三 真相
案内されてやってきた正子の部屋は、本当に生前のまま変らず残されているようだった。六畳ほどの和室の中には、生前の正子のものであろうと思われる私物がそのまま放置されている。掃除はされていないらしく、どれも埃を被っていた。
部屋の隅には小さな台の上に若い女性の写真が飾ってある。どうやら遺影のようだった。正子と思われるその女性は、どこか影がある微笑みをこちらに向けていた。
「綺麗な人どすなぁ」
しみじみとした調子で小町が言った。
「ええ、引き取り手がいないので、私たちが弔っているのです。本当はもっと堂々としてあげたいんですけど、まだお葬式もできていないのです。部屋に入ることも普段は禁止されていて」
悲しみを含んだ声で女中が言う。世間では殺人者とされ、家族のいない正子。そんな彼女を堂々と弔うものはいない。心を吹き抜けるような寂しさを感じて、小町は写真から目を逸らした。
部屋は簡素なものだった。中心に置かれた小さな折り畳みのテーブルと、壁際に置かれた箪笥にドレッサー。それに小さな白いカラーボックスが一つあり、中に本や雑誌が仕舞われている。
そしてそのボックスの上に何か小さな箱のようなものが乗っていた。小町が近付いてよく見るとそれは十個ほどのオルゴール。それらがきちんと並べて置かれている。
「正子はん、オルゴールが好きだったんどすか?」
小町が尋ねると、三河は首を横に振った。
「ええ、あの子の唯一の趣味でしたから。よく私たちも聞かせてもらっていました」
三河は懐かしそうにオルゴールを眺めた。小町も改めてオルゴールたちを見る。
もう持ち主の手によって開かれることのない小さなそれらは、薄く埃を被って佇んでいる。ほんとんどは木でできているようだったが、三つだけ、硝子でできたオルゴールがあった。窓から入る微かな日の光を屈折させて静かに輝いている。その様子が綺麗で、小町は三河の了承を得てその中の一つを手に取った。
片手にすっぽりと収まる大きさの直方体の硝子の箱には、繊細な模様が彫られている。小町が手に取ったそれには、どうやら桜の絵が刻まれているようだった。その模様の奥に硝子が透けて中身の円筒や櫛が僅かに見える。とても高そうな品だ。他の木製のオルゴールはそこまで高級なものには見えないため、余計にそう思える。
「これは、正子はんが買ったんどすか?他のものに比べて随分高そうどすけど」
「多分、純一郎様からの贈り物じゃないでしょうか。すみません、私は仕事がありますので、これで失礼させてもらいます」
「すみまへん、お時間取らせてしもうて」
「いえ、いいんです。では」
三河はそう丁寧に挨拶して正子の部屋を後にした。
小町はそれを見てから再びオルゴールの方に目を向けた。しばらくそれを眺め、恒の方に悪戯っぽく笑い掛けた。
「聞いてみよか」
「勝手にそんなことしていいの?」
不安そうな顔で、恒が問う。
「これも調査の内よ」
小町が静かに蓋を開ける。少しの間があって、硝子の箱から柔らかな旋律がゆったりと流れだす。
「綺麗だね」
いつの間にか隣に立ってオルゴールを聞いていた恒がそう呟いた。
やがて二分ほどの時間が過ぎる。最後の音が紡がれて小さな硝子の箱はたった二人の観客のための演奏を終えた。
小町はぱたりと、硝子の蓋を閉じる。優しげなメロディは温かな日差しと、儚げに春風に散って行く桜の花びらを連想させた。きっとこの模様のためだろう。小町はもう一度、じっくりとオルゴールに刻まれた桜を見る。
そこで初めて小町は箱に小さく彫られたアルファベットの文字列に気がついた。『pritemps』と書かれている。見覚えの無い単語だった。
「なんやろねぇ、これ」
恒に見せてみても、首を傾げるばかりだ。
「誰かの名前かな。少なくとも中学や高校で習った英単語ではなさそうだけど」
「フランス語よ」
不意に後ろから声がして、小町と恒は同時に振り返る。
「美琴様、いつの間に来はったんどすか?」
「ついさっきよ。この部屋から音楽が聞こえてきたものだから。その単語は、フランス語で春という意味ね」
美琴は淡々と説明しながら、小町が手にとったオルゴールの横に置かれていた硝子の箱を自分の手に乗せた。それには、雲と虹の模様が彫られている。
「『ete』、これは夏ね」
「すごいどすなぁ、私なんて英語も満足に分かりまへんのに」
