一 冬の日の出会い
夜の帳も降りた暗い住宅街。白い雪がちらつくその路地を、男は必死の形相で走っていた。
だが薄く積もった雪は容赦なく靴底から摩擦を奪い、冷たい大地に男の体を叩き付ける。激しい痛みを感じるとともに男の顔から眼鏡が飛び、雪の上を滑って止まった。
男は慌てて雪まみれとなった眼鏡を拾い上げ、立ち上がろうとするが、すぐ傍に立つ女の気配に気付き、恐る恐る首を後ろに曲げた。
「どうして逃げるの? あの時は私をあんなに可愛がってくれたのに」
ちかちかと点滅する街燈の光を背に、女はそう不気味な笑みを見せた。彼女の纏った白いコートがその姿を闇に浮かび上がらせ、その右手に握った包丁の刃が鈍く光る。
「橘、あゆみ……」
男は、その女の顔も名前も確かに知っていた。かつて自分が面白半分に傷付け、そして命を奪った女。女はもうこの世にいないはずなのに、彼女は間違いなく彼の知っている橘あゆみという女だった。
「うふふ、覚えていてくれてありがとう。じゃあ、あの時のお礼をしなくちゃね」
あゆみの亡霊は包丁を逆手に握り直し、月に向かって振り上げる。男は慌てて逃げようとするが、その足は女のものとは思えない力であゆみによって掴まれ、立ち上がることもできない。
橘あゆみは一瞬の躊躇もなくその包丁を男の腹部に向かって突き立てた。水気を含んだ音が、男の悲鳴に掻き消される。
「あなたたちが私にしてくれたことをしてあげるの。それが、私とあの人の願いだから」
女の口は語り掛けるように言葉を発しながら、その右手は休むことなく何度も何度も男の腹部に向かって包丁を突き刺す。白い雪を血飛沫が赤く溶かして行く。
やがて男の声はか細くなり、その喉から空気が漏れることもなくなった。辺りにはただ、鉄の刃が肉を抉る音だけが響き続けた。
第四八話「時計仕掛けの恋心」
東京の町には珍しく、雪が白く辺りを覆っていた。普段は慣れないこの季節に交通機関は混乱し、子供たちは臨時休校にはしゃぎ回る。
ここぞとばかりに雪を掛け合って遊ぶ子供たちを横目に、良介はマフラーを口元まで巻いて寒さに震えていた。今はまだ雪が降って来ないから良いものの、それでも雨が凍り付く寒さは体に堪える。こんな街中で火を焚く訳にも行かないし、さっさと屋敷へ帰るしかない。
「誰もが自分用のロボットを。そんな未来が近いうちに来るのかもしれないのですね」
家電量販店の目の前を通ると、サンプルとして展示されている液晶テレビの画面からそんな声が聞こえて来た。良介はふと足を止め、そちらに目を向ける。
「ええ、家事炊事を初めとして、介護や子供の遊び相手も完璧にこなすことができる人型ロボットが一家に一台存在するようになるでしょう。人の姿をしているから、子供やお年寄りも安心しやすい」
何かのニュース番組のようだった。スタジオにて黒いスーツを着た女性キャスターが灰色のスーツを身にまとった白髪の老人にマイクを向けている。
「なるほど、人の姿を模すことにはそんな意味もあるのですね」
「ええ、それに人の形で自立して自由に動くことができるということは、様々な作業を可能にするということも意味します。人間と生活を共にし、そのサポートをするという面においてはそれが重要なのです。一つ一つの仕事ではその作業専門のロボットには及ばなくとも、家庭用ロボットは人間が手と足を使うように様々な場面に対応できる力こそが求められます。ロッサム・ユニバーサル・ロボット社はそれを実現しようとしているのですね」
コメンテーターと思しき老人は流暢にそう話す。機械が人間と暮らすようになる未来。そんな日もいつかは来るのだろう。良介は鼻水を啜りながらそう考えた。
「ああ、寒い寒い」
これ以上立ち止まっているのも辛いと良介は再び雪に自分の足跡を造り始める。
