二 彼岸へ吹く風
美琴と朱音がその家を訪れたとき、既にその家には既に生きた人の気配はなかった。無人の家にはただ微かな霊気と妖気だけが漂っている。そして、それに混じって人の肉が腐り落ちた匂いも。
「これは……酷いですね」
美琴の横に立った朱音が言った。彼女が髪を伸ばし、ドアノブに手を掛けて扉を開く。
中には人の死の気配がまだ残っていた。同時に美琴は微かに残留した妖気と霊気を感じる。霊気は知らぬものだが、この妖気はあの二口女の家に残っていたものと同じ気配だ。
「朱音、この妖気分かる?」
「覚えております。相変わらず邪悪な気ですね」
美琴は頷いた。この妖気は古馴染の纏っていたものだ。しかしあまり良い感情を抱く相手のものではない。
「あの男が、この東の都に現れたということかしらね」
美琴は唇を噛んだ。あの男が絡んでいるならば、また厄介なことになるやもしれぬ。だから一刻も早く見つけねばならない。
「子供の霊を利用するなんて、あの男らしいです」
「ええ、本当に」
美琴の瞳が紫色に変わる。その目が、辺りに漂う妖気と穢れに塗れた霊気を映す。
彼岸花が一面に咲いている。命あるものを此岸の向こうまで運ぶように、赤い花を揺らす風が吹く。紫の死神は、夕焼けを背にその花々を見つめていた。
秋の彼岸と時を同じくするかのように開花する故、この花は彼岸花と呼ばれる。そしてこの時期は、彼岸の世界に渡った死者を供養すると共に、まだ成仏できずに彼岸の世界へ渡ることができぬ死者たちが早く彼岸へ辿り着けるように祈る日とも考えられていた。それは死とこの花とを結び付け、彼岸花の異称である死人花、幽霊花、地獄花といった名前が生まれる要因ともなった。
死の気配に溢れたその赤の風の中で、死神はゆるりと口を開く。
「葉見ず花見ず、親である葉は子を知らず、子である花は親を知らない。故にこの花は捨子花とも呼ばれている。それが、この花を使った理由かしら? 古物商」
美琴は朱く揺らめく夕暮れの向こうに立つ初老の男にそう言葉を発した。背に大きな箱を負ったその男は、首を傾げて口元だけで微笑んだ。
「おやおや、これは懐かしいお客様。今日は何をお求めかな?」
「今は児戯に浸る気分ではないのだけれど」
美琴は腰に佩いた刀の存在を確かめるように右手をその柄に当てる。死神の視線は剃刀のように鋭く古物商を射抜く。
この男の名前は知らぬ。だが人間でないことは確かだ。何百年も前から今と同じ姿で行商を続ける古物商。その取り扱うものは、悉く人に不幸の齎す毒の如き呪物のみ。
「彼岸花は相思華とも呼ばれる。親は子を思い、子は親を思う。あたしはね、その思いを遂げる手助けをしてあげているだけなんですよ。それに私はただの行商人だ」
古物商はとんとんと軽く背に負った荷物を軽く叩き、そして見た目よりも幾分か若い声で言う。
「売ったものをどう使うかは、それを手に入れたもの次第でしょう? あたしはそこまで干渉はしやせんよ」
古物商は悪びれる様子もなくそう告げた。死の匂いを纏った風が二人の間を吹き抜ける。美琴の目が紫色に変わり、古物商の穢れに塗れたその姿を映す。
「近頃起きている不可解な変死事件の現場には、必ず彼岸花が落ちていた。あなたが渡した花はあと何本?」
「あと三本、と言ったところでしょうかねぇ。つい最近ね、女子供の怨念を背負ったとても愉快な小さな箱を出雲で見つけましてね? ちょっとそれを応用してみたんですよ。丁度彼岸の季節ですし、この花を使うとは風流でしょ?」
古物商はそう言って、懐から小さな箱を取り出し、美琴に見せた。その箱から漂う気配に美琴は酷く不快な気持ちを覚える。木材を複雑に組み合わせた細工箱のような姿をしたその呪物からは、異様な妖気が漂っていた。そしてどこからか、子供たちの泣き声のような音が聞こえて来るとともに腹の内に痺れるような感覚が生じた。
普通の人間であればあの箱の近くにいただけで呪に当てられる。美琴は油断なく構えながら考える。事件の現場には、どこも幼い子供の霊の気配があった。恐らくあの箱は望まずして殺された子供たちが関与している。そしてその呪物を利用し、この男は同じように非業の死を遂げた子供たちの霊に力を与えたのだろう。
「彼岸花も子供たちも、あなたなんぞに利用されて災難と言うべきかしら」
「死神さん、あんたはコインロッカーベイビーという怪談を知っておりますかね?」
美琴の言葉を無視し、古物商はそう問うた。美琴は彼を睨み、言う。
「コインロッカーに遺棄された赤子の霊が母親に復讐する話。無論知っているわ。それが何?」
