四 いつか、私が暮らした遠い町
遠野に着いた頃にはもう夕方だった。雪は降ってはいないが、やはり東京に比べると寒いし、暗くなるのも早い。
「今日は遅いから、私の実家にでも泊る?」
私が尋ねると、伊波さんは首を横に振った。
「いえ、ご迷惑を掛けるわけには。それにもう宿は取ってありますから」
「そっかぁ。それはちょっと残念。じゃあまた明日、よろしくね」
もう少しゆっくり話がしたいところだったが、仕方がない。わざわざキャンセル入れろなんて言えないし。
「本日はお話できて楽しかったです。ではまた明日」
「明日、またよろしくお願いします」
二人の少年少女に見送られて、私は実家へと向かう。どうやら彼らの宿は反対方向のようだから。
明日はマヨイガへと辿り着けるだろうか。私は遠い世界に想いを馳せながら、久々の雪の道を行く。
「隠れ里、見つけられるでしょうか」
宿の窓から外を眺めている美琴に、恒が尋ねた。聞くところによれば、冬実は一人で何度もマヨイガを探しているのだという。幼いころの記憶を頼りに。
「恐らく大丈夫だと思うわ。彼女の霊気からは欲深さは感じなかったし、純粋に隠れ里の存在を確かめたいのと、マヨイガで出会ったと言う人と会いたいのでしょうね」
美琴は窓の向こう側に聳える山を見つめている。月の光に照らされて、その山は白一色に染まっているようだった。
「ただ、あの子一人で見つけるのは恐らく不可能でしょうね。霊感が強いあなたならもしかして見つけられるかもしれないけれど、それでも物凄い時間がかかると思う。隠れ里への境界は、普通の異界と違って一定していないから」
境界が移動するのか、現れたり消えたりするのか、それは分からないが、どちらにせよ見つけづらそうだとは思った。しかし美琴ならば見つけられるのだろう。恒は敷かれた旅館の布団の上で足を崩し、あぐらを掻いた。
「冬実さんが出会った翁って、一体誰なんでしょうね」
「さあね。ただマヨイガは訪れたものに幸福を与える異界として現れる場所なの。だから、冬実さんにとってその翁がマヨイガに住んでいたことは、必要なことだったのかもしれないわね。その頃の冬実さんにとっては富よりも何よりも、誰かの愛情が欲しかったのでしょうし、それに」
窓に目を向けていた美琴が、恒の方に振り返る。
「翁にとっても、冬実さんは幸福を与えてくれる存在だったのかもしれないわ。彼だってマヨイガを訪れたものの一人だもの。二人の出会いも偶然ではなかったのかもしれない」
マヨイガがあの二人を引き合わせたということか。しかし何故マヨイガは冬実を選んだのだろう。単に彼女が不幸な境遇にあったからなのだろうか。それとも翁のいるマヨイガに冬実が訪れること自体に、何らかの必然性があったのかもしれない。
「遠野、良い町ですね」
「そうね。ここは木久里町と同じように霊気や妖気が濃いわ。だからこそたくさんの伝説が生まれたのかもね。さあ、明日も早いからもう寝ましょうか」
美琴が窓の側を離れ、部屋を横切る。宿の部屋は別々だ。美琴も自分の部屋に帰るのだろう。
「おやすみ恒、良い夢を」
「おやすみなさい」
そう言うと、途端に欠伸が出た。今日は長時間移動したから、その疲れがたまっているのだろうか。美琴は一つ微笑んで、そして部屋を出て行った。
一人になった部屋の中で恒は布団の上に寝転がった。明日は雪の中を歩くことになるだろう。一応防寒用の服は持ってきたけれど、大丈夫だろうかと少し不安になる。何せこんなに深く積もる雪を見るのは初めてだ。黄泉国だってこんなには積もらない。
やがて瞼が重くなる。恒はそれに逆らわず、目を閉じた。
翌朝、私はいつもより早く目を覚ました。時間は朝七時。自堕落な大学生としては驚異的に早い時間帯だ。
約束の時間は九時だから、まだ多少時間がある。私は頭を掻きながら立ち上がり、そして机の上に置いてある赤いお椀に視線を移した。
「今日も幸運を授けておくれよ」
私はそれを手に取り、呼び掛ける。願いを叶えてくれるかもしれない。なんて言ったって、これは幸せを呼ぶお椀なのだし。
外は小降りの雪のようだ。私はちらつく雪たちを眺めながら、今日の準備を始める。
私は伊波さんと池上君を昨日聞いた宿まで迎えに行った。あちらの方が私の実家より、今回の目的地により近いからだ。
