二 式神
伏見は高台から町を見下ろしていた。小さい町とは言え東京。夜にも関わらず明りは煌々と町を包んでいる。ここに妖怪が生きられる場所はない。そう思うと、自然に口元が緩んだ。
この町に来て殺した妖怪は四体ほど。異界に繋がっているらしいだけあって、中々妖怪の出現が多い町だ。もう少しここに留まって掃除をした方が良いか。伏見はそう考えながら、人の形に切り取られた紙を何枚か空中に放った。それらは一瞬発行し、風の流れを無視して各々が違う方向に飛び去った。伏見はその行く末を見守ることなく、踵を返した。
明るいとは家、妖怪は昼よりも夜に沸きやすい。この時間からが仕事の本番だ。
伏見はもう一枚、人形の紙を取り出し、今度はその場に放った。紙が光を発し、四足の獣に変化する。容姿は犬や狼ににているが、体長は二メートル以上ある。
「悪をこの世に蔓延らせちゃいけねえよな、硫」
伏見は硫と呼ばれた獣にぽんと手を乗せた。硫は低く喉を鳴らし、姿勢を低くする。
伏見は硫の毛皮に手を掛け、その背に馬乗りになった。硫は低く唸った後、高台から飛び上がった。
絹江が良介とともに美琴の屋敷に現れたのは、時計が午後九時を少し過ぎた頃のことだった。夕食を食べ終えた後も何となく屋敷でだらだら過ごしていた小町も、その意外な訪問に立ち会っていた。
「いきなり美琴様の御屋敷を訪れてしまい、申し訳ありません」
居間に通され、卓袱台の前に座った絹江は、沈んだ口調でそう言った。その表情にいつもの溌剌さはなく、ずっと寝ていないかのように顔はやつれている。
「いいのよ。どうしたの?何かあったみたいだけれど」
美琴が優しげに尋ねると、絹江は泣き出しそうな顔で言った。
「弟が、吉孝がまだ帰らないんです。今朝人間界に行った切り帰って来ないんです。夕方までには帰るように言っていたのに、もしかしたら正体がばれて……」
小町は絹江の肩を支える。本当に心配しているのだろう。絹江の体は震えていた。この屋敷の住人や小町とは違って、黄泉国の普通の住人達は滅多に人間界に出ることはない。それは、その多くが人間界で迫害されてこの異界に逃れて来たか、この国で生まれ育ったかのどちらかだからだ。
人間界で正体が暴かれた妖怪がどうなるかは、例え身を以て経験しなくても予想は付く。全く平和に帰って来るということは考えにくい。絹江はそれを心配しているのだろう。
「大丈夫よ絹江ちゃん、きっと無事に帰ってくるよ」
小町が慰めるが、絹江は首を横に振る。
「人間界に行っても良いって言ったのは、私なの。それでもし何か弟の身にあったら、私はどうすれば」
絹江の目から一筋涙が流れる。小町にはそれ以上掛ける言葉が浮かばなかった。無責任な慰めの言葉は、余計絹江を追い詰めてしまう。
「分かったわ。私たちが吉孝を探すから、落ち着きなさい。良介」
「はい、既に朱音が人間界に向かっています。俺たちも行きますか?」
「そうね。小町と恒は絹江と一緒にここにいてあげて」
美琴はそう言って立ち上がると、そのまま良介を連れて屋敷を出たようだった。居間には、小町、恒と、絹江が残された。
「絹江ちゃん、大丈夫?」
「うん、少し落ち着いた……」
そうは言うが、膝の上で握った拳の震えは止まっていない。毎日のように人間界に行く小町は麻痺していたが、絹江にとっては人間界はほとんど未知の世界だ。しかも妖怪の存在が認められていない。そこに弟が一人でさ迷っているかもしれないのだ。不安になるのも当然だ。
自分だって、もし恒がもし知らない、場合によっては半妖怪に敵意が向けられる場所から帰ってこなかったら、心配でたまらないだろう。
今の小町にできるのは、ただ吉孝が無事であることを祈ることだけだった。
朱音は一人、木久里町の夜道を歩いていた。黄泉国の住人が行方不明になった。いや、それだけではない。今日美琴に頼まれて行っていた調査によれば、北関東の方でも妖怪が行方不明になる事件が起きていたようだ。そのどれもが人間界で起きている。
何者かが人間界にいるのは間違いない。しかし、もう木久里町まで来ているとは、予想していたよりも早い移動だった。それだけ腕が立つということかもしれない。
相手は妖怪だろうか。しかし神経を研ぎ澄ませても、妖気や霊気は感じられない。となると、妖力や霊力とは別の力を使うものだろうか。先日のスライムのように地球外からやって来たものの可能性もある。もしくは、人間か。
現代において妖怪や幽霊が人間社会に認知されていないとはいえ、全ての人間がそう言ったものの存在を知らない訳ではない。そして、それらの者たちが異形のものに対して友好的であるとは限らない。
