表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第 五 話 摩天楼の想い
22/206

四 摩天楼の想い

 老人の拳が良介の右頬を打った。吹き飛ばされた良介の体がコンクリートの壁に叩き付けられる。

「やるねえ」

 良介は血を口から吐き出すと、右拳に青い炎を纏わせ、老人に殴りかかる。だが、老人は奇妙な、まるで子供の鳴き声のような甲高い声を上げると同時にその拳を受け止めた。

「そんな拳はわしにゃあ効かんよ。若いの」

「あんたは……」

 老人の掌は、燃える良介の拳を掴んで放さない。その固く、ざらざらとした感触ははまるで石と化しているようだ。手だけではない。段々と老人の体が灰色の鉱物に変わって行くのが良介の目にも見えた。

「わしは子泣き爺。異界で大きな罪を犯してな、こうして人間界で隠れていたんじゃが、あの郭とかいう若いのが、死神を殺しついでに金まで貰えるというチャンスを持ってきおった」

 子泣き爺は空いた方の手で良介の腹を打った。良介の体が宙を舞い、地面に落ちる。

「しかも、わしが相手するのは死神本人でなくていいときた。そんな上手い話に乗らん手はないじゃろう。なあ、若造よ」

 良介はゆっくりと立ち上がると、にやりと笑った。その両腕に青白い炎を灯らせる。

「よく喋る爺さんだ。それに……」

 良介が突進して子泣き爺の顔面を拳で打った。今度は、子泣き爺の体が吹き飛び、ビルの壁に当たってそれを砕く。

「死神本人じゃあなくたって、勝てるとは限らんぜ」

「ふん、お前ごときに、このわしがやられるはずがない」

 子泣き爺の拳と良介の拳が激突する。衝撃波が走り、二人同時に後方に吹き飛ぶ。だが、どちらも怯まずに起き上がり、互いにぶつかりあう。

「調子に乗るな、若造が!」

「あんたこそ、罪を犯してもそのまま生きられると思ったら、間違いだぞ」

 石の拳が良介の顔を捕えたかと思えば、炎の拳が子泣き爺の顔面にめり込む。一瞬子泣き爺が怯んだ。良介はその隙を見逃さず、今度は炎を纏った脚を子泣き爺の体に叩き込んだ。

 石の塊である子泣き爺の体が、大きく空中に投げ出された。良介は地面を蹴って跳躍すると、巨大な炎を纏った腕を子泣き爺の胸に振り下ろした。そのまま子泣き爺の体が地面に叩き付けられ、衝撃で人工的に固められた地面が砕け散る。だが、良介は手を緩めず妖力の炎を浴びせ続ける。

 拳から逃れようと暴れている子泣き爺だが、やがてその体に変化が起き始めた。石でできた灰色の体は真っ赤に変色し、溶解し始める。子泣き爺は良介の腕を胸から離そうと自らの両手で掴むが、その両手さえも真っ赤に溶け、指の先から崩れ落ちていく。

「やめろ……、わしはまだ生きる、生きるんじゃ!」

「もう十分長生きしただろう。それにあんたが罪を犯した誰かに対して、申し訳が立たないぜ」

 か細い断末魔を上げて老妖怪は動かなくなった。その胸にはぽっかりと熱によって開けられた穴が覗いている。

「長生きしたかったら、来世では真っ当に生きるんだな、爺さん」

 もう何も言わない子泣き爺の亡骸に、良介はそう呟いた。




 朱音は頭の後に手を伸ばすと、自身の長い髪を縛る紐を解いた。脚元まで伸びる黒の長髪が、夜風に乗って拡散する。その毛の先一本一本が鋭い針と化し、髪は鋼の強度を帯びる。

 彼女が立つのは三階建の低いビルの上だった。美琴のいるビルからは大分離れてしまったようだ。その原因となった妖怪を朱音は睨む。朱音より数メートル離れたところで、安岐は雨を体に受けながら朱音を睨み返している。

