表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第 七 話 死神のつくり方
29/206

三 ノスフェラトゥ

 これは人狼の匂いだ。さっきまで嗅いでいたのと同族の、しかしあの廃工場にいたもののものではない。恐らくオルロックの仲間がなんらかの理由で街に出ているのだろう。人狼は変化しなければ人の姿と変わらない。

 せっかくあのひどい匂いから離れて、気分良く夜風を浴びていたところなのにと、小町は苦々しく思った。どうせオルロックの場所に戻るのだろうからこのまま屋敷に帰って美琴に報告しようかとも思ったが、相手の方が小町に気付いたようだった。巨体が小町のいる建物の上に現れる。小町は舌打ちして、その人狼を睨んだ。

「獣の匂いがすると思ったら、妖怪か」

 下品に唾液をしたたらせながら、人狼がどこか異国の言葉で言った。小町は霊術によりそれを頭の中で変換しながら顔をしかめる。このまま振り切って逃げることも可能だが、自分の存在がオルロック達に知られるのはまずい。この異形を倒さない限り屋敷へ帰ることはできないだろう。

「中々良い女じゃねえか。なあ?女狐(めぎつね)

 ただでさえ耳元まで裂けた口をさらに釣り上げて、獣人は言った。小町は吐き気を覚えながら小町は四つの足で屋上を蹴った。同時に人狼も彼女に向かって走り出す。

 正面からぶつかり合う瞬間、小町は姿勢を低くして人狼の脇を通り抜けた。人狼の爪が自分の肩を抉る鋭い痛みを感じながら、小町を後ろ脚で体を宙に舞い上げた。同時に体を人間の姿に変化させる。

「ちょこまかと……」

「悪いけど、邪魔なんよ」

 小町は懐から三枚の葉を取り出すと、人狼に向かって投げつける。広葉樹の葉は空中で緑色の妖気を発すると、突風となって獣人を襲った。しかし台風ほどの突風を浴びながら、人狼は平然と仁王立ちして小馬鹿にしたような笑いで小町を見ている。

「風で俺が殺せるとでも思ったか?」

「思ってへんよ。でも、動けなくするくらいはできるやろね」

 その時初めて、狼男は自分の体の異変に気がついたようだった。笑いが困惑の表情に変わり、続いて眼球が動いて小町を睨む。

「貴様、何をした!?」

「ただ風を吹きかけただけよ。ただし、ちょっと痺れる風やけど、気に入った?」

 今度は小町の方が笑いを漏らす番だった。まさかこうも簡単に妖術にかかってくれるとは思わなかった。あの風には特殊な痺れ薬が混ぜてある。あと少なくとも数十秒は動けないはずだ。

「それじゃあ、仕上げや」

 小町はさらにもう一つ葉を取り出すと、人狼に向かって投げた。それはふわふわと獣人に飛んで行って触れると、緑色の爆発を起こした。妖力を込めた攻撃用の葉だ。殺すことまではできずとも、逃げる時間は十分に稼げる。そしてしばらくは動けないだろう。

 爆風が収まらないうちに小町は身を翻した。早く帰還して、美琴に知らせなければ。




「ふむ、君はその、学友たちが憎いのかね。殺したいほどに」

 オルロックに問われ、峰雄は頷いた。そして「友達なんかじゃない」と付け加える。オルロックは嬉しそうに笑いながら、峰雄の肩に手を置く。

「君がしたいようにすればいいのだよ。そのために君はその力を得たのだからね」

 峰雄は再び頷いた。自分の欲望が肯定されたことに少しだけ安堵を覚える。オルロックは尚も楽しげな口調で続ける。

「どうだ、今夜私と散歩に行かないか。君の進化と、これからを祝って私から君に贈り物をしよう。君は、君の憎む者の住処を知っているかね?」

 峰雄は伯爵の言葉が意味することに気付いて、目を見開いた。そして、ごくりと唾を飲み込み、二度頷いた。




 峰雄とオルロックはとある一軒家の前に並んで立っていた。まだ夜明けまで数時間あるため、街は暗く、静かだった。彼らの前に建つ家も、明りは付いておらず、中から音も聞こえない。

 峰雄を虐めていた中心人物、(さかい)義則(よしのり)の家は、小学生からの同級生だったこともありよく知っていた。小学生のころまでは普通に遊ぶ仲でもあったのだ。

「この家かね」

「……はい」

「では、行くとしよう」

 オルロックに促され、峰雄は庭を横切り、玄関の前に立った。二階建てで、狭い庭があり、低い塀に囲まれた極一般的な家庭だ。しかしそんな家庭さえ自分は奪われた。それを考えると、自分を追い詰めた人間がこんな平和な生活をしていることに腹が立って来た。

