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黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第五十話 夢の終わりの黄昏に
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二 今の自分にできること

「傘の女、という名前かどうかは分からないけれど、その噂は知っているわ」

 屋敷に帰って来た恒が今日見た幽霊のこと、そして飯田から聞いた傘の女のことを美琴に話すと、彼女はそう返した。

 先程朱音が持ってきてくれた麦茶入りのコップにはもう小さな水滴が生じている。それを一度ちらと見てから、美琴はまた口を開く。

「もう何十年も前に語られていた噂よ。未だに残っていたのね」

「そんなに以前から……」

 ということは、少なくとも傘の女は何十年も前から幽霊としてあの場所に存在していたということを意味していた。恒は考える。あの女性はそんな以前からあの場所に一人立っていたのだろうか。そうだとしたら、それはどんなに寂しいことだろう。

「でも、あの女のひとには、人を消し去る力なんてあるとは思えませんでした。それどころか下手すれば人の目に触れることさえできないようなそんな微弱な力しか……。本当に彼女はあそこを訪れた人間を消してしまうのでしょうか」

「それは最近の噂で語られていることでしょう? でも初めは違ったのよ。消えるのはあなたの言う傘の女だけだった」

 美琴はそうコップを揺らしながら言った。麦茶の中で氷がからんと小さな音を立てる。

「つまり彼女の傘に入った人間が消えることはなかった、ということですか」

「ええ。この噂が流れ始めた時期はまだ昭和の中頃だった。雨の日にあるトンネルの前に白い着物を着た唐傘の女が現れ、家までの付き添いを申し出る。そしてその女の言に従って傘の中に入り、トンネルを進んでいると、トンネルが終わる頃にはいつの間にか女の姿は消えているという、それが傘の女の都市伝説の初期の形なの」

「ということは、それがいつの間にか傘に入れてもらった人間諸共消える、という話に変わってしまったのですね」

 美琴の話が本当ならば今伝わる傘の女の都市伝説は結末が異なっている。女の傘に入り、トンネルを抜ける頃には女の姿も、その横にいた人間の姿も消えている。それが現在語られる彼女の都市伝説。

 彼女の誘いに乗ることは彼女に命を奪われることを意味する。故に彼女は恐れられる。そしてその恐怖が人々の間で語られる都市伝説の中では好まれる。故にこの話の性質は変質して行ったのだろう。

「だけどある意味では幸いだわ。もしその都市伝説が広く流布してしまっていたら、彼女は本当に人を消してしまう怪異となっていたかもしれない」

 美琴の言いたいことは恒にも理解できた。人々の間に広く語られる言霊は時にその怪異の性質にまで影響を及ぼすことがある。例え元々は人を襲うような存在でなくとも、人々がそう信じることでそのような特性を持ってしまうこともある。元々人を襲う怪異であれば、なおさらその性質を強くすることにも繋がるのだと美琴は説明する。

「だけど、あなたの見たところでは傘の女はまだ肉体を持ってはいない。そもそも数十年の間存在し続けていた霊なのですもの。今までは彼女に纏わる都市伝説があったお陰で霊体のまま存在し続けられていたのでしょうけれど、ほとんど語られなくなった今はもう、そのまま霊力を消耗し、消えてしまうかもしれない」

「そんな……、彼女が幽霊になったのだって、何か理由があるはずでしょう? それを果たさないままに消えてしまうなんて」

 思わずそう恒が口を開くと、美琴は少しだけ表情を険しくした。

「良い? 恒。あなたならば分かっているでしょうけれど、幽霊というものはこの地上には数え切れないほどに存在しているの。その中で自分の生前の恨みや悔みを果たし、成仏することができる霊なんてほんの一握り。多くはその記憶もなくし、霊力を失って消えてしまうか、元の人格を失って大気中を漂う名もなき雑多な霊のひとつとなるか、肉体を持ち、妖となるか。そうなってしまっては霊を霊として救うことはできなくなる。私たちがすべての生者を救えないように、すべての死者を救うことだってできはしないの。それを忘れてはならないわ」

 美琴は恒を見据え、そう告げた。どんなに望んでも自分が望むすべてのものを救う力はない。それは分かっているつもりだった。それでも改めてそれを突き付けられると、口惜しさに似た感覚が胸の内に現れる。

