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黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第四三話 黄泉夜譚(前篇)
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二 紫と蝶

 家族を持たない私は、その頃一人荒ら屋で暮らしていた。かつて誰が暮らしていたのかは知らぬが、雨風を凌げる場所があるだけで私にとっては十分だったから、特に不満を持ったこともない。

 その宵も私は一人眠っていたが、不意な物音に私は目を覚ました。妖は基本的に夜に活動するから、気配には酷く敏感になっていた。

 覚醒とともに誰かが壁を荒々しく叩いているのに気付く。また妖が出たのだろうか。ならば早く戦わねばならない。それが私の役割だ。

 私は慌てて荒ら屋を飛び出した。だが私の目に映ったのは妖などではなく、私の家を取り囲むようにして集まったたくさんの村人たちだった。一斉にその視線が私に向けられるのを感じ、私は戸惑う。

「出てきたか」

 群衆の前に立った樋野伎が私に向かって憎々しげに呟いた。その瞳が敵意を込めて私を見据えている。いや、彼だけではない。人々の全ての目に、私に対する負の感情が籠っていた。今までは蔑まれることや恐れられることはあっても、あからさまな敵意を向けられたことはなかったのに。

 困惑する私に、樋野伎が冷たく言い放つ。

「お前を信じた俺が間違っていたようだな。お前は人に仇なす化け物だった。お前は妖たちと交わりを持っていた。お前が己の口でそう言ったのだ。覚えているだろう?」

 樋野伎は後ろの村人たちに合図した。それに応えて何人かの男たちが何か大きなものを運んで来る。さらに私に見せつけるようにして、彼らは乱雑に私の前にそれを投げ出された。

 それはぼろぼろになるまで痛めつけられた岐蝶の姿だった。もう息絶えているのか、血の滲むその体は微かにも動かない。思わず喉の奥から声が飛び出す。

「岐蝶さん!」

 その声を聞き、樋野伎の顔に笑みが浮かんだ。私に初めて見せた時とは全く違う、悪意に満ちた、勝ち誇ったような笑みが。今まで私に向けてくれていた優しい顔が嘘になったように思えるようなその顔で、樋野伎は叫ぶ。

「見たか、この娘の反応を! やはりこの娘は物の怪の仲間だったのだ! お前たちは騙してされていた。人の面を被った化け物にな。この村を襲った物の怪たちもこやつが呼び寄せていたのだろう。この村に己の居場所を作るために」

 樋野伎の言葉に同調し、村人が口々に私を罵る声が聞こえる。そこで私はやっと気が付いた。樋野伎は元々私の味方などではなかったのだ。ただ私を利用するために近付いた、それだけだった。その事実がどうしようもなく私を打ちのめす。

 私は体の力が抜けて行くのを感じて、冷たい地面に座り込んだ。

 私は化け物ではない。物の怪に村を襲わせたりなんてしていない。そう叫びたかったが、無意味なことだということが彼らの様子を見て悟った。誰が私の言葉など信じてくれたろう。

 岐蝶との関係を否定すればまだ彼らに縋る道はあったのかもしれない。だが私は、村の誰よりも私のことを想ってくれた彼女を裏切ることはできなかった。

 私は頭を振った。彼らにとって私はもう敵となったのだ。村を襲う妖たちと同じように。

 今まで誰も私とともに敵と戦ってなどくれなかったのに、今宵だけは私を殺すために皆で手を取り合っている。

「お前のせいで、私の子が……!」

「俺の家を返せ!」

「病を流行らせたのもお前だろう」

 人々の声が私に突き刺さる。私が今まで村のために命を掛けて戦ってきたことは何だったのだろう。もう何も分かりたくない。私は夜気に晒された冷たい土を握り締めた。

 そんな私のすぐ側に樋野伎が歩み寄って来る。この男が村の人たちを扇動したのは確かだった。だがそんなにも簡単に私に敵意を向けているということは、彼らは潜在的に私に対してそういった感情を持っていたということの表れなのだろう。樋野伎の出現は切っ掛けにしか過ぎなかった。

 私の目の前に立った樋野伎が私の顔に太刀を突き付ける。

「お前はこれだけあの者たちに怨まれているのだぞ。何故なにゆえ未だ生きたがる。お前が死ねば皆幸を得られるではないか。お前もこのまま生きて行くのは辛かろう? お前に代わり、俺がこの村を守ってやろう。だからお前は安心して死ぬがいい」

 村人に聞こえるように仰々しくそう告げた樋野伎は、今度はそっと私の顔に己の顔を近付ける。そして私にしか聞こえぬような小さな声で私に言った。

「馬鹿な奴らだ。あやつらは本当にお前が化け物を呼び寄せていると信じている。あの妖も、お前の名前を出したら自ら飛び出して来たぞ。あいつがあんな目に遭ってたのもお前のせいだ」