 多分義則は自分が追い詰められて自殺をしたことなど知らないのだろう。もしかしたら母親や父親が殺されたことはもうニュースになっているかもしれない。そうだとすれば、義則はどうしているだろうか。次は自分かもしれないと恐れ慄いているのだろうか。

 そうであったらそんなに愉快なことはない。そうではないとしても今夜それが現実のものとなるのだから、意味はない。

 当然のことながらドアには鍵がかかっていた。無理矢理開けることもできるが、それだと音で侵入がばれてしまうかもしれない。どうしたものかと迷っていると、オルロックが峰雄の肩に手を置き、下がるように指示した。

「まあ、見ていなさい」

 オルロックは腰からあの細身の剣を抜くと、目にも止まらぬ速さでそれを振った。ドアの接合部が音もなく破壊され、倒れてのを峰雄が支えた。それを、そっと地面に横たえる。

「さあ、行こうか」

 オルロックの言葉で、峰雄は明かりの点いていない玄関へ足を踏み込んだ。体質が変化したためか、暗闇の中でも良く目が見えた。茶色のフローリングの廊下の途中に、二階へと繋がる階段があった。確か義則の部屋は二階にあったはずだ。峰雄はゆっくりと階段を昇り始める。オルロックはその後ろを音もなく付いて来ているようだった。

 足音を立てないように廊下を行き、やがて突き当りの部屋の前に立った。記憶が正しければ、ここが義則の部屋だ。峰雄は静かにドアノブを回した。

 中学二年生の男子がベッドの上で寝息を立てていた。髪を坊主にした、浅黒い肌の男。静かにドアを閉め、峰雄はベッドの傍に立つ。そして峰雄はナイフを取り出し、その寝顔を見つめた。本当に醜い。人に向かってあんな悪辣な言葉を吐き、肉体的にいたぶり、追い詰め続けていたこの男が、何故こんな風に平和に眠っていられるのだろう。峰雄は体中から恨みが溢れ出して来るのを感じた。

 峰雄はまず、義則の右足にナイフを突き刺した。悲鳴を上げて、義則が跳び起きる。ここまで来たら誰が起きようと見つかろうと関係はない。こいつが殺せれば、後はどうなろうとどうでもよかった。

「峰雄……、お前!」

 峰雄に気が付いて、呻くように義則が言った。峰雄は高揚した気分でもがく彼を見た。彼のように匂いがする者を殺す時には、言いようのない快楽が湧いてくる。義則に対する憎悪も相まって、彼を斬る感触はまるで御馳走を食べているような気分だった。

 今度は腹に向かって刃を振り下ろした。刃先が体内の器官に突き刺さる感触とともに、義則が泣き声を上げた。廊下の方でどたどたと誰かが駆けてくる音が聞こえる。

「助けて……」

 息も絶え絶えにそう懇願する義則の心臓に、峰雄はナイフを突き刺した。それと同時に義則の部屋のドアが乱暴に開かれる音が響いた。

「義則!」

 女の声がした。見れば、義則の母親が目を見開き、口を押さえて立っていた。隣には父親らしき男もいる。

 母親が息子の変わり果てた姿を見て、今更の悲鳴を上げた。同時に父親が峰雄の方に向かって駆け出す、が、影から青白い手が伸びて来て、その首を掴んだ。

「実に良いものを見せてもらったよ、峰雄君」

 言いながら、オルロックは義則の父を壁に向かって叩きつけるように投げつけた。気を失ったようで、男の体が床に倒れる。

「あなた!」

 母親が夫の元まで這って行く。しかしオルロックは彼女の髪の毛を掴むと、無理矢理立たせた。

「それにしても無様な姿だな。人間とは実に醜い生き物だ。そうは思わないか?」

 嗚咽(おえつ)を漏らしながらもがく母親を見ながら、オルロックが言った。

「しかし、私もそろそろ空腹だ。君の欲望を満たしたことだし、私も満たすとしよう」

 オルロックは髪の毛を掴んだまま義則の母親を持ち上げた。そのまま、恐怖に顔を引きつらせる母親の首筋に牙を突き立てる。

 峰雄の見ている前で、義則の母親は少しずつ生気を失っていった。首筋から流れた血が、彼女の着る白い寝間着に赤い染みを作っていく。母親の体が痙攣し、動かなくなってしばらくした後、オルロックはやっと彼女の体を放した。義則の母親は無造作に投げられ、捨てられた人形のように床に倒れる。昔から知っている人物だが、ほとんど感情は動かなかった。