宿の前では既に二人が待っていた。伊波さんは昨日とは違って紫色の和服を着ていて、彼女の後ろに立つ古い旅館にとてもよく似合っている。そこだけまるで時代を越えてやって来たような錯覚を覚えるけれど、仕事着か何かだろうか。でもその横に立つ池上君は昨日と同じジャンパーを着ていて、眠そうに眼を細めている。
「おはよう」
私が声を掛けると、二人とも私に気が着いたようだった。挨拶を済ませた後、私は二人を旅館の前から連れ出して歩き始める。
「大丈夫? 滑らない?」
冬なので当たり前だが、路面は完全に雪に覆われている。彼らは冬靴というものを持っているのだろうかと心配するが、昨日も普通に雪の上を歩いていたし、平気なのかもしれない。運動神経が滅法良いとか。伊波さんに到っては下駄履いているし。もしかしたら、あの着物に下駄が仕事の際の正装だったりするのかもしれない。
ここは遠野市の中でも中心街から外れた方だから、大きな建物もないし人影も少ない。それに人が少ない分、雪が踏み固められていないから歩き難い。
「東京に比べたら田舎でしょ。でも元々は城下町だから、結構発展した町だったんだよ。『遠野物語』で柳田翁が書いているみたいにさ。なんでか昔から何もないど田舎みたいな印象持たれることが多いけど」
今では人口が多いとは言えないが、それでも贅沢を言わなければ生活に困ることはない。そりゃ東京に比べれば人も物も少ないけど、でも私はこの町が好きだ。
「寺原さんが迷い込んだというマヨイガは、この先にあるのでしょうか」
池上君が道の先に聳える山を見上げながら言った。
「そうそうあの山。道なんて整備されてないから気をつけてね」
それは彼らも予想はしていただろう。マヨイガに繋がる道が整備されていたら、そりゃ確実に観光名所になっているだろうし、私だってとっくにマヨイガを見つけているはずだ。
「そうですね。確かに、この先に何かがありそうな気配があります」
伊波さんは山を見上げて言った。紫の和服に彼女の容姿と雪景色が相まって、何だか神秘的だ。そもそも妖怪や異界に関わっている人なのだから、巫女的な職業か何かなのかもしれない。詳しくは知らないけど。
冬の日が落ちるのは早い。まだ朝方が、私たちは真っ直ぐにマヨイガの山へと歩いた。何しろどれだけ時間が掛かるのかが分からないのだし、夜の山は危ない。
やがて山の麓に辿り着く。ここの景色はあの時と全然変わらない。私がマヨイガから帰って来た時辿った川を、逆に辿るようにして今度は山道を登る。
さて、ここからは体力勝負になりそうだ。
「伊波さん速いねぇ」
私は息を荒げながら、同じようにぜえはあしている池上君に言った。彼は無言で白い息を吐き、頷く。
着物のくせして、伊波さんは雪の積もった坂道を何でもないように上って行く。滑ることも躓くこともない。さらに結構長時間登っているはずなのに、疲れているようにも見えない。
「それに、私が先導されてるみたい」
そう、いつの間にか伊波さんは私の前を歩いていた。私が案内する気満々だったのに、彼女は辺りを見回しながら迷いなく雪の上を進んで行く。まるでどこへ行くべきか分かっているように淡々と。
いや、まあそもそも隠れ里に連れて行ってほしいと頼んだのは私なのだから、これで正しいといえばそうなのだろう。
そんなことを考えていると、不意に伊波さんが立ち止った。そして私の方を振り返る。一瞬その瞳が紫色に見えたような気がしたけど、気のせいだろうか。
「あなたが見たと言う杉並木とは、このような景色だったのでしょうか」
伊波さんの言葉に、私は辺りを見回す。いつの間にか、私たちは杉の林の中にいたようだった。
私はしばし呆然とその光景を眺めた。私はこの場所を知っている。天を覆い尽くすように伸びる杉の木たちが、私を祝福してくれているように感じる。
「そう! ここだここ! うわあほんとに着いた!」
遅れて、そんな間抜けな感想が私の口から飛び出した。いつ間に入っていたのだろう。全く気が付かなかった。
「恐らくこの先が、あなたの求める世界です」
「うん! ありがとう!」
先程までの疲れはどこへやら、私は早足で杉並木を進んで行く。するとまた見覚えのある景色が私の目の前に飛び込んで来た。