「あれが人々の間に語られる怪談にまで至ったのは、コインロッカーにて殺された赤子たちが一人や二人ではなかったから。そして怪談は、都市伝説は、語られることによってその噂の対象である怪異の力となる。あたしはね、そんな一人の怪異と偶然に出会ったのですよ。彼にとっての地獄はこの世だ。親に捨てられ、怨みのために成仏することもできず彷徨い続ける。彼は酷く寂しそうだった。だから、私は彼にともだちをあげたのです」
「あなた……、コインロッカーの赤ん坊を利用して」
美琴の言葉に古物商は柔和な笑みを浮かべ、言う。
「彼の怨嗟は誰よりも強かった。自分が死んだあの小さな箱の前で、何年も何年も己が仇を待ち続けていた。誰に見えることもないその幽かな体のままで、彼は自分を見ることができる親だけを求めていたのです」
「だけれど、その姿を見ることができたのは彼の親だけではなかった。異形であるあなたの目にも、彼の姿は映ったのね」
コインロッカーベイビーという怪異は幽体の怪異なのだろう。幽体は霊体と違って自分から他の物体や生物に干渉することはできるが、肉体と違い霊力がないものの目にはその姿が映らず、干渉することもできない。そういった肉体と霊体の中間に位置する存在だ。
しかし、ある条件下ではその姿をただの人間が見ることができる。それは、自分に近しいものの霊がそこにいる場合。強い霊力がなくとも自分の近親者は霊気の波長が合い易いため、その姿が見えることが多い。そして自分たちが殺した子供の霊となれば猶更だ。その子供たちに対する様々な感情や意識が、その幽体の姿を視界の内に発現させる。
「そうしてあなたは彼を利用し、自ら妖力を与えた子供の霊たちを彼に憑かせたのね。彼の中に自分の子供たちの霊がいるからこそ、その子供たちの親はコインロッカーベイビーを視認することができるようになった」
「そういうことです。しかし利用したとは言葉が悪い。そもそも、あの子供たちが親を怨むのは何も悪いことではない。あたしゃそう思いますがね。それに死神である貴女が、何の罪もない子を殺した親を庇うのはいささかおかしいと思いますが?」
古物商はわざとらしく首を傾げる。曼珠沙華の花々がざわりと揺れた。
「そうね、あの子たちの犠牲になったものたちの中で、助けるに値する人間は少なかったわ。子供たちが殺意を向けるのも分かる。だけれどね」
美琴は刀を中段に構えた。二人の異形の間を彼岸の風が吹き抜ける。
「あなたがただ子供の霊を手助けするとは思えない。どうせ妖怪化させたあの子たちを、利用するつもりなのでしょう?」
「ご明察」
美琴が地を蹴った。同時に刀を振り上げ、古物商に向かって切りかかる。だがその刃が古物商に届く前に、彼の周りに咲いていた花々が数多の赤子たちの姿へと変化した。胞衣を頭から被り、腰より下を血に染めた赤子たちの小さな目が一斉に死神に向けられる。
「おばりよ、おばりよ」
赤子たちは泣き声を上げながら美琴へと向かって這い、彼女の動きを阻む。数は百に近い程。美琴は一度大地に爪先を立てて立ち止まると、その赤子の群れを見て刀を改めて構え直した。
「惨い母さま」
口々に赤子の妖たちはそう美琴に向かって言葉を投げた。これはうぶめと呼ばれる怪異の一種。産褥で死んだ母親の方ではなく、母親の身勝手により堕胎された水子の霊が肉体を持つ妖怪と化したものだ。もうこの子供たちの母親はこの世にいない。だが彼らはこれからも自分を負ぶってくれる母親を探し続けるのであろう。そんな赤子の霊たちをあの古物商は利用した。
もうこうなっては彼らを成仏させることはできない。美琴は刀を片手に握り、大地と並行に振り抜いた。生じた紫色の斬撃が夥しい水子の怪異たちを一度に消失させる。
しばしの間掠れたような赤子たちの泣き声が響いていたが、やがて、そこに立っているのは死神一人となった。もう妖気と霊気の気配もなくなった。辺りにはただ、赤い花びらだけが舞っている。古物商の姿ももう消えている。あのうぶめらを犠牲にして、自らは逃げたのだろう。
「コインロッカーの赤ん坊……、ね……」
美琴は一人呟き、彼岸の果てまで続くような澄んだ空の向こうを見た。
「コインロッカーベイビーって噂知ってる?」
「知ってる知ってる。あのコインロッカーに捨てられた赤ん坊がお母さんに復讐しに来る怖い話でしょ?」
「そうそう、その赤ちゃんが捨てられたのって、この渋谷駅のコインロッカーらしいよ」
「えー、怖いこと言わないでよ」