「さすがに二人は多いな」

 オルロックはそう言って、剣を倒れている父親の背に突き刺した。倒れていた男は奇妙な声を出して一度びくりと動いた後、沈黙した。

 峰雄は部屋を見回した。ベッドのシーツを赤く染めた義則の死体に、首から血を流し続けている女の死体。そして床に仰向けにへばりついたまま背中の真ん中から胸にかけて穴を開けた男の死体。この家に入ってまだ十分も経っていないが、もうここの住人であった者たちは皆死体に変わってしまった。人間なんてこんなものなのか。自分はもう彼らを恐れる必要はない。

 こうしてその存在が無くなってしまえば、彼らが自分を虐げていたことを忘れられる。人であった時の弱さを忘れられることができる。

 自分を虐げていた者たちは、まだまだいる。ひとりずつこうやって殺して行こう。

「満足かね、いや、まだ君には不満がありそうだ」

 伯爵は峰雄の心を見透かしたようにそう言った。峰雄が頷くと、伯爵は息を吐きながら笑みを浮かべた。

「ならば欲望のままに殺すがいい。私もその手伝いをしよう。そうすれば君は、完全に私たちの仲間になれる。このような下劣な人間などから解放されるのだ」

 オルロックの言葉は甘美な響きとなって峰雄の耳に届いた。自分はこんな奴らとは違う存在になれる。それを自分ではない第三者に認められたことに雄は歓喜した。この人に付いて行けば、自分は完全になれる。




 美琴は小町が朱音に傷口に包帯を巻いてもらうのを見ていた。小町の隣では恒が心配そうに様態を尋ねているようだった。小町はそれに健気に笑って答えている。

 小町が帰って来たのは今からほんの十分ほど前だ。左肩を負傷してはいたが、そこまでひどい状態ではないようだった。偵察とはいえ危険はある。それは彼女も承知のはずだがやはり怪我をしているのを見るのは心が痛む。そもそも小町は、自分や良介、朱音とは違い、戦闘を任せている訳ではない。

 小町が帰って来た時点でセリナを含む全員が居間に集まっていた。一通りの治療が終わった小町の方を見て、美琴が言う。

「小町、あなたはもう休んで良いわ。後は私たちに任せて」

「はい、すみまへん、油断したばかりに」

「いいのよ。無事で何よりだわ。恒、小町をどこか空いている部屋まで連れて行ってくれる?少し眠った方がいいわ」

「分かりました」

 そう言って、恒が小町の体を支えるようにして立ち上がらせる。

「あら、恒ちゃん。連れてってくれるん?」

「うん、大丈夫?」

「大丈夫よ~、もう夜も遅いから、一緒に寝る?」

「はいはい、分かったから」

 廊下の方で小町が恒をからかう会話が聞こえて来る。この分だと心配はいらないだろう。後はオルロックたちをどうするかだ。

 小町の報告はもう聞いている。相手は吸血鬼十五に人狼が九、他に死神が一に精霊の類が三、しかし、小町が帰途の最中に襲われていたことから考えると、他にも街に繰り出しているものが何人かいるかもしれない。

 とにかくある程度の対策は必要だ。先程のようにオルロックに逃げられては元もこうもない。相手の居場所はもう知っている。となれば、彼らが動く前に叩く必要がある。

 やはりそれには吸血鬼や人狼の活動が鈍る昼間が適当だろう。もう夜明けは近い。今から大規模な移動はないはずだ。

 人狼同士、吸血鬼同士の間に生まれた純血種はともかく、他の種族との間に生まれた混血種や噛まれたことで感染した下層種は日光を浴びただけで致命傷となる。

「セリナ、日が昇ってから行動するわ。それでいい?」

「いいわ、吸血鬼にはそれが一番よねえ。武器はこっちで用意してあるから、心配しないで」

 セリナはそう言って、ひらひらと手を振った。態度は軽いが、信用はできる。美琴は自分の眷属(けんぞく)である良介、朱音に言う。

「良介、朱音、吸血鬼と人狼との戦い方は覚えているわね」

「勿論です」

 朱音が言った。良介は黙って頷く。吸血鬼や人狼は異形の中でもかなり生命力が強い。特に純血種となると並大抵の攻撃では殺せない。昼間戦った吸血鬼と人狼は人間が噛まれたことで感染した感染種だったからよかったが、純血種の場合は首を飛ばそうが肝を潰そうが再生する。だが、そんな彼らにも弱点はある。