「安岐さん、あなたからは穢れの気配がしないと聞いていますが、何故戦うのです?」

 そう朱音が問うと、安岐は無表情のまま答える。

「あなたと同じです」

 安岐はスーツから細身のナイフを取り出した。刃渡りは長く二十センチほどで、一見すればまるで小刀のようにも見える。安岐はそれを逆手に握ると、静かに構えた。

「主のためです」

 安岐が雨の中を走り出す。左手に光る刃が朱音に迫る。だが、朱音はその場を動かない。

「そうですか、なら」

 朱音の髪が急激に伸び、安岐に向かって放たれた。安岐は踏み止まって、横に跳んだ。鋭い鈎針状の髪が屋上に突き刺さる。

「説得は無駄ですね」

 今度は安岐が横から朱音を切り裂こうと迫る。だが朱音は刺さったままの髪を縮ませ、その反動を利用して跳ぶことで攻撃を避けた。二人の女妖怪は互いに背を向かい合わせる形になる。

 安岐が朱音を振り返るより早く、朱音は背後にいる彼女に向かって引き抜いた髪を束ね、鞭のように横に振るった。安岐はその攻撃をなんとか跳んで避けたが、攻撃は一度では無かった。朱音は同時にもう一つの髪の束を作り、空中の安岐に向かって縦に振るった。まともに腹を殴られ安岐が屋上に叩きつけられる。

 痛みに声を漏らしながら、安岐は尚も立ち上がろうとする。だが、朱音から伸びた髪がその四肢を捕えた。そのまま持ち上げられ、朱音の目の前まで運ばれる。両手両足を封じられ、安岐は観念したように俯いた。

「殺しはしません。美琴様の御命令ですから」

 安岐は顔を上げる。朱音はその眼を見返す。

「美琴様が終わるまで、じっとしていてもらいますよ?」

 安岐は小さく頷いた。朱音は、その顔を怪訝そうに見つめる。

「でもあなたなら、私たちに敵わないことくらい分かっていたでしょう?あなたは私たちのように戦いの中で生きているわけじゃない。それなのに、どうしてこんなことを?」

 安岐は少しだけ表情を崩して、それに答えた。

「郭様の願いですもの。あなただって、美琴様のためならばどんな無理でもするでしょう」

 朱音はふと、表情を和らげる。

「そうかも、しれませんね」

 安岐は雨の落ちる夜空を見上げる。朱音も同じように高層ビルの伸びる夜を仰いだ。あの摩天楼のどこかで、美琴と郭が戦っている。




 美琴の振るった刀から妖力が斬撃となって放たれる。予期していた郭は身を屈めてそれを避ける。斬撃は雨を切り裂き、夜空に消えた。

 郭は低姿勢のまま、美琴に向かって駆け出した。美琴の動きは読めている。自分に向かって振り下ろされた刀を右に避けると、郭は左手の短刀を振るった。だが美琴はそれを咄嗟にかわした。心を読めるといっても霊体を通さない反射の行動は予期できない。郭はそのまま屋上を駆け、美琴と距離を取った。

 読心術という明らかに有利な特殊能力がありながら、郭は未だ美琴にほとんど傷らしい傷さえ与えられずにいた。逆に自分はこの雨天と、激しい戦闘、そしてその中で負った傷のせいでかなり体力を奪われている。

 郭の右腕は深く切られ、かろうじて短刀を握っているとはいえ握力も、振る力も無かった。利き腕ではない左手でいつまで戦っていられるか怪しいものだ。

 やはり人間界でぬくぬくと過ごしていた一介の妖怪ごときには、この死神に勝てはしない。そんなことは分かっていた。生死を賭して戦うのが彼女の日常だ。弱いものを守り、許されぬことをしたものを戒めるため。

