一 死人が憑く家
夏の終わりが迫る夕暮れ、その少年は土手に一人座っていた。
薄暗くなりつつある川辺の景色は、土手一面に咲いた彼岸花によっ赤く塗り潰されている。少年は自分の周りに咲き誇る赤い花たちを恨めしそうに眺めながら、揃えた両膝の上に顎を乗せた。
そして、その少年に後ろから近付くある男の影がある。
第四七話 地獄に咲く花
「間違いだった……、間違いだった……」
子供のような声がそう繰り返す。その声は、焦燥した一人の女から聞こえて来る。狭い台所にうつ伏せに倒れ込んだ女の周りには蓋の空いたペットボトルが転がり、中から黒い色をした炭酸飲料が小さな音を立てながら零れて落ちて行く。
「痛い……、痛い!」
女、晶子は後頭部を抱え、やっとのことでそう吐き出した。だがそう口を動かすことさえも、頭痛を増長させることとなる。頭蓋骨が音を立てて動き回る苦痛が彼女の痛覚を支配する。
日に何度か発作的に現れるこの苦しみから一時的に逃れる方法は知っていた。女は這うようにして冷蔵庫まで辿り着くと、その扉を開けて中から紙箱を取り出した。
元々は来客用に買ったものだったが、今そんなことを考えている余裕はなかった。女は厚紙を引き千切るようにしてその箱を開くと、中に入っていたショートケーキを手掴みにして後頭部に運んだ。
黒い髪の下で、女の頭皮がぱっくりと横に開く。それは唇のように捲り上がり、その内側に白い歯のように割れた骨が覗く。
毛髪に塗れた巨大な口のような様相を現したそれは、上下に動いてケーキを貪り始めた。表の口よりも何倍も大きな後頭部の口は更にその内部から桃色の舌のような器官を伸ばし、髪に付いた生クリームを嘗め取った。
この後頭部にできたもう一つの口が動き出すと、後頭部に異様な痛みが走った。それは食べ物を与える以外では治めることができず、また耐えず子供の声で言葉を話すため、晶子は既にこれが現実なのか、それとも自分の罪悪感が見せる幻覚なのか分からないほどに疲弊していた。
後頭部から聞こえるこの声は、彼女が忘れてくても忘れられない声だった。つい一月程前までは毎日のように聞いていた声だったのだから。
美琴がその家の玄関に足を踏み入れた際にまず感じたのは、床中に散乱した食物の成れの果てが放つ腐臭だった。黒く変色した元が何物かも分からない物体を避けるように歩きながら、美琴は目的の人物を探す。
断続的に続く何か固いものを噛み砕くようなその音は、リビングの奥にある台所から聞こえて来た。美琴は妖力によって瞳の色を紫に変化させ、音もなくそちらに向かって歩を進める。
死神がその場所に足を踏み入れた直後、彼女のすぐ足元に千切れた人間の腕が転がって来た。乱雑にへし折られた腕の骨が肉の断面から覗き、その存在を主張している。
美琴はそれを一瞥すると、薄暗闇の中で蠢く女に目をやった。両手を床に着いたその女の後頭部から赤い液体が髪を伝って床を濡らす。くちゃくちゃという咀嚼音と骨を噛み砕く音とに混ざり、女の啜り泣きが聞こえて来る。
彼女の横には、元々は人間だったのであろう肉片が転がっていた。四肢はばらばらに引き裂かれ、床を汚すむせるような血の匂いが鼻を突く。血の色もまだ鮮やかだ。殺されてから幾許も経っていない。
美琴は嗚咽を上げる女の方に視線を向けた。その頭からはいくつもの毛髪が束となって伸び、辺りに散らばる人の亡骸だったものを掴み上げて後頭部に開いた巨大な口に運んでいる。
「二口女」
美琴はその妖の名を呼んだ。女の頭が持ち上がり、泣き腫らした赤い目が美琴を見る。その姿に罪の穢れを覚え、美琴は小さく眉根を寄せた。
女の髪の動きが止まった。妖気が美琴の方に向けられるのが分かる。美琴が一歩前に踏み出すと、二口女の髪もまた動き出した。
二口女の髪の毛が急速に伸び、まるで蛇のような形に変化して美琴に襲い掛かる。だが美琴はそれを手を横に振るだけで払い除けた。
「あなた、子供を殺したわね? それも相当に酷いやり方で」
美琴は二口女の表の顔に問う。女は涙を流すだけで答えない。美琴は晶子を睨みながら刀を抜いた。
「二口女は殺された子供の怨念が生み出す妖怪。あなたの中にはその怨みが充満している」