 私は樋野伎を睨んだ。こんな人を信じた自分が馬鹿だった、そう遅すぎる後悔が私の内に滲み出す。村人たちが凶器を手に、私に近付いて来るのが見える。

 私が一体何をしたというの。私があなたたちを傷付けたことなんてないのに。心の中で叫びながら、私は溢れる涙を拭うこともできず、こうべを垂れた。

 私の生きて来た全ては、その夜に否定され、崩れて行った。その絶望の中で、私は虚空に向かって呟くことしかできなかった。

「助けて……」

 だがその声に答えてくれるものなどいない。どうしようもない悔しさが私を支配する。そしてそれは怒りに変わり行く。

 樋野伎が刀を振り上げた。私は拳を握る。今まで妖に対してそうして来たように、腕に妖力を込める。そして樋野伎に向かって叩き付けようと構えた、その時だった。

 不意に倒れていた岐蝶が動いた。歯を食いしばって立ち上がった彼女は、自身を囲む村人たちに右手に握った鱗粉を投げつけ、彼らが怯んだ隙に走り出した。

 こんな状況にも関わらず、私は思わず笑顔になった。岐蝶が生きていた。私は岐蝶の方に一瞬意識を向けた樋野伎の横を抜け、岐蝶の方に走った。

「見よ! この娘はやはり化け物の仲間だったのだ! 村のために皆で戦おうぞ!」

 樋野伎が苦々しげに叫ぶ。私はそれを無視して岐蝶の手を取った。

「こと、あなただけでも逃げて……。私は大丈夫だから」

 弱々しい笑みを浮かべて、岐蝶が言う。私は涙を拭って首を横に振った。彼女を見捨てるなんてできなかった。この世にたったひとりの私の友達を、見殺しにするなんて許せなかった。

 もうこの村の人たちがどうなっても構わない。そんな心境だった。妖が来たら自分たちでどうにかすれば良い。そこにいる樋野伎にでも拝み倒して、助けてもらえば良い。

 この先に自由が待っているんだ。そんな希望に縋って、私は岐蝶を連れて走った。だが手負いの岐蝶の体力は知れていた。すぐに彼女の体は重くなり、足も動かなくなる。息も荒い。私はそんな彼女を背負って走った。だけれど、村の外に出ることは叶わなかった。

 村人たちの一群が、私たちの行く先を遮った。この人たちの望み通り、私はこの村からいなくなろうとしているのに、それさえも彼らは許してはくれなかった。

「悪あがきを」

 後ろから追い付いた樋野伎が言い、私の体を蹴り飛ばした。私は地面に倒れ、背負っていた岐蝶もまた大地に投げ出された。

 私は倒れたまま大地を這って岐蝶に手を伸ばした。だがこの手が届く前に、樋野伎の刃は岐蝶の胸を背中から貫いた。

 瞬く間に傷口からたくさんの血が溢れ出し、岐蝶は目を見開いた。その唇からもまた、赤い血が流れる。

「まだ動く力が残っていたか、物の怪め」

 岐蝶から刀を引き抜き、その体を蹴飛ばして樋野伎が言った。岐蝶が大地に倒れ込む。私は慌ててその体を抱き上げた。その体はもう温もりを失い始めていて、私は否応にも彼女が死に向かっていることを知らされた。

「こと……」

 岐蝶は微かに笑み、そして震える声で私の名を呼んだ。その直後、岐蝶の体、そして四肢はばらばらの蝶の羽となって崩れ始めた。私はどうすることもできず、その重さを失くして行く体を抱き締めていた。

 私は死を止める術を持たなかった。私の腕の中で、彼女は蝶の残骸となって崩れ落ちた。

「岐蝶さん……! 岐蝶さん!」

 私は両手でその羽を掻き集める。だが、それはもう形を成さない。ただ風に吹かれて散って行くだけだった。

 私のせいだ。私のせいで彼女は殺された。私が彼女と親しくしていたせいで。私が彼女のことを樋野伎に教えたせいで。私が、弱かったせいで。

 もっと力があれば岐蝶を助けることができたのかもしれない。そうでなくとも彼ら全員を殺してでも岐蝶を守る覚悟があれば、彼女はまだ生きていたのかもしれない。

 だけど今の私にそんな力はない。とにかくこの村から、そして村のものたちから離れたくて、私は岐蝶の羽を幾つか掴んで再び走り出した。

「さあ、残りはこやつだけだ。この者を殺せば村に平穏が訪れる。武器を取れ。物の怪退治だ。皆で村を守るのだ!」

 村のものたちは敵意を露わにして私を追った。鍬、鋤、斧、それが無ければただの棒や石と、手に握ることができる凶器ならば何でも手にして彼らは私を殺そうと迫る。子供も大人も、私に対する殺意の元に一丸となって、声を上げながら私に手を伸ばす。

