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黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第四六話 幻は霧雨にみだれて
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一 幻は霧雨にみだれて

 夏の匂いが香る川辺にて、その二人の異形のものは静かにせせらぎを眺めていた。夜にすっぽりと覆われてしまっているその闇で光るのは、小さな蛍の群れと月の光だけ。聞こえるものといえば水の流れる音と、虫の声、そして闇の向こうから響く祭囃子の音色。

 若い女の姿をした二人の異形は、幸せそうに川の流れを眺めていた。

 そんな幸せで穏やかな時が永遠に続くことを望みながら。


第四六話「まぼろし霧雨きりさめにみだれて」


 ぎらつく初夏の日差しが容赦なく降り注ぐ快晴の空だった。その陽光に目を細めながら、恒は緑茶の入ったペットボトルに口をつける。

 つい十分ほど前に自販機で買ったばかりなのに、ペットボトルの表面には数え切れないほどの水滴が浮かび上がり、中に入った緑茶もまたぬるくなり始めている。やはり関東の夏は暑いと、当たり前の感想を額の汗を拭いながら思った。

「恒遅れてるぞ~。目的地はもうすだからしゃきっとせい」

 前を歩く浮かれ気味の水木がそう恒に声をかけた。恒は苦笑いでそれに答える。半分妖怪という特殊な体質のおかげか疲れはほとんど感じていないが、この暑さに体の水分は汗となって吹き出してしまうのは防げない。

 恒と水木、そして飯田の三人は周淡町という町を歩いていた。人口五千人ほどの小さな町だが、この町において今週末ある祭が催されることとなっている。その祭に行きたいと言い出したのが水木で、恒と飯田は彼に付き添ってその下見にこの町に来ているという状況だった。

「祭の夜には運が良ければ蛍が見られるんだってよ。俺まだ見たことないぜ蛍。一回見てみたいよなぁ」

 のんびりとした調子で水木が言った。同時に風が彼らの間を吹き抜け、心地よさに恒は目を細めた。新緑と陽光の香りが改めて夏を実感させてくれる。

「うん、見てみたいよね。ただ最近は数が減っているって話だけど」

「蛍は綺麗な水でしか育たないというからね。昔に比べると彼らを見る難易度は遥かに上がってるのだろうさ」

「そんなゲームみたいに」

 飯田の言葉に恒は曖昧に笑ってそう言った。ここは山や川に囲まれていて、恒たちが暮らす木九里町も東京の中では田舎の方だが、それに比べてもずっと自然が生き残っているように見える。だけどそれは今の時代だから感じることで、きっと遠い昔に比べれば空気も水も人の手によって汚されてしまっているのだろう。そんな犠牲によって、人間は便利さを享受してきた。普段妖怪の世界で暮らしているせいか、そんなことを考えてしまって恒は一人苦笑する。

「しかしこの町について調べたところ、その蛍にも不思議な伝説があるみたいだけどね。なんでも、この地域では死んだ人間は蛍になると伝えられていたらしい」

「へえ、魂が蛍の光に例えられたのかな」

 相変わらず飯田はそういうことには詳しい。きっとこの町に来たのも彼なりの楽しみがあるのだろう。しかし死者が蛍になるなんて話はよくあるものなのだろうか。帰ったら美琴の聞いてみようと、恒はそんなことを思う。

「お、あそこから降りられそうだぞ」

 水木が指さした方を見ると、川辺へと降りられる緩やかな坂が見えた。確かにあそこからならば行けそうだ。

 三人は短い草の群生した坂を下り、緩やかに水の流れる川の側に辿り着いた。

「おお、綺麗なところだね」

 飯田がそう素直な感想を漏らした。恒もまたそれに同意する。

 広い川面は降り注ぐ夏の陽光を反射し、鮮やかに煌めいている。涼風がその上を吹き抜け、その風の向かう川の対岸には緑の茂った森が、さらにその向こうには大きな山が青空を背にしてそびえている。