晶子が短い悲鳴を上げた。美琴はそれを無視し、尚も彼女に向かって歩み寄る。美琴を捕えようと迫る髪の蛇たちは、死神の刀によってあっさりと切り裂かれ、その青紫の小袖に触れることもできない。
「正直、あなたを助けたいとは思わないけれど、あなたが殺したその哀れな子が人を食い殺し続ける化け物になるのは見ていられない」
美琴は晶子の前に立つと、その後頭部の口に右手を突っ込んだ。その巨大な口は容赦なく美琴の指を噛み千切ろうと歯を鳴らすが、美琴は意に介さずそれを引き剥がすかのように腕を持ち上げる。
死神の手に引き抜かれるようにして晶子の頭から子供の姿をした異形が分離し、それと同時に彼女の後頭部にできた口もまた消失した。二口女という妖怪を形成する要素であった、まだ五、六歳の少女の姿をしたその異形のものは、悲しそうな目で美琴を見つめている。
「誰に利用されたのかは分からないけれど、こんな人間の側にいつまでもいてもあなたは救われない。死んだ後にまで怨恨に囚われる必要はないのよ。だから、行きなさい」
美琴は言葉とともにその少女の中にある歪な妖力を自身の妖力で打ち消した。少女の霊は一瞬安心したような顔をして、そして消えた。美琴はそれを見届けた後、晶子の方に向き直る。
「さて、ここに散らばっているのはあの子の実の父親かしら?」
美琴は冷ややかな目で女を見つめ、そう問うた。女は力なく頷くだけだ。
「二口女を生み出す子の霊は、ろくに食事も与えられず餓死した子供が多い。この飽食の時代に二口女になるなんて、余程にあの子を憎んでいたのね」
「あの子は……、あの人の前の妻の子供だった……、それが許せなかったのよ……」
女が初めて声を出し、そして途切れ途切れに答えた。それを理由にして、罪もない子供を飢え死にという残酷な方法で殺した。あまつさえあの子の実の親である父親も、それを止めることがなかった。
怨まれても当然だと美琴は思う。殺されるのも得心が行く。だが、見た限りではあの子供にはここまで強力な二口女になるような力はなかった。人を食い殺すような怪物には。
明らかに外部からの妖力があの子の中に作用していた。
美琴は辺りを見回し、そして見つけた。リビングのテーブルの上に置かれた花瓶に一輪差された真っ赤な彼岸花。そこから微かなに流れる妖気に気が付き、美琴はそれに近付いた。
だが美琴がその彼岸花に触れた瞬間、その赤い花は急速に萎れ、首を落とすようにして花が落ちた。
美琴は顔を顰めた。やはり第三者が関与している。目的はまだ分からぬが、子供の霊を利用するようなやり方が美琴には気に入らない。
美琴は啜り泣きを続ける女を無視し、手掛かりを追うためにその家の戸を開けた。
人工的な照明に照らされた無機質な駅の通路。そこに並ぶあるコインロッカーの前に、一人の男児が佇んでいた。
俯いているためその表情は見えないが、どうにも泣いているようにも見える。だが駅を行く人々はその姿を気にも留めず、歩き去って行ってしまう。
駅前に買い物に来ていて偶然通りがかった萌咲には、それが納得いかなかった。子供が泣いていれば声を掛けるのが大人ではないのか。彼女は義憤に駆られ、その少年に近付いた。
「どうしたの? 僕」
その声に反応し、少年が顔を上げた。まだ小学校に上がるかどうかといった年頃の少年だ。萌咲はなるべく優しく微笑み、少年に尋ねる。
「お母さんはどこかな?」
「分かんない。でももうすぐ来ると思う」
「ここで待ち合わせしているの?」
「うん」
それを聞いて、萌咲は少し安心した。母親はどうやら近くにいるようだ。この子はただ心細かっただけなのだろう。
「じゃあ、一人でここで待っていられる? それともおばさんも一緒に待とうか?」
「大丈夫。ありがとう」
少年は初めて笑顔を見せた。萌咲もまた笑い返す。これなら問題はなさそうだ。
「おばさん、これあげる」
そう考えていると、少年は何やら赤い綺麗な花をいつの間にか持っていて、萌咲に差し出していた。萌咲はそれを受け取る。
それは鮮やかな彼岸花だった。萌咲が改めて礼を言おうとすると、なぜか既に少年の姿は消えていた。母親を見つけて走って行ってしまったのだろうか。萌咲は辺りを見回すが、やはり少年の姿は見当たらない。