 人狼には銀の弾丸、吸血鬼には白木の杭、伝承としても有名なこれらの武器が、彼らを完全に殺すための数少ない選択肢だ。他にも体を再生できないほどばらばらにするという方法もあるが、それでは多数には対処できない。

 純血種は数が少ないから、恐らくオルロックの元にいるのはほとんど吸血鬼や人狼に噛まれて感染した二次層、三次層か、他の種族との交配で生まれた混血種であろうが、用心に越したことはない。

 問題はオルロックだ。ノスフェラトゥという組織は、あの純血の吸血鬼によってまとめられ、動かされている。彼がいなくては組織は成り立たないし、逆に彼さえいれば組織はいつでも再生できる。

「良介、どう思う?」

「まあオルロックは自分の手下を捨て駒程度にしか考えていないのでしょう?だからこれまでも手下を犠牲にして生き残って来た。とにかくオルロックを叩くことが最優先になるでしょうね」

「そうね、やはりあれを殺さない限り被害は増え続ける。良介と朱音はなるべく雑魚を引きつけてくれる?私かセリナがオルロックを叩くわ」

「分かりました」

 今回の戦闘は混戦になることが予想される。様々な妖気や匂いが入り乱れる中で、オルロックを見つけやすいのは死神の感覚器官がある自分かセリナだろう。

 本気で戦えば誰彼の区別なく崩壊させることもできないことはないだろうが、昼間の人間界であまり目立つことはしたくない。それに廃工場とはいえ誰かが巻き込まれる可能性もある。異形だろうと人間だろうと、罪のないものを被害に合わせるつもりはなかった。

 あの少年はオルロックと共にいるのだろうか。その方がありがたい。彼についてもけじめをつける必要がある。

「私は一度部屋に戻るわ」

 美琴は立ち上がり、そう言った。廊下に出ると、ひんやりとした空気が体を包む。浅く息を吸い込み、吐き出してから美琴は階段までの通路を歩いた。彼女の部屋は三階にある。

 二階まで登ったところで小町と恒が話している声が聞こえた。早く寝た方がいいと言ったのに、と思うが、まあ仲が良いのは良いことだ。

 そのまま階段を上って、美琴は自身の部屋の戸を開けた。家具といえば用箪笥と小さな机、他は押し入れがあるくらいだが、やはり自分一人の部屋というのは落ち着く。

 美琴は障子戸の窓を開け、夜風を部屋に入れると、その側に座った。刀を取り出し、鞘から刀身を抜く。つい先程も使った後であったし、戦闘の前に手入れをしておきたかった。

 柄を膝に乗せ、拭い紙で刃を拭く。そうやって古い油をふき取った後、打粉を軽く刀身に打ち、再び拭い紙で白い粉を拭った。これを数回繰り返し、銀色の刃を窓の外の月光に晒す。

 この太刀とは古い付き合いだ。もう一千年以上にはなるだろうか。妖刀であることと、特殊な妖術をかけているおかげで劣化はしせず、その長い年月を共に闘って生き抜いてきた。何よりも美琴の手に最も良く馴染んでいる武器だ。

 美琴は刀身を鞘に納めた。鍔がなく、柄と鞘がぴったりとはまる珍しい形状の長刀のため、鞘に納めると反りのある黒い杖のようにも見える。その形状を美琴は気に入っていた。派手なものより、こうした地味なものの方が良い。

 見た目にはあまり特徴のないこの刀だが、オルロックはこの太刀を欲していた。平安時代に造られた妖刀というだけで彼のとっては相当の価値はあるのだろう。だが渡す気はさらさらない。

 美琴は窓から空を見上げた。彼女の黒い瞳に、雲の合間から白んで行く空が映った。




 オルロックは薄暗く埃にまみれた廃工場には場違いな、赤い皮のソファに腰を沈めていた。夜が明けたようで、廃工場の割れた窓から白く忌々しい陽の光が漏れている。

 ごろつき同然の部下たちはどこで寝ようと座ろうと気にもしていないようだが、オルロックは汚れた場所や物に触れるのを嫌った。この廃工場にも好きでいる訳ではない。近いうちにどこかを襲って、そこをしばらくの住居とするつもりだった。今はまだ気に入った場所がないだけだ。

 日本に来たのだから、住むのなら和の(おもむ)きがある屋敷が良い。どれも同じような外見の鉄筋コンクリートで作られた建物ではなく、きちんと障子や畳が使われ、木造で瓦屋根の屋敷だ。美しいものを重んじるオルロックにとって、こだわりに対する妥協は許されなかった。