「ここなら蛍いるかもしれないな」

 水木は袖を捲って川に両手を突っ込みながらそう明るい声を出した。確かにここは水は川底がすぐそこにあるように透き通っているし、捨てられたゴミなども見当たらない。蛍は清純な水のある場所にしか生息しないということを聞いたことがあるが、ここならばその条件にも当て嵌まっているようにも思う。

 ふと顔を上げると余程に暑かったのか靴と靴下を脱いで川に足を浸している水木が見えた。その横で飯田もまた自分も水に手か足をつけようか迷っているようだった。恒もまた彼らに倣って川辺に近づこうとして、そして不意に気配を感じて振り返った。

 微かに漂う妖気を辿った恒の目が捉えたのは女性の姿だった。赤と黒の二色に染まった和服を纏ったその女性は、恒のをちらと見た後すぐに木陰に消えてしまった。

 恒は一目でそれが人間ではないことを見て取った。妖気や霊気の強弱以前に、その容姿が人間のものではなかったからだ。

 その女性の耳は人のものよりも遥かに長く、また肌は薄い赤褐色で黒く長い艶やかな髪を腰の下まで伸ばしていた。恒に一瞬向けられた瞳の色は血のように赤く、それでいてその顔貌は怖いほどに美しく整っていた。

 そんな存在が昼間の人の世界を歩いていて目立たぬ筈はない。だが、水木も飯田も彼女に気付いた様子はなく談笑している。それに恒には、彼女の存在がひどく頼りなげに見えた。幽霊ではない、だが確固とした肉体を持たない異形のもの。不可思議な感覚だった。

 水木と飯田はどうやら川に泳いでいる魚に夢中のようだった。恒は彼らには何も言わず、その女性の消えた方へと歩き出した。




 恒が木々の間を抜けて見つけたのは、古びた二つの祠だった。その祠の向こう側には小さな山も見える。

 木と石でできたそれらの祠は、片方を川の側に、片方を山の側にして並んで建てられていた。そして川の側に建った祠の傍に、あの女性の姿をした異形のものは佇んでいる。

 彼女は赤い目を恒に向け、柔らかに微笑んだ。

「やはり、あなたには私が見えるのですね」

 川のせせらぎを思わせるような綺麗な声だった。その声音に敵意は感じられない。恒は立ち止まり、彼女に問う。

「あなたは、妖なのですか?」

「そうであるとも、そうでないとも言えます。そういうあなたも人とも妖とも見える不思議な気を発している」

 彼女は恒に自分の近くに来るように促し、恒もそれに素直に従った。その優しげな雰囲気が、彼女は危険な存在ではないと恒に思わせてくれた。

「私は、みずはと呼ばれています。ここの祠に住むものです」

 そう言って、みずはと名乗った異形のものは傍らの祠に手を置いた。川の側に建てられた祠の方だ。木漏れ日が様々な形の影を祠の上に落としている。だが、どうしてかみずはの形を映した影は見当たらなかった。

 やはり彼女は形のある肉体を持っていない。しかし完全な霊体という訳でもないようだった。風が吹くとみずはの黒髪はその影響を受け、微かに揺れている。

 その存在は何とも不安定で、どこかおぼろげな幻を見ているようだった。もしも触れてしまったらその姿も消えてしまうのではないかと、そんな印象を抱かせる。

「僕は池上恒といいます。妖と人の間に生まれた子供なんです」

 恒もまた自分の名と正体をみずはに告げた。みずははそれに納得したように頷く。

「それで、私の姿が見えたのですね。誰かと言葉を交わすなんて、本当に久しぶり」

 みずははそう嬉しそうに笑った。長く伸びた耳がその心情の変化に呼応したように小さく動く。

「私もね、今でこそこんな風に祠に祀られておりますけど、遠い昔は魍魎もうりょうと呼ばれる妖だったのです。それがいつの間にかこの村の人たちに神として祀られ、水神として生きるようになった。だけどそれもまた昔の話。今はもうこの祠を訪れる人はほとんどいません」