無機物が異形のものとしての力を持ち、自分の意志で動くことができるようになる例は何度も見て来た。だがそれはロボットとは原理が全く違う。彼らは霊体を持つことで初めて自ら動くことができるひとつの存在となる。
人間は、自分たちの力だけでまるで生きているかのように動く物体を造り上げてしまうのだろうか。そこに霊体はないかもしれないが、だからこそ驚くべきことなのかもしれない。
霊体を持たぬからこそ、ロボットたちは人のために何の迷いもなく働ける。人間たちもまた安心して傍に存在させることができる。そういう側面もあるのかもしれない。人の形をしているだけで、それは自動車や冷蔵庫と同じ、ということなのだろう。
そんなことをつらつらと考えていた時だった。良介はすぐ前方でたむろしている若い男たちの姿をその目に捉えた。その上その三人の男たちに囲まれるようにして立っている。
美しい金色の髪に、白い肌と薄い緑色の瞳を持った綺麗な娘だった。その容姿からして日本人ではないのだろう。自分よりも背が高い男たちを見上げ、潤んだ瞳を揺らしている。どう見ても友人と話している、という雰囲気ではない。良介は白い息を一つ吐くと、そちらに向かって近付いて行った。
「良いだろ? カラオケでも行こうぜ?」
そう娘の肩に置こうとした若い男の腕を、良介の大きな手が掴んだ。男は訝しげに良介を振り返る。
「なんだよおっさん」
「やめないか。その子が困っているじゃないか」
良介は男の手を離し、そう告げた。だが若い男たちは眉間にしわを寄せ、良介に向かって顔を突き出しながら口々に悪態を吐いて来る。まるでひと昔前の不良のようだと、良介はそんな感想を抱いた。
「こいつの親父かなんかかよ、おっさん」
「そうではないが、困っている娘さんを放っては置けないからな。君たちも大の男が三人も寄ってたかってみっともない。一対一で口説くぐらいの度胸は身に付けてからにしなさい」
「なんだよ偉そうに」
「もう良いじゃん、やっちまおうぜ」
三人のうちの一人が拳を振り上げる。娘の短い悲鳴が聞こえる。良介は黙ったまま自分に迫る拳を見ていた。
青年の拳が良介の左の頬を打った。大して鍛えてもいない人間の力など痛くもない。この寒さの方が余程に堪える。
「満足したか?」
良介は顎をさすりながら尋ねた。顔を殴ったにも関わらずほとんど顔色さえ変えない良介の姿に、青年たちは少々怯んだようだった。
「なら帰りなさい。これ以上何もしないというのなら、俺も何もしない。こんなおじさんを殴って人生を棒に振るようなことはやめなさい」
良介は諭すように言った。青年たちは持ち上げていた拳をおずおずと下げた。それで良い。殴り合いでの解決は得意だが、何もかも互いを傷つけ合って決着をつければ良いというものではない。
青年たちは舌打ちをしながら良介の前から去って行った。後には、良介とあの白人の娘とが残った。
「あの……、ありがとうございました」
薄い緑色の瞳を良介に向けて、その娘は小さく頭を下げた。どうやら日本語は堪能なようだ。良介はなるべく相手を怖がらせないように気を付けて笑顔を作る。
「礼を言われるほどのことでもないさ。お嬢さん、一人で外を歩くときは気を付けるんだよ」
良介がそう告げてその場から立ち去ろうとすると、慌てたように小走りでその娘が近付いて来た。よくよく見ると、まだ二十になるかならないかぐらいの年齢に見える。見るものによっては、まだ少女だと判断するかもしれない。
「いえ、そう言わず、お礼ぐらいはさせてください。それに……」
娘は少しだけ声の音量を落として、不安げに良介を見つめながら言う。
「もしかしたらまだあの方たちがこの近くにいると思うと、怖いのです」
娘はそう、視線を落として言った。
