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黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第 七 話 死神のつくり方
28/206

二 吸血鬼オルロック伯爵

 母親は怯えた眼で自分が数か月前に捨てた子供を見上げた。峰雄の左手には母親の新しい夫の首が掴まれ、口をだらしなく開けたまま自分を見つめている。

「峰雄、やめなさい……、なんでこんなことを」

 峰雄は答える代わりに、生首を彼女に向かって投げた。母は腰を抜かしたまま後退りしてそれを避ける。男の首はごろごろと転がり、壁に当たって止まった。

 所詮はこんなものかと峰雄は鼻で笑った。自分と父を捨てて選んだ男も、死ねば恐怖の対象でしかないのか。せめて少しぐらい悲しむ様子を見せられれば納得できたのに。

 峰雄は両手両足を地面に付け、這って逃げようとする母親の背中に蹴りを入れた。母親は無様に床に倒れ、咳込んだ。

「本当に、こんなことをされる理由はないと思ってんの?」

 母親を見下しながら峰雄は冷たい声でそう言った。母親は怯えた目で峰雄を見上げ、そして彼の右手に視線を移した。そこには血と脂に塗れた肉切り包丁がある。

「答えろよ」

 包丁を振り上げると、母親はひぃと小さく悲鳴を上げた。

「ごめんなさいごめんなさい。お母さんが悪かったから、峰雄のことを裏切ったつもりはなかったのよ!いつかは一緒に住もうって、そう思ってたのよ!」

 母は早口でそう弁解した。思ってもいないことをよくもこう堂々と言えるものだ。峰雄は包丁を下ろし、母に問う。

「あんたに捨てられて、俺がどんな目に合ってきたか知ってるのか」

「分かってる、分かってるから、もうあんたには寂しい思いはさせないから、ね、一緒に生きていこう?私たち親子じゃない」

 そう宥めるように言う母親に、峰雄は拳を握りしめる。どうしてこの女はこんなことが抜け抜けと言えるのだろう。家を出て行く時には息子に一言も言葉をかけず、妹だけを連れて男の所へ出て行ったくせに、男が死ねば同情を買って命乞いのような真似をする。何が親子だ。

 こいつのせいで全てがおかしくなった。父親に殴られ、ものも食べられず、学校でいじめられ、自殺するまで追い込まれた。なのにこの女は、新しい男と一緒に、こんな小奇麗なマンションで家族として幸せに暮らしていたのだ。そんなことが許されるはずがない。何が母親だ、何が家族だ、そんなもの、所詮建前に過ぎない。峰雄は包丁を振り上げた。

「やめて、お願い……」

 そう懇願する母に向かって、峰雄は凶器を振り下ろした。

 峰雄の力で刺された刃は簡単に額に刺さり、包丁を引き抜くと母親は頭から血を垂れ流しながら何度か痙攣してフローリングの床に倒れ込んだ。

 これで何もかもが終わった。力が抜け、包丁が床に落ちて音を立てた。そのまま座り込み、峰雄は母の死体を眺めた。

 後悔はないが、一抹の寂しさは覚えた。もっと小さかった頃、小学生のころは父親と三人、仲が良かったのに。学校から帰れば母が待っていて、夕食時には父が帰って来て、一緒に夕ご飯を食べた。ごく普通の家族だったのに。それをこの女が壊した。例え父と母がまた一緒になったところで、もうあんな時間は戻ってはこなかっただろう。だから、全てを終わらせるのが正しいやり方だったのだ。

 不意に奥の部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえた。峰雄は母から目を話し、声の方に顔を向ける。

 そうだ、まだいた。自分とは半分だけ血が繋がっている妹。思えば、あの赤ん坊ができてから家庭が壊れ始めたのだ。恐らく父は、母と何年も関係を持っていなかったのだろう。父親はあの子供ができたと知った時、自分の子供ではないのではないかと母を疑うようになり、結局浮気がばれて母は自分と父を捨てて出て行った。

 あの赤ん坊は自分の家族の負の象徴だ。峰雄は立ち上がり、ふらふらと歩いて奥の部屋へ続く扉を開いた。ベビーベッドに乗せられた赤ん坊が泣き喚いている。峰雄はベッドに近付き、妹の顔を覗き見た。

