二 人と妖
夜、黄泉国。美琴は一人、居間でテレビ画面に目を向けている。その画面に映っているのは、郭。黒スーツの読心術者というテロップと共に登場し、出演者たちに得意げにその能力を披露している。次々と胸の内を当てられた芸能人たちは大げさに驚き、観客たちは感嘆の声を上げる。
とても意味のあることには思えない。郭もきっとテレビの演出家に要求されたような答えしか口に出してはいないのだろう。それで良いのだろうか。
微かな音を立てて居間の襖が開いた。日本酒の瓶と、お猪口を持った良介が入ってくる。
「あら、お酒?」
「ええ。珍しいですな、一人でテレビなんて。一杯どうです?」
「遠慮しておくわ」
「そうですか」と笑って、良介は瓶を開け、酒を猪口に注ぐ。そして一口飲んでから、テレビの内容に気が付いた。
「郭ですか。最近テレビでよく見ますね」
「ええ」
美琴は画面を見つめている。郭は自分のコーナーが終わった後も雛壇に座り、他の芸能人たちと一緒になって騒いでいる。
それが本当に楽しいのなら、それでいい。しかし多くの者たちの思念が飛び交うあの中は、心を読むことができる覚にとって居心地がいいとは思えない。
もともと覚は、人里離れた山の奥深くに住む妖怪だ。大部分の時をたった独りか同種族だけで過ごす。そしてたまに他の種族の前に現れることもあるが、皆心を読まれるのは嫌だと、彼らに関わろうとはしないため、覚たちはただ悪戯をしては逃げて行く。そんな妖怪なのだ。
「何か、気になることでもあるんですかい」
「少しね」
美琴はテレビを見つめる。四角い平面の奥で、郭は笑っている。
「お疲れ様でした」
木久里町での収録を終えた郭に二十歳ほどの年齢の女が駆け寄って来る。今日のロケで一緒になった、最近売り出し中だとかいうアイドルだった。名前は赤瀬愛子というらしい。
取り繕ったであろう笑顔に、郭も笑顔を作って「お疲れ」と返す。
今日のロケは心霊スポットの探索だった。愛子は自称霊感があるとかで、霊感アイドルとしてテレビに出演している。その彼女と読心術者として売れている郭が組まされて、山奥の廃トンネルを探索するという企画だった。二人の能力者、夢のタッグとかで話題と視聴率をとろうという魂胆らしい。
妖怪である郭にとっては、霊感なんてものはいて当たり前のものであって、別段騒ぐものでもないのだが、人間たちにとってはそうでもないらしい。本当に彼女に霊感があるかは別として、実際この愛子というアイドルも霊感があるという触れ込みのお陰で売れているようだし、実際霊の存在の有無はいつの時代にも人間の興味の的のようだ。その割に妖怪という存在にはスポットが当たらない。
ただその方が郭にとっては都合が良かった。自分が妖怪であるとばれれば自分にどんな害が及ぶか分かったものではない。
「あの、私郭さんもファンなんです!できたら今度食事なんてどうですか?」
恥ずかしそうに俯いて、愛子が言う。郭は作った笑顔を壊しそうになり、とっさで我慢する。ひどい演技だ。ファンというのは嘘であろう。愛子の心には人気のタレントに取り入ろうとしている気持ちが渦巻いている。利己的な、欲の塊のような黒い思いだ。
所詮郭も男だからと思っているらしい。愛子も郭の能力など信じてはいないのだろう。ただ金やコネを持っている芸能人の郭という存在を自分のものにしたいだけなのだ。
いつもならこんな見え見えの小芝居にわざわざ引っかかってやることはないのだが、今日の郭の心情は、少し荒れていた。昼間美琴に誘いを断られたことがまだ尾を引いている。
「いいよ」
「本当ですか!?じゃあ、携帯の番号交換してください!」
どこかやけくそのような状態で、郭は愛子の携帯に自分の携帯を近づけた。すぐに赤外線で互いの情報がやり取りされ、交換される。便利な世の中になったものだと、郭はぼんやりと考える。
