三 繰り返しの中のある日
傘の女と呼ばれる地縛霊、彼女との会話で分かったのは「さよ」という彼女自身の名前とあの白虹トンネルという名前のトンネルの場所、そして通り魔事件で一人の若い女性が死亡したらしいという事実。
それだけの情報があればある程度は事件を絞り込める。そう判断し、恒はその足で帆野市の図書館へと向かった。彼女が殺された事件が起きた町の図書館ならば、その記録が残っている可能性も高いと考えたのだ。
図書館の入口で傘を閉じ、そのまま玄関の地図で管内の構図を確認して真っ直ぐに無料で利用できるパソコンの方に向かう。片っ端から本や新聞を捲るよりも、今の時代はインターネットの力を借りた方が早い。
いくつかさよが話していたことに関連するキーワードを打ち込み、ネット検索によりめぼしい事件を絞り込んで行く。検索画面に現れたサイトに目星をつけながらひとつずつ覗いては、有用な情報がないかを探って行く。
今の時代、飯田ではないが色々な分野で知識が豊富な人がいるようで、個人で過去の殺人事件の情報を集め、それをまとめて公開しているような人もいる。そういったサイトを巡ってあのトンネルの周辺で起きた事件を集め、メモ帳にその情報を箇条書きでメモをして行く。
更にその情報を元に今度はパソコンで図書館のデータベースにアクセスし、単語を打ち込んでこの地域一帯で発行されている地元の新聞で彼女の殺人事件が記事になってはいないかと地道に調査を進める。
全国的には彼女一人が死亡したことは大したニュースにはなっていないかもしれない。だが地元で起きた通り魔事件、しかも殺人が伴っているのならば高確率で地元の新聞では記事になっている筈だとそう睨んだのだ。
その予想は当たり、やがていくつかさよの事件に関連すると思しき記事が検索結果に現れる。それをメモし、そして恒は新聞室と名付けられた部屋に向かった。
古い新聞記事はマイクロフィルムというものに縮小されて保存されているらしい。それを投影するマイクロフィルムリーダーなる機械を使い、パソコンの画面に映し出して記事を探す。そして一時間後、恒はその目当ての事件を見つけた。
「これだ」
恒は思わず口に出して呟き、そして思わず口元に手を当てた。新聞室には自分以外誰もいないが、ここは図書館だ。声を出してしまった自分が少し恥ずかしい。
だが、恒が見つけ出した記事は正にあのさよが殺された事件の記録が記されているようだった。
記事によれば事件が起きたのは昭和四十年のこと。被害者の名前は天海小夜。あの白虹トンネルの前で通り魔に胸を刺され、そのまま目撃者によって病院に運ばれたが、即死だったとの内容が書かれている。
犯人は中嶋治夫という男で、目撃者がいたことによりすぐに捕まっている。犯行理由については詳しく記載されていないが、金銭的な諍いの結果らしい。小夜の夫である天海晴朗とのトラブルの結果、中嶋は彼の妻である小夜を狙ったとある。
どうやら新聞記事で分かるのはここまでのようだった。だが小夜にかつて家族がいたことを知れたのは大きな収穫だった。この晴朗という人と会えば、何かわかるかもしれない。
無論図書館でその人間の住所がわかる訳ではない。だがこの情報を小夜に伝えればまた何かを思い出す可能性はある。彼女に纏わる情報は、彼女にとっての強い霊力となって現れる筈だ。
図書館を出ると雨は止んでいた。晴れた日光に気化して行く濃い雨の匂いがまだ真新しく漂っている。
そのまま恒は再び白虹トンネルに赴いたが、小夜の姿は見えなかった。薄々そうではないかと思っていたが、例え恒の目があったとして彼女は雨の日にしか見えないようだ。彼女の霊力の消耗は想像よりも激しいらしい。
雨が降る日は彼女にとって自分が死んだ日と同じ状況。その概念が彼女に霊力を与えるのだろう。だがこのままでは雨の日にさえも小夜の姿は見えなくなってしまうかもしれない。
急がなければ、そう恒は思う。生きた人間に死が訪れるように、死んだ人間だってそのままの姿ではいつまでもそこに存在していられる訳ではないのだ。
それから数日の間は快晴が続き、恒は小夜の事件を引き続き調べるとともに、大学入学の準備を進めていた。
必要な書類の記載を終わらせ、木久里町の家電量販店で今後必要になるであろうノートパソコンを購入した。高校三年間のアルバイトで貯めたお金はあったが、それでも家電は結構な出費になった。
