三 人喰いアメーバの恐怖
それは暗闇を進んでいた。下水道の鼠がその存在に気がついて逃げ出そうとするが、すぐに追いつかれて取りこまれ、溶かされ、吸収される。
それには痛みという概念は無かったが、本能的に自らを危険から遠ざける術は知っていた。ただ生き残り、成長するためにするべきことは、学ばなくとも分かっている。
それは生き物の気配を感じた。鼠などよりももっと大きな餌の気配だ。進行方向を変えると、それは地上に向かって動き出した。
「っていうかマジで人いなくね?」
髪を金色に染めた若い女が言った。
「皆ビビりまくってばっかみてえだよな」
女の隣でバイクに腰かけていた男がそう言って笑った。周りの若者たちもそれに合わせて笑う。
女二人、男三人の計五人の若い男女のグループが自販機の前でたむろしていた。片手には酒を持ち、男のうち二人は煙草を咥えている。
町は昼間だというのに人気はない。それが彼らには楽しくて仕方がなかった。昼間からこんなに人がいない日などほとんど無い。彼らはまるで自分たちで町を支配しているような気になっていた。
男の一人が下品な話題を口にすると、周りの者たちが一斉に笑い出す。一しきり笑った後、その中の一人が足元のぶよぶよとしたものに気がついた。先ほどまではこんなこのは無かったはずだ。
「なんだこれ。おいみんな見てみろよ」
どうやらそれは、下水に繋がる金網の間から漏れるようにして出て来ているようだった。濁った汚い緑色をしている。
「おいなんだよこれ気持ちわりい」
覗き込んで来た男がそう言って、その物体に足を伸ばし、踏もうとした瞬間、それは突然動き出した。
不定形の生物が男の足を包み込んだ。男の眼が見開かれ、悲鳴を上げた。周りの若者たちが慌てて駆け寄ってくる。その間にもそれは男の足を浸食して行く。
「何これ!どうなってんの?」
「隆二どうしたんだよ、おい!」
女は悲鳴を上げ、男二人は足を覆う怪物から仲間を引き剥がそうと、隆二と呼ばれた男の腕を掴む。
「助けてくれ……、いてえよお」
怪物は既に隆二の腰まで浸食していた。最早声を上げることもできず、呻いている。
「大丈夫だ、今取ってやっから!」
二人の若者は合図して、一気に隆二の腕を引き上げる。変に粘ついた音がして、隆二の体は、あっさりと引き抜かれた。ただし自由になったのは上半身だけだった。一瞬で血の匂いが充満し、地面が赤く染まる。
「何だよ……、これ……」
現実離れした光景を目の当たりにして、隆二の腕を持ったまま男が呟いた。もう一人はとっくに腕を放して口を手で押さえている。
隆二の肺から最後の息が漏れた。下半身を千切られた下腹部は酸を掛けられたようの白煙を上げ、腸をこぼしている。その下ではスライムが蠢いている。既に隆二の下半身は消化吸収され、服だけが吐き出される。
女の一人が悲鳴を上げた。それと同時に生き残った四人がパニックを起こす。だがスライムも動き出していた。粘液の塊のようなどろどろとした塊が、金網を吹き飛ばして柱のように上へ伸びる。
全員が思い思いの方向へ逃げ出そうとするが手遅れだった。スライムは倒れるようにして四人に覆い被さると、先程残った上半身を含め、全てを吸収してしまった。
食事を終えたスライムが下水道へ戻って行く。やがてそこには、何事も無かったかのような静けさが訪れた。
薄暗い廃工場の中に足音だけが反響する。石張りの玄関、そして埃まみれの机と旧型のパソコンが放置された事務所を抜ける。
無人のその工場内を歩きながら良介は違和感を覚えていた。もう何年も使われていないはずなのに、真新しい足跡が塵や埃の上にいくつも付いている。先ほどの少年たちのように誰かが探検にでも入っているのだろうか。しかし足跡の大きさは明らかに大人のものが多い。
良介は足跡を辿って、工場の奥へと進んで行った。そして孝太たちが昨日スライムに襲われたと話していた食堂の調理場の奥でそれを見つけた。
見た目はただのタイル張りの床だった。しかし調理器具や食器が散乱した中、ただ一か所だけ他の部分に比べて妙に新しい部分がある。軽く叩いてみると、どうやらこの下は空洞になっているようだった。どこかへ繋がる出入り口になっているらしい。
スライムがこの場所に現れたことを考えれば、何か関連している可能性は高い。
「さあて鬼が出るか蛇が出るか」
良介はそう呟いてタイルの上に掌を当てた。妖力によって作られた熱によりタイルが真っ赤に変色し、やがて溶け始める。数秒で良介が入れる大きさの穴ができた。
穴には梯子があり、それを降りると地下へと続く金属製の階段があった。その下には病院を連想させる白い壁と床で囲まれた長い廊下が続いている。