「ありがとうございました!連絡待ってます!」
「うん。分かった」
最後まで初々しい女学生のような演技を続けたまま、愛子はスタッフたちの方へ歩いて行った。
現場のスタッフたちが作る明かりから離れて一人木に寄りかかり、郭は煙草に火を点ける。暗い夜の山、白い煙が空へと上がる。その中に郭は美琴の姿を浮かべる。
「スキャンダルはやめてくださいよ」
いつの間にか横にいた安岐が言った。
「大丈夫だ。本気で付き合おうなんて思ってねえよ」
「ならいいのですが。あなた、最近変です。どこか自棄になっている気がします」
「まあ心配するなって」
そう言ってもう一度深く吸い、吐き出す。そして昼間の美琴の言葉を思い出す。人と共存することと、人に媚び諂うことは違うと彼女は言っていた。その通りだ。結局自分はあの愛子とかいうアイドルのように他の人間に取り入らなければ、この世界で生きていけないのだ。人の世界で生きていくには、金がいる、人脈がいる。自由なようで不自由な世界だ。
ただ妖であることの誇りさえ捨ててしまえば、簡単に金が稼げる。そして金があれば、人も集まる。それが、人に媚びるということなのだろうか。思えばこのスーツという服装も、人間の象徴として選んだものだった。今ではそれがトレードマークとなってしまっている。
「なあ安岐、俺はこの世界に来て良かったのかな」
安岐は郭の方見ずに答える。
「知りません。それはあなたが決めることです。第三者である私には答えかねます」
「正直だねえ、そういう時はフォローとかするもんじゃないの?」
「あなたにそんなことしても無駄でしょうに」
「まあなあ、じゃあお前はどうなんだ?」
そこでやっと、安岐は郭の方を見た。
「私は何も思いません。ただ、あなたに誘われたから付いてきただけです」
「怨んじゃいないのか」
「怨みませんよ」
「……そうか」
郭はまた煙を吐いた。白い煙は夜空に雲散し、消えた。
放課後の学校の廊下は、部活に行くもの、家に帰ろうとするもの、友人たちと話しているものなど、様々な生徒たちで騒がしい。恒も一人ぼんやりと午後の日差しに照らされる廊下を歩いている。
「恒ちゃん、恒ちゃん」
後ろから声を掛けられ、恒が振り向く。小町が笑顔で廊下を歩いて来るのが見える。
「だから恒ちゃんはやめてって」
そう言うと、小町は不満そうな顔を露わにする。
「え~、良介はんには呼ばせてるくせに、私はダメなん?」
「周りに人がいなければいいけど、学校ではさ……」
「そんな恥ずかしがることあらへんのに」
そう言われても、やはり恥ずかしいものは恥ずかしい。特に小町は秀麗な容姿と銀色の髪、そしてその外見に似合わぬ京都弁のため、非常に目を引く。小さいころなら良かったのだが、現在では身長も逆転してしまっている。それでも小町にとって恒は弟のようなものなのだろう。
「まあええや。じゃあ恒君、今帰り?一緒に帰らへん?」
黄泉国に住む小町とは当然帰り道は一緒になる。だからたまに一緒に帰ることもある。いつもなら許諾するところだが、今日に限っては少し都合が悪い。
「ちょっと今日は」
「何?今日の恒君はお姉ちゃんが嫌いやの?」
憮然とした様子で小町が言う。恒は慌ててそれを否定する。
「違うよ。今日は水木の家に泊まる約束があってさ」
「あら、珍しい。楽しそうやねえ。でも変なことはしちゃダメよ」
「変なことって?」
恒が尋ねると、小町は悪戯っぽく言う。
「お酒飲んだりとか、不純異性行為とか」
「しないよ」
小町はふふ、と小さく笑った。
「冗談よ、じゃあ私は先に帰るわ」
「うん、また」
小町が手をひらひらと振り、離れて行く。それを眺めていると今度は後ろから方を叩かれた。