とにかく、今は吉孝の救出を優先するべきだ。朱音は気を緩めることなく歩みを進める。今度は霊気に意識を集中させる。もし助けを必要としている状況ならば、妖気よりも強い霊気を発している場合が高い。強い感情は霊力になるからだ。
浮遊霊や地縛霊など、死者が発する霊気が漂う中から、生者の霊気を探し当てる。ここから北の方角に強い霊気を感じる。吉孝かどうかは分からないが、とにかく行く必要がある。朱音は周りに誰もいないことを確認してから、髪を結んでいる紐を解いた。長い髪が左右に拡散し、一本一本が硬質化する。
朱音はその一部を上空に向かって伸ばした。その髪は空中で束になると、近くの建物の壁面に突き刺さる。そして再び髪の毛を縮めると、朱音の体が宙に浮き上がった。その勢いを利用し、朱音は建物の上に着地する。
この移動を繰り返すことで、普通に走るよりも速く移動できる。朱音はまた他の建物に針となった髪の先を突き刺し、今度は着地する前にまた次の建物に向かって髪を伸ばした。急がねば、霊気さえも消えてしまった時が本当に最後だ。
「ここでしょうか」
朱音は大型デパートの前に着地した。勿論十一時になろうとしているこの時間では、デパートの明りは点いていない。しかし、霊気はこのデパートの地下から流れて来ている。入るしかなさそうだ。
朱音は地下駐車場への入り口を潜ると、霊気を頼りに歩き出した。誰もいない空間に、自分の足音が反響する。明りは無いが、妖にとって暗闇は視界の妨げにはならない。車もほとんどなく、暗闇の中には広大な空間が広がっている。霊気の発生場所まで進んで行くと、非常口の前に着いた。この向こうのようだ。
ドアノブに手を掛ける。鍵が掛かっていたが、鍵穴に髪を数本差し込んで簡単に開錠する。ドアを壊してしまうよりはこちらの方が良いだろう。
「吉孝君、ここにいるのですか?」
声に反応したのか、一瞬霊気が強くなった。非常階段の下だ。
小走りで駆け寄ると、そこに血塗れになった一人の少年が倒れていた。だがその姿は普通の人間のものではなく、全身にまばらに毛が伸び、耳や尾も生えてきてしまっている。もう人間の姿に変化しているだけの妖力も残っていないようだ。
呼吸はしているが、小刻みで浅い。生えた毛は乾いた血で体にこびり付き、目は虚ろで、辛うじて瞳が朱音を捉えている。ひどい状態だ。このまま放っておけば後数時間も持たなかっただろう。
「誰がこんなことを……」
朱音は黄泉国から持って来た塗り薬を傷の部分に塗り、包帯を巻いた。応急処置だが、痛みを和らげることぐらいはできる。少しだけ呼吸が安定した吉孝を、今度は伸ばした髪でできるだけ優しく包み、持ち上げる。人の病院に連れて行く訳にもいかないし、人間界では満足な治療ができない。黄泉国に連れて帰る必要がある。
朱音は吉孝を髪に包んで持ち上げ、そのまま外に出た。その場で携帯電話を取り出し、美琴の名前を開く。
「吉孝君を保護しました。ひどい怪我ですがまだ生きています」
朱音は電話越しにそう伝えた。美琴は内心胸を撫で下ろしながら、答える。
「そう。早く黄泉国に連れて帰ってあげて。私はこっちでもう少し調査を続けるわ」
「分かりました」
美琴は携帯を閉じて、息を吐く。吉孝が無事だったのは分かったが、事件はそれで終わった訳ではない。
一週間ほど前から、黄泉国と同じく関東に繋がるいくつかの異界において、妖怪が行方不明になる事件が起きているという情報を得た。良介と朱音にはその詳しい状況を知るため隣国に遣いに出していたのだが、報告によれば行方不明者の共通点は、人間界にいた、ということだったらしい。その情報が入ったのが今日の夕方だ。既に黄泉国の住人には人間界に出ることを禁じる令を出したが、もう少し早ければ吉孝のことも防げたのに、と悔やまれる。
美琴は犯人に対する憤りを、握った拳に込めた。相手が異形であろうと人間であろうと、許す訳にはいかない。美琴は妖力と霊力を放出して、瞳の色を紫へと変えた。相手は恐らく何匹もの妖を手に掛けているはずだ。死神の能力で穢れを辿れば、すぐに分かる。
だが、いつになっても穢れらしきものは見えて来なかった。もうこの町にはいないのか。そう考えた時、不意に背後に気配を感じた。
美琴が地面を蹴るのと、それが雷を放つのは同時だった。美琴を外れた雷はコンクリートの地面を抉り、発火させた。ただの電撃ではない。相当な威力を持っている。
「妖怪ではないわね」
美琴は自分を見下ろす金色の巨大な鳥に向かってそう言った。両翼を含めると三メートル以上はありそうなその巨鳥は、全身に霆を纏わせながら、その無機質な感情を見せない真っ白な瞳に美琴を映している。