娘の名はマリアと言った。元々日本人ではないようだが、もうこちらに来てからは長いらしい。ほとんど鈍りのない日本語で良介に話しかけている。
「私の父は元々はチェコの人間で、かつてはドイツで科学者として働いていたそうです。だけど理由があって私がまだ幼いころに日本に越して来たと聞いています」
良介はコーヒーを口にしながらその話に耳を傾けていた。そこは何度か美琴らに連れて来られたことのある駅前の喫茶店。酒を除いて西洋の飲み物はあまり好みではないが、ここの静かな雰囲気は気に入っていた。外に立っているのは寒いからと良介が提案し、マリアとともに訪れたのがこの場所だった。
「なら、君はこの近くにお父さんと住んでいるのか」
そう問うと、マリアは静かに首を横に振った。
「いえ、父は四年前に他界しました。事故でした……」
「それは、すまなかった」
「そんな、良介さんは知らなかったのですから気にしないで下さい。私の方こそ気を使わせてしまって申し訳ありません」
マリアが慌てたように頭を下げた。金色の髪がさらりと揺れる。
「それにもう気にしてはおりません。父の死は乗り越えることができました。それに母は私が物心ついた頃にはもう他界しておりましたし」
「なら君は今、一人で暮らしているのかい?」
良介は問うた。今時若い娘の一人暮らしは珍しくないことは知っている。だがこの娘の場合、それにしてはどうも頼りなげな印象を抱かせた。
「いえ、今は父の同僚であった方と暮らしているのです。私と十も違わないぐらいの年齢の女性なのですが、とても良くしてくれて、まるで私にとってはお母さんのような人なのです」
そう語るマリアの顔は幸せそうだった。母を知らぬ彼女にとっては、その人間が初めての女性の家族だったのかもしれない。
「そうか、それなら良かった」
良介はまた一口珈琲を飲んだ。少し冷めた液体が喉を落ちて行く。やがて空になったカップが机の上に置かれた。
「家まで送ろうか?」
「いえ、大丈夫です。もうあの方たちもいらっしゃらないでしょうし。今日は本当にありがとうございました」
マリアはまた頭を下げる。そしてその薄緑色の目で良介を見た。
「またお会いできるでしょうか」
「ああ、機会があれば」
良介はそう小さく笑った。それに、マリアもまた安心したように笑い返した。
「ではいつか機会を作ります」
橘あゆみは、冷たいステンレスの台を指で擦った。綺麗に磨かれた鏡面のようなそれを通し、冷たさが指先に伝わる。
あゆみはその指先を見つめ、何度か指を屈伸させる。それが彼女の意志通りに動くことにを確認するように。その顔に感情の色は現れず、ただ茶色がかった黒の瞳が己の手を見つめている。そしてその手の向こうには、人の手を象った白い部品がいくつも並べられていた。
それだけではない。彼女の立つ部屋には人間の体の一部を模した物体がいくつも置かれていた。頭を象ったもの、脚を象ったもの、胴を象ったもの、それに目玉や爪、髪までが、壁も床も白く塗られた部屋の中、作業台の上に飾り付けられていた。
それらは乳白色の皮膚で覆われており、一見するとそれは死体の一部のようにも見える。だがそのどれも人間のものではなく、造られたものたちだ。あゆみはそれを無感情に眺めながら、遠くで家のドアが開く音を聞いた。
「あゆみさん、ここにいたんだ」
振り返らずともそれがマリアの声だというのはすぐに分かった。もう四年も親しんだ声だ。あゆみは初めて感情を顔に出して、首を後ろに向けた。
「あらマリア、お帰りなさい」
あゆみは笑みを浮かべてマリアを迎える。この無機質な部屋に彼女は相応しくない。あゆみは片手に持っていた古い皮手帳を置き、マリアの手を引いてその部屋を出た。