 郭は、そんな強さと優しさを持った美琴が好きだった。初めて自分に居場所を与えてくれたのも彼女だった。その場所はもうない。自分自身で捨ててしまった。それでも、郭は美琴の心の中に、自分の居場所が欲しかった。


 戦いの日々の中、自分も美琴と戦って殺されるのなら、彼女は自分のことをずっと覚えていてくれるだろうか。


 美琴が屋上に溜まった雨水を蹴りながら、走って来る。水の欠片が月光に光る。郭は美琴の心を見た。次に来る攻撃は分かる。だが、郭は彼女の心に、一瞬、かつて一緒に見た光景を見た。夕焼けに染まる山々。美琴の隣で郭は確かにそれを見ていた。

 その心を覗いた瞬間に、郭は動くことをやめた。

 美琴の掌底が郭を捕えた。妖力とともに放たれたその打撃で、郭は後方に弾き飛ばされた。凄まじい衝撃とともに背中が何かにぶつかる。見上げるとどうやら、貯水タンクのようだった。

 郭は口から大きな血の塊を吐いた。体はもう、言うことを聞かなかった。体中がいかれてしまったようで、脚も手も脳からの命令に反応しない。痛みも同時に感じなくなったのが救いだった。人間ならとっくに死んでいる状態だろう。だが妖怪である郭は、まだ意識を保っていた。

 ぼやけた視界に、雨の中を歩いて来る紫の和装の少女を捕えながら、郭はぼんやりと考える。

 郭が安岐に最後に頼んだことは、自分と美琴とを一対一で対峙させて欲しいという内容だった。誰にも邪魔はされたくなかった。どうせもう居場所がないのなら、どうせもう生きる意味がないのなら、最後は、彼女の手で葬って欲しかったのだ。

 歪んでいることは分かっている。自分の想いや、彼女に対する苛立ちもあったろう。最後の最後に、美琴が自分と戦うことになり、何を思うのかを知りたかったという思いもあった。そんな我儘に付き合ってくれた安岐には感謝している。結局彼女には何もしてやれなかった。それだけが郭の後悔だった。

 美琴が郭の目の前で立ち止まった。もう動けない体でありながら、郭は精一杯笑った。

「すまなかったな」

「……ええ」

「ひとつ、頼まれてくれないか」

「なに?」

「安岐に、俺が感謝していたと、何もしてやれなかったことを後悔していると、伝えてくれるか?」

「……分かったわ」

 郭は美琴の心を見る。その答えに嘘はないようだった。郭はそのまま閉じそうになる(まぶた)を必死でこじ開けた。最後の最後まで、目の前の少女が何を思うかを見ていたかった。

「ひと思いに、やってくれ」

 息を吐くのもやっとの中、郭はそう美琴に告げる。

 美琴は静かに刀を上げた。郭はその心を見続ける。そして、今度ははっきりと悲しみという感情を読み取った。郭は満足そうに微笑んだ。こんな自分でも、美琴が悲しんでくれるということが嬉しかった。

 刀が振るわれた。体を貫かれる衝撃とともに、郭の意識は闇の中に落ちた。それで、終わりだった。




 赤瀬愛子殺害事件は、翌日から大々的に報道された。彼女と最後に行動を共にしており、また現場から逃げるスーツ姿の男が目撃されていたため、郭は容疑者とされて捜索が開始されている。だが誰も郭を見つけることはできないだろう。

 美琴は縁側に座り、よく晴れた青い空を見上げていた。風が黒髪を揺らす。

 郭の遺体は安岐に渡した。あの夜、雨の中で倒れた郭を安岐は何も言わずに抱え、美琴に一礼して去って行った。




 そして今朝、安岐は美琴の屋敷を一人で訪れた。いつものようにスーツではなく、黒い和服を着ていた。聞くと、郭の遺体を故郷の山に葬って来たところらしかった。

「ご迷惑をおかけしました」

 玄関に入るなり、安岐は深く頭を下げてそう謝った。美琴は静かに首を横に振る。

「いいのよ。これが私の仕事だもの。顔を上げて。それより、あなたは私のことを怨んではいないの?」

 安岐はゆっくりと頭を上げた。無表情のまま、小さな声を出す。

「怨んでなど、()りませぬ。むしろ感謝しています。郭様はもう、生きる意味を見出せなかったのでしょう。貴方様の手で最後を迎えることが、あの方の望みだったのでしょうから」

