一 黄泉を覆う影
そう、私は伊耶那美様に美琴という名をもらった。美琴は大切な思い出に目を細める。
伊耶那美と別れ、そして彼女の後を継いで黄泉国の主として戦うようになった後、美琴は他の妖たちから伊耶那美の名で呼ばれるようになった。それもまた、彼女がこの国にいた証なのだろう。そう美琴は思う。
もうすぐ夕方がやって来る。まだ春になったばかりだから、陽が落ちるのも早い。美琴は立ち上がり、幽宮を後にする。
第四四話「黄泉夜譚(後篇)」
それは千年以上の間、復讐の機会を伺っていた。
かつて破壊された体を癒し、妖力を蓄え、怨みを霊力の糧として、その妖はそこに立っていた。
何万年もの時を生きたその妖にとって、千年は取るに足らない年月であった。そして彼女はその時を、ただ怨みと怒りのみに費やした。
「さあ行くよ、天魔雄」
襦裙を身に纏ったその妖、天逆毎は傍らにいた少年のような姿をした妖にそう声を掛ける。天魔雄はその言葉にひとつ頷いた。
天逆毎が背から十束剣を引き抜いた。そしてそれを何もない空間に向かって振り下ろす。
斬撃という概念に霊力を乗せて振るわれたその剣は、空間に境界の裂け目を作り出した。その先に広がる景色は、黄泉国。
天逆毎は長い牙の生えた口を笑みの形に歪ませ、そしてその体から妖力を溢れ出させる。
石畳の上を歩いていると、涼しい風が髪を撫でた。それとともに微かに不快な匂いが鼻を突いた。
酷く嫌な予感がする。美琴は意識を集中する。外部から霊気と妖気とが黄泉国に流れ込んで来るのが分かる。そしてこの感覚を、美琴は知っていた。
美琴は屋敷へと急いだ。その間にも、侵入して来る二種の気は濃くなって行く。
「ねえ、花子ちゃん。何か変な感じがしない?」
加代は縁側から夕闇に覆われ始めた空を見上げて、そう呟くように言った。花子も彼女に倣い、空に目を向ける。
「ほんとだ。何だか嫌な感じ」
空が割れてしまうような、そんな不安に襲われて花子は思わず目を閉じた。今まで感じたことのない力がどこかから滲み出て来る、そんな感覚だった。
「どうしたん? 二人とも」
遊び相手をしてくれていた小町が、不思議そうに二人に尋ねた。彼女は気付いていないようだ。だがそのすぐ側に立つ恒は異変に気付いたようだった。
「小町さん、変な霊気がどこからか流れてきてる」
「霊気?」
小町もまた不安そうに空を眺める。やがてその霊気は唐突に爆発するように拡散し、そして黄泉国の境界を抉じ開けた。
「良介、朱音」
美琴は飛び込むようにして屋敷へと入り、二人の名を呼んだ。それを待っていたかのように彼らが姿を現す。
「美琴様、何者かが侵入して来ようとしています」
良介が言った。良介も朱音も、既に黄泉国に何が起きているのか気付いている様子だ。美琴は頷き、そして言う。
「境界を無理矢理に開かれたわ。行儀の悪い相手のようね」
美琴には今回の侵入者が何者なのか予想は付いていた。この霊気はかつて感じたことがある。それに侵入を隠すことなく、玄関を打ち壊すように正面から入って来るようなこのやり方にも、覚えがある。一千年以上前のあの日と同じだ。
「恒と小町、花子と加代には屋敷の中から出ないように言っておいて。今回の敵は、厄介よ」
「さあ、早くお母さんお父さんのところに帰りなさい」
寺小屋の側で遊んでいた子供たちにすぐに家に帰るように言いつけながら、詩乃は空を睨んだ。無理矢理開かれた境界の向こうに、黒い影がひしめいている。そしてその中に二つだけ色のついた影がある。
黄泉国の妖たちはみな不安そうに空を見上げながら、避難場所へと急いでいた。その間にもぼたり、ぼたりと空間に開けられた穴から黒い影が落ちている。
それらは大きな黒い染みとなって大地に広がった後、複数に分裂してそれぞれが鬼の形へと変化する。
