一 座敷童子 加代
十才ほどの少女が二人、手を繋いで歩いている。青い着物を着た一人は髪を肩の当たりで切り揃えていて、赤い着物を着たもう一人は長い髪を腰のすぐ上まで伸ばしている。二人の前に伸びる畦道はいつまでも終わりがなくて、まるで夏空の向こうに吸い込まれて行くようだ。
このままどこまでも歩いて行こう、少女たちはそう笑い合って、その小さな足で真っ直ぐに進んで行く。その青空の先に何があるのかを確かめるために。
第十話「青空の座敷童子」
境界を抜けた先で一番最初に感じたのは、青い田圃の匂いだった。雑草の生えた地面に降りると、左右が青々と茂る稻を伸ばした水田に挟まれている。そんな景色が四方をずっと囲んでいて、視界を遮るものは遥か遠くの山だけだ。空の色も澄んでいて、濃い青をした夏空と、緑色の山々の境目をくっきりとさせている。
東京にいれば見ることができないそんな景色を、花子は目を輝かせてしばし眺めた。境界に入って、適当な出口を探し、知らない場所に出る。そうして行ったことも見たこともないところを散歩する。それが近頃の花子の日課だった。境界を自由に作り出せる自分の能力の有効活用、花子はそんな風に思っている。だけどそれも、帰る場所があるからできることだろう。
花子は今、黄泉国で暮らしている。美琴が屋敷の近くに長屋を見つけてくれて、一応そこが住居だ。でも睡眠も食事も必要としない花子にとっては、そこでじっとしているのはあまり面白いことではなく、もっぱら黄泉国でできた友達と遊んだり、美琴の御屋敷に遊びに行って誰かに遊んでもらったり、そしてこんな風に知らない場所に行って歩き回ったりしている。
境界を繋げて色々な場所を回るのは昔と一緒だけれど、今はあの時のような心細さはない。やっぱり、帰ったら誰かが待っていてくれるというのはいいことだ、なんて思う。
水分を吸って柔らかくなった畦道の上を、「とんとんとん」と口でリズムを刻みながら軽い足取りで歩く。時折吹いて来る夏の匂いを含んだ風が、花子の着た赤い着物を靡かせる。
花子は普段の状態だと人間の目には見えない。こちらから意識すれば見ることができるようになるらしいが、不用意に姿は見せない方がいいと美琴には言われていた。
こういう体の状態は、幽体と言うらしい。美琴によれば肉体と霊体が混ざり合った中間の状態とのことだったけれど、花子には難しいことは良く分からなかった。とりあえず自分からものや人に触ることはできるけれど、他人の目には見えない、そんな状態だ。
まあ、誰かに見られるよりは自由に歩けていい。そんな風に思いながら田圃の真中を歩き続ける。といってもここに来てから誰も見ていないから、あまり意味もない気がする。稻の向こうに民家らしきものは数件見たけれど、人の姿は見ていない。ただ気付いていないだけかもしれないけれど。
それにしてもここの景色は何だか好きだ。心を浮つかせるような、それでいて落ち着かせるような懐かしい感覚。生前の記憶はもうほとんど残っていないけれど、もしかしたらこんな場所に来たことがあったのかな、と花子は思う。
いつまでも続くように思われた畦道は、唐突に終わりを告げた。その向こうには、砂利を引いた道を挟んで一つの木造の家が見える。藁葺き屋根の平屋で、隣にある小さな建物は蔵のようだ。
その古民家の縁側に一人の少女が座っていた。歳は十歳くらいで、見た目だけなら花子と同じくらい。髪は縁側につくくらい長くて、自分と同じような赤い和服を着ている。今時和服なんて珍しいな、と思いながらも、その家にそんな古風な子供がよくに合っているような気がした。
もう少しよく見てみようと近付いてみたとき、不意にその子と目があった。花子も驚いたが、その少女も驚いたようだった。二人はほとんど同時に、同じ言葉を口にした。
「私が見えるの?」
その子は名前を加代、と言い、妖怪なのだと花子に語った。花子と同じく自分から何かに触れることはできるけど、ほとんどの人からは見えないらしい。きっと彼女も幽体なのだろう。縁側に二人で腰掛けて、会話をする。普通の人なら夏の日差しで参ってしまうところだろうけど、妖である二人には関係なかった。
「花子ちゃんも妖怪なんだ~。私、自分以外の妖怪の子と会うの初めてかも!」
そう屈託のない笑顔で加代は言った。自分と話すことができる妖怪を見つけて、相当に嬉しそうだった。そんな風に笑顔になられると、花子も嬉しくなる。昔は自分の姿を見たら逃げてしまうこどもばっかりだったから、加代の気持ちは良く分かった。
「加代ちゃんはこの辺に住んでるの?」
「うん……、って言うよりあたし、このお家の近くから離れられないんだ」
加代は少し寂しそうな笑みを浮かべて、そう言った。
「どうして?」
「ここに住んでいる人はね、あたしがまだ人間だった時の親友なの。私の力は家と人に幸運を授けるっていうものだから、妖怪になった時からずっとこの家にいたんだ」
加代は懐かしそうに空を見上げる。
「今まではそれで良かったんだ。だけど今のあたしには、もうひとつ行かなきゃいけない場所ができたんだ」
「どこに行くの?」
花子が尋ねると、加代は彼女の方を見て、答える。