「……そう」

 美琴はそう呟くように言って、安岐に屋敷に入るよう促したが、安岐は固辞した。色々と思うところがあるのだろう。美琴は無理には誘おうとせず、玄関に立ったままの安岐に言った。

「ひとつ、あなたに郭からの伝言があるの」

 安岐は無表情のまま美琴の顔を見た。

「あなたに感謝していたと、そして、何もしてやれなかったことを後悔していたと、彼は言っていたわ」

 仕えていた主の最後の言葉に、安岐は初めて表情を崩した。悲しそうに顔を歪め、「そうですか」と消え入るような声で言った。

経立(ふったち)でありながら、妖怪とも動物とも馴染めずにいた私を誘ってくれたのが郭様だったんです。私も、彼に感謝しています。ただ一緒にいられるだけで、十分でした」

 安岐はそう言って、健気に微笑んだ。美琴が問う。

「あなたはこれからどうするの?」

「山へ帰ります。もう人の世界にいても、仕方がありませんから」

「そう、気をつけてね」

「はい。色々とありがとうございました」

 玄関の引き戸に手を掛けようとして、安岐は美琴の方を振り返った。

「最後に一つ、私からお願いをしてもいいでしょうか?」

「なあに?」

「郭様のことを、どうか忘れないでください」

 美琴は小さく頷いた。

「分かっているわ」

 安岐は最後にもう一礼して、黄泉国を去って行った。




 美琴は縁側でそよ風を感じながらそっと瞼を閉じる。

 安岐には、故郷に戻って平和な日々を送って欲しいと美琴は願う。どんな理由があろうとも、今までの日常を美琴が破壊してしまったことには変わりはない。

 郭を一番想っていたのは安岐だろう。彼女は自分の日常が壊れようと分かっていても郭に従った。そこにどんな想いがあったのだろう。安岐は自分の大切なものが失われることを分かっていながら、郭のために彼を助けたのだ。

 郭の側にもこんなに彼を想っているものがいた。それでも彼は死を選んだ。覚の能力はないから、美琴には彼の心の内は分からない。だが辛かったのであろうことは分かる。美琴の中にいる彼は、いつも自分の存在する意味を探している姿だった。

 この手で彼を葬ること、それで彼は満足だったのだろうか。それに確信は持てない。いや、誰かの死に、他者が確信など持てるわけはないかと思い直す。それでも郭が覚としての能力に苦悩していたように、死と向かい合わねばならぬのは死神である美琴の運命だ。

 美琴はゆるりと縁側に寝そべる。午後の日差しに体を預け、美琴は静かに目を閉じた。風がまた、彼女の前髪を揺らして通り抜けて行った。



異形紹介

・覚

 鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』にも描かれる大きな猿のような姿をした妖怪で、他者の心を読む能力を持つ。基本的には人間に危害を加えることがなく、相手が思っていることを言い当ててからかうぐらいだが、稀に隙あらば人を食ってしまおうとするものもいる。

 昔話では基本的に、囲炉裏の薪が跳ねるなど、人間が心に思っていないことを偶然にやってしまい、それが覚を撃退することに繋がることが多い。

 中国の(かく)と呼ばれる妖怪が、日本に入り(かく)となり、そこから(さとり)となって心を読むという能力が付加されたという説がある。玃は人間の女を攫う猿のような妖怪であり、日本では「やまこ」と呼ばれることもある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