照明は消えていたが、良介にはあまり関係なかった。こんな時は闇の中で生きてきた妖怪としての視覚は非常に便利だ。人の気配が無いことを確認し、進んで行く。
廊下の突き当たりの部屋を開けると、白い光が溢れた。どうやらここからは明かりがついているらしい。その部屋にはロッカーが並んでおり、その先のガラス扉を潜ると突然真上から霧のようなものが降りかかってきた。アルコールの匂いがするところを見ると、ここは消毒室のようだ。
まだ機能しているということは、少なくとも最近までは使われていたのだろう。消毒室の奥の自動ドアを抜け、さらに進んでいく。短い廊下を歩くとある程度広い部屋に出た。
どうやらここは研究所のようだった。機械には詳しくないが、どうやら地上の廃工場とは違い、最新のコンピューターを始め、様々な機器が設置されているようだ。何があったのか部屋はひどく散乱しており、いくつか真新しい血痕まである。恐らく最近事故でもあったのだろう。
六角形の部屋の壁の一面がガラス張りになっており、その向こうで培養液の中に入れられた、奇妙な形の生物たちの姿があった。中には良介の知っている妖怪の姿もある。
つまりここは、そういった異形のものを研究している場所なのだろう。あまり人間には知られていないと言っても、多くの異形がいる世界なのだからこういった施設があってもおかしくはない。しかし自分の仲間が実験や研究に使われているというのはあまり気分が良いものではなかった。良介は舌を鳴らして、さらに奥まで進んだ。
廃工場の中に出入り口を隠しているところを見ると、あまり胸を張れるような研究をしている場所ではなさそうだった。小規模の研究所のようだから、個人のものなのかもしれない。
良介はゆっくりと室内を見て回った。そして、部屋の奥に割れたガラスの水槽のようなものがあることに気がついた。その周辺が最も被害が酷い。床や壁には血がこびりつき、辺りの機械類は軒並み破壊されている。ここまで来れば何が起こったのかは見当が付く。
「つまりあいつが現れたのはあんたらのせいってわけか、なあ、お嬢ちゃん」
良介は背後に迫っていた人影に向かってそう語り掛けた。その人間はびくりと体を強張らせて、振り上げた鉄パイプを止めた。
「確かに挨拶無しで入って来た俺も悪かったが、いきなり殴るこたあないんじゃないか?」
良介が振り返る。女は諦めたように鉄パイプを落した。金属が床に当たり、甲高い音が響いた。
「大丈夫かな?あのおじさん」
歩道を歩きながら、健太が言った。
「大丈夫だろ、一回はあのモンスターから逃げてるんだし。それより、秀雄は無事かな」
隣を歩いている孝太が言う。良介と別れた後、二人は彼との約束通り真っ直ぐ家へと向かっていた。
「うん、無事だといいなあ」
小さな声で、健太は言った。その時、後から車の音が近付いて来るのが聞こえた。やがて、その車は二人の横まで来て、何故かそこで止まった。
二人がそちらを向くと同時に、車のドアが開いた。そして、腕が伸びて来て孝太と健太は車内に引き摺り込まれた。
白衣を着た女の名は原田三枝といった。二十代半ばの、眼鏡を掛けた痩せた女だった。
彼女によれば、この研究所はやはり妖怪を初めとする奇妙な生物を研究することを目的として建設されたようだった。
「やはり、スライムが木久里町に現れた原因はここか」
良介がそう言うと、三枝は「はい」と言って俯いた。
「あなたがスライムと呼ぶあの生物は、この研究所の責任者でもある父が手に入れて来た隕石の中に潜んでいました」
三枝に勧められ、良介が椅子に座る。三枝もその横に座ると、ぽつぽつと語り始めた。
「最初はたった数センチの小さな生き物だったんです。ただ、体の構造は地球のどの生物とも違っていました。しかも食物を与えれば与える程成長する。父はこの生物に夢中になって行きました」
三枝はふぅ、と小さく息を吐く。良介は黙って、彼女の言葉を聞いている。
「ただ食べることにしか興味がないようでしたから、餌さえ与えていれば容易に管理できると思っていました。でも、それが甘かったのです。昨日の午後六時頃、あの怪物は強化ガラスでできた水槽にひびを入れ、その僅かな隙間からこちらへ這い出して来ました。そして、十人いた所員のうち私と父、そしてもう一人の研究員の三人を除いた七人を飲み込んでいなくなりました」