「あなたには、あなたにできる精一杯のことがある。それを超えて何かを成そうとすればあなたの方が潰れてしまうかもしれない。だからあなたは今の自分にできることを見つめて行かねばならないわ」

「今の自分にできること……ですか」

 恒は思う。自分に、あの傘の女と呼ばれる幽霊を救うことはできるだろうか。全てを救うことができるとは思わない。だけど、今日見かけたあの哀しげな顔を忘れることはできないだろう。

 ならば自分の力で、彼女だけでも。

「僕は、あのひとを助けたい、そう思います」

「ならばやってみなさい。あなたならばきっとできるわ」

 そう、死神の少女は微笑んだ。

「都市伝説が本当であれば、彼女は特定の場所に縛り続けられる地縛霊と予想できる。そうなったのには理由があるのでしょうけれど、少なくとも恨みからその地に縛られた訳ではないのでしょう。だけれど死後もその場所にとどまり続けなければならなくなった理由があった。自分の為か、それとも誰かの為にそこに強い想いを残して死んだから。彼女を救うのならば、まずそれを知らねばならないわ。私が伝えられるのはここまで。あとはあなったの力で頑張りなさい、恒」

 美琴の言葉に恒は決意を固める。

「ありがとうございます。僕は、僕にできることをやってみます」




 それから二日ほどした後のこと。真昼の空は再び灰色に染まり、小さな雨粒が地面を叩いてその姿を散らしていた。

 その日も雨景色の中に女は立っていた。暗く長いトンネルの側、暗雨あんうに体を掻き消されてしまうような儚さで、ただそこに佇んでいた。

 赤い唐傘には降り続けている筈の雨雫は付着せず、そして女の体に当たり砕けることもなく、ただそれをすり抜けて地面に落ちる。その白い和服の女は、雨水うすいの中にあって濡れることはない。それなのに彼女はこの雨空の下に囚われている。彼女が死者である故に。

 恒はその姿を認め、雨に足音を響かせながら、彼女の元へと歩いて行く。

 濡れたビニール傘の向こうに、女の姿は滲んで見える。春の雨はまだまだ冷たい。恒は白い息を一つ吐き、女のすぐ側で立ち止まった。

 二人の間を雨の糸だけが存在していた。やがて、傘の女が恒の方に首を向けた。

「私のことが、見えるのですか?」

 女は自分を見つめる恒に気が付き、そう穏やかな声で尋ねた。体の向きを変えたことで白い和服の袖が小さく揺れる。

「ええ、見えています」

 トンネルの闇は深く、黒々としたどんな光でも飲み込んでしまいそうな穴が奥に向かって続いている。その暗闇を背に、女の黒い髪はその闇に溶け、そして白い着物は雨明かりに晒されるようにその闇に浮き上がっている。

「雨が降っているから、かしら」

 女は降りしきる雨にその白い手を伸ばす。だが雨粒は彼女の指をすり抜け、消えて行く。

「僕の目はあなたのような存在を映すのです」

 そう言って恒は微笑んだ。恒の差す透明な傘の上では水が撥ね、女の差す赤い唐傘は雨粒を擦り抜ける。だが目で映し、言葉を交わすことができるのなら何も問題はない。

「いきなりですが、僕はあなたを助けたいと思いここに来ました」

 恒が静かな声で言うと、傘の女は不思議そうに彼を見つめ返す。

「私を、助けてくれるのですか?」

「はい、僕はそのためにここに来たのです。だから、宜しければあなたのことを教えてください」

 その答えを聞いて、女はくすりと笑った。片手を口に当てる動作がとても手慣れていて、品の良い雰囲気を醸し出している。

「私がこの場所から動けなくなってから、何人もの方がここを訪れました。だけれど、そんなことを仰った方は初めてです」

 そして、傘の女は自分を訪ねて来た奇特な少年に向き直る。

「私の名前は、さよと申します。それだけは覚えています」

 女は色の薄い唇を開き、そう名を告げた。そしてどこか切なげに首を傾げる。

「私が覚えているのは自分の名前、そして私が死んだ日の記憶だけ。それ以外はもう、全て失くしてしまいました」

 傘の女、さよは諦めているように瞳を閉じた。そして、言う。

「それでも私の話を聞いて下さいますか?」

「ええ、もちろん」

 恒の言葉にさよは頷き、そして己の過去を話し始める。

「私が死んだのは、もういつのことだか定かではありません。でもその日も今日のように雨が降っていたことは覚えています。その雨の中で、私はこの傘を持ってこの隧道すいどうの前に立っていました」