 そう、少しだけ切なそうにみずはは言った。確かにこの祠へと辿り着くための道はろくに整備もされていないようだった。細い砂利道には雑草が所々に伸び、祠は雨や風に晒されたせいなのだろう。酷く痛んでいる。

「あなたは普通の人には見えないのでしょうか」

 恒が尋ねると、みずはは小さく首を縦に振った。

「そう。私は一度妖としてではなく、土地神として村の人たちに祀られました。だけど私を信仰してくれる人はもうほとんどいない。いつの日からか妖ではなく神として長らく生きてきた私は、存在する糧を失い始めているのです。だからもう、私は妖力も霊力も少ない普通の人の目には映らなくなってしまいました。だからあなたが私に気が付いたとき、本当に嬉しくて、そして間違いなく私の姿が見えていることを確かめたくて、ここに誘い込むようなことをしてしまって」

 みずはは川の向こうに目を向けた。あの向こうには周淡町が広がっている。きっと彼女の言う村とは、かつてのあの町のことなのだろう。まだ人が神や妖を信じていた頃、彼女は村の人々と共存していた、そんな過去を恒は想像した。

「ならばあなたは、周淡町の人たちを恨んではいるということはないのですか?」

 かつて人の手によって神として祭り上げられ、そして必要がなくなれば忘れ去られる。その人の身勝手がみずはの力を、存在を失わせようとしているように恒は思えてならなかった。だがみずはは彼の問いに首を横に振った。

「恨むことなどありません。私たちはかつて人々を愛し、そして人々は私たちを愛してくれた。それに何の不満がありましょう。それに人間は、もう神を信じなくとも生きて行けるのでしょうから」

 みずはは川の畔にしゃがみ、そして両手でその水を掬い上げた。それは彼女の指の隙間から、乾いた砂のようにさらさらと流れ落ちて行く。それを見つめながらみずはは寂しそうに声を発する。

「人はきっと信じるものを変えたのでしょう。神や物の怪よりも、科学と呼ばれるものを信じるようになった。それは人が自分たちで作り上げた力や知識。彼らはもう、神に頼らずとも自分たちの力だけで生きて行けるようになった。それは喜ぶべきことなのだと私は思います」

 みずはは過ぎ去った日々を懐かしむように目を細めた。そして慌てたような表情で恒に目を向ける。

「ごめんなさい、初めて会った方なのにこんなことを話してしまって。久々にお話しできる方と出会えて楽しかったもので」

「いえ、気にしないで下さい」

 みずははずっと一人でここで暮らしていたのだろうか。誰と話すこともなく、誰に見られることもなく。だけれどそれなら、彼女の側に建てられたもう一つの祠の存在が気になった。

 それについて問おうとしたとき、不意にみずはが嬉しそうな声を出した。

「それに私の存在が誰からも忘れ去られてしまった訳ではないのです。今でも私の祠に参りに来てくれる人もいるのです。あの人のように」

 恒はみすずの視線を辿り、遠くに伸びる砂利道の方を見た。そこに、ゆったりとした歩調でこちらに近付いて来る老人の姿が見える。

 彼は恒に気付いたようで、意外だというように少し目を開いて恒を見た。彼の瞳がそこから動かないところを見るに、彼の目にもみずはの姿は見えていないようだった。

「おや、ここに人がいるとは珍しいね」

 老人は恒の側まだ来て、そう穏やかな顔で声を掛けた。

「君もお参りしていたのかい?」

「ええ、まあ。歩いていたら偶然この祠を見つけて」

「そうかい。信心深いんだねぇ」

 老人は言って、みずはの祠の前にしゃがむと、静かに手を合わせた。みずははその祠の横に立って、老人の姿を優しげに見つめている。

 やがて老人は立ち上がり、恒の方を見た。

「ここに祀られている神様はみずは様とすだま様と言ってね。古くから周淡町を守り続けてくれていた土地神様なんだ。村に雨をもたらし、そして作物の恵みを与えてくれる、そんな守り神だったようだ」