女子高生と思しき二人の少女がそんな話をしながら目の前を通り過ぎて行くのを、少年は恨めしそうに眺めていた。彼女たちも、その他の人間たちも、通り過ぎて行くものたちは誰も少年に目を向けることはない。人々は誰も、少年がコインロッカーの中で見つかった赤ん坊などとは思いもしない。
その少年が目を開いて始めた見たのは、暗く冷たい闇だった。最も信頼すべき母親の手で彼はあの小さな棺桶の中に体を押し込められた。泣き声を上げることもできないほどに衰弱したまま、彼はこのコインロッカーの中で幾日もの時を過ごした。
彼には名前も与えられなかった。生まれた瞬間から父には既に捨てられていて、母にはその誕生を恨まれていた。だから母は、少年をただの物としてこの場所に放棄した。望んで生まれることがなかった赤ん坊に、両親は育てるという選択肢を一度も抱かなかったのだろう。
あの日の彼は人として認められてさえいなかった。母にとっての自分は、見つかってはいけないゴミだった。だから母は生まれたばかりの少年を新聞紙に包んで、ビニール袋に入れて、そしてコインロッカーに預けたまま一度も取り戻しには来なかった。
何故だか、あの日の記憶は明瞭に残っている。母の顔の記憶はないのに、コインロッカーの中にいた記憶、そしてあの冷たい金属の感触だけはずっと覚えている。
だから彼はここで母親を待っていた。母親なら、きっと自分のことを分かってくれる。そうあのおじさんは教えてくれた。彼に友達をくれたあのおじさんは。
彼は手に持った赤い花を見つめた。最初は六輪あったが、今残っているのは三輪だった。この花には一つずつ、自分と同じように親によって命を絶たれた子供たちの心が宿っていた。
あのおじさんは言った。君ならこの子たちの友達になれる。この子たちを助けられると。友達なんて今までできたことがなかったから嬉しかった。
彼らは色々な話をしてくれた。自分がどんな風に親によって殺されたのか、それまでどんな風に育ったのか。自分と同じ境遇にいる子供たちの話が彼にはとても新鮮で、そして楽しかった。そして彼らはどうやって親に復讐しようとしているかも教えてくれた。みんなでその方法について話し合った。そしてそれを遂げるためには、共通して少年の力が必要だった。
この彼岸花にはあのおじさんが与えてくれたのだろう、大きな力が詰まっていた。だけど形のあるものを持てるのは、七人の子供たちの中で彼だけだった。他の子供たちは形のある体を持っていなかったから、どうしても少年の体が必要だった。
友人たちの親は、みんな苦しんで当然の人間たちだった。その復讐を遂げる度に友達が減っていくのは寂しかったけれど、でもきっと彼らも喜んでいるのだろうと思えば我慢が出来た。そして今日もまた、一人の友達が旅立つ日が来たようだ。
少年は近付いて来た女に向かって、彼岸花を一輪差し出した。
異形紹介
・うぶめの怪
うぶめという名前は様々な妖怪を表し、死んだ妊婦の怪で道行く人に自身の赤子を抱かせようとする女の妖怪、産女や、他人の子供を盗む鳥の妖怪、姑獲鳥の呼び名としても使われるが、ここでは主に赤子の怪としてのうぶめを紹介する。赤子の姿をしたうぶめが現れる作品として代表的なものに井原西鶴の『好色一代女』という作品があり、ここにおけるうぶめは以下のように描写されている。
観念の窓より覗けば、蓮の葉笠を着たるやうなる子供の面影、腰より下は血に染みて、九十五六程も立ならび、声のあやぎれもなく「負はりよ、負はりよ」と泣きぬ。これかや聞伝へし孕女なるべしと、気を留めて見しうちに、「むごいかかさま」と、銘々に恨み申すにぞ、「さてはむかし、血堕しをせし親なし子か」とかなし。
ここにおけるうぶめは主人公のである私娼が今までに堕胎して来た数十もの親がない水子たちの妖怪として描かれており、自分を捨てた母親に対して「おんぶして、おんぶして」、「惨いお母さん」と言葉をなげかける。民間伝承にもうぶめの類を赤子の怪とするものがあり、例えば佐渡島の「ウブ」は、嬰児の死んだ者や、堕ろした子を山野に捨てたものがなるとされ、大きな蜘蛛のような姿をしていて赤子のような泣き声を上げ、人に追いすがって命をとるという。これを回避するためには履いている草履の片方をぬいで肩越しに投げ、「お前の母はこれだ」と言わなければならないと伝わる。また京極夏彦著『姑獲鳥の夏』においては、このうぶめという怪異の姿の多様性が「男が見るウブメは<女>、女が見るウブメは<赤ん坊>、そして音だけのウブメは<鳥>」として認識されるとして、観察するものの視点によって変化すると説明されている。