私は息を呑んだ。そこには確かに私がかつて見たあの黒く大きな門が確かに存在していた。今まで何度も、どんなに探しても見つからなかったのに。
自然と足が速まる。ざく、ざくとブーツが踏み固められていない雪に沈む。足に雪が入って冷たいが、そんなことに構ってはいられない。そして、私は門の前に立った。
「マヨイガ……!」
私は黒い門の向こうに聳える屋敷を見て、そう呟いた。まるで記憶の中と変わらない。私は門の境界を踏み越える。
「ここが、かつてあなたが訪れた隠れ里なのですね」
伊波さんが言った。私は綻ぶ顔を隠さずに頷く。そう、私は確かにこの場所を知っている。
「入っても良いのかな」
もう既に入っているのにも関わらず、私はそんな間の抜けた質問をした。止められても入る気は満々だったけれど。
「ええ。隠れ里はそもそも訪れるものを選ぶ異界です。拒絶されたものはその景色を見ることもできないでしょうが、あなたはきちんとこの場所に立っている。ただ隠れ里を見つけるにはコツがある。私はそれを知っていただけです」
私は頷いた。隠れ里は私を再び受け入れてくれたのだ。
私利私欲のため隠れ里を見つけようとして、一向に見つからないという話はある。それは欲に塗れた人間を、隠れ里が拒否しているからだったのだろうか。でも私だって欲塗れな気はしないでもないが、でももう関係ない。
私は翁の姿を探すが、初めてこの家を訪れた時のように、人がいる気配はなかった。だが家の向こう側の門は開いている。
私は懐かしい庭を横切り、その門の外を覗いた。そこに広がるのはあの小島の町。この十数年の間、私が信じ続けてきた幼いころの記憶は、ここに現実となって私の目の前に広がっていた。
私は雪を含んだ冷たい空気を思い切り吸い込んだ。私は帰って来たんだ。いつか、私が暮らした遠い町に。
「綺麗な場所ですね」
隣に立った池上君がそんな感想を漏らす。私は首肯する。
「私、町に行きたい。いいかな」
私は伊波さんに尋ねる。ここに連れて来てくれたのは彼女だ。まずはその意見を聞いておきたかった。
「恐らく大丈夫でしょう。時間の差異の影響を受ける程に長居をしなければ。あなたも会いたい方がいるのでしょうし、私たちは別行動となりましょう。何かあれば呼びに行きます」
伊波さんはそう言ってくれた。私は頷き、逸る気持ちを抑え、町へと繋がる橋を渡る。
薄く雪を積もらせた町並みは、私の記憶とほとんど変わっていなかった。翁と一緒にお団子を齧った茶店も、翁に見せてもらった大きなお寺も、あの時のままにここに存在している。堪らなく懐かしい。
あまり長くはいられない。もっとじっくり見ていたい気持ちを抑えながら、私は小坂の町をひとしきり見て回った。それに急いでいたのにはもう一つ理由がある。私はマヨイガになかった翁の姿を探していた。だが、彼の姿だけは見つからなかった。
誰かと擦れ違う度、その姿を目で追った。彼の方から私を見つけてくれることも願ったが、他の妖怪に声を掛けられることはあっても、翁の声が聞こえることはなかった。
「そろそろ戻らないと」
私は呟いた。雪はいつの間にかやんでいて、空は薄暗く変わり始めている。もう時間がない。隠れ里の旅、楽しかったけれどやはり翁の顔を見なければ終われない気がした。
私は名残惜しさを感じながらも、マヨイガへの道を辿る。翁はどこに行ってしまったのだろう。もうこの町にはいないのだろうか。いや、入れ違いに帰って来ているかもしれない。
そう思いながらまた、マヨイガの門を潜る。確かにもう一度隠れ里に来たいという目的は果たせた。だけど、私はまだ一番会いたかった人に会えていない。
本当にもう会えないのだろうか。私は諦めきれずに庭を横切り、マヨイガの玄関の戸を叩こうとした。流石にもう勝手に入ったりはしない。
だが私が戸を叩く前に、私の耳に懐かしい声が届いた。
「おかえり、お嬢ちゃん」
まるで学校から帰ってきた子供に対するような調子で、その声は私を呼んでくれた。私はその声の方を見る。マヨイガの縁側に、いつの間にかあの翁が座っていた。
「お爺さん……」
私が呟くように言うと、翁はにこやかな顔で頷き、そして縁側へと私を手招きした。私はそっと翁の横に腰を下ろす。
「本当に、また来てくれるとは思わんかったよ。随分大きくなったんじゃなぁ。こちらの世界とお前さんの世界では時の流れが違うから、どれぐらい経ったのかは分からんが」