 老人は嬉しそうに語る。その目の前にはみずはがいるのに、彼はそれに気付いていない。それがとてももどかしかった。

「町の人たちは、この祠にお参りには来ないのでしょうか」

 恒は老人にそう尋ねた。川の流れる音に遠くから蝉の鳴き声が混じる。

「もうほとんど来る人はいないだろうね。私のような年老いた人間ぐらいか。今度行われる町の祭も、元々は二柱の神様を祀るために行われていたものだったのに、それも忘れられているようだ」

 老人は寂しそうにそう答えた。みずはは声を発さず、ただ老人の姿を見つめている。

「だがね、私は昔、もう何十年も前のことだが子供の頃その水神祭の夜に一度だけみずは様のお姿を見たことがあるんだよ」

 老人は嬉しそうに口元を緩めてそう言った。その頃はまだ、みずはの力も今よりもあったのだろう。

「どんな姿をしていたんですか」

「そうだね。赤と黒の小袖を纏って、肌と目は赤い色をしていたと思う。黒い髪がとても綺麗だったのを覚えているよ」

 それは確かに今のみずはの姿とも一致した。みずははどこか切なげに老人の姿を見つめている。だが今の彼の目がみずはを映すことはない。

「霧雨の降る夜でね、ちょうどこの祠の傍だった。あの頃は川の上をよく蛍が飛んでいてね、それを追い掛けているうちにここに迷い込んだんだ」

 恒は静かに話に耳を傾ける。それは彼にとってはとても大切な思い出なのだろうということは、その表情から分かった。

「みずは様は霧雨の向こうで、蛍と戯れておられたよ。みずは様の周りを蛍が光り飛び交う姿はとても幻想的だった。見えたのは一瞬だけで、すぐに霧雨が見せた幻のように乱れて消えてしまったけれどね」

 そ今この晴れた空から雨が降りでもすれば、また彼の目に水神は映ることもあるのだろうか。だがそう思っても、恒には何をすることもできない。

 そんなことを考えている恒に、老人はまた声をかける。

「君も次の祭には来るのかい?」

「はい、今日はその下見でこの町に」

「そうかそうか。私もみずは様とすだま様のことを知っている人間が祭に来てくれるなら、嬉しいよ」

 そして老人は今度は隣に建てられた祠に手を合わせた。だがその祠に祀られているはずの神は姿を現すことはない。

 ここにはもう神はいないのだろうか。力を失い、消えてしまったのだろうか。そんな想像をすると何だかとても悲しくなった。

「じゃあ、また来週の祭で会うかもしれないね。私は荻野おぎのというんだ。見かけたら声でもかけてくれ」

「分かりました。僕は池上と言います。こちらこそよろしくお願いします」

「ああ、よろしく、池上君」

 そう挨拶をして、荻野とは別れた。そして彼が見えなくなった頃、その後ろ姿をずっと見つめていたみずはがそっと口を開いた。

「荻野さんは毎日のようにここを訪れ、私とすだま様のために祈ってくれるのです。彼のような人がいてくれる限り、私はこの村の神でいられるのかもしれません」

 みずははそう微笑む。すだまとは、彼女の隣に建つ祠に祀られた神のことだろうか。それを問うと、みずははそうだと教えてくれた。

「すだま様は私と同じように元は妖でした。私は川の、彼女は山の妖、魑魅ちみとして生まれました。いうなれば私の祠は魍魎の匣であり、すだま様の祠は魑魅の匣。私たちが神となるために人々が作ってくれた住処でした」

 みずはは二つの祠を愛おしそうに眺めた。それは彼女たちと村の人たちの歴史そのものなのかもしれない。

「すだま様もまた、この中におられます。ただこの匣から出ることはできないのです。その蓋は固く閉じられている。彼女をそこに封じたのは、他ならぬ私なのですけれどもね」

 みずはは愁いを帯びた目で祠を見つめた。恒はその彼女に尋ねる。

「どうして、封印を?」

「村を守るためだったのです。そのために彼女は自らを犠牲にし、私に自分を封印させました」

 水神は、せせらぎのような声で語り始める。



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