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黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第四二話 いつか、私が暮らした遠い町
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三 隠れ里と翁の記憶

 雪の薄く積もった橋の向こうにマヨイガがある。私はその日もそこに泊ることにした。疲れていたし、まだ両親のいる家に帰ることが怖かった。

 その夜は囲炉裏の前に座り、私は翁と色々な話をした。両親のこと。喧嘩ばかりして、離婚しそうだということ。楽しかったこと。辛かったこと。五年という短い歳月の中のことだったけれど、翁は熱心に聞いてくれた。

「お嬢ちゃんも苦労してるんじゃな。だからこそ、ここを見つけることが出来たのかもしれんがのう」

 翁はしみじみとした調子でそう言った。囲炉裏の火が翁のしわが刻まれた顔を橙色に照らしている。

「じゃがな、お嬢ちゃん。きっと今頃、お嬢ちゃんの父ちゃん母ちゃんはお前さんのことを血眼になった探しているはずじゃよ」

「そんなことない。お父さんもお母さんも私のこと嫌いだもん」

 私はいじけて、火箸で囲炉裏の炭をつついた。心配してるはずがない。きっとまた二人で言い争って、私のことなんて忘れているんだ。そう思うと目の奥が熱くなった。

「お嬢ちゃんの父ちゃん母ちゃんはお前さんを追い出そうとしたんじゃないのだろう? こんな小さな子を簡単に捨てられる親なんてそうそうはおらんよ。お前さんは良い子だから、きっと大丈夫じゃ」

 翁は皺だらけの掌で私の頭を撫でる。

「ひとつの家の下で暮らしたものを家族と言うんじゃ。だから家というものはな、人にとってはとても大切な場所なんじゃ。お嬢ちゃんにはまだ帰る家があるんじゃ。それをなくしてはいかんよ」

 そう言って翁は後ろの棚を開け、そして赤いお椀を取って来た。むらなく赤く塗られ、囲炉裏の火の光に当てるとまるで輝くような艶を持った、とても綺麗なお椀だった。

「これはな、幸せを呼ぶお椀なんじゃ。これをお嬢ちゃんにあげよう」

 翁はその赤いお椀を私の手に乗せた。小さな私の手には両の掌からはみ出すぐらいの大きさだけど、重くはない。

「なくさないようにするんじゃぞ。さあ、今日はもう遅い。眠ろうかの」

 そういって翁は布団を敷き始める。私はしばらくそのお椀を見つめていたけれど、やがて眠くなって、布団の中で横になった。




 それからもう一日、私は隠れ里で時を過ごした。翁に連れられて町の色々な店を回った。また誰ひとり足を踏み入れていない真っ白な雪原を、凍ることなく澄み続ける大きな湖を翁とともに見た。

 とても楽しい一日だった。だけどいつしか、私は自分の家が恋しくなっていた。母の顔も父の顔ももう二度と見たくないなんて思っていたのに。昨夜の、翁の家族の話のせいかもしれない。

 我ながら心変わりが早い。しかしそれを翁に話すと、彼は優しく微笑んだ。

「そうか。心配せんで良い。わしが必ず送り届けてやる。隠れ里に長くいるのはあまり良くないしな。さあ、行こう」

 翁はそう言って、私に肩にジャンパーを掛けた。私がここに来た時に羽織っていたものだ。

 隠れ里を出る時が来たということだろう。翁がマヨイガの戸を開けると、冷たい風が吹き込んで来た。

 マヨイガを出た後は、いつものように翁に手を引かれて歩いた。その日はやっぱり雪が降っていて、目の前の全てを白に変えて行くようだった。

「お爺ちゃんの家族は、どうなっちゃったの?」

 私は歩きながら、翁にそんなことを聞いた。翁にも親や子がいたという話は聞いている。ならば奥さんだっていたのだろう。しかしあのマヨイガに暮らしているのは翁だけのようだったから、気になった。

「さあなぁ。もう分からなくなってしまったよ。小島に行き着いたのはわしだけじゃったからなぁ」

 翁は懐かしそうに目を細め、そして自分の過去を話し始める。

「人間だった頃な、わしは病気でもう長くないと言われていたんじゃ。それで最後に故郷である遠野の町を目に焼き付けようと、様々な場所を巡った。その時にあのマヨイガに迷い込んだんじゃ。あの隠れ里にいるとな、不思議と体が楽になって、いつの間にやら病も癒えた」

「お化けになったから?」

「そうなのかもしれんのう。もちろんわしは喜んだ。それで元気な姿を見せようと実は一度だけ遠野に戻ったことがあるんじゃよ。でもな、隠れ里にいたのは二月ほどのはずじゃったのに、遠野では何年も経っているようじゃった。そのうちに婆さんは死んじまって、息子ももう嫁を貰って新しい家族を持っていてな、今更わしが帰って来ても迷惑じゃろうと思って、誰にも会うことなく小島に戻ったんじゃ。それから、わしはあのマヨイガに住み始めた」