 妹は峰雄の顔を見て、きょとんとした顔をして泣き止んだ。確か名前は明美と言ったか。明美からは粉ミルクの甘い匂いがするだけで、あの不可思議な匂いはしなかった。

「お前に罪はない、でも……」

 この赤ん坊はあの母を奪った男と、自分を捨てた母の子供なのだ。明美は峰雄の方を見て笑っている。峰雄は静かに小さな体に手を伸ばした。




 夜は吸血鬼の領分だ。にも関わらず、この町は明かりが多過ぎる。オルロックは顔を曇らせた。青白い皮膚と、頭髪のない頭、骸骨のように窪んだ眼に体全体を覆う黒いマント姿は、街灯に良く目立つ。全く腹立たしい。

「どこだ」

 低くしわがれた声でオルロックはそう呟いた。ある妖気を感じて暇潰しにでもなろうかと町に出てみたが、煌々(こうこう)と照らされる街中と、その中を歩く人間たちで少々うんざりしていた。訳もなく誰かを切り刻みたくなる衝動を抑えながら、オルロックは明るい夜を歩いた。そして目当てのものを見つけた。

 その少年は、路地裏で血まみれになって立っていた。その足元には事切れた人間がひとつ転がっている。オルロックはその様子を見て、小さく口の端を釣り上げた。

 やはり思った通りだった。この少年は死神になってまだ時間が経っていない。妙に無防備な妖気を流していたため予想はしていたのだが、それにしても後先を考えない少年のようだ。こんな街中で返り血まみれになってどうするつもりだったのか。

 ここで殺してしまうのは簡単だが、それではあまりにつまらない。あの死神は見たところ元は人間のようだ。まだ我々の世界を知らないだろう。無知は利用するに限る。

「熱心なことだね」

 そう声をかけると、少年はオルロックの方を見て目を見開いた。死神は他者の背負う恨みを視認するという。そうだとすれば、殺しと略奪に塗れた彼のそれは相当なものだろう。オルロックはほくそ笑んで少年を見た。少年は怯えた目でオルロックを見上げる。戦っても無駄なことは一目で分かったはずだ。

「そう怖がらなくてよい。私は君に危害を加えるつもりはない」

 淡々とした口調でそう語りかけつつ、オルロックはゆっくりと少年に近付いた。少年は片手に刃物を持ったまま、その様子を見つめている。

「あ、あなたは」

「我が名はオルロック。吸血鬼だ。まあ、私のことは伯爵とでも呼んでくれたまえ」

 オルロックは少年の傍まで来て立ち止った。彼を見上げる少年の目には、恐怖と疑惑が浮かんでいる。

「信じられないかね」

 そう問うと、少年は小さく頷いた。

「君自身もとうに人間ではないはずなのに、か」

 そう言った瞬間に少年は再び目を見開いた。

「なんでそれを……」

「簡単な話だ。私は君のような存在はたくさん知っている。君は自分が何になったか知らぬのだろうがね。どうだ、知りたくはないか?」

 少年はゆっくり頷いた。思った通りこの死神は作られたばかりのようだ。これなら容易にこちらに引き込むことができる。

「君の名前は?」

「佐藤、峰雄」

「峰雄君か。自分が何なのか、そして君が知らない世界を知りたいならば、私とともに来るが良い。どうだ?」

「僕を、助けてくれるんですか」

「そういうことだ。私もこんな人間の世界に君を取り残していくのは不憫だからね」

 そう言うと。峰雄と名乗った少年はほっと安堵したように顔の筋肉を緩ませた。警戒心が薄すぎる。つい最近まで十代前半の人間だったのだろうから、それもいたしかたがない。

「さあ、行こうか。私の仲間たちが待っている場所へ」

 そう少年に言った時だった。オルロックは自身のものでも目の前の少年のものでもない妖気を感じた。

「芝居がかった台詞ね」

 闇夜に透き通るような女の声がした。その冷たい声色にオルロックは振り返る。見れば、月の光を背景に紫の和服を着た少女が立っていた。その濃い紫色に染まった瞳は、じっとオルロックとを見つめている。しかしその瞳を見ずとも、彼女の体に纏った妖気から相手は人間ではないとすぐに分かった。

