三 覚悟
郭は目の前で肉のソテーを噛む愛子を見た。それが何の肉であるかは覚えていない。シェフに言われたはずだが、聞いてもいなかった。
郭は愛子の誘いで新宿にある高級フレンチレストランに来ていた。愛子は自分は奢ってもらって当然と考えているようだ。言わなくても心を読めば簡単にわかる。誘って来たのもこの店を選んだのも彼女であるのに、何とも図々しいものだ。
郭が愛子の誘いに合意したのは別に彼女との食事を楽しむ訳ではない。彼は今夜、ひとつ試そうと思っていることがあった。場合によっては、それは彼の今の立場を危うくするものだ。
郭の能力が本物であると示した時、この女はどういう反応を見せるのか、それを郭はこの夜それを試そうとしていた。この愛子という女は郭がこれまで接してきた人間の中でもかなり性悪な部類に入る。もしもこの女が自分の能力を知って、それを受け止めたなら、郭は本当の意味で人と共存できるかもしれない。それは美琴が望んでいたことだ。
そこまで考えて、郭は愛子に気付かれぬよう、首を小さく横に振った。美琴のためだなど、建前に過ぎない。郭は自暴自棄になっている自分を知っていた。あの日、美琴に会いに行ったのも人の世界で暮らす妖怪の仲間が欲しかったからなのだ。妖怪の世界が嫌でこちらへ来たというのに、我ながら情けがなくなる。
もちろん美琴にはかつて助けられた恩義もあるし、自分を理解してくれた数少ない妖怪でもある。そして彼女は……。
「どうしたんですか?」
不意に声を掛けられ、郭は愛子の方を見た。怪訝な表情で郭を見ている。
「あんまり食べてないみたいですけど」
「いや、こういうところはあんまり来ないから、緊張しちゃってね」
適当に笑顔を作って言い訳し、ほとんど手をつけていない料理を口に運ぶ。
「私もこういうところは初めてです」
実際は何度も男を変えて来ていることは郭には筒抜けだった。だが郭はそのことは微塵も顔に出さずに料理を口に運ぶ。ほとんど味も感じない。
結局、自分は何もかもが嫌になったのだ。妖怪の世界に嫌気が指して人の世界に出てきたは良いが、妖怪である自分が簡単に人の世界に馴染めるはずもなく、自分の周りにいるのは上辺だけで付き合えるこの女のようにヘドロのように汚い心を持った者ばかりだ。そんな者が自分の能力を理解してくれる可能性などは毛の先ほどもあるまい。
郭はもうどうでもよくなっていた。どうせ自分が生きるべき世界はもうないのだ。もしあのとき美琴が自分の誘いに乗ってくれたのならと考えたが、もう遅い。それならばいっそのこと、だ。
「やっぱり、何か変ですよ郭さん」
愛子が言う。郭は、不敵な笑みを浮かべ、愛子を見据える。
「そろそろ出ようか。愛子ちゃん。大事な話がある」
途端に愛子の表情が明るくなった。心の中では郭を落としたと思っている。これから何を聞かされるかも知らずに、のんきなものだ。
郭は二人分の料金を支払い、店を出て愛子を人気のない路地の方へと連れて行った。愛子は何の疑いもなく付いてくる。郭が自分に告白するつもりなのだと信じて疑っていない。
郭が足を止めると、愛子も足を止めた。
「なあ愛子ちゃん。君は俺の能力のことどう思う?正直に言ってくれ」
愛子は意表を突かれた顔をして、郭をまじまじと見た。そして遠慮しているような演技をして答える。
「正直、テレビのことなんで嘘なんじゃないかって思ってますよ。だって私に霊感があるっていうのも嘘っぱちですし。テレビは売れればいいって思ってるんだから、それでいいんじゃないんですか?」
「なるほどね」
にやりと笑って、郭は愛子を見る。愛子は不審そうに郭を見返す。
「もし俺の能力が本物だって言ったら、君はどうする?」
「何言ってるんですか。冗談はやめま……」
「君は、俺のファンだなんて嘘だろう」
「え……」