霊体を持たぬ妖力で出来た怪物たち。それは立ち上がったかと思うと、見境なく逃げ惑う妖たちを襲おうと手を伸ばし始める。
その影が、、逃げる寺小屋の子供たちに迫っていた。
「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」
詩乃は袖から古今和歌集を取り出し、歌とともに言霊を放った。それは逃げ遅れた子供たちを襲わんとする黒い鬼たちに作用し、その体を四散させる。
つい一刻前まではいつもと変わらぬ平穏な時間が流れていたのに、詩乃は唇を噛む。既に開かれた境界を潜るならともかく、無理矢理空間に穴を開けて来る妖など詩乃が知る限りは初めてだ。それはつまり、この黄泉国に対する宣戦布告ということなのだろう。
その裂けた空間の向こうから、二体の妖が地に向かって飛び降りようとしているのが詩乃の目に映った。
境界の穴から二体の妖が黄泉国へと降り立つ。一つは長い牙と耳、それに高く伸びた鼻を持つ、獣と人を合わせたような女の妖、天逆毎。その側に立つ、彼女の体長の半分を少し越す程の大きさの少年の姿をした妖、天魔雄。
「これが母上の憎んだ国か」
少年は表情を変えぬまま、声に少しだけ享楽を滲ませて言った。天逆毎は首を縦に振り、天魔雄に告げる。
「そうだ。だからこの国そのものを壊すんだよ、天魔雄」
「分かっているよ」
天魔雄は、そう言って右腕を振った。そこから飛び散った黒い妖気は瞬く間に形を変え、鬼や天狗のような姿に変化する。天逆毎はそれを見て、ほくそ笑むような表情を浮かべた。
「それで良い。二人でこの国を滅ぼすんだよ。さあ、行きな」
「願いの通りに」
天魔雄がゆっくりと歩き出す。その背後には黒い妖気の溜まりが続き、そして次々と霊体のない妖たちを生み出して行く。
そしてそれは、燃え広がる炎のように、黄泉国の中心である御中町の中を埋め尽くし始めた。
天逆毎もそれを見届け、空へと浮いた。そして国全体を見下ろせるような山岳の中腹にその身を下ろす。
この国が失われて行く様をその目に焼き付けるつもりだった。憎き伊耶那美が作り上げたこの国を。
良介と朱音が、屋敷の屋根の上から御中町の景色を見つめていた。ここからならその全景が良く見える。
その二人の間に、美琴は静かに立った。
「侵入を許したのは、私の責任よ」
御中町の一角に現れた黒い妖気の塊は、妖の姿を形作り町を侵すようにして数を増やして行く。溢れ出す黒い泉のように、その黒の面積は広がって行く。
その光景に美琴は顔を歪めた。この黄泉国が、あんな汚らわしいものに染められて行くのが我慢ならない。
「大きい方の妖は天逆毎という名前でね。ずっと昔、千年以上も前にこの国へと現れたことがある。まだ黄泉国に私の前の主がいた時代。殺されたと思っていたけれど、そうではなかったようね」
そしてあの時よりも妖気はずっと濃い。それに気になるのは天逆毎が連れていた妖だ。あの妖もまた、天逆毎と同じように自身の妖力から心なき怪物を作り出す力を持っている。よって本体を倒さねば、きっと際限なく沸き続ける。
「こんなに胸糞が悪いのは久々です。だが明日にはいつもの日々に戻るでしょう」
自分たちに向かって無言のままに迫って来る黒い化け物たちを睨みながら、良介が拳を握り締めて言った。その横で朱音もまた口を開く。
「黄泉国は私たちの国。戦えるものは立ち上がっております。私たちも行きましょう。さあ美琴様、ご命令を」
二人の言葉に美琴はそっと頷き、そして告げる。
「そうね。ええ、この黄泉国をあのものたちの手には渡さない。あなたたちは他の妖たちととも、にあの妖を生み出し続けている若い妖とその傀儡たちを頼むわ」
美琴は背後を振り返った。屋敷の裏側、幽宮へと続く道の最中に天逆毎は陣取っている。その姿を睨み、美琴は一言呟くように言う。