 オルロックは静かにマントの中の鞘からレイピアを引き抜き、右手で握った。

「どなたかな?」

 オルロックは余裕を持った態度で、しかし隙を見せないように尋ねた。発せられる妖気は普通の異形のものとは比べ物にならない。

「私の名は美琴、死神よ」

 少女は冷たい口調でそう名乗ると、腰に()いた太刀を引き抜いた。銀色の刃のさっ先がオルロックに向けられる。

「ほう、貴殿が伊耶那美(いざなみ)か。いやはや、噂は聞いているよ。峰雄君、あの女は君の敵だ。私の後ろに隠れていたまえ」

 そう言うと、峰雄は素直にオルロックの後ろに回った。全く扱いやすい。美琴はその姿を一瞬目で追った後、再びオルロックに視線を戻した。

「それも間違いじゃないわね。手遅れだったわ」

 言いながら、美琴は刀を振った。刃を纏っていた紫色の妖力が斬撃となり、オルロックを襲うが、彼は細身を縦に振って斬撃を斬り払った。

「貴殿も美麗だが、その刀もまた美しい。その刀は妖刀だね?知っているよ。確か銘は十六夜(いざよい)。この国において平安時代に作られた太刀(たち)であったかな?実に良いものだ。切実に欲しいね」

「ただであげられるほど、この刀は安くないわ」

「そうか、ならば力尽くで奪うしかあるまいな」

 オルロックが突進すると同時に美琴に向かって剣を突き立てる。だが美琴は刀を使って剣の軌道を逸らす。暗い路地裏に剣と刀がぶつかり合って火花が散った。




 オルロックの迫撃を、美琴は刀を最小限に動かすことで防いでいた。オルロックはフェンシングのように突きを中心にレイピアで攻撃してくる。速度と攻撃回数は凄まじいが、単調な攻め方のため防ぐのは難しくない。

 美琴は一瞬の隙をついて、刀でレイピアを弾いた。オルロックの驚愕した顔とともに、胴体ががら空きとなる。そこに妖刀を突きたてようとした瞬間、左右から何者かが迫るのを感じた。

 美琴は刀を引き、後ろに跳んだ。それと同時に彼女がいた空間に爪とナイフによる攻撃が引き裂いた。唸り声を上げ、人狼と吸血鬼が美琴とオルロックの間に立ち塞がる。

「オルロック様、ご無事ですか」

 黒いスーツを着た吸血鬼が外国語で言った。恐らくドイツ語だろう。美琴は霊術を使って相手の言葉を理解する。霊力を霊体の一部に作用させ、相手の言語を理解できるようにする術は多数の種族が入り混じる異形の世界では初歩の術だ。オルロックは口の端を引き釣らせて笑い、美琴を見た。

「私はこの辺で下がらせてもらおうか。頼んだぞ」

「任せてください」

 オルロックは峰雄と呼んでいた少年を抱えると、夜空に向かって跳び上がった。美琴はそれを恨めしげに見た後、立ちはだかる吸血鬼と人狼に視線を移す。

 最初に動いたのは人狼だった。灰色の毛に覆われた獣人は、三メートルはあろうかという巨体に似合わず、一気に跳躍して美琴をその爪で貫こうと腕を伸ばす。

 しかし美琴は一歩も動かずにその攻撃を防いだ、というより、その武器ごと破壊した。十六夜によって斬り裂かれた人狼の右腕がぼとりと地面に落ちる。

「貴様……!」

 そう呻く狼男の腹部に思い切り膝蹴りを当てて弾き飛ばすと、美琴は次に襲って来た吸血鬼の両手のナイフによる攻撃を避け、吸血鬼の胸の中心に刀を刺し、そのまま壁に標本の昆虫のように突き立てた。

「少しじっとしていなさい」

 そう言って刀から手を放すと、美琴はもがいている吸血鬼を無視して、傷口を押さえている人狼に向き直る。

「武器もなしに、俺に立ち向かうのか」

 怒りを湛えた眼で、人狼は美琴を睨む。少女一人が武器も持たず自分に対峙しているのが不満なのだろう。

「遠慮はいらないわ。かかってきなさい」

 その言葉が終わるか終らないかのうちに、人狼は無事な左手を伸ばし、跳び掛かってきた。

 美琴はその一撃を体を(ひるがえ)して避けると、人狼の顔面に掌底(しょうてい)を叩き込む。妖力を込めたその一撃で、人狼の上顎が吹き飛び、霧のように鮮血を撒き散らしながら巨体が地面に沈んだ。

