも普通の人ならまず小説を書いても売ってもらえませんよ。私の知り合いにすごい読書好きの人がいるんです。今度戸部さんが書いた小説を勧めてみますね!」
「そうしてくれると、ありがたいなあ」
戸部は本当に嬉しそうに笑って、そう言った。ここまで嫌みのない人も珍しい。
二人は今、日暮町の漁港近くの食堂にいた。日暮岬でしばらく話した後、戸部に誘われた。特に下心がある訳でもなさそうだし、ついてきた。
店を出たらすぐ海が見えると言う場所に建てられた食堂で、海鮮料理がおいしく、また安いとのことだった。家事全般が得意な中、料理だけはどうしてもできない朱音にとっては、こういった飲食店を教えてもらえるのはありがたかった。こういう土地勘のない場所だとどこがおいしいのか分からない。
「戸部さんは御家族はいらっしゃらないんですか?」
食事の前に出された熱い緑茶を啜ってから、何気なく朱音がそう尋ねると、戸部は少しだけ顔を曇らせたが、すぐに穏やかに笑って答える。
「ずっと昔にね、事故で無くしてしまったんです。それから私は一人なんですよ」
「すみません、変なこと聞いてしまって」
朱音が謝ると、戸部は「いやいや」と言って、首を横に振った。
「もう何十年も前のことですよ。それこそこの日暮町に戻ってくるより前の。柳谷さんのご家族は?」
「私は、血が繋がっているわけではありませんけど、三人の方と同居していますね。というより、住み込みで働いているって言った方が近いですかね」
朱音は、美琴や良介、恒のことを思い出しながら答える。
「そうなんですか」
戸部は感心したように何度か頷いた。
「ええ、皆さん良い方たちで、私にはもったいないくらいの」
「いやいや、もったいないなんてことはありませんよ」
二人が注文した料理が運ばれてきて、それぞれの前に置かれた。戸部の前には鮪の刺身定食、朱音の前には海鮮丼だ。
朱音は一口食べてから、戸部に言う。
「おいしいですね」
「そうですか、それはよかった」
その言葉を聞いて、戸部は本当に嬉しそうにはにかんで、そう言った。
「戸部さんはよくここに来るのですか?」
「ええ、独り身ですから、わざわざ自分のために食事を作る気もおきない日も多くてね」
戸部も一口定食を頬張る。
「うん、うまい。でも、こうして誰かと長く話したのは久しぶりですよ。普段は食事の時以外は、家で小説を書いていることが多いのでね」
「作家さんですものね。そういえば、どうして灯台守からSF作家に?」
朱音が尋ねると、戸部は口の中を呑みこむために茶を飲んだ。
「私はね、子供のころから古いものが好きだったんですよ」
「古いもの、ですか?」
朱音が聞き返す。古いもののSFというのは、どうも思いつかない。時代小説や歴史小説というのならピンと来るのだが。そもそも朱音は科学というものに疎かった。良介の部屋にパソコンがあるから触らせてもらったことがあるが、危うく壊しかけて怒られたことがある。
「ええ、意外に思うでしょう?普通SF作家なら宇宙だとか、未来だとかに興味を持っていそうなものですものね。でも私は、人間なんか存在しない、ずっとずっと昔に憧れていたのです。恐竜だったり、翼竜だったりが闊歩する、太古の時代に行ってみたかった。未来だけでなく、過去を知ることも重要な科学だと、私は思うんですよ」
「ああ、昔というのはそういうことですか」
そうか、過去にあったものの解明をするのも科学に入るのか、今さらながら朱音はそんなことを思った。
「ええ、この地球にはかつてあんな大きな生物たちが、そこら中を歩いていたのですね。それぞれが色々な形をして、生態を持っていて、きっとその全てが解明できるのは、時代を超えることができる術が発見されるまでは無理だと思うのですよ。だからこそ今の時代では想像でそれを補う必要がある。だから私は、彼らが出てくる小説を書くのですよ」
戸部は少年のように無邪気に、そんな風に語った。
恐竜がいた時代、そんな時代がこの星にもあった。考えてみれば、それを描くのもSFのひとつだろう。サイエンス・フィクション、科学による物語。かつては恐竜たちは実在した生物なのだ。
しかし、そんなものたちがいた世界というのは想像し難い。今でも異界のどこかにはあると聞いているが、朱音は見たことはなかった。
妖怪が存在することと同じくらい、恐竜が存在することも不思議なのではないか、改めてそんなことを思う。しかも彼らは人や妖が存在する前に地球を支配していたのだから、古い古いと言われる私たち妖怪よりもよっぽど先輩なのか。そう思うと益々(ますます)奇妙だ。
「つまらない話ですいません。どうも私は、紙には書けるが、どうも口に出して何かを伝えると言うのは苦手みたいで」
朱音が黙ったしまったせいか、戸部はそんなことを言った。
「あ、いえ、とんでもないです。楽しいお話でしたよ」
「そうですか。あなたのような若い人と話せたのも久しぶりです。たまには外出もいいものですね。ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。でも、本当に恐竜がお好きなんですね」
「ええ、浪漫ですよ」
そう言って、戸部は屈託なく笑った。