「おう池上、今日もうらやましいねえ」
そのわざとらしい声に振り返ると、水木と飯田がいる。
「何がさ」
「そりゃあ、葛葉先輩さあ。校内でも一、二を争う人気だぞ、分かってるのか?」
「分かってるよ、君から何度も聞かされているから」
うんざりした調子で恒が言うと、飯田が会話に入ってきた。
「君は葛葉先輩と最も親しい男子だろう。だからこういう嫉妬する輩が現れる」
飯田が指さす先には水木がいる。水木は大げさに溜息をつく。
「なんで俺は葛葉先輩と幼馴染じゃないのだろう」
「そんなこと言われても」
自分が半分妖怪で、小町にいたっては本当の妖怪だから、と言えるはずもなく、恒は適当に返事をした。
これから恒と飯田は水木の家に向かい、そのまま一泊することになっている。既に水木の両親の許可は得ている。水木の家に泊まらせてもらうのは久しぶりだ。昔三人で夜中まで下らないことを話していたことを思い出し、恒の気分は少し弾んだ。
郭が黄泉国を訪れた翌日、美琴はふらりと異界を出て人間界を歩いていた。
普段は用事もなく人間界を歩くということは滅多にない。多分、前日の郭との会話が原因だろう。
東京の町は晴れていて、まだ五月だというのに蒸し暑い。セメントに塗り固められた灰色の地面を歩きながら、美琴は改めてここが人間界であることを実感する。
何百年も昔、ここにもまだ木々が生い茂り、闇が残っていたころ、人と妖は共存していた時代がある。互いの領分に干渉せず、上手く暮らしていた。人は妖怪を恐れ、妖怪も人を恐れながらも、互いに敬意を持っていた頃の話だ。
だが、人の進化は急激だった。いつの間にか妖の存在は彼らにとって忌避すべきものとなり、やがてその中から抹消された。郭と出会ったのは、まだかろうじてこの国に闇が残っていた頃だったと思う。あの時、郭はただその能力のせいで他の妖怪たちに虐げられていた。それを考えれば、今彼が人の世界で生きようとしているのは当り前なのかもしれない。
雑踏の中、高く伸びた建物たちの間を歩いて行く。どこまでも続く無機的な世界だ。申し訳程度に植えられた緑が白々しい。
人はこの星にある全ての場所を自分たちのものだと思っている。各々が土地の権利を主張し、領土を巡って国同士が争う。そこに自分たち以外の生命がいるなどと考えもしない。
現在の日本にはほとんど闇は残されていない。夜でも町は光輝き、人々が闊歩する。人間は自分たちの世界に自分たちとは違うものが入って来ることを許容しない。異質なものは排除する。それが人間の社会だ。妖怪は妖怪で、過去の出来事から人間に対し敵意を持つものが多い。これでは共存など夢のまた夢だ。
だからこの世界で生きようと思えば、人になるしかない。それは異形である自分を捨てることに繋がる。それが悪いとは思わない。実際、そうやって人の世界で平和に暮らしているものたちもいる。恒の両親のように、人と妖が家庭を作る例もある。それでもただ金儲けのために人に飼い慣らされるのは、違う。
郭に関してはどうも悪い予感がする。予感は悪いほどよく当たるものだ。彼から少なからず穢れが見えたせいもある。人の心を読むという能力で有名になったのだから、怨みを買っていてもおかしくはないのだ。口に出す言葉と違って、心で思うことは無防備だ。他者に知られないという前提があるからこそ、思考は自由に行える。その前提が崩されれば、精神は不安定になるだろう。例え能力を信じていなくても、心の内を当てられれれば不愉快に思うものは少なくないはずだ。それで金を儲けているというのなら尚更。
問題はその気持ちさえ郭が読めてしまうということだ。彼が妖怪たちから離れたのは、自分の能力が疎まれていることが分かっていたからだ。最終的に郭を憎み、虐げるものまで現れた。覚は元来戦いを好む妖怪ではない。郭は抵抗もできず、その不条理な環境に耐えていた。それを助けたのが美琴だった。
また、同じことが起きようとしているのかもしれない。ただ、今度は相手が人間だ。妖怪と人間とでは基本的な力が違いすぎる。いくら覚といえども成人した人間の男の何倍もの身体能力はある。もし郭がその感情を抑えられなくなったら、どうなるだろう。
「帰ろう」
一人そう呟く。平日の昼間なのに町は人通りが多い。騒がしいのはあまり好きではない。美琴は黒髪を翻し、歩いて来た道を戻り始める。考え事は異界に帰ってからゆっくりしよう。
美琴が黄泉国の屋敷に着いた頃には、もう空は赤い夕焼けに染まっていた。そろそろこの異界の妖怪たちが活動し始める時間だ。
屋敷へ入ると、台所の方から明かりが漏れているのが見えた。どうやら、良介が晩の準備はしているようだ。何かを包丁で切っているような規則的な音も聞こえる。その音を背に聞きながら階段を上り、自室へ向かう。美琴の部屋は、この屋敷の最上階である三階にある。
襖を開け、夕日の漏れる室内へと向かうと、まず美琴は服を着替えた。洋服はどうも肌に合わぬ。人間界に出る時は和服は目立ちすぎるため洋服を着るのだが、これは何年経っても慣れない。密着度が高いためか体を締め付けられるような違和感がある。
美琴は白い長襦袢を着ると、部屋の奥の押し入れから臙脂色の着物を取り出し、それを羽織って赤い帯を蝶結びにした。これで落ち着いた。美琴は着物の皺を伸ばして、明かりの無い暗い階段を降り始める。
二階から一階へと階段を降りようとした時、逆に階段を上ってこようとする朱音が見えた。白い着物を着た彼女は美琴を見つけると、「あら」と声を出した。
「丁度いいところに。今呼びに行こうかと思っていたんです。ご飯ができたそうですよ、美琴様」
「そう、今日は何かしら」
階段を降り、朱音と並んで廊下を歩く。
「焼き魚に、ほうれん草の御浸し、あとお味噌汁と冷奴だったと思いますよ」
「久しぶりね、そんなあっさりした夕食は」
「今日は恒君がいませんから。たまに三人の夕ご飯だし、いいじゃないですか」
最近の夕食は油の多いこってりとしたものが多かった。恐らく良介の恒に対する配慮だろう。成長期の生物は例外なく良く食べる。
「恒は今頃友人のところにいるのかしら」
昨晩、恒は友人の家へ泊まりに行くことを美琴らに話していた。
「そうそう。いいですね、友達のお家に泊まるなんて」
「ええ」
恒の友人の話は以前より小町から聞いていた。半分妖怪の血が流れている故か、恒は人間社会に馴染めない部分があったようだ。早くに彼を導くはずの両親を亡くしてしまったのだからそれも仕方がないのだろう。それでも彼は悩みを理解してくれるような良い友人に恵まれたようだ。そして美琴はふと昼間に考えていたことを思い起こす。
打算なく、人とも妖怪とも垣根のない関係を築ける。それが半妖怪である恒の特性なのかもしれない。
彼の両親は父が妖怪、母が人間である。人間と妖怪との婚姻。それはひとつの互いの関係の理想的な形だ。
古来より語られる異類婚姻譚は、最後は悲劇で終わることが多い。彼の両親にしてもそうだったし、美琴自身その結末を何度も見てきた。種族が違えば、当然文化も、寿命も違うのだからそれは当然なのかもしれぬ。だが、彼らは子という形でその証を残してくれた。そしてその恒は妖怪である自分たちとも、学校の友人たちとも分け隔てない良好な関係を築いている。人と妖との共存、その鍵はこんな身近なところにも見つけることができるのかもしれない。
「案外、あの子が……ね」
「なんですか?」
不思議そうな表情で美琴に尋ねる。美琴は微かに笑い、答える。
「何でもないわ。行きましょう」