 人狼の体が縮み、体毛が体の中に吸い込まれるようにして消えて行く。やがてその死体は人間の男のものと変わらぬものとなった。

 美琴はそれを見届けてから吸血鬼の方を振り返る。青白い顔の男はまだ釘打ち状態から逃れようとしているが、深く刺さり過ぎてただ傷口を広げるだけの行為となっている。

 美琴は刀の柄を掴むと、一気に妖力を送り込む。柄から刃を伝った紫の妖力は心臓を内部から破壊し、吸血鬼は一度口から血を吐いた後事切れた。

「純血種じゃなくて良かったわ。銀の弾丸と白木の杭があれば早いんだけど」

 そう呟きながら美琴は日本刀を引き抜いた。血を拭いて鞘に納める。

 今夜人間界に来た目的は二つとも果たすことができなかった。オルロックには逃げられるし、あの死神は既に手遅れだった。あの少年には既に(けが)れが纏わりついている。

 そうなるともうあれは殺すしかない。もう少し早く彼を見つけるべきだったと美琴は静かに悔やんだ。しかしもう遅い。

 少年はオルロックの側についたようだ。迷う必要はない。オルロックらとともに滅する。美琴はひとり頷いた。




 峰雄は一人、異形のものたちの中に座っていた。いや自分も既にその一人なのだと思い直す。

 オルロックと名乗る吸血鬼に連れて来られた廃工場には、様々な異形が跋扈(ばっこ)していた。人の形をしたものから、醜悪な姿をしたものまで様々だ。その誰一人からも例外なくあの匂いがし、纏わりつく奇妙な気体が見えた。

 だがその匂いは、今までのように彼に衝動を起こさせることはなかった。単に慣れたからだと自分を納得させようとするが、本当はその理由を分かっていた。自分からもその匂いがするのだ。

 峰雄は首を振った。とにかく今はこれからのことを考えよう。オルロック伯爵は自分たちに協力するのなら、命と生活のことは保障すると言ってくれた。家も家族もない峰雄にはそれは非常に魅力的だ。

 それにあの少女のこともある。あの紫の冷たい瞳をした少女は、明らかに自分に向かって殺意を向けていた。峰雄は、伯爵とあの少女との戦いを思い出す。速過ぎて、激し過ぎて、まるで別次元のようだった。自分ではあの少女には抵抗すらすることも許されずに殺されるだろう。

 伯爵は峰雄を庇う必要がなければあの少女に負けることはなかったと言っていた。だから安心していいと言ってくれた。今はそれを信じるしかない。

「峰雄君」

 頭上から声がして峰雄は顔を上げた。見上げれば、黒い翼を生やしたオルロックがふわりと自分の前に降り立とうとしているところだった。

「さて、約束だ。君が何者なのか教えてあげよう。知りたいのだろう?」

 その言葉に、峰雄は小さく頷く。

「君は、いや、君たちの種族は、そうだな、この国の言葉で言えば死神と呼ばれている」

「死神?」

 峰雄のイメージの中の死神と、自分とは全く合わない。それを予想していたのか、伯爵は掠れた声で言った。

「そうだ。まあ君が想像するような死神とは違うと思うがね。君たちの種族は、誰かの魂を刈ったり冥界に連れていったりはしない。ただ死神は、その名の通り、死に密接に関わっている」

 そこでオルロックは一度話を止めた。峰雄が催促するように彼の顔を見ると、伯爵はにやりと笑い、芝居でもするような大げさな調子で話し始める。

「そう、死だ!死神と呼ばれる種族は、生まれながら殺すということに対し欲望を持っている。感情的なものではなく、本能的なね。君には分かるだろう?」

 峰雄はためらいがちながら頷いた。分かっていたが、あまり認めたくはない気分だった。だがその衝動に従って殺人を犯してしまった後なのだから、何を考えたところで遅い。自分はもう人間ではなく伯爵の言う死神になってしまった。

「まあそう悲観することはない。君は元々は人間のようだが、人など遥かに超えた力を手に入れたのだぞ。数十年の寿命などに縛られることもなく、肉体も比べ物にならん。人であった時の制約など、もう君にはないのだよ。これからは欲望に正直に生きるべきだ。何かしたいことはないのか?言ってみたまえ」