「私の生まれたお家。そこにね、今私のお母さんの、孫なのかな、ひ孫なのかな、とにかく男の子が来てるんだけど、病気らしいの。療養っていうのでここに来てるんだって。でも、多分今のままじゃもうすぐ死んじゃうんだって聞いてる」
それで、自分の生まれた家に戻りたいのか。花子は納得した。幸運を授けるという自分の力でその少年の病気が治る手助けをしてあげようということだろう。
「じゃあ、早く行ってあげればいいんじゃないの?」
「それがだめなの」
加代は首を横に振った。
「このお家には私以外に何かがいるみたいなの。その何かが私の力を打ち消してる。多分、そのせいで私がいなくなったらこのお家は潰れちゃう。だからここから動けないの。それどころか、今ではここから少し離れるだけで駄目みたいなの」
「そっかぁ……」
花子は考える。考えるが、自分が妖怪だからといって他の妖怪に詳しい訳ではない。だから、この屋敷にいる加代ではない何かが、何なのかは見当もつかない。となれば、頼るのは一人しかいない。
「加代ちゃん待ってて、私、それ解決できる人知ってるから連れてくる!」
「そんな人がいるの?」
「任せて!」
花子は笑顔で胸を張った。
「その子は座敷童子という妖ね、おそらく」
座椅子の背もたれに寄り掛かった美琴はそう答えた。この縁側のある部屋は美琴のお気に入りのようで、よくここにいる。
「座敷童子?」
「そう。何らかの理由で死んでしまった子供の霊が妖怪化したものよ」
「私とおんなじだ」
花子がそう言うと、美琴は微笑して、「そうね」と言った。
「座敷童子はね、家に憑き、その家に住む人たちに幸福を与える能力を持っているの。妖力より霊力が強い妖ね。幸せって言うのは、形のないものだから」
以前美琴から聞いたことがある。形のあるものに働くのが妖力で、形のないものに働くのが霊力という力なのだという。幽霊から妖怪になったものは霊力の方が強いことがよくあって、花子の能力も、空間という形のないものに働く力なのだと言っていた。完璧に分かったとは言えないけれど、花子は何となく理解していると自負していた。
「座敷童子がいなくなった家が没落するってよく言われるけれどね、それは俗信なの。本当はね、座敷童子は、その力に頼りきって努力をしなくなった家を見放して、出て行くの。そのせいで、座敷童子がいなくなった家は没落するなんてことが言われるようになったのよ」
「ひどい話だねえ」
花子はそう言ったあと、美琴の手を握った。
「ねえお姉ちゃん、加代ちゃんのこと助けてくれる?」
「分かったわ。ところで花子、その場所がどこだか分かってる?あなたの能力で移動できるのはあなただけなのよ?」
美琴に問われ、花子は自慢げに答える。
「もちろん加代ちゃんに聞いてきたよ!栃木県の、喜善町っていう場所だって」
「そう、後で調べておくわ。ただ、今日はもう夕方になるから明日ね。一応その家には人が住んでいるのでしょう?夜に行ったら失礼だから」
「分かった」
花子は言って、美琴の膝の上に乗った。同じ妖怪相手なら意識しなくても触れることができるし、相手も触れてくれる。だからこうして美琴に甘えることもできる。お母さんの記憶はもう無くしてしまったけれど、生きていたころはこんなことをしてもらっていたのかな、と思いながら、花子は美琴に身を委ねる。
「美琴お姉ちゃん、小町ねえと恒にいは?」
美琴に髪を撫でられながら、花子が聞く。この屋敷に良く遊んでくれる二人だ。
「二人とも学校よ。あとあなた、小町はともかく恒よりは年上じゃない」
「いいの~、私はずっと子供なの~」
そう言って見上げると、苦笑いをした美琴の顔が逆さまに見えた。
翌日、美琴は花子を連れて朝早くに屋敷を出て、人間界へと向かった。花子には能力を使い、境界を通って先に行っていても良いと言っておいたが、断られた。
「だって、こんなときじゃないとお姉ちゃんと一緒に電車で出かけるなんてできないもん」
花子はそう行って、明るく笑っていた。あの子も妖怪化してからは三十年以上は経つはずだが、精神的には子供のままだ。
早朝の木久里町にはほとんど人影はなかったが、一応花子の体は実体化させておいた。そうでなければ、もし他人から花子と話しているところを見られたら、空中に向かって話しかけているように見えるだろう。そんなことで目立つのは避けたい。
花子のように幽霊から変化した妖怪の場合、通常の姿が幽体ということが多い。これは霊力が妖力より高い妖怪の場合に見られ、肉体を持っていない訳ではなく、より霊力が発揮しやすい体を維持しているのだと美琴は考えている。事実、花子も妖力さえ使えば肉体化することは可能だ。ただ、自分一人で肉体を維持するのは疲れるようなので、妖力を分けてあげていた。それで花子の体に負担はなく、肉体化していられる。
「お姉ちゃん、私電車って乗るの初めてかも」
「そうね、花子の能力があればわざわざ乗り物に乗る必要がないものね」
花子の手を引き、木久里駅の中に入る。まだ通勤ラッシュには早い時間だが、スーツ姿の人々もそれなりにいるようだった。
ここから何度か乗り換えて栃木県まで行く。結構な時間がかかりそうだったが、昔はその距離を徒歩で行く必要があった。それを考えれば早いものだ。