「天逆毎は私が叩く」
黄泉国は天逆毎らの生み出す怪物たちによって次第に黒く染められている。
だがその中で戦っているものたちがいる。この黄泉国の住人として武器を握るものたちが。ここはもう、伊耶那美とたった二人過ごした場所でも、一人夜を見つめ続けた異界でもない。
この黄泉は今や、数多のものたちが夜を過ごす場所なのだ。これからもまた訪れるその数多の夜を守らねばならない。
「分かりました。行って下さい美琴様!」
良介が叫ぶと同時に、その拳から青い炎の塊が放たれた。それは屋敷へと伸びる石段を登り向かって来た鬼と天狗たちを焼き尽くし、そしてその炎を逃れたものたちもまた朱音から伸びる鈎針の髪によって風穴を開けられ、引き裂かれる。
美琴は頷き、そして刀を抜いた。それが合図となり、三人の妖は各々が行くべき道を走り出す。
美琴の行く手を阻む黒の異形たちは、死神の刀一閃で消し飛ばされる。
視界が晴れ、向こう側に天逆毎の姿が見えた。美琴は大地を蹴って上に跳び、空中にて刀を振り上げる。その刀身は紫の妖気を纏い、美琴の落下とともに振り下ろされた。
それは三日月型の斬撃となって命なき傀儡たちを切り裂きながら、天逆毎に迫る。
「小賢しい」
天逆毎がそう呟く声が聞こえた。直後天逆毎は背から十束剣を引き抜き、横に振るった。黒い妖気を纏ったそれは、紫の妖力の斬撃を一振りで掻き消した。
そして天逆毎は、自分の目下に立った紫の死神を見下ろした。
「お前は、あの時の伊耶那美の子か」
美琴はひとつ頷き、そして太刀を構え直した。自身の丈より遥かに巨大な天逆毎の顔を見上げ、睨み返す。
「ここに伊耶那美様はもういない。この黄泉国は、今はもう私の国となった。故に国の主として、まずはこの国から退く意志はあるか聞いておきましょう」
美琴の言葉を天逆毎は蔑むように笑った。その牙の隙間から息が漏れる。
「そうかい。しかし私は伊耶那美を、神を許しはしない。あやつが残したこの国も、貴様も同じだ。ここを死者の国とするまで、私のこの昂りは収まりはしないよ」
天逆毎がその巨大な十束剣のさっ先を美琴の鼻先に突き付けた。美琴は不快そうに顔を歪める。
「ならば、私もここから退く訳には行かなくなったわね」
「あの時為すすべなく私に敗れた貴様に何ができる」
美琴は小首を傾げ、自らの刀で天逆毎の剣を弾いた。
「神と違ってね、妖にとっての千年は長いのよ」
天逆毎は両の口角を釣り上げた。相手は仮にも元は神。元は人であった妖など、簡単に捻り潰せるとでも思っているのだろう。
だがそうはいかぬ。ここは妖の国だ。神にも人にも侵させはしない。
「達者な口だね。その綺麗な顔がいつまでこの国の顔であり続けるかな?」
瞳を紫に染めた死神は太刀を正眼に構え、そして答える。
「少なくとも、あなたが生きている間は変わらないでしょうね」
「うざい!」
空中に現れた氷塊が影のような妖たちを押し潰す。だが痛みも死も恐れることがない怪物たちは、氷塊を乗り越えて次々と氷雨に迫る。
この辺りの住人達は皆避難したようだ。丁度今日御中町に遊びに来ていて良かった。この状態だと、戦えるものは少しでも多い方が良い。
氷雨は前方に向かって氷柱を飛ばした。弾丸のように撃ち出されたそれを真正面から浴び、次々と影の妖たちの姿が崩れて行く。だがその向こうにもまた津波のように化け物たちの姿がひしめいている。
そんな氷雨の背に誰かがぶつかった。一瞬警戒するが、それが敵ではないことはすぐに分かった。馴染みのある妖気を背から感じる。
氷雨は背中合わせになった妖に問う。
「怪我はない? 詩乃ちゃん」
「ご心配なく。このぐらいの敵、数百年前の山ン本の戦に比べれば何でもありませんわ」
少々息を切らしてはいるが、そんな気丈な答えが返って来て氷雨は小さく笑みを漏らす。