変だなとは思ったが、こうなってしまってはどうしようもない。まさかあの一瞬の間に誘拐されたなんてことはないだろうし、そう首を傾げながら、萌咲は当初の目的地であった大型スーパーに向かって歩き出した。
異変が起きたのは、その夜からだった。寝室へ向かおうと廊下を歩いていたとき、萌咲は隅に落ちている赤い色のクレヨンを拾い上げた。使いかけの、子供用のものだった。
うちには子供がいないはずなのに変だなと思いながらも、萌咲はそれを拾い上げ、ゴミ箱に捨てた。この家は新しいながらも中古で買ったものだから、前に住んでいた家族の忘れ物かもしれない。その日はそれで納得できた。
しかし、その後も赤いクレヨンは現れ続けた。全く同じ場所に、全く同じように転がっていた。何度捨てても次の日にはまたそこにある。ただそれだけのことが不気味で、更に忘れようとしていたある過去を思い出させて気が狂いそうだった。
あのことはもう終わったのだ。だから折角忘れかけていたのに。記憶の向こうに押しやっていたのに。それなのに、どうしてこんなことが起きるのだ。あの子が好きだった赤い色のクレヨンが、幾度となく現れるのだ。
どうしても恐ろしくて、次の土曜日にこのことを夫に話すと彼も青い顔をしていた。恐らく彼も同じことを思い出している。夫婦二人で記憶の墓場に葬ろうとしていたあの過去の日を。
「おい、ここを触ってみろ」
夫は壁をさすりながらそう妻に言った。萌咲は恐る恐る、彼の言う通りに壁を触ってみる。すると、そこだけ壁が薄く盛り上がっているのが分かった。あの赤いクレヨンが落ちていた廊下のすぐ傍。やはりここに何かがある。
夫が唾を飲み込む音が聞こえた。そして、彼は爪を立ててその壁紙を剥がし始める。それは想像以上にあっさりと剥がれ落ち、やがて釘打ちされた一枚の引き戸が現れた。
「ねえ、これって……」
真新しいこの家には似合わない、古びた木製のドア。だが初めて見るはずのそれに、萌咲は覚えがあった。これは、確かここに移り住む前にいたあの家の……。
萌咲がその疑問に答えを出す前に、彼女の夫は扉をこじ開けていた。直後夫の悲鳴が響き、萌咲も部屋の中を覗き込んで息を飲み込んだ。
三畳ほどの小さな部屋、だがその元は白かったのであろう壁一面は、びっしりと血のような赤い文字で埋め尽されていた。
おとうさんおかあさんごめんなさいここからだしておとうさんがおかあさんここからだしてごめんなさいごめんなさいおとうさんはおかあさんここからだしてごめんなさいおとうさんおかあさんごめんなさいここからだしておとうさんおかあさんだしてだしてだしてだしてだして……
萌咲はその場に座り込んだ。自分はこの部屋を知っている。つい一年前、彼女はこの部屋に自分の息子を閉じ込めた。プライドの高さ故に勉強も運動も出来の悪い、突出したものが何もない息子が許せなくて、反省を促すためにこの部屋に閉じ込めた。切っ掛けは、ただ幼稚園で出された簡単な宿題ができなかった、それだけのことだった。
最初は数時間も経てば出してやるつもりだった。だけど目の前にあの子がいない。自分の体の一部だったとは思えないあの何もできない子がいない。そう思うと酷く心地が良くて、あの扉を開けるのが嫌になってしまった。
だから萌咲は、夫とともにあの部屋に鍵を掛けた。自分たちの子供はいないと記憶から締め出すように。そして忌まわしいあの家を売り、ここに越して来た。
なのになぜこの部屋がこの家にあるのだ。そしてこの文字は……。そうだ、この部屋に閉じ込めたとき、あの子は赤いクレヨンで絵を描いていた。そしてそのまま、赤いクレヨンを握ったままこの部屋に。
あの子はたった一人で、この暗く寒い部屋で、何の食べ物も与えられず、誰かと言葉を交わすこともできず死んで行った。それはどんな恐怖だったのだろうか。今更ながら萌咲はそんなことを思った。いや、今まで考えないようにしていただけだ。
夫が部屋の中に入った。萌咲も一瞬躊躇して、彼に続いた。あの子はもう戻ってこない。それは終わったことだ。だから、ここにもし死体があるのならばそれを処理しなければならない。既に萌咲の考えは切り替わっている。