小町も美琴の持つオルゴールを覗いてみる。確かに箱の隅にその単語が書いてあった。虹は夏の季語だ。多分このオルゴールには、夏を連想させるような音楽が収まっているのだろう。
日本の季語にフランス語の四季、アンバランスな気がしたが、その理由は箱を裏返して見て分かった。そこには、小町も知っているフランスの有名なオルゴールメーカーの会社名が貼られていた。最近、テレビでも話題になった会社だ。
確か、オーダーメイドのものでも作ってもらえるのが、この会社の売りだとテレビでは紹介されていた。これもそれだろう。金額はかなりのものだったような覚えがあるが、それほど純一郎の思いが深かったということだろうか。最も、普通の人間であれば簡単には手を出せるものではないだろうが。
小町は最後に残った一つのオルゴールを手に取る。その蓋と側面には散っていく紅葉の絵が何枚か描かれていた。やはりこれは秋のオルゴールのようだ。そうなると、気になることがある。
小町のその疑問を引き継ぐように美琴が口を開く。
「一つ足りない」
ここに置かれているオルゴールは春夏秋の三つだけ。冬のオルゴールだけ見当たらなかった。最初から無かったと考えるのは不自然だ。最後の一つはどこへ行ってしまったのだろうか。
「冬のは、間に合わなかったんですかね」
恒が呟くような声で言う。彼の言う通り、正子と純一郎が死ぬ前に、オルゴールが完成しなかったと考えるのが普通だろう。
しかし、その考えはあっさりと美琴により否定された。
「いいえ、オルゴールはあるわ」
「知っとるんどすか?」
「ええ、さっき見た正子の記憶の断片の中に、雪の結晶を彫り込んだオルゴールが見えた。この四季を表現したオルゴールのひとつだったのね」
そう言って、美琴は部屋を見回す。そして再び口を開いた。
「けれどこの部屋では無かったわ」
小町は顎に手を当て、少しの間考える。オルゴールがこの部屋にないのなら、次にある可能性が高い場所はそのオルゴールを買った本人のところであろう。
「それなら、純一郎さんの部屋かも知りまへんなぁ」
「純一郎?ああ、あの息子ね。どうして?」
「このオルゴールは、純一郎さんからの贈り物なんだそうそす」
小町は恒とともに女中たちから聞いた話を美琴に聞かせた。
「そう、でもその可能性は少ないわね」
「なぜどす?」
「オルゴールの他に化粧台が見えたのよ。それもかなり豪華なものがね。男の部屋にはそんなもの普通無いでしょう?ねぇ恒」
「まあ、そうですね」
「豪華なものなら女中はんのものとも思えへんし、多分奥様のものやないんでそうかねぇ」
「そうね……、じゃあ、行きましょう」
そう言って美琴は歩き出す。その背中に恒が疑問の声を投げ掛けた。
「そのオルゴールが重要なんですか?」
それは小町も感じていた疑問だった。正子はこの事件により思い人を殺され、さらに勝手にその犯人仕立て上げられた無念によってこの世に縛りつけられているのだと考えていた。それならば彼女の魂を救うためには事の真相を明らかにすることが第一ではないのだろうか。
だが美琴は首を横に振った。
「強い思いが残っていなければ私がその記憶を覗くことはできないはずよ。それに、彼女の記憶の断片の半分以上は同じ若い男で占められていた。多分その男が総一郎なのでしょう」
ひんやりと風が通る廊下を歩きながら、美琴は言った。
「そんなに純一郎さんが好きだったんやろかねぇ」
独り言のように小町が呟く。
「違うわきっと。彼女には他に無いのよ」
静かに美琴が言った。
「無いとはどういうことどす?」
「考えてみなさい。正子という少女は両親を亡くし、頼る者もおらずここに来た。そして同じ年頃の娘たちのように気ままに遊ぶこともできずに、この閉ざされた屋敷で働く毎日。そんな彼女を想ってくれた純一郎は正子にとって狭い世界の中の唯一の希望だったんじゃないかしら。だからそれに残してしまった念が強い。恨みの念なんかより、ずっとね」
そう言われて、小町は改めて正子の生前を想像した。人並みの幸せを得ることが許されなかった一人の女性。あの正子の部屋にあった写真が思い出される。
「もちろんこの家に隠された嘘は暴くわ。そうしないと彼女が浮かばれないし、私もすっきりしない。でもまずは菊子という女性の願いを叶えてあげないと。恒、正子の霊が現れた時に何と言うと青山が話していたか覚えている?」
