二 橘あゆみ
テレビの画面を通し、自立して動くロボットの姿が映される。歩く動作はまるで大人の人間と変わらないが、顔は無表情のままで、全身を白で統一させた人工の皮膚が、それがロボットであることを如実に示しているようにも思える。
「付喪神の類とは違うんですよね、あれ」
朱音が画面を眺めながらそう美琴に問うた。美琴は小さく首を縦に動かし、言う。
「そもそも妖力で動く器物の妖と、人間が作り出したエネルギーで動くロボットでは原理が違うわ。いつかは付喪神のように霊体を持ったロボットが現れないとは言い切れないけれど」
近頃、ロッサム・ユニバーサル・ロボット社、通称R.U.R社が良くメディアに露出している。確か十年程前、設立者でありロボットの開発者でもあったロッサム博士が謎の失踪を遂げてから一時は低迷していたようだが、現在は彼の甥が企業のトップとなって立て直しているらしい。
「そういえば、ロッサム博士が日本に亡命した、なんて噂もあったのよね」
美琴がそう呟いた時、居間の衾が開いて良介が姿を現した。寒かったのか、両手で両腕を擦りながら彼も卓袱台に落ち着く。
「お帰り良介」
「ただいま帰りました」
良介はふうと一息吐き、そして未だR.U.R社の特集が続いているテレビの方に顔を向けた。それを見つめながら、温かい部屋の中で良介はぼんやりと呟く。
「ロッサムって、聞いたことがあるような」
「そりゃあ最近よくテレビに出てますもの。良介さんだって聞いたことぐらいはあるでしょう」
朱音がテレビを眺めながら言った。しかし良介は首を傾げる。
「いや、そういうんじゃなくて……、ああ思い出した、今日会った女の子の姓がロッサムだったんだ」
「何ですか女の子って。ナンパでもしてたんですか?」
朱音が横目で良介を見ながら言う。良介は掌を振ってそれを否定した。
「違う違う、逆だよ。しつこくナンパされてたのを助けただけだって。しかし確かその子の父親も、ロボット工学の博士だったと聞いたが」
「R.U.R社の設立者は確かにロッサム博士だけれど、彼には確か子供はいなかったはずよ。その娘さんはいくつぐらい?」
美琴は良介の方を向いて尋ねた。
「もう二十前後でしたね」
「そう、ならロッサム博士の娘さん、という可能性は低いかしら。実の娘ではないという可能性もあるけれど」
美琴は考える。ロッサム博士が自ら設立した会社を残し、失踪したのは十年程前。配偶者はいたらしいが、本人は子供はいないと公表していたようだ。もし彼が本当に日本で隠遁生活を行っていたのなら、現在二十歳前後の娘がいるとは考えにくい。養子だったり、子供の存在を隠していたという可能性も考えられるが、その理由も思い浮かばない。ただロボット工学者のロッサム博士、という情報の符合は気になった。
「そのロッサム博士という方は、どうしていなくなってしまったのでしょう?」
朱音が良介の前に淹れたての熱いお茶を置きながら、そう疑問を口にした。柔らかな茶の匂いとともに、白い湯気が居間に揺蕩う。
「彼は何も言わずに表舞台から姿を消したから、予想でしか言えないけれど、恐らく彼に向けられた非難に嫌気が差したのだと思うわ。彼の技術は、科学技術が進歩した今考えてもあまりにも先進的だった。彼が目指したのは、人間と変わらぬ姿で、さらに人間より効率的に働くことができるロボットを造り上げること。完全な人間の労働力の代役を創造しようとしたのね」
それはまるで古いSF小説やSF映画のような話。だがそれが実現できると予感させる力を彼は持っていたし、実際に多くの労働用の機械を開発していた。そして彼の夢は、一部の宗教家たちや企業、また労働者たちから大きなバッシングを受けた。人に神の真似はできない、人間の労働の権利を奪うなと。