 そう語る翁の顔は悲しそうだった。きっと翁も元の家族と一緒にもう一度暮らしたかったのだろう。そう思うと、私もまた自分の父母がより恋しくなってしまった。

「わしはもう隠れ里の住人となっていたのじゃろうな。だからすぐに戻ることができた。じゃがお嬢ちゃんは違うじゃろう?」

 雪が降り続いている。世界が白い。

「わしと違ってお前さんにはまだ帰る場所がある。家族に元気な姿を見せてあげんさい。この三日間、わしもまるで孫が遊びに来たようで楽しかったよ」

 翁はどこか寂しそうな笑みを私に向けて、そう言った。私が帰った後、家族を失った翁はまたたった一人であの大きなマヨイガで時を過ごすのだろうか。そう考えると胸が苦しくなる。

 しばらく翁とともに雪道を進んだ。そして一本の川が見えて来た時、翁は私の手を放した。翁はこの川を辿っていけば、遠野に着けるのだと教えてくれた。

「さあ、行きんさい。達者でな」

 翁が言う。私は彼の顔を見上げた。

「ねえ、お爺さんとはまた会える?」

「それは分からん。じゃがまた来ようとしても、あそこには辿り着けないことものが多い。じゃからもしかしたらもう二度と会えんかもしれんのう」

「でもまた会いたい」

 私は翁の袖を握ってそう言った。翁は困ったように笑って、それから私の頭を撫でた。しわしわで水気はないけれど、でも温かな手だった。

「人生というのはそういうものじゃ。お嬢ちゃんもあちらの世界で幸せに暮らしているうちに、ここのことなんてすぐに忘れるさ」

「ううん、いつかもう一度私マヨイガに遊びに行くもん。だってさ」

 私は意地になって言った。翁が私の言葉に耳を傾けてくれているのが分かる。

 冬のしんとした静けさの中には、私と翁の声のみが響く。

「ひとつのお家で一緒に暮らした人を、家族って言うんでしょう?」

 私が尋ねると、翁は「ああ」、と短く答えた。私は言葉を続ける。

「だったら、私はもうお爺ちゃんの家族だよ。だからまたお爺ちゃんのところに行くんだから」

 私は鼻を啜りながら言った。翁はどうしてももう私がこの隠れ里に来られないなんて思っているようだけど、絶対にまた見つけてやるのだ。

 翁は初めは驚いた顔をしていたけれど、すぐにいつもの温かな笑顔になった、そして頷いてくれた。

「そうか。それは楽しみにしておるよ。わしはいつもあの家で待っているからな」

 私は泣きそうになるの堪えて笑った。泣いてしまったら、本当にもう二度と会えない気がして。

 そして私は雪原の中を一人進み始める。数歩歩いてから後ろを振り返ると、既に翁の姿は、冬の幻だったかのように消えてしまっていた。




「そうして、私はめでたく遠野の町に帰ってこれたって訳」

 つい話に熱が入ってしまった。でも翁が言ったように私が隠れ里のことを忘れることはなかった。今でもこんなにありありと思い出せる。

「それで、隠れ里から戻った後はどうなったんですか?」

 ずっと黙って私の話を聞いてくれていた池上君が質問する。それは気になるだろう。私もあの頃の家庭の問題を色々話してしまった訳だし。

「それがね、私がいなかったのは三日ぐらいのはずだったんだけど、こっちの世界では一ヶ月経ってたみたいでさ。物凄い心配してくれてたみたい。私が帰ってきたら喜んで、結局そのまま離婚とかそういう話は流れちゃった。あの赤いお椀のおかげなのかな」

 隠れ里の時間と人間の世界の時間の流れ方が違うという話は異郷訪問譚には付き物だ。私も、あの翁もその時間の差異の影響を受けたのだろう。

 翁から貰ったあの赤いお椀はまだ大切に取ってある。そしてたまに取り出して眺めるたびに、私はあのマヨイガのことを思い出す。

「『遠野物語』に語られる、あのマヨイガに行かれたのかもしれませんね」

 伊波さんが言った。彼女の言うとおり、遠野物語には私の体験と似た話が記されている。

 ある女性がふきを取るために川に沿って山を上っていたところ、見たこともない立派な家に辿り着く。しばらくその家を観察していた女だったが、怖くなって家を出て、帰る。そして後日、川から赤いお椀が流れて来る。そのお椀はどんなに穀物を掬っても尽きない不思議なお椀で、それから女の家は長者となる。彼女の迷い込んだような山中の不可思議な家を遠野ではマヨイガといい、その家にあるものを一つ持って帰れば富貴を得られるのだと言う。そして女は無欲で何も取らなかった故、お椀自らが川から流れてきたのだろう。

 これが遠野物語におけるマヨイガ譚の概要だ。他にもマヨイガの話はあるが、私が体験したのは一番これが近い。

「でも他にも隠れ里の話も、マヨイガの話もあるよね」

 知っているだろうかと、仄かな期待を抱きつつ尋ねてみる。

「そうですね。そもそも隠れ里に人が迷い込む話には大きく分けて二つの型があります。偶然にしろ故