 一つの集団となって私に向かって来る村人たちの姿が、私にはどんな化け物よりも恐ろしく見えた。

 私は逃げた。必死になって逃げ続けた。どんなに惨めな生き方をして来たとしても、彼らに殺されることだけは嫌だった。

 だが妖力を使って逃げても、村全てが敵となった状況では村から出ることも叶わなかった。到るところから村人たちは現れ、私を追う。そして村の出口が見えた時、誰かに頭を殴られて土の上に叩き付けられた。

 立ち上がろうとするけれど、朦朧とした頭のせいで再び倒れ込んでしまう。その間にも村の人たちが私を取り囲む。

 そのうちの一人が私の髪を掴み、立ち上がらせた。霞む目でその顔を見る。それは私を外からこの村に買い入れた村の長だった。鬼のような形相で私を睨んでいる。

「ただ殺すだけでは足らん。こやつは自らの傷を治す力を持っている。火の中にこの娘をくべよ。この世から滅するのだ」

 樋野伎が言い、手に握った太刀の先を私の顔に当てた。冷たい刃の感触に鳥肌が立つ。直後、私は足に刀を突き刺され、そして地面に放り出された。

 私の血が土を濡らした。起き上がる気力ももうなかった。そんな私に村人たちは凶器を力任せに叩き付ける。肉が裂け、骨が砕け、血が零れる。私を殺すための大義名分を与えられた彼らは、解き放たれた飢えた獣のように私に群がった。

 人々の怒声が私に降り掛かる。この村に起きた全ての不幸は私が存在した故なのだと言うように。

 私の生きた意味は何だったのだろう。もうほとんど働かぬ頭で私は考えていた。この村のために、村の人のために、ただひたすらに戦ってきたのに。

 私はただ、皆に人と認めて欲しかっただけなのに。

 その思いは次第に怒りに、そして憎悪に代わり行く。許さない、私の内から村の者たちに対する怨みが溢れ出す。今宵のものだけではない。今まで生きて来て味わった全ての怨みが、私の内を支配する。彼らが人の姿だというのならば、私はもう人として認められることなど望みはしない。

 私は人の身を捨てることを望んだ。こんな脆弱な女の体ではなく、こんなものたちに虐げられることのない強い体を、化け物として生きられる、強靭な力と心を欲した。


 かつて誰よりも人になりたいと望んだ娘は、その夜誰よりも化け物になりたいと願った。


 壊れた私の体を、人々はごみでも持ち出すように乱雑に運び、乾いた木片の中へと放り出した。そして、その私に向かって炎の灯った松明が投げられる。

 燃え移った火は瞬く間に私の体を覆い尽くした。熱い。痛い。私はそんな言葉さえも叫ぶことを許されず、ただその炎の中に埋れて行く。

 嫌だ、死にたくない。そう思うも、私の体を隅々までに行き渡っていた激痛が今度は次第に遠ざかって行くのが分かった。それは私の体がもう生を拒否していることの表れだった。

 そんな崩れ行く私の姿を見て皆が笑っている。幸せそうに、楽しそうに。私が死ぬことでみんなが笑っている。私が死ぬことで、彼らは初めて私の前で幸せそうな顔をしていた。私にはそれが許せなかった。

 苦痛から逃れるために私の肉体からだはその命を手放した。だが私の霊体こころは、それを認めようとはしなかった。

 何故私が死なねばならないのか。何故岐蝶が殺されねばならなかったのか。私は憎む。この世の全てを憎悪する。私の命を、あんなものたちになどくれてやるものか。私の命はこの私のものだ。

 私の内を満たし、そして溢れ出す怨嗟。それは私の心をこの世に繋ぎ止め、体をも変化させる。業火に焼かれた皮と肉とは時を巻き戻すようにして甦り、そして光を失った瞳の色が紫に染まる。

 怨みが私を黄泉の淵より掬い上げる。だがそれは人としてではなく、異形のものとして。

 私は決して目を閉じなかった。やがて黒一色に染まっていた視界が色を取り戻す。体を支配していた痛みは消え、私は妖として立ち上がる。私の頭はその変化へんげを既に受け入れていた。

 炎の中を銀色の蝶が舞う。その羽に映る橙色の炎は、次第に紫色に変化する。私の四肢もまた同じ紫に染められた小袖に覆われ、そしてそこに銀色の蝶の紋様が浮かんでいた。人は死ねば蝶となる。そう岐蝶が教えてくれたことを思い出す。人として死した私はその死の象徴を体に纏い、そして前を見据える。

 その燃え上がる炎の向こうに掠れるように、恐れ慄く村人たちが見えた。今までにない程の妖力が体を満たしているのを感じながら、私は炎の中を一歩ずつ進んで行く。



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