ただ食欲にのみ支配された生物だというのは、間違いない。しかし、だからこそスライムは恐ろしいのだ。スライムにとって対象物を判断する材料は、喰えるか喰えないかでしかない。餌を貰えるから恩義を感じることも、囚われているから恐怖を感じることもないだろう。言ってしまえば、与えられる餌も、餌を与えている人間も、スライムにとっては等しく餌にしか過ぎない。
「まあ、あいつにとったらあんたたちはただの動く食べ物だろうからな。目の前に何体も喰い物がうろついてりゃあ、何としてでも喰おうとするだろう。あんたの言う通り、あの怪物は喰うことしか頭にないんだ」
「そうなのでしょうね」
「ところで、何で君たちは生き残ったんだ?スライムなら根こそぎ喰い尽くしそうなものだけど」
「それは、私たちは緊急用の脱出口から逃げたんです。父がまず私を逃がしてくれて、それから父、そして柿原という研究員が続きました。逃げられたのは、それだけでした。数時間後に戻ってきたときには、もうあの怪物の姿も、所員たちの姿もなかった……」
そう語る三枝の表情は辛そうだった。一日にして共に働いていた仲間たちを失ったのだから当然かもしれない。自分も突然美琴たちを失くしたとしたら耐えられないだろうと良介は思う。しかし今は感傷に浸っている場合ではない。ここから逃げ出したスライムは未だに地上で犠牲者を増やしているのだ。
三枝が話していた父親というのは、あの子供たちを追っていた男のうち、年配の方だろう。確かもう一人の方は柿原と呼ばれていたはずだ。
恐らくここで所員たちを喰い尽くしたスライムは、先ほど良介が通ってきたあの道を進み、廃工場に姿を現した。
「そういえば、この上の廃工場に昨日子供が来たらしいんだが、何か知らないか?」
「どうしてそんなことを聞くのです?」
三枝は急に訝しげな視線を良介に向けて、そう言った。
「どうしてって、その子供たちに聞いたんだよ。友達が一人、あの工場で行方不明になったんだって。だからもし生きているなら助けてやらないといけないだろ?」
その言葉を聞いて、三枝はほっとしような表情をしたように見えた。
「そうでしたか。父に言われて探しに来た、という訳ではないのですね?」
三枝が尋ねる。
「どうして俺が君の父親に頼まれるんだ?俺は君の父親が誰なのかも知らないのに」
三枝は少しの間逡巡して、やがて頷いて答えた。
「分かりました。信じます。父は今、スライムのことが世間に発覚するのを異様に恐れているのです。自分の研究が台無しになってしまうかもしれないから、そしてこれ以上あの怪物を研究できなくなってしまうから。それを阻止するために、父はあの子のことも手にかけようとしました。私が何とかあの子は隠しましたが、まだ諦めてはいないはずです。どうせ現在はあのスライムのせいで失踪事件が多発しているのです。子供一人いなくなってもごまかせると、本気でそう思っているのです」
苦々しげに三枝は言った。父親に比べれば彼女の精神はかなりまともなのだろう。子供まで殺そうとするとは、知能や理性がある分スライムより人間の方が恐ろしいかもしれない。
「子供は無事なんだな。それなら安心したよ。まあ、過ぎたことはどうしようもないし、俺は何かを言うつもりはないがな」
良介はそう言って立ち上がる。
「あの怪物は誰かが管理できるような代物じゃなかったんだろう。人間は簡単に他の命をいじくるが、命を扱うことにはそれなりの責任が伴うんだ。覚えておきなさい。君たちが逃がした怪物は、地上で何人も人間を喰っていることは分かっていた方がいいな」
「分かっています。あれは人間が手に負えるようなものじゃなかった」
「ああ。だから早いとこ止めないとな。もうあの怪物はどうしようもない。半端な力じゃもう止めるのは不可能だろう。君の親父さんが何をやろうとしているのかは分からないが」
「父は、多分あれをもう一度捕えようとしているのでしょう。あれは父が初めて見つけた、生きた地球外の被験体ですから、簡単には諦めないはずです」
「そうか。ならますます急ぐとするか」
そう言い、歩き出そうとする良介に、三枝が声を掛ける。
「待ってください。あなたはあの怪物を止める気なんですか?」
「そりゃそうさ、誰かがやらなきゃ、人類が滅んでしまうだろうし」
良介は笑った。だが、三枝は真顔のまま言う。
「でも、あなた一人ではあの生物に勝てる訳がありません。死にに行くようなものです」
「別に一人でやる訳じゃない。それに、俺は人間じゃないしね」
「え?」
三枝が目を丸くする。良介はそんな彼女の前に、そっと手はかざした。
「俺は君たちが研究していたような生き物たちの仲間さ。所謂妖怪と呼ばれるようなね」
そう言う良介の手は、青々と燃えていた。