「それもそうね、っと」
飛び掛かってきた鬼の影が氷雨の作り出した氷柱に串刺しになる。
そう、この国を巻き込んだ大きな戦いは江戸時代の頃が最後だった。長らく平和が続いていたが故、黄泉国には戦う力を持った妖は多くない。
だから余計に増え続ける敵は厄介極まりない。こちら側の妖力が尽きるのが先か、相手を全滅させるのが先か。
氷雨の腕に鬼の怪物が噛みついた。冷たい血が飛び散り、地面に落ちて土を凍らせる。氷雨は苦痛に顔を歪め、氷を纏ったもう片方の腕で敵を殴り付け、傷付いた腕を開放させた。
「ほんと、厄介ね……」
「ええ、誠に」
視界は黒一色に埋め尽くされて行く。その中で、目と思しき妖たちの器官のみが無数に光っていた。
良介の掌に炎が灯り、それは巨大な青い渦となって黒い闇を燃やし尽くす。一瞬視界が晴れ、倒壊した家屋の散らばる御中町の景色が見えた。
町の妖たちは無事だろうか。良介は背後に迫る怪物を裏拳で砕き伏せ、良介は跳び上がった。そしてまだ無事な家の屋根に立つ。
町を覆い尽くす影の数は増え続けている。幸いまだ御中町の外には出ていないようだが、それも時間の問題だろう。
所々で黒い影たちと戦う妖の姿も見える。あの影の妖たち一体一体はそこまで強い力を持っていない。今戦っているものたちならば、まず力負けすることはない。だが、それも妖力が続くまで、だ。妖力を使い尽してしまえば、ただあの怪物たちに蹂躙されるしか道はない。
良介はその黒い影たちの真ん中に立つ少年の姿をした妖を見る。妖力に限界がある、それは相手も同じはずなのだが、あの化け物は疲弊する様子もなくひたすら妖力から妖を生み出し続けている。
その上、複数の鬼の姿をした怪物たちがひとつに融合し、一つの巨大な鬼の怪物を生み出した。棍棒を握ったような形に変形した腕が、小さな家を一撃で叩き潰す。
「妖力底なしかよ、あいつは……」
良介は苦々しげに呟き、加えた煙草に火を付けた。そして壁を這って登って来ようとする怪物たちを蹴り落とす。
とにかく今は戦い続けるしかない。あの妖の本体へと届く道を切り開かねばならない。
棍棒が良介に向かって打ち込まれる。良介は青い炎を拳に纏い、その棍棒を真正面から殴り返した。そして再び妖の群れの中へと飛び込んで行く。
鞭のように振り回された髪の束が朱音の周囲の妖たちを引き裂いた。ただの妖力の塊でしかないこの妖たちの体は脆い。知能もほとんどないのか逃げることも防ぐこともしないため、倒すことだけは簡単だ。
しかし問題は数だ。他の妖たちの姿を確認しようにも、空間を埋め尽くすこの怪物たちのせいで難しい。朱音は近くの銭湯の煙突に髪を巻き付け、怪物たちを飛び越えようとするが、今度は数多の天狗型の怪物たちが翼を羽ばたかせて空中の道を塞ぐ。
「自分の身を守ることだけは考えているようですね」
己は安全を確保し、沸き続ける人形たちに敵の相手をさせる。いつまで妖力が続くのかは分からないが、それがあの妖にとってはこの国を陥れるための確実な方法ではあるのだろう。だがお山の大将を気取っているそのやり方が気に入らない。
「必ず引き摺り下ろしてやりましょう」
群がる天狗に向かって髪を突き刺し、同時に地面に向かって髪の束を叩き付け、朱音は自身の着地点を確保する。
とにかくこの妖たちが邪魔だ。だが道を作り出そうとする彼女の前に、今度は数多の天狗たちが一つの塊と化し、そして巨大な天狗の姿となって立ち塞がった。
朱音は唇を噛み、そして妖力の通った髪を拡散させる。それは彼女に群がる妖たちを消滅させるが、これでは足りない。命なき人形たちを幾ら殺したところで、真ん中に居座るあの怪物は何ら痛みを感じない。
それでも一歩でも、あそこに近付くために。朱音は大天狗に向かって、その髪を前へと伸ばす。