次に放たれた電撃を、美琴は刀の柄を逆手で掴んで抜打することによって弾いた。十六夜は刃を下にして佩く太刀であるため、抜刀術には適さない。しかしこの程度の攻撃を防ぐぐらいなら造作もない。
巨鳥はさらに電撃を放とうとして体中に光の蛇を這わせるが、それを許す美琴ではなかった。跳び上がると同時に十六夜を順手に持ち替え、そのまま振り下ろして霆の鳥を一刀両断にした。嘴の真ん中から真っ二つになった巨鳥は、悲鳴一つ上げることなく空中で小さな紙に変化した。
美琴は二枚に切れた人の姿を象った紙を拾い上げた。呪文のような文字が書かれた紙を見て、眉を顰める。
「式神……」
雷を滾らせたあの鳥に背後に回られるまで、その存在に気付かなかった理由が分かった。相手が妖怪だったのなら、敵意を丸出しにした妖気や霊気で確実に気付いていただろう。だが式神となれば話は別だ。式神は霊体を持たない上、妖力とは違った力を攻撃に使う。遥か昔、人間が対妖怪に編み出した戦闘術。これには身に覚えがある。
「陰陽師が来ているということかしら」
もう答えることのできない式神に対して、美琴は問いかけるように言う。霆の属性を持った妖力を使う異形はいるが、これは明らかに質が違う。雷は陰陽五行では、木の属性に当たる。陰陽道の属性と妖力の属性は似て否なるものだ。陰陽師は、単純な力の差をその五行と陰陽術によって補い、妖怪と戦う。
陰陽思想は元々万物は陰と陽から成り立っているとする考えから生まれた思想だった。それに万物は木・火・土・金・水の五元素から成り立つという五行思想が結び付き、陰陽五行説が生まれた。この中では木と火が陽に、金と水が陰に、土が陰陽半々に配当された。そして、この五行の関係を闘争として捉え、木は土に、土は水に、水は火に、火は金に、金は木にそれぞれ打ち勝つとした五行相克説と、五行が順次発生して行く関係として捉え、木から火が、火から土が、土から金が、金から水が、水から木がそれぞれ生まれるとした五行相生説が生まれた。
古代の人間たちはこれら陰陽および五行によって世界が成り立つと考え、この思想を生活や政治、権力争いなどに取り込んだ。そこまでは良かったのだ、人間の社会の中に限って使われていた分には。
しかし、陰陽師と呼ばれた者たちは、この思想によって呪力を得た。そしてその力を妖たちに向かって使う者が現れた。
異形が持つ妖力には、大きく分けて八つの属性がある。陰陽火氷風雷地水とそれらは分けられる。妖力を魔力と呼ぶ西洋の場合は、光、闇、炎、氷、風、雷、地、水と分けるとも聞いている。だがそれらは陰陽道における五行のように、相克関係、相生関係にはない。属性によってその個体、種族の特性や使える技、妖術の系統などが異なるだけだ。そこに優劣関係と言えるものは存在しない。
しかし、その妖力の系統に目をつけたのが陰陽道だった。
力のある陰陽師たちは、五行を自在に操る能力を身に付けた。そして相手の妖怪の属性を見極め、効果的な攻撃を与える方法を学んだ。それが陰陽師の対妖の戦闘術だ。妖怪は基本的に一個体に付き一つの属性しか持つことはない。それに対して陰陽師は五行という五つの属性の力を一人で扱う上、それぞれの妖力の属性に対し有利となる五行を見出した。
例えば、風の属性に対しては土や金という質量による攻撃、防御で対処し、陰の属性に対しては木、火という陰陽の陽の属性を持った五行で対処する。雷に対しては電気を通しにくい土や木を使い、炎に対しては五行における火と同じように水を使ったり、土によって打ち消したりする。このように、妖の属性を陰陽五行の中に当て嵌める術を探り当てた。それによって、妖力の差という絶対的な力量差を埋め、妖を倒す術を見つけたのだ。
それが、妖を倒すという役割を持った陰陽師の戦い方だ。確かに合理的ではある。この力を使い、陰陽師たちは武術を極めた武士たちと同じように、妖怪と戦う存在として人間界に現れるようになった。
そんな者はこの数百年、ほとんど見なくなっていた。だがこの式神を見る限り間違いない。相手は陰陽師だ。それも妖に対して見境がないと見える。これを放っておけば、確実に他の黄泉国の住人、そしてまた別の異界の妖たちにも被害が及ぶ。何とかしてこの町で止める必要がある。
穢れが見えないのは、陰陽術によるものだろう。呪術も得意とする彼らなら、穢れを隠すことくらいできてもおかしくはない。そうなると発見するのが難しいが、方法はあるはずだ。
美琴は十六夜を鞘に仕舞う。だが、その目から怒りの意思が消えた訳ではなかった。