唐突に話を振られ、恒は慌ててそれに答えた。
「『一つ、足りない』でしたっけ」
美琴は「ええ」と頷く。ここまで分かれば小町にも大体の見当が付く。
「つまり、美琴様はその足りないというのはオルゴールやと言いたいんどすか?」
美琴が頷く。
「幽霊になってまで気にかけているということは、そここまで執着するほどのものがあるはずだった。でも彼女の部屋に冬のオルゴールが無かったのを見て分かったわ。冬のオルゴールが記憶の断片として見えたのは、そういうことだったのよ」
他者の記憶はその者の想いが強く残っているものほど見えやすい。以前美琴がそう語っていたのを小町は思い出した。特に霊体は精神の塊のような存在なので、その傾向が顕著であるらしい。
オルゴールは正子と純一郎を繋ぐ最後の記憶だったのだろう。物にはそれぞれ人の思いが宿る。他者から見れば何でもないものであってもこの小さな硝子の箱は、正子にとって現世に繋がる重要なものなのだ。
途中に出会った女中に尋ね、三人は純一郎の部屋に辿り着いた。陽は西に傾き、夕焼けの赤い光が窓から流れてくる。その光に照らされた美香子の部屋は、正子の部屋と同じように生前のまま残されていた。
二十畳ほどの広さのその和室には一通りの家具が揃えてあったが、部屋が広いためスペースには子供が走り回れる程度の十分な余裕がある。部屋の中心には大きな液晶のテレビと、硝子彫りのテーブル。ソファは無いが立派な座椅子がテーブルの前に置いてある。家具は全体的に白で統一されており、和風な雰囲気に良く似合っていた。
美琴は躊躇なく部屋の中に入り込むと、じっくりと部屋を見回した。記憶の断片と一致する情景を探すため、隅から隅へとじっと眼を凝らす。
目的のものはあっさりと見つかった。部屋の一角に置いてある木彫りの箪笥。その上に硝子で作られた小さなオルゴールは乗せられていた。
「あれね」
美琴は呟くと、歩いて行ってその箱を手に乗せた。小町と恒が後に付いてくる。
美琴は窓の方にオルゴールを向けてその模様を確かめる。オレンジ色を屈折させて輝くそれには、確かに雪の結晶の模様が刻まれている。
「あっさり見つかりましたなあ」
小町が言った。美琴は頷いてオルゴールをスカートのポケットにしまった。これが正子の魂を救う鍵となる。
正子はなんらかの理由でこのオルゴールの曲を聴くことはなかったのだろうと美琴は考えていた。この部屋にある以上、その理由に美香子が関わっていた可能性は非常に高い。
生きている者と違い、死んでしまった者には未来がない。人にしても物にしても、生きていればいつかまた出会え得るという希望さえ死者には許されない。だからその分、自分の思い人が最後に残してくれた贈り物に対する未練が強いのだ。
美琴は窓の外に目を向けた。夕陽は沈み、夕闇が空を支配しようとしている。今日という日に残された時間はあまり多くはない。
「さて、事件の種明かしと行きましょう」
美琴は小町と恒に声を掛ける。
オルゴールに関しては準備が整った。次はこの事件の真相を暴く番だ。「いよいよどすなぁ」
月明りに照らされる屋敷の縁を歩きながら小町が言った。彼女の隣には少なからず緊張している様子の恒がいる。そして二人の前を音も立てず美琴が歩いていた。
屋敷は静寂に包まれていた。屋敷の人間たち、四人の女中と青山は美琴の指示で一つの部屋に集められている。場所は朝、三人が最初に青山に連れてこられたあの客間だ。そこでこの事件の真相が暴かれる予定だった。もちろん屋敷の人間はそのことを知らない。
部屋の前まで来て美琴が立ち止まる。
「行くわよ」
美琴は短くそう言って、部屋の襖を開けた。客間の白い光が薄暗い廊下に流れ込む。美琴がその光の中に入って行くと、小町と恒もそれに続いた。
明るい光の灯る部屋の中、五人の眼が一斉に美琴に向けられた。青山が期待の籠った目を美琴に向け、問う。
「除霊の準備ができたとは、真ですか?」
だが美琴は口元だけを歪ませるような笑みを作って、それを否定した。
「いいえ、青山さん。今夜私が行うのは除霊ではありません。それに私はあなたに正直に話してくれと言ったはずですよ」
青山の顔が引きつる。怒りのためなのか、不安のためなのか。青山は美琴を睨んで声を荒げる。
「何だというのです!?私は正直に話しましたとも。それに、報酬なら幾らでも払います」