 女は暗いトンネルの穴を見つめる。暗闇に過去を映すようにさよは口を開く。

「そして、あの隧道の向こうから男の人が出て来たのです。もうそれが元々知っている人だったのか、それとも初めて会った人だったのか、それも忘れてしまいましたけれど、あの人は両手に刃物を握っていました。そして、私に向かって突然走って来て、私の胸の真ん中を刺しました」

 傘の女はそれを確かめるように胸に手を当てた。だがその白い着物には、かつてそれを赤く染めたのであろう血の痕跡は既に失われている。

「痛みはもう、忘れてしまいました。体を失ってからは肉の痛みなんて感じることがないのですもの。でも、ただ意識が暗闇に引き摺り込まれてしまうような、そんな恐ろしい感覚だけは覚えています。そして再び私が光を目にしたとき、私はこの場所に立って、そしてこの場所から動けなくなっていました。それからどれだけの時が経ったのかは分かりません」

 女はきっと死した時から変わらないのであろう切なげな笑みを見せた。

 彼女の記憶は摩耗し、消えかけている。今彼女が鮮明に覚えているのは殺された日にその身に起こった出来事だけ。しかし彼女がこの場所に立っていたのには殺されるためではない。何か理由がある筈だった。

「あなたはこの場所を訪れる人々に、家まで送りましょうかと声を掛ける、という話は本当でしょうか」

「ええ、雨の夜、私の姿を目に映し、私の声に耳を傾けてくれる方には、いつも。その時だけは私はこの場所を少し動くことができるのです。でも、どうしてもあの隧道を越えられない。きっとあの向こうに行かねばならないのに、進めなくなってしまうのです」

 そうやって何人もの人間をあの光の向こうに見送って来たのだと傘の女は言った。そして彼女はまたこの場所に囚われ続けた。どんなに望んでもトンネルの向こう側には行けなかった。

 恒は考える。美琴は言っていた。地縛霊はその地に縛られることとなる理由があるのだと。ならばなぜさよが地縛霊となったのかを知らねばならない。それを尋ねると、さよはひとつの可能性を口にした。

「もしかしたら、私はあの日ここで誰かを待っていたのではないかと思うのです」

「誰かを……?」

 傘の女は微かに首を縦に動かした。

「誰かがここを通る度に私はその人をあのトンネルの向こうに送らねばならないと、そういう思いが生じるのです。そしてその時だけは私は少しだけこの場所を動くことができる。でも、あの向こうまでは行けない。それは私が待っている人が未だ現れないからではないかと、そう考えています」

 さよはそう自らが考え出した答えを出した。恒は考える。死してなお地上に留まり続ける幽霊は何らかの遂げられなかった想いを残していることが多い。同じ場所に留まり続ける地縛霊ならばなおさらこの場所に思い残したことがあったのだろう。

 しかしさよは誰かを恨んでいる様子はない。ならば彼女の残した思い、それが誰か親しい人間が来るのを待っていた、ということであったならば、死してなおこの場所に留まり続けるのも、他の人間と共にであればある程度この場所から動けるのも、そこで誰かを待ち、そして共にどこかへ向かうことが彼女の生前の最期の望みであった故だと考えれば説明がつきそうだと思った。

 ならばやることはひとつだ。

「その可能性は高いかもしれません。だけど今は情報が足りない。とにかく、僕はあなたが殺された事件を調べてみます。それで何かがわかるかもしれない。もしかしたら、あなたが誰を待っていたのかも」

 恒が言うとさよは一度頷き、そして口を開く。

「私からはあなたに何もできません。それでも私のために何かをしてくれるのならば、こちらこそお願いいたします」

 さよは頭を下げた。雨は彼女を通り抜けて行く。だけどさよは確かにここにいる。何十年もの間、どこにも行けずにここに立っているのだ。恒は首肯し、そして言う。

「任せてください。必ずあなたを助けます」



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