インターネットについては良介がパソコンを活用していたため、彼にこの異界でのインターネットの接続方法を教えてもらったが、どうもこの屋敷の中であればパソコン本体の設定で繋げることができるらしい。ほぼ三年の間をここで暮らしていたが、その原理が謎なものは未だに多い。
だがインターネットが使えるようになったのはありがたかった。これで多くの情報が簡単に手に入る。無論不特定多数の人間によって構成されるネット世界の情報は自分の判断による取捨選択が重要になるだろうが、使い方次第でとても便利なものとなるだろう。
そしてその真新しいパソコンで白虹トンネルを調べていた時、あのトンネルのすぐ近く今はもう閉鎖された、白虹火葬場と言う火葬場があることを知った。そのほかには山の緑ばかりで何もないようだったから、彼女があそこに立っているのにはその火葬場が何か関係があるのかもしれない。
そう考えていると、点けっぱなしだったテレビから天気予報が流れて来た。どうやら明日は高確率で雨になるらしい。丁度良い。ならば明日はまた小夜に会いに行ってみよう。
次の日の雨は予報通り深夜から降り始め、それはやがて何日も降り続く春霖となった。その日も恒は朝から屋敷を出て、バスに乗って白虹トンネルへと向かった。
薄闇の下、小夜は変わらずそこに立ってあの赤い唐傘を差していた。恒が現れたのを見ると、少しだけ嬉しそうに笑って、そして会釈をする。
恒も会釈を返し、彼女の側で立ち止まる。暖雨は彼女の体を擦り抜け、そのまま地面を濡らしている。それが空をもが彼女の存在を否定してしまっているようで、やはり悲しかった。
「また来てくれたのですね」
「はい、約束は守ります」
恒がそう笑うと、小夜もまた口元に手を当てて微笑した。
「ずっと昔、そんなことを誰かに言われたような気がします。もうそれも思い出せないのですけれど」
「きっと思い出せますよ」
小夜の記憶は完全に消失した訳ではない。恐らく長い年月の間に霊力を失ってしまったことにより、それを思い起こす力さえなくなっているのだ。だから切っ掛けさえあれば、きっと彼女は思い出を取り戻すことができるはずだ。彼女には、死して尚この場所に留まる程の想いがあったのだから。
「幾つか調べて来たことがあるんです。それを小夜さんに確認して頂きたくて」
「私にできることなら、何でも」
小夜は優し気な声でそう言った。恒は頷き、ポケットに仕舞っていたメモ帳を取り出す。
「まず、天海晴朗、という名前に覚えはありますか?」
「天海……晴朗……」
小夜は下を向いてしばらく考えていたようだったが、やがて恒の顔を見て口を開いた。
「確かに私はその名前を知っています。とても、大切な人だったように思うのです」
「晴朗さんは恐らくあなたの配偶者だった男性です。そして、あなたを殺害した犯人も、晴朗さんの知り合いだった人間のようです。何か思い出すことはありませんか?」
「私の、夫……」
小夜はふとトンネルとは逆の方向を見た。山の木々に覆われたあの向こうにはかつての白虹火葬場がある。小夜はその雨景色を見つめながら呟くように言った。
「まだ全ては思い出せません。だけど、私はその人をこの場所で待っていた……、そんな気がするのです」
小夜は懐かしそうに目を細める。少しずつではあるが、彼女の霊力が回復しているのを恒は感じていた。彼女に纏わる記憶は、何よりも彼女の霊力の糧となるのだろう。
「あなたがこの場所で地縛霊のなったのは、もしかしたら晴朗さんをここで待ち続けているためなのかもしれませんね」
恒の言葉に小夜は小さく首肯した。そして雨の向こうで初めて希望を滲ませた笑顔を見せた。
「きっと、私はもう一度あの人に会いたいのだと思います。だからこうして、同じ雨の日の夜を繰り返している。名前も顔も覚えていなかった人を追って、まるで永遠に覚めることがない夢のようなこの日々が終わる、そんな繰り返しの中のある日を求めて」
小夜の笑みはそれは雨の飛沫に掻き消されてしまいそうな儚さを湛えていて、だけど恒はそれを消させはしないと言う確信があった。
「僕は必ず、あなたの元に晴朗さんを連れてきます。あなたにとっての最後の雨が訪れるように」
「お願い致します……。私はもう一度あの人に会いたい。そして謝りたいことが、話したいことがたくさんあるのです。全ての記憶が返って来た訳ではないけれど、そんな思いが止まらないのです」