「報酬などいらぬと言ったはずです。私の目的は、正子という一人の女性の魂を救うこと、ただそれだけ。あなたが真実を語らぬ限り、正子さんは昇天しませんよ」
美琴が凛とした調子で言う。女中たちの注目が青山の方に集まる。青山は額に汗を浮かべていた。
「私が、嘘を吐いているという証拠でもあるのかね?」
それを見て、美琴は嘲るような笑みを浮かべた。
「証拠などいりません。あなたが呼んだのは探偵でも刑事でもない。霊能者なのですから」
青山は押し黙り、怒りの形相で美琴を睨みつけている。だが美琴はそれを無視して小町と恒の方を向いた。
「後は私がやるわ。あなたたちは後ろで見ていて」
「そうどすか、分かりました。ほれ、恒君」
「え、あ、はい」
小町が恒の腕を半ば引っ張るようにして連れて行く。恒は青山たちと美琴を見比べるようにしながら、素直に小町に付いて行った。小町は美琴の斜め後ろに回って正座する。隣に恒が座った。
美琴はちらりと後ろを確認し、そして青山たちの方へ向き直る。
「さて青山さん。あなたの話にはどうも腑に落ちない所がいくつかあります。まずあなたの奥方のことです」
青山の顔色が変った。しかし、美琴は口調を変えず続ける。
「あなたは正子さんの霊は井戸のところに現れる前、毎晩奥方の枕元に現れると言いましたね。本当ですか?」
「ええ、本当です。それが何か?」
探るような目で美琴を見ながら青山は答えた。
「あなたは知らないかもしれませんが、幽霊というものは恨みの念が強い時、その恨みの対象のもとに現れるものなんです。つまりあなたの奥方は何か正子さんに対し、恨まれるようなことをしたということになりますね」
青山の顔が曇るのが美琴の目にもはっきりと分かった。分かりやすい反応だ。
「確かに美香子は正と純一郎の仲は快く思ってはいなかった。だから、そのせいだろう。そんなことのために正は美香子を自殺に追いやったんだ」
青山がどん、と畳を拳で叩いた。女中の何人かは小さな悲鳴を上げたが、美琴は表情一つ変えない。若い娘だと思って怒気によって怯ませようというのだろうが、そんな易い手に乗るつもりはなかった。そもそも美琴にしてみればこの男の年齢など赤ん坊のようなものだ。勿論、赤ん坊のように可愛らしくはないが。
「事件当日、正子さんと奥方が争っている現場が目撃されていますね。原因は?」
動じない美琴に、青山が逆に押され始めていた。
「正は、私の家に伝わる家宝を割ったんだ!大切な皿だった。その一枚を割ったんだ。美香子が怒っても、当然だろう」
「そんなに大切なお皿なら何故、わざわざその日に出して、さらに女中の中でもまだ経験の浅い正子さんに運ばせたのですか?」
「それは……」
青山が返答に詰まる。美琴は攻撃は続く。恐らくこの理由も今考えたものだろう。三河の証言とも食い違っている。どうせ皿屋敷の怪談からでも思いついたのだろう。
「私には、正子さんに罪をなすりつけたいだけのようにしか思えないのですが」
「そ、そんなことは無い!断じて……」
美琴の予想していた以上に、青山は狼狽した様子を見せてくれる。美琴はそれに満足したように、言葉を続けた。
「まあいいですわ。では、あなたは生前の正子さんをどう思っていましたか?」
突然の質問に、青山は少し考えるような仕草をする。答を選んでいるようだった。その間にも体から流れる汗は止まらない。青い着物の色が黒く変わり始めている。
「特別優秀というわけではなかったが、良い娘だったよ。それがどうしたと言うんだね?」
「では何故あなたの奥方は正子さんと御子息の関係を嫌ったのでしょう?」
「そりゃあ、純一郎は私やあいつにとっては、大切な一人息子だ。私の会社だって継いでもらわねばならなかった。しかし正は、あくまでこの家の女中だ。釣り合わぬと考えても、仕方がないだろう」
「そうですか……、では奥方は、どんなことを正子さんにしていたのでしょうね?」
「どんなこと、とは?」
美琴が不敵な笑みを浮かべる。
「先程も言ったでしょう。幽霊は恨みの対象のもとへ現れる。私はこう考えているのです。あなたの奥方は息子を取られてしまったことに激しい嫉妬を覚えていた。それが、最終的に自身の息子を殺すことに繋がった、と」
「な、何を言い出す!」
広い部屋に、小さなどよめきが走った。