愛子の表情が凍り付く。
「まあそんなことはいいか。今君は、『私が読心術なんて嘘だって言ったから怒っているんですか?』と言おうとしたな」
愛子の心に映った情景や言葉をそのまま言い放つ。彼女の口から出るはずの言葉を、一語一句当てているのだ。が引きつる愛子の顔を見て、少しだけ愉快な気分になる。
「残念ながら俺の能力は本物なんだ。君は今、どうやってこの場を去ろうか考えている。明日仕事が早いからとか、気分が悪くなったからとか、色々言い訳を考えているようだけど無駄だよ。こっちには全部お見通しだ。今助けを呼ぼうと思い浮かべたのは、君の今の恋人かい?四人ほど候補がいたようだが。なんならその顔の特徴も言い当ててやろうか」
郭が一歩足を進める。愛子は二歩下がる。
「来ないでよ!」
「急になんだい。俺は何もしていない。ただ、君の考えていることが分かってしまうだけだ」
郭は愛子を凝視する。その心に渦巻く感情を読み取っていく。
「やっぱり、人も妖も同じか、そりゃそうだ。心を読まれるなんて、嫌だもんな」
愛子は郭を睨みつける。
「私の心を読んで、どうする気よ!脅す気?それなら私だって考えがあるわ。あんたのことをばらしてやる。テレビには出られなくなるわよ!誰だって自分の考えなんて読まれたくないもの!普通に生活できるかも怪しいわね!」
自分の言葉に勇気付けられたのか、愛子の弁舌は続く。
「そうよ、あんた今まで大勢の人の心を読んできたんでしょう?きっとそれが分かったら皆の怨みもひどいでしょうね。誰だって言いたくないことはあるんだから、それがあんたみたいなのに知られてると分かればあんたどうなるか分からないわよ!きっとぼこぼこにされて、下手すりゃ死ぬかもね」
つい数分前の、郭を落そうとしていた自信に溢れる女性アイドルの顔はもうどこにも見当たらない。恐怖と笑いの混ざったような顔で喚き散らしている。知られたくないことが山ほどあるせいだろう。ちらと心を見ただけでもそれは十分に分かる。どうやらこの娘は世間では純情というキャラクターで売っているようだから、それが露見すればどうなるかは簡単に予想が付く。
「醜いな」
「なんですって?」
醜いという言葉を聞いた途端、愛子は手を振り上げた。反射的な行動だったらしい。郭はまともに頬を打たれ、夜の路地に乾いた音が響いた。普段相手の行動を一歩先を読むことに慣れていた郭は、その考えなしの行為を避けることができなかった。
非力な人間の平手など別段痛くもない。だが郭は自信の体の底から、憎悪と憤怒の感情が湧き上がって来るのを感じていた。この女に対するものだけではない。これまで自分が受けてきた数々の仕打ちに対する感情が、爆発しようとしている。どうせもうこの女の言う通り自分に居場所などない。異界にも、人間界にも、それならば……。
自分の横を抜け、逃げようとする愛子の腕を郭が掴んだ。そのまま力任せに近くの壁に叩きつける。
「なにするのよ!?って、え……?」
郭を見た愛子が絶句した。郭にもその理由は分かっている。もう郭の姿は人間のものでは無かった。体中が黒い毛で覆われ、筋肉が隆起する。目付きは前にも増して鋭くなり、口が裂けて鋭い牙が生える。本来の妖怪覚の姿で郭は愛子の目前に立った。
「ば、化け物」
「黙れ」
暴れる愛子の首に郭は両手を掛けた。指を愛子の首に食い込ませるように力を込めていく。愛子は酸素を求めて金魚のように口をぱくぱくと開け閉めし、郭の腕を引っ掻いていたが、その抵抗は段々と弱まって行った。やがて手が郭の腕を離れ、下に向かって垂れた。
それを見て郭は仕上げとばかりにより一層力を込めた。元々覚は森で木から木へと渡る、猿のような生活をする妖怪だ。腕力は強い。