恒は力強く頷いた。あとはもう取るべき行動はひとつだった。彼女の夫であった天海晴朗を探し出す。そしてこの場所に連れて来る。それだけが今の自分にできることだ。
もちろん一人の人間の現在の居場所を探し出すのは簡単なことではない。インターネットにそう簡単に個人情報が転がっている訳はないし、役所に尋ねたところで教えてくれたらそれは職務違反だろう
だから恒は地道に足で稼ぐこととした。新聞の記事から、天海夫婦が帆野市に事件当時住んでいたことは確かなようだったから、恐らく事件を覚えている人がこの町にはいる筈だ。それを見つけ出すことができれば、何か話を聞けるだろう。
それから三日ほどの間は毎日軽雨が降り続いていたが、恒はビニール傘を片手に市内を歩き続けた。あのトンネルの近くを中心に、自分を小夜の遠い親戚だと偽って彼女の事件に何か覚えはないか聞いて回った。
最初のうちは不審がられたり、相手にされなかったりでほとんど収穫はなかったが、やがてお年寄りの人々の中にはあの事件を覚えている人もちらほらといることが分かって来た。
そんな雨の中の調査が二日を過ぎた頃、恒はやっと手掛かりになる話を聞くことができる人物と出会った。
「天海さんなら、確かまだこの近くに住んでおるよ」
もう八十近いであろうそのお婆さんは、はきはきとした口調で恒にそう伝えた。
「この近所にいらっしゃるのですか?」
「ああ、小さいころから知っているからね。しかし晴朗ちゃんは奥さんを亡くしてからめっきり外に出なくなってしまってね、仕事を辞めた今ではほとんど家から出ることもないよ。あんたが小夜ちゃんの親戚かい。なら、もしかしたら合ってくれるかもねぇ」
お婆さんはうんうんと何度か頷き、そして天海の家への簡単な地図を描いて渡してくれた。恒は礼を言い、そしてその地図を辿って歩き始める。
天海と表札のかけられた家は確かにそこにあった。古い木造の一軒家で、垣根の向こうの庭には手入れのされていない草が生い茂り、嬉しそうに春雨を浴びている。恒はその庭を横切り、天海家のインターホンに指を伸ばした。
家の奥で微かに音が鳴るのが聞こえた。それから少しの間を置いて擦りガラスの引き戸が開かれる。
現れたのは七十を過ぎたぐらいの男性だった。灰色に見える白髪交じりの髪に、痩せた体躯。目は深い鉛色で、顔色が悪い訳ではないが覇気がない。
「何か御用ですかな?」
小さく首を傾げ、老人はそう尋ねた。恒は一度会釈をして、そして彼の問いの答える。
「あなたの奥様だった、小夜さんのことで話があって参りました」
異形紹介
・地縛霊
何等かの理由で自分の死が自覚できないまま死ぬ、また怨みや憎悪といった激しい感情を抱いたままに死に自分の死を受け入れられないまま死んだ場合に、土地や建物など特定の場所に固定化して現れるようになった霊のこと。ただ同じ場所に出現する以外にも、死の直前の行動を繰り返す、怨んだ相手を滅ぼそうとする、無差別に通りかかった人間に害を加えるなどの行動を取ることがある。
現在ではメディアでも使われるなど普遍的な用語となっているが、元々は近代ヨーロッパの心霊主義の中で生まれた言葉のようである。心霊主義的に言えば俗世的な欲により霊的世界に入っていくことができず地上に縛り付けられた霊というような扱いとなっている。つまりここでの地縛霊は特定の場所に縛られる霊だけでなく、地上そのものに縛られる霊という広い意味となっているようだ。また地縛霊という概念がない時代においても場所に固定化する死者という存在は日本に古くから伝わっており、皿屋敷において自身が身を投げた井戸から現れるお菊などは典型例であるが、更に時代を遡ると平安時代の説話集『今昔物語集』巻二七の「三条東の洞院の鬼殿の霊の物語」においては平安京が造られる以前、松の木陰で雨宿りをしていた際に雷が落ち、焼き殺されたと伝わる場所に人が家を造り、住むようになったが、その男の霊は未だそこにあり、今でも稀に良くないことが起こるのだ、という話が既に記されている。
また、地縛霊は場所に固定化するといっても固定化する場所には種類があり、大島清昭氏は『現代幽霊論』において場所に固定化する幽霊は屍体が存在する(した)場所、自らが生命を落とした場所、生前、関わりが深かった場所の三パターンの場所に出現すると説明している。