「という訳で、あのスライムが出現した原因は、その研究所だったようです」
良介は携帯電話に向かってそう言った。相手は美琴だ。
「分かったわ。それにしても、そうだとすればあなたの会ったという子供たちが心配ね。恐らくその原田という男はまだ子供たちのことを諦めてはいないはずよ」
「そうですね、やはり家まで付いて行った方が良かったか」
「今考えても仕方がないわ。とにかく今はスライムを倒すことを優先しましょう。私ももうすぐ朱音と合流するから、後で落ち会いましょう。気を付けてね」
「はい、美琴様もお気をつけて」
良介は電話を切って後ろを振り向いた。三枝が彼の顔を見上げる。その右手には保護したという少年の手が握られている。秀夫という名の少年は不安そうに良介と三枝を見上げている。
「危ないから付いて来ない方がいいぞ」
「そうはいきません。元々は私たちが原因なんです。それに、父のことを放っておくわけにはいきませんし、この子も一人にはしておけません」
良介は頭を掻いた。どうやら言うことを聞く気はないらしい。
「親父さんを止めるためには君が必要だって事か。しかし、人間が本当に同じ人間の子供を殺すかね」
「それは……、父は自分の研究が何よりも大事だと言う人ですから……」
消え入りそうな声で三枝が言った。
「それで口封じに子供を殺すか。大した科学者だ」
「おじさん、孝太と健太は無事なの?」
秀夫が心配そうな顔をして、良介に尋ねた。良介は微笑して、秀夫の頭を撫でて答える。
「大丈夫だ。おじさんがあの子たちのことも助けてやる」
そう良介が言った瞬間、彼は後ろから来る気配に気がついた。彼が三枝と秀夫を横に投げ飛ばした直後、彼の背中に大きな衝撃が走った。体が一瞬宙に浮いて、地面に叩きつけられる。三枝の悲鳴が響く。固いアスファルトの上に倒れながら、良介はその視界の端で走り去って行くワゴン車を見た。
「不知火さん!」
「おじさん!」
三枝と秀夫が同時に叫んだ。
「全く、君と良い親父さんと言い、後ろからいきなり襲うのが決まりなのかい」
言いながら良介は立ち上がる。車に轢かれたくらいは大したことではない。それより、問題はあのワゴン車の乗員だ。
「あの、大丈夫なのですか?」
心配そうに、三枝が近付いて来る。良介は手を上げて無事を知らせ、言った。
「大丈夫大丈夫。こんなのかすり傷だ。それより、あの車、君の親父さんのだろ?」
三枝が驚いたような顔をして良介を見る。どうやら、当たっていたらしい。
「どうしてそれを」
「ちらっと親父さんが見えたよ。それに、柿原という男もいたな。だけど問題なのは、子供も乗ってたことだ」
「子供ってもしかして」
「孝太と健太?」
三枝の言葉を、秀夫が引き継いだ。
「ああ、おそらくそうだろう。まだ殺されてはいないようだったが、そのまま家に送り届けるとは考え難い」
「そんな……」
三枝は信じられないといった風に頭を振った。しかしつい数時間前の彼らの孝太と健太に対する反応を見る限り、子供たちは現在危険な状態にあると言わざるを得ない。美琴の言う通りだったようだ。
「とにかくあの車を追う必要があるな。どこに行くか分かるかい?」
三枝が少しの間考えて、言った。
「多分ですけど、今朝あの生物を捕えるための仕掛けを地下に設置したはずです。きっとそこに向かっている途中だと思います」
「それはどこだ?」
「さっき私が言った、非常用の通路です。あの工場の裏にある下水道の中です」
良介はたった今出てきたばかりの廃工場を振り返る。
「よし、急ごう」
良介が走り出す。工場まではすぐだ。
「降りろ」
柿原が脅すような低い声で言った。孝太は柿原を睨みつけながらも、それに従う。子供の力で大人の男に敵わないことは分かっていた。
孝太が降りると、健太も降りて来た。孝太は弟を庇うように彼の前に立つ。だが柿原はそちらには見向きもせずマンホールを両手で持ち上げてずらしている。
「入れ」
柿原は二人の少年の方を向いて短く言った。孝太と健太が躊躇していると、「早くしろ!」と怒鳴り声を上げる。二人はびくりと体を震わせてその言葉に従う。
鉄の梯子を降りると、唯一の光源であるマンホールの穴が塞がれ、下水道の中は暗闇に呑まれる。
「兄ちゃん、怖い」
健太が兄の方に手を伸ばす。孝太はその手を握り、言い聞かせるように呟く。
「大丈夫だ、大丈夫」
二人とも震えていた。辺りは何も見えない。ただ汚水の鼻を突くような匂いと、水滴が落ちる音や鼠が走り回る音が反響している。
その墨に覆われたような闇の中、それは確実に迫っていた。獲物を捕えるため、音もなく、そして素早く。