骨が折れる音がして、愛子の首が不自然な方向に曲がった。光を失った目が夜空を見上げる。郭はそこでやっと愛子の首から手を放した。壊れた人形のように人間の女の体は路地に崩れ、横たわった。
郭はその死体をしばらく眺めていた。
不思議と何も感情は湧いてこなかった。この女を殺すことはずっと考えていたことだった。というより殺す相手を探していたのかもしれない。殺すのにある程度抵抗が無く、そして極悪人というほどでもない者を。そして誰かを殺せば郭は罪を背負うことになる。彼はそれを望んでいた。
周りに人の姿はない。ただ、同じ妖である安岐がいつの間にか横に立っていた。
「なぜ、こんなことを」
「ああ、済まねえな、安岐。もう俺は疲れたんだ」
「このままだと、あの方が黙ってはいないでしょう」
「んなこたあ分かってるよ。それでいいんだ。なあ、安岐、最後に一つだけ、俺の頼みを聞いてくれねえか?」
安岐は表情を変えない。ただ少しだけ声に感情を込めた。
「なんなりと」
「すまねえなあ」
郭は新宿の夜を見上げる。明るいネオンのせいで星は見えない。雨が一粒振ってきて彼の頬に当たった。
美琴は自室の窓から夜空を見上げた。夜空には、銀色の月と星とが煌々と光を湛えている。その澄んだ異界の空気の中に、美琴は揺らぎを感じ取る。
「何故……」
美琴は一人、小さく呟いた。その表情には微かに苦悶が浮かんでいる。
雨粒が窓を叩く音を聞いて、恒は今雨が降っていることに気がついた。恒の隣では水木がゲームのコントローラーを握りしめている。
「雨降ってきたみたいだね」
水木も窓に目を向ける。
「お、まじか。明日学校行くのめんどくさいなあ」
「明日は土曜じゃないか」
「そうだっけ、ラッキー」
くだらない会話を続ける恒と水木のさらに横には、寝息を立てている飯田の姿がある。恒もそろそろ眠気を感じていたが、ゲームに夢中になっている水木は放してくれそうにない。恒が時計を見ると、時刻は午前一時を回っていた。
新宿のビルの屋上、その淵に立ち、雨に打たれながら郭は一人地上を見下ろしている。既に愛子の死骸は見つかったらしく、雨音に混じりサイレンの音が聞こえて来る。道路には赤い光が走っているのも見えた。パトカーか救急車だろう。
多分明日にはテレビやら新聞やらで、彼女の死が大々的に報道されることだろう。首の骨が折れたアイドルの惨殺死体などマスコミの恰好の餌食だ。そして捜査が始まる。彼女と最後に一緒にいた郭は確実に犯人の候補として挙げられるはずだ。そんなものは怖くはない。人間の警察ごときに妖怪は捕えられない。だが、この世には警察などよりもっと恐ろしい存在がある。
郭の後には黒いスーツの安岐と、汚れた灰色の襤褸を纏った老人が立っている。郭は静かに二人の方を振り向いた。
「来たぞ」
臙脂色の和服姿の少女が雨の夜を切り裂く炎のように夜空に現れた。郭が立つビルの隣のビルの屋上に、美琴は降り立つ。その後ろから白い和服の女と、黒い和服の男が続いた。
美琴の立つビルは郭の立つビルより一段低い。郭は見下ろす形で死神の少女を見た。いつもとは違う濃い紫の瞳が郭を見上げている。
郭はその瞳の奥に彼女の心を読む。そこに読み取れるのは明確な殺意だけだ。それだけが槍のように郭に向けられている。
「それだけか」
郭は諦めたようにそう呟くと、後の二人に自分の方へ来るよう合図した。安岐と老人とが郭を挟んでビルの淵に立つ。
「ほう、あの嬢ちゃんが死神かいな。そんでわしは、あの男をやればええんかな?」
低い声で老人が言った。
「ああ、頼む。すまんな」
「金は払ってくれるんじゃろう?ならわしゃなんでもいい」
そう言って、老人は奇妙に高い笑いを漏らした。そしてビルから飛び上がってかと思うと真っ直ぐに黒い和服を来た良介に向って行く。
「良介」
「はいよ」
美琴の声に答えて、良介も飛び上がった。両者は空中で激突し、すぐに闇の中に落ちて行って見えなくなった。
それを見届け、安岐が言った。
「私は気にしてはいません。早く片付けて、また一緒に山にでも戻りましょう」
相変わらず無表情の安岐に、郭は笑いかける。
「初めて、嘘をついたな」
何かを言おうとする安岐を手で制す。
「俺も分かってるよ。お前といられるのもこれが最後だろう。今まで色々迷惑掛けて、すまなかったな」
「私は、待ってますよ」
安岐は呟くようにそう言った。
向こうのビルで白い着物を着た朱音が跳躍した。その直線上には郭がいる。安岐は素早く郭の前に出ると朱音の脇腹を蹴り付けた。空中で体制を崩した朱音を追って、安岐もビルを飛び出す。
やがて二人の姿も見えなくなった。郭は改めて美琴の方を見る。美琴はじっと郭を睨んだまま、微動だにしない。
雨音だけが静寂の中で響いていた。沈黙を破ったのは、美琴だった。
「この世界に、もう闇はないのね」
「そうだな」
新宿の街は、深夜でも明るく輝いている。人が作り出した光に照らされている。そこにはもう、かつて妖怪たちが歩いていた世界はない。
「何故、こんなことをしたの?」
「もう、疲れたんだ。どうせ俺には居場所がない。異界にも、この世界にもな」
美琴は表情を変えない。雨が、彼女の黒い髪を濡らしている。
「だから、人を殺したの?」
「それだけじゃないさ。それだけじゃ。まあいいや。とっととやろうぜ。あんたは、俺を殺しに来たんだろう?」
「ええ。でも最後に聞かせて。それが、目的なの?」
「……、さあな」
それからはもう言葉は無かった。雨の月夜に聳える摩天楼。その屋上で、覚と死神は対峙する。
先に動いたのは、郭だった。体を妖怪のものに変化させると同時に、懐に忍ばせておいたナイフを投げつける。
美琴は右手に刀の柄を握ると、鞘から振り抜いて飛んでくるナイフを弾いた。同時に美琴の姿も変化する。臙脂色の着物は青紫に変わり、銀色の蝶の刺繍が現れる。死神としての美琴の姿だ。
郭は屋上から跳躍すると、空中で短刀を二本取り出し、それぞれ両手に掴んだ。美琴と擦れ違い様右手を切りつける。美琴も刀を横に振るったが、事前にその行動を予知していた郭は簡単にそれを避けた。
戦闘には多少の自信はあった。かつて美琴に助けられた時、このままではいけないと自分自身でも強くなろうと訓練したのだ。それが今美琴本人を目の前にしているとは皮肉なものだ。
郭が振り返ると同時に、美琴が地面を蹴った。すでに右腕の傷は癒えている。美琴は両腕で刀を振り上げると一気に振り下ろした。だが郭は既にその攻撃から逃れている。郭は再びビルから飛び降りると、一段低いビルに着地した。
美琴も郭から少し遅れて、同じビルの上に降りた。溜まった雨水が着地と同時に水飛沫となって散る。
「俺はあんたに、憧れてたのかもなあ」
いや、憧れ以上だろう。初めて会った時から、郭はずっと美琴に対して特別な感情を抱いていた。誰よりも強く、そして気高い。そして何より、除けものだった自分を他のものたちと同じように扱ってくれた。人間界に出たのも、いつか人と妖怪とが共存できる世界を望んでいる彼女にそれを見せたいという想いもあったから。だが、結局自分は人間界にも金でしか居場所を見つけることができなかった。もうそれも終わりだ。
結局自分は想いを伝えることはできなかった。あの日美琴を誘ったことが、唯一の想いの表現だったのかもしれない。
自分ではなく美琴が心を読めたのなら、それも伝わっただろうか。
憂いを帯びた瞳で美琴が郭を見る。
「あなたとは戦いたくなかったわ」
郭は、自嘲するように笑う。
「その割に、あんたの心には殺意しか見えないぜ」
「それが死神というものよ」
「そうかい」
美琴が日本刀を中段に構える。郭も二本の短刀を握りしめた。
今度は、二人同時に走り出した。