だが、彼女が両足を部屋に踏み入れた直後、後ろで部屋の扉が一人でに閉まった。萌咲は慌てて引き戸に手を掛けるが、何度力を込めても扉は一向に開かない。自分の顔から血の気が引いて行くのが分かる。
「出して……! お願い出して!」
その声はもう誰にも届くことはない。ただ幾度も内側から叩かれる部屋の扉の前に、赤い一輪の彼岸花が落ちているだけだった。
異形紹介
・二口女
普通の口の他に後頭部に大きな口がある女の妖怪。自分の子供だけを愛して、継子には録に食事も与えずに死なせてしまった継母がおり、その子供の死後四十九日目、子供の父親が薪を割っていた際誤って継母の後頭部に当ててしまった。それによってできた傷は一向に癒えることがなく、やがて大きな唇の形となって骨が歯のように、肉が突き上がって舌のようになった。この傷は決まった時間に板見出し、食物を入れると苦痛が和らいだ。またこの口はひそひそと物を言い、耳を澄ますと「自分の心得違いから先妻の子を殺してしまった。間違いだった、間違いだった」と話していたという。
またこんな話もある。継子を憎んで食べ物を与えずに殺した継母の子は、生まれつき首筋の上に口があった。その髪の端は蛇のようになり、食物を後ろの口に与えたりまた何日も与えなかったりして苦しめた。これもまた継母の嫉みによるものだという。
上記の二つの話は江戸時代の江戸時代の奇談集『絵本百物語 桃山夜話』にある。また前者の話の書き手である桃山人はこの二口女に類似するものとして人面瘡を挙げており、ここでは父親と口論になった男が転倒した際に石に膝を打ち、その傷がやがて口の形になって飯を要求したという。ちなみに人面瘡については貝母を食わせれば治癒するという話が浅井了意著『伽婢子』に載るが、二口女がこれと同じ方法で治癒するかは不明。また同様に二口女と呼ばれる妖怪に飯食わぬ女房、口なし女房と呼ばれる昔話に登場する女がおり、これもまた後頭部に口があるという点では一致するが、こちらの正体は蜘蛛や山姥、鬼女等であるため前述した二口女とは別種の妖怪だと思われる。また現代の都市伝説においても二口女という名前の怪異は登場するが、こちらは「わたし、きれい?」という問いをした後、「はい」と答えると頭にある口を見せてきて、「ブス」と答えると頭にある口で食われてしまうという、口裂け女に似た怪異として語られている。
・赤いクレヨン
ある夫婦が、一軒家を購入した。中古物件ではあるが新品同然で二人は良い買い物をしたと喜んでいた。そんなある日、廊下に落ちている赤いクレヨンを見つける。夫婦には子供はなかったため、前の住人の忘れ物だろうとゴミ箱に捨て、その時は気に留めなかったが、次の日も次の日も赤いクレヨンは同じ場所に落ちている。夫婦はそれを疑問に思い、その場所の周辺を調べてみることにした。すると明らかにその辺りには外から見るともう一つ部屋がある。そこで家の図面を見てみると、やはり心当たりのない部屋がひとつ記載されており、そこは赤いクレヨンが落ちていた側にあった。
二人がその辺りの壁を叩いてみると、明らかに他の壁を叩いた時とは違う音がする。意を決した夫婦は、その「隠された部屋」周辺の壁紙を剥がす。するとそこには開かないように釘打ちされた扉があった。夫婦がどうにかしてその扉を開くと、そこには何もない小さな部屋があった。しかし、その部屋の壁一面は、びっしりと赤い文字で埋め尽されていた。
おとうさんおかあさんごめんなさいここからだしておとうさんがおかあさんここからだしてごめんなさいごめんなさいおとうさんはおかあさんここからだしてごめんなさいおとうさんおかあさんごめんなさいここからだしておとうさんおかあさんだしてだしてだしてだしてだして…
クレヨンの色は青や緑の場合があるが、赤が一般的。タレントの伊集院光が、1997年頃にTBSのテレビ番組「山田邦子のしあわせにしてよ」内の怖い話企画で発表したものが最初とされるが、後々自分や知人が体験した怪談として雑誌投稿等するものが現れ、都市伝説として広まり、またバリエーションも増えて行ったようだ。