 オルロックは手に大きな水晶を掴み、眺めた。先日近くの異界を襲って手に入れたものだ。持ち主は先祖代々伝わる霊石だと言っていたが、彼にとってこの水晶がどんなものであったかはどうでもよかった。物の価値は誰かの主観や思い入れによって変わるものではない。もっと客観的に計るべきものだ。それに関して言えば、この水晶には特殊な妖気が閉じ込められている。その上五百年以上に渡って存在するものだ。十分に価値はある。

 しかしオルロックは水晶を見つめながら考える。あの死神が持っていた妖刀はこんなものとは比較にならないほどの価値がある。日本の中でも数えるほどの大妖怪、伊耶那美の妖刀となれば、金では価値を付けられないだろう。それならば奪うまでだ。

 オルロックにとっては嬉しい誤算だった。日本にいる間、当分の厄介事は伊耶那美という存在だった。死神という種族は他とは違い、自分のような存在とは激しく敵対することが多い。吸血鬼が血を欲するように、死神は悪行を犯した者の命を欲することを本能としている。どうしてなのかは知らないが、ヨーロッパでも死神という種族にはひどく手こずらされた。何人と戦い、何人地獄に送ったか分からない。

 日本に渡来した理由は、ヨーロッパを荒らし回ったせいで多くの者につけ狙われたせいだった。ノスフェラトゥと聞けば皆が震え上がり、怒りを覚える。それはそれで愉快なのだが、仕事はやり辛くなる。そこで新しい獲物を求めることも兼ね、この島国までやって来たのだが、その最初の障害として浮かび上がって来たのが伊耶那美だったのだ。

 日本において最も強いとされる死神であり、多くの異形を殺しているという。早めに始末しておくべきと判断し、彼女のテリトリーである関東地方、東京にやって来て、そして予想通りすぐに戦うことになった。

 印象としては、噂にたがわぬ実力の持ち主だったのは確かだ。本気では無かったとは言え、自分の剣戟をああも簡単に弾かれるとは思わなかった。だがこちらとしても殺されるつもりはない。

 オルロックはつい数時間前に打ち合ったばかりの少女の姿を思い出す。情報を聞く限りではもっと醜悪な容貌をしているのではないかと思っていたが、その予想とはまるで正反対だった。長くしなやかな黒髪に、白い肌。釣り目がちの凛々しい瞳に、小さく形の良い口。青紫の着物がその美麗な容姿を際立たせていた。西洋人の麗人は数多く見てきたが、東洋ではあれ程のものは中々見たことがない。

 オルロックは唇の端を舐めた。美女の血というものは非常に美味なものだということは吸血鬼ならば誰もが知っている。平安時代の妖刀に東洋美女の血、これほどまでの獲物が同時に手に入ることは滅多にない。喜ぶべきことだった。

 伊耶那美とは近いうちに決着を着けることになるだろう。オルロックは、相手が攻めて来るのを待つつもりだった。わざわざ相手の陣地に行かなくとも、死神という種族は勝手にこちらを見つけてくれる。戦うのなら自分の陣地の方が有利だ。

 オルロックは首を廻らせて、廃工場の隅にいる峰雄を見た。伊耶那美とは比べ物にならないが、あれも一応は死神だ。まだ生まれて間もないらしいが、育てれば有能な部下になるかもしれない。まだ死神という種族の部下は持ったことがなかったので、興味があった。それに今のところ峰雄の行動には興味を持てた。彼は死神だというのに、自分の怨恨に従って行動している。死神は他者の恨みを認識して行動するものだと思っていたが、これが彼特有のものなのか、それとも生まれたての死神だからなのか、観察するのも悪くはない。まあ役に立たないようなら捨てれば良い。これまでもそうして来たように。

 どうせここにいる異形たちは殺戮に勤しみ、帰る場所もなくなったごろつきどもなのだ。自分とは主従といえるほどの絆もない。ただ暴れられる環境を求めてここにいるに過ぎない。オルロックは彼らがどうやって死のうが気にもかけないし、彼らも他人は興味がないだろう。好き勝手にやらせておけばいい。彼らが行うのは戦争ではなく、暴虐と略奪なのだから、それで十分だった。

 不意に強い妖気を感じて、オルロックは思考の海から意識を現実に戻した。不敵な笑みを浮かべ、オルロックは廃工場の、シャッターが取り払われた、開けっ放しの入り口に目を向けた。

「思ったより早いお越しのようだな」

 細身の剣を抜く彼の視線の先には、紫の和装に身を包んだ少女の姿があった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