「こっちの世界では一六年。私、二一歳になったんだよ」
翁は満足そうに笑み、「そうか、そうか」と言った。翁は姿も雰囲気も、全然変わらない。
「あの後ね、お爺さんの言う通り私のお父さんとお母さんは仲良くなってさ、今でも一緒に住んでる。きっとお爺さんがくれたあの赤いお椀のお陰かもしれないね」
翁は目を細めて私を見て、そして頷く。
「そうじゃろう? しかし良かった。お嬢ちゃんも元気そうで。一人で来たのかい?」
翁は穏やかな声で言う。この声を聞けただけで、この顔を見られただけで、ここに帰って来た甲斐があったと思える。
「ううん。連れてきてもらったの。不思議な人たちに」
私は伊波さんと池上君を思い浮かべてそう答えた。伊波さんはどうしてこの場所が分かったのだろう。それは不思議だけれど、この世には不思議なことがたくさんあっても私は構わない。きっと、分からないことが多い方が人生は楽しい。
「ここで暮らしたのは短い間だったけど、でも私が確かに暮らした家だから。私はお爺さんの家族だもの」
そう、帰って来たんだ。私はこの町に、マヨイガに。だけどもうすぐここを出ねばならない。私にはあちらの世界にも、帰る場所がたくさんあるから。
「ありがとう。マヨイガに来て、病が癒えたわしが最後に望んだものが家族じゃった。お嬢ちゃんはそれを叶えてくれたんじゃなぁ。おかえり、冬実。そしてまた行ってらっしゃいか」
白い息とともに翁は初めて私の名前を呼び、そして同時に別れの言葉を告げた。翁もまた、私がここに長くいられないことを知っているのだろう。この世界は人の世界と時間の流れが違い過ぎるから。
私は少し躊躇してから縁側から立ち上がる。
「うん。ばいばい」
私は何歩か進んで、そして翁を振り返った。ひとつだけ知っておきたいことがある。
「ねえお爺さん、お爺さんが人間だった頃の名前って何だったの?」
翁は穏やかな顔でそれに答えた。
「寺原元太、そういう名前じゃった」
ある程度は予想していた名前だった。私と同じ名字。そして、その名前にも聞き覚えがある。
だったら私は、翁の本当の……。
私はそう言いかけて、口を閉ざした。これを言ってしまったら、また別れが辛くなってしまう。翁にも余計な未練を残してしまうかもしれない。
これはまだ、私が胸の中にしまっておけばいいことだ。もしかしたら、もう翁も気付いているかもしれない。そんな気もする。
「ううん、何でもない。じゃあ、行ってきます!」
私は手を振って、そして門をマヨイガの門を潜る。翁は私の家族だから、こちらの方が別れの挨拶としては相応しいと思った。
門から出た途端に空気が変わったようだった。門の外では伊波さんと池上君が待っていてくれた。時間はそれほど経っていないようだ。
私は振り返る。そこにはもう、杉並木も、マヨイガの景色も消えていた。
「またマヨイガに行ったなんて言っても、誰も信じてくれないだろうなぁ」
私たちはすっかり暗くなった遠野の町を歩いている。雪は再び降り始め、私たちの上に、行く先に、白を重ねて行っている。
「でも今回は、僕たちという証人がいます」
池上君が言った。確かにそうだ。だから今回のことは胸を張って夢じゃなかったと言える。
それを人に言って信じてくれるかはまだ分からないけれど、少なくとも私が見た景色は幻じゃなかったと、そう言ってくれる人がここには二人もいるのだ。とっても心強い。
風は冷たいけれど、私の心は今とても暖かい。
「隠れ里は、隠れる里、だけでなく嘉く暮れる里と書かれることがあるのをご存知でしょうか」
肩に積もった雪を払っていると、伊波さんが唐突にそんなことを尋ねた。嘉暮里、確か見た覚えがある。
「知ってる。確か、鳥山石燕の絵の中にそんな風に書かれてたよね」
私は頭の中から情報を引っ張り出して来て、そう答えた。伊波さんはひとつ頷き、そして言う。
「嘉暮里は嘉き暮れへの里。めでたき人生の終わりへ繋がる故郷を意味しているのではないかと言われています。人としての人生を終えたものが向かう、とある理想郷ということなのでしょう」
伊波さんのその言葉に、私はひとつ頷いた。