「ロッサム博士自身はただ人間を労働と言う枷から解き放ちたいと、そう考えていたようね。痛みも恐怖も疲労も感じず、働くことそのものに不快感を感じることもない機械が労働をこなし、人間はただ自分や家族のために時間を使う。それが彼の言う理想の未来。でもそれを全ての人間が手放しで受け入れられる訳はないでしょう? それに同業種の企業たちもまた、優秀な彼の存在を疎んでいたわ。それによって彼は様々な批判を受けた上、彼の妻まで批判の対象となり、最後には自ら命を絶った。それを引金として彼は突然公の場に姿を見せなくなった。現在は彼の甥が会社を継ぎ、そういった過去からか今は家庭用のロボット等に力を入れているみたいだけれどね」
彼が姿を消したとき、日本でもメディアは連日騒ぎ立てていたが、また別の大きな事件が起きればそちらに力を入れ、やがて彼のことは忘れられた。多くの人間はもう彼のことなど記憶の片隅に追いやられているのかもしれない。だがその方が、ロッサム博士もまた静かに暮らせることだろう。
「ロッサムのロボットたちは生まれる前から、人間たちに異形のものとして見なされてしまったのですね」
良介は朱音が常よりも低い声で呟いた。それは怒りというよりも、虚しさを感じさせる声だった。美琴は小さく首肯する。
「そうかもしれないわね。それだけ、今の人の世界に人ならざるものが生きることは難しいのよ」
もしロボットが自我を持ち、人と対等な存在となろうとしてしまったら、人間社会においてはその個体は排斥の対象となるだろう。いや古いSF文学のように、ロボットたちが人間に反乱を起こす未来だって考えられる。
もし自我を持ったロボットと人間とが共存できるとすれば、それはずっと未来、想像もつかない程の日々を重ねた後になるだろう。かつて人と妖が同じ世界に生きていた時代があったように、人間界も異界も在り様は時の移ろいとともに変化するものだ。
「そのマリアという女性はロボット工学には関わってはいないの?」
美琴が尋ねると、良介は首を横に振った。
「彼女自身はそういったことには関わってはいないようです。ただ、ロッサム博士の同僚であったという橘あゆみという女性が博士の仕事を引き継いでいるとのことでしたが」
「橘あゆみ……」
美琴は考え込むように口を結んだ。その名前には、憶えがある。
やがてテレビ画面からはロボットの姿は消え、番組はまた違う話題を映し始める。今度は新しい携帯電話についての話のようだ。美琴はそれを眺めながら、かつて流行ったあるチェーンメールが再び流行り始めたことを思い出していた。
「橘あゆみ……? なんだよそれ」
夕暮れ時の住宅街、点いたばかりの電燈の下で、男は手に持ったスマートフォンを眺めながらそう呟いた。メールの送り主は彼の友人のようであったが、その内容はかつて流行したチェーンメールを思わせるもので、友人も送られて来た文章をほぼそのまま転送した様子だった。
長々と画面に綴られた文には、誘拐され拷問の末に殺された橘あゆみという名の女性の恋人が、彼女を殺した犯人たちを惨殺するために捜しているという旨が記されてある。更にこのメールを十人以上の人間に回さねば殺すとも。
下らない。男はそう思いながらメールを削除した。友人もどうせいたずらのつもりで送って来たのだろうが、それにしたって笑えない。話題が古過ぎる。
男はポケットにスマートフォンを入れ、顔を上げた。前方から白いコートを着た若い女が歩いて来るのが見える。男はさして気にもせず、彼女とすれ違おうとする。だが彼の予想に反し、女は立ち止まって彼に向かって小さな声を発した。
「あなた、メールを回さなかったわね?」
男は怪訝そうに女の方を向く。だがその瞬間彼の目が捉えたのは、自らの顔に向かって振り下ろされる包丁の刃だった。
冷たい水が橘あゆみの手に当たる。彼女の白い肌にこびり付いた赤黒い液体は、その清らかな水流によって綺麗に洗い流されて行く。無表情のまま手を払い、白い布で手に付着した水気を取っていると、背後でドアの開く音が聞こえた。
「あ、ごめんなさいあゆみさん。洗面所にいると思わなくて」
「いいのよマリア。ただ手を洗っていただけ」
あゆみはそうにこやかに笑って答える。いつもと変わらぬマリアの様子を見る二、どうやら何を洗い流していたかは見られてはいないようだった。その事実にひとまず安堵する。
「あゆみさん、こんな夜にどこに行ってたの? 私、生活用品は揃えてるつもりだったのだけど、何か不足しているものがあった……?」
マリアは不安げな顔をして首を傾げた。この家では基本的な火事炊事はマリアに任されている。あゆみは研究が忙しいだろうというマリアの配慮によるものだった。それを思い出しながら、あゆみは首を横に振って答える。
「いいえ、そうじゃないの。仕事に行き詰ると外の空気が吸いたくなっちゃって。ちょっと散歩していただけ」
「そうなの? でも夜は危ないよ。怖い人だっているんだから。最近のニュースだと、この辺で殺人事件が起きてるって言ってるし」
「そうね。心配させてごめんなさい。気を付けるわ」
その殺人事件の被害者は、明日にでも増えていることだろう。あゆみはそう頭の中で言葉を発した。彼女が殺した男の死体は、まだあの場所に転がっている。今頃発見されて大騒ぎにでもなっているかもしれない。だが死んだ人間にもう興味はない。
マリアは自分の正体を知らない。だがそれを隠し続けるのももう難しいようだった。自分自身、もう戻れないところまで来てしまった。ならば、いっそのこと。
あゆみはマリアに優しげな声で尋ねる。
「マリアはもう寝るの?」
「うん。あゆみさんは?」
「私はもう少し仕事をするわ」
マリアは言葉の通り、その一時間後には彼女は自室で寝息を立てていた。あゆみはその可憐な顔に掛かった髪をその手でそっと持ち上げながら、口を開く。
「あなたのこれからを見ていられないのは本当に残念だけれど、これはもうどうしようもないの」
あゆみはマリアのベッドの側に座り込んだ。この子とともにいられるのは、あと少し。もうこれしか道はない。
良介の携帯電話にそのメールが届いたのは、夜中も午前二時を過ぎた頃のことだった。送り主の分からぬそのメールを開き、良介は顔を顰めた。
その中に書かれていたのはマリアを誘拐したという旨の文章だった。ご丁寧にマリアがどこに監禁されているかという情報と、目隠しと手錠をされた彼女の写真までも添付されている。
良介は折り畳み式の携帯を閉じた。悪戯にしては手が込み過ぎている。もしかしたらあの時の若者たちの仕業かもしれない。マリアと出会ってからはもう一週間程過ぎていたが、執念深い人間ならやりかねない。
見過ごす訳には行かなかった。良介は立ち上がり、上着を羽織る。そしてそのまま早足で屋敷を出ようとしたとき、不意に後ろから声を掛けられた。
「こんな時間に外出かしら、良介」
「美琴様、ちょいと用事ができましてね」
良介は己の主を振り返った。彼女もまた外へ出る予定であったのか、その腰には黒い鞘に収まった刀を佩いている。体に纏うのは浅葱色の和服。良介の目から見れば冬の夜を歩くには酷く無防備に見えるが、彼女の肉体であればこの程度の寒さなどなんでもないのだろう。
「美琴様も、何か用事が?」
「ええ、今起きている連続殺人事件、その犯人が何者かひとつ仮説が立ってね。それを確かめるつもり。もしかしたらあなたの追う事件とも繋がるかもしれないわ」
良介は頷いた。美琴は何の根拠もなくそういったことは話さない。彼女は何かを掴んでいるのだろう。
「ならばそちらは、頼みます」
「ええ。あなたも気を付けて」
二人の妖は、言葉少なに月夜の下にその身を晒す。
マリアが捕らわれているという廃ビル。その場所に辿り付いた良介の行く手を遮ったのは、ビルの入り口を遮るようにして立つ白い皮膚に体を覆われた四人の人型の物体だった。それらは衣服を纏ってはおらず、また腕や足、それに頭といった基本的な人の体の部位は設計されているものの、毛髪はなく鼻や耳も酷く単純な構造をしている。また口は閉じられたまま開く様子もなく、真っ白な指に掴まれた拳銃だけが良介に向けられていた。そしてその姿からは、生き物の気配を感じない。
「ロボットか」
良介はそう呟いた。この頃はロボットの話題に良く触れたが、まさか本物が目の前に現れるとは思ってもいなかった。そもそも自立して動く程の性能を持ったロボットが量産されるほどこの国の技術は進んでいたのだろうか。
とにかくもこのロボットたちの向こうにマリアは捕えられているのだろう。罠という可能性もあるが、それは確かめてみないと分からない。もしもマリアが妖であったなら、妖気の有無で彼女がいるかどうかもわかるのだが。
良介が一歩前に進むと、ロボットたちは何の躊躇もなく引金を指で引いた。鉛の弾丸が火花を散らして発射される。だが良介は右手を前に突き出し、その弾丸に向かって高熱を発して空中で蒸発させた。
「邪魔をするな」
良介の掌から発せられた熱はそのまま発火して青い炎と化し、四つの無機物の人間たちは瞬く間に炎の嵐に飲み込まれる。焦げ、溶け出し原型を失くしたロボットたちの残骸が次々と倒れて行く。良介はその横を無言のまま通り過ぎた。
「マリア」
廃ビルの中に入り、そう名前を呼ぶ。声が暗い空間に反響し、埃が舞った。
当然だが、何年も人の手が入っていない冬のビルの内部は冷え切っていた。良介は辺りの熱に意識を集中する。マリアがいるならば、熱を発しているはずだ。この寒さの中であればそれはすぐに感知できる。
程なくしてそれは見つかった。音も凍り付いてしまったようなこの建造物の中で、一か所だけ熱を発している場所がある。良介はそちらに向かった歩みを進める。
「マリア、そこか」
「良介、さん?」
マリアは目隠しをされた顔を良介の方に向けた。良介はその顔に巻付けられた黒い布を解きながら尋ねる。
「怪我はないか?」
「はい、大丈夫です……」
見た目にも怪我をしているところはなさそうだった。良介は彼女の腕を縛る布を彼女に害が及ばぬように小さな火で焦がして千切り、その腕を持って立たせた。
「一体誰がこんなことを」
良介が尋ねると、マリアは酷く焦燥した表情を彼に見せた。その目は潤み、大きな瞳から今にも涙が零れそうになっている。
「あゆみさんが……、私の父の同僚だった人が、私をこの場所に……」
「その名前は……、確か君が一緒に暮らしているという女性の名前だろう?」
良介の言葉に、マリアは力なく頷いた。なぜ共同生活を営んでいた女がマリアに対してこんな仕打ちをしたのか、それは分からなかったが、この廃ビルをロボットが守っていたのには得心がいった。恐らくその橘あゆみという女がロッサム博士の技術を利用し、造り出したロボットがあれらなのだ。
「とにかくここを出よう。その橘あゆみはどこにいるんだい?」
「分かりません……。でも、どうしてこんなことをしたのか聞かないと」
「君一人では危ないな。同じ家で暮らしていたのなら、もしかしたらそのあゆみという人間が家にいる可能性もある。とにかく今日は家に近づかない方が良い」
「駄目です……!このままあゆみさんを放っては置けません。彼女に何があったのか、確かめないと」
マリアは強い意志のこもった瞳で良介を見た。自分の身よりもその橘あゆみという人物が心配でならないらしい。良介は片手で髪を掻き上げ、しばしどうすべきか考えてから口を開いた。
「分かった。とりあえず俺も付いて行くから一度君の家に帰ってみよう」