「また仕事をしていたんですか?」
「ええ、少しロッサム博士の残した宿題を進めていたの」
あの研究室の扉を開け、短い廊下を抜けると、太陽の光が注ぎ込む大きな居間に出る。薬品を扱う関係上一定に保たれた温度に晒された金属製の床に比べると、木の板張りの床はとても温かなものに感じられた。暖炉の炎の明るさその感情を助長させるのかもしれない。
窓の向こうでは薄く積もった雪の上で柊の白い花が儚げに揺れている。町から離れた森の中に建った大きな洋館、それがあゆみとマリアの家だった。
「宿題と言うのは、人間を造るというもの?」
暖炉の側のソファに腰を下ろし、マリアがそう問うた。あゆみもまた窓から目を離し、テーブルを挟んでマリアとは反対側のソファに座る。
「そうよ。あなたのお父さんは完全な人間を造ろうとしていた。それにはまだ及ばないけれど、でも見た目だけならば人間と変わらないものは作れるようになったけれど、それでもまだ頭脳の部分では遠く及ばない。感情を持ち、自分で考え、自分の意志を持って行動できるロボットというものができないの」
ロボット、人造人間、アンドロイド、レプリカント、ヒューマノイド……、人によって造られ、人の姿をした存在は、そういった様々な名前で呼ばれる。様々なフィクション作品の中で語られる彼らだが、現実に存在する人型のロボットは現段階だとただの機械に過ぎない。小説や映画のように自我を持ち、自分で考えて動くということをしない。
ただしそれは、極少数を除いてのこと。まるで人間のように自我を持ち、自分の意志で動く人造人間。それを造り上げたのが、マリアの父ロッサム博士だった。
資料は断片的に残っている。だが、彼が作り上げた人工知能についての情報はほとんど失われてしまっていた。彼はある理由からアンドロイドそのものを造ることを辞めてしまったというから、その時にデータも処分してしまったのだろう。
「でも、父の造ったアンドロイドはどこへ行ってしまったのでしょうね。もしどこかでまだ生きているのなら……」
マリアはそう言いつつ微笑み、可愛らしく首を傾げる。
「私の兄弟と言える存在かもしれないから」
あゆみは言葉を発さず、頷いた。同じ親を持つ存在、それは兄弟、また姉妹と言えるのかもしれない。
「それで、今日はどうだった? 何か面白いことはあった?」
纏っていた白衣を折り畳み、体の横に置きながらあゆみは尋ねた。出会ったときは遠慮の為か、それとも唯一の肉親を失ったショックのためか、洋館の外どころか自分の部屋からほとんど出ることもなかった彼女だが、近頃は良く外出するようになった。それも、自分に心を許してくれるようになった証拠なのだろうとあゆみは考えていた。
「そう、聞いて。私買い物の帰りに何か怖い男の人たちに声を掛けられたのだけれど、ある男の人に助けてもらったの」
「いつも外に行くときは気を付けるように言ってるじゃない。それにしても、その助けてくれた人は格好よかったの?」
あゆみはからかうような笑みを浮かべてマリアに問う。マリアは恥じらうように頬を赤らめ、口元に指を当てた。
「良く分からなけど、今までにない不思議な感覚があったの。嬉しくなってしまうような、不安になるような……」
「そう。それは良かった。あなたも成長したのね」
そう言いながら、あゆみは自分の右腕がマリアの首へと伸びようとしていることに気が付いて左手で抑え込んだ。幸いにも、幸せそうに笑うマリアはあゆみの異変に気が付いていない。じっと堪えているとやがてその衝動も収まり、あゆみは右の掌の動きを確かめるように指を握り、また開いた。
「またあの人に会えるかな、あゆみさん」
「あなたが望のなら、きっと」
そう言って、またあゆみはその顔に微笑みの形を張り付けた。