この世から消えた人たちが向かう理想郷。そうなのかもしれない。あの翁はそんな場所で、またいつか家族が来るのを待っているのだろうか。それなら私もその時には翁に教えてあげよう。私は、翁の本当の孫だったんだってことを。
「だったら、私もいつかはあそこに行けるのかもね」
私は冬の月に向かってうんと伸びをした。街灯の明りに雪がちらついている。『遠野物語』や『遠野物語拾遺』には死んだ人が不意にこの世に現れる話が記されている。あれも案外、隠れ里からこの世に遊びに来た人々だったりするのかもしれない。そんなことを思う。
「二人はこれからどうするの? 東京帰るの?」
「ええ。明日には」
「そっか、じゃあ私も一緒に帰ろっかな。卒論やんなきゃだし」
私は言って、一人で笑う。何だかとってもすっきりした。私の中の決着はつけることができたから。隠れ里も、マヨイガも、本当にあったんだって。
私はもう一度あの山を振り返る。しんしんと降り積もる雪の向こうに、その山は確かに屹立している。
またいつか、私がマヨイガを訪れることはあるのだろうか。その可能性はゼロではないだろう。だってこれから先もずっと、マヨイガはどこかで存在し続けているのだろうから。めでたき人生の終わりには、隠れ里へと行けることを願っていよう。
私はその結論に満足して、前を見る。暗い雪道の向こうに、遠野の町の明かりが広がっていた。
異形紹介
・隠れ里
日本全国に伝承の存在する一種の異界の名称。海の果てや山奥を始めとして、沼、岩窟、地底、海底、淵など様々な場所の先に存在すると言われている理想郷。全国には様々な隠れ里が伝えられているが、その多くに共通する特徴として、隠れ里は争いや飢餓とは無縁の生活をしており、外部からの訪問者は歓迎され心地よい日々を過ごすが、一度出てしまうともう一度尋ねようとしても見つけることはできないというものがある。
また隠れ里に共通する特徴のひとつとして、他に人間の世界との時間の質の差異が挙げられる。浦島太郎の物語においては竜宮世界における一日が現実世界の一年として流れ、『今昔物語集』巻一七の一六「備中の国の賀陽良藤、狐の夫となりて観音の助けを得たる語」では逆に、狐の世界で十三年暮らしていたと思っていたところ、人間の世界では十三日しか経っていなかったという話が記されている。このように隠れ里では人間の世界より時間が早く、また遅く流れるとされる例が多いが、多くの場合は一ヶ月と思ったものが三年だった、三日と思ったものが一ヶ月だった等隠れ里内の時間の流れが人間の世界よりも遅い、というものである。
日本昔話において代表的な隠れ里は鼠浄土とされ、北海道から沖縄まで全国的に分布している。また鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』にも「隠里」と題した絵があり、そこには鼠の穴の向こうに広がる大きな座敷と、そこで過ごすたくさんの人々が描かれている。またその門構えには「嘉暮里」の文字が見える。
これについて妖怪研究家の多田克己氏はこの絵は鼠浄土を描いたもので、奥座敷に座る主人は、鼠は大黒天の眷属であることもあり、大黒様であると述べている。また嘉暮里は「めでたい人生の終わりへのふるさと」とも読める、と考察している。
『遠野物語拾遺』には「隠里」と題された話が載せられており、神が入った岩穴がそれであると語られているが、『遠野物語』には隠れ里という言葉は出てこない。しかし前述したマヨイガは隠れ里の話のひとつとして捉えられることが多く、一〇六章では毎年現れるという蜃気楼の向こうに、外国の風景が見えるという話が語られている。また『遠野物語』の最後を飾る一一九章においては、遠野にて古くから行われている獅子踊りという歌舞の中で使われる歌が記されている。その歌は苦界(辛い浮世)から去る者が渡るという橋の歌から始まり、檜や椹でできた大きく立派な門、そしてその門の向こうにある家を褒めた歌。また白金の門とその向こうに建てられた八棟造りに檜皮葺きの屋根の家、そしてその庭に生えた唐松や唐松の隣に沸く泉、馬屋などを褒めた歌、さらに小島というどこを指すのか不明な地や、縦に十五里、横に七里ある大きな町を褒めた歌などが続く。
この歌に語られる景色もまた、かつての人々が描いた理想郷を歌ったものだったのかもしれない。