 そう言われ、峰雄は黙したまま考えた。

 生きているのが嫌になって、自ら死のうとしたら怪物になって戻って来るなんて、悲劇なのだろうか。いや、これを幸運にするか悲劇にするかは自分次第だ。伯爵の言う通り、自分はもう人間などとうに超越した力を持っている。それは父や母を殺した時に思い知っている。

 しかし、まだ峰雄には復讐するべき相手がいた。自殺に追い込まれることになった原因はまだ存在している。自分を暴虐によって排除しようとした、学校という空間。次はあそこを壊すべきだ。

 峰雄は決意して伯爵の顔を見上げた。オルロックは静かに口の両端を釣り上げた。




「ねぇセリナ、自分が死神になったときのこと覚えてる?」

 縁側で蓬餅を頬張っているセリナの横に座りながら、美琴が言った。セリナは露骨に眉をひそめて答える。

「覚えてるけど、思い出したくないわあんなこと。分かるでしょ?」

「そうよね。私もだわ」

「でも今の環境には満足してるわよ、あたしは。昔よりずっといいわ」

 美琴は何も言わず、頷いた。死神は怨みの中で生きている。いつ死ぬとも分からぬ戦いの中、誰の者とも分からぬ怨嗟を晴らすため、血を流す。それでも誰かのために戦っているという気持ちもある、慕ってくれるものたちもいる。

 死神として生まれる前よりずっと良い。

「なんかお腹減っちゃったわ。良介になんか作ってもらおうっと」

 セリナが明るい調子でそう言いながら、立ち上がる。この話はこれで終わり、ということなのだろう。

「今蓬餅(よもぎもち)食べてたじゃない」

 苦笑して、美琴も立ち上がった。




 辺りを覆う匂いに小町は顔をしかめた。彼女は今廃工場の裏にいた。もう何年も使われていないようで、ところどころに穴があいていたり、スプレーでカラフルな落書きがしてあったりと荒れ放題だ。オルロックの一団はここにとりあえずの居を構えたようだ。しかし微かな妖気を辿ってきたところここに着いたのはいいのだが、中から漂う匂いはひどいものだった。死人の匂いに、犬の匂いが混ざっている。恐らく吸血鬼と人狼だろうが、鼻が利く上に犬が天敵である狐の小町にとっては、耐えがたい空気だった。

 美琴から命じられたのはオルロックの一団の偵察だ。相手はどこにおり、どの程度の規模が、どんな異形がいるのか、妖気はどれほどか、などを調べ、報告する。肝心なのは誰にも見つからず、それを行うこと。美琴や良介、朱音には戦闘能力では遠く及ばないが、扱える妖術の豊富さや俊敏さなどから、諜報活動に関しては小町に任されることも多い。

 小町は懐から一枚緑色の葉を取り出すと、掌に乗せてふっと息を吹きかけた。葉が宙に舞うと同時に一瞬緑色の光を発し、やがて薄緑色の小さな狐が地面に降り立った。

「頼んだよ」

 狐は小さく鳴くと、壁に開いた穴を見つけ、その中に潜り込んだ。

 この狐は自分の分身のようなものだ。妖狐族は植物の葉を媒介に妖術を使う。これもその一つで、小さい上にほとんど妖気を発しないため、安全に相手を偵察することができる。

 小さな狐は五分ほどで入った穴から再び現れた。ちょこちょこと走り寄ってくるそれを小町は掌に乗せる。

「御苦労さま」

 そう言って小町は狐に息を吹きかけた。薄緑色の狐は妖気となって四散し、再び広葉の姿に戻る。

 この狐と自身の視覚、聴覚は繋がっているから、大方の敵の構成は分かった。それにしてもひどい匂いだ。早く帰って、自分も主人に報告しよう。

 誰も気付いていないことを確認して、小町は両手を地面に付け、四つん這いの姿勢になった。一瞬小町の体を緑色の妖気が包み、銀毛の妖狐の姿に変化(へんげ)させる。小町は三尾を翻すと、月の下を走り始めた。この姿の方が人間の姿よりもずっと速い。

 廃工場はすぐに見えなくなり、街中に入った。小町は人目につかぬように建物の上まで跳び上がると、屋上から屋上へ跳び移るようにして黄泉国を目指す。

 夜風を斬る感触が心地よかった。最近は人間の姿でいるのがほとんどであったため、こうして思い切り走るのは久し振りだった。少し遠回りをして帰ろうかとそんなことを考えていた彼女は、嗅覚に異変を感じ足を止めた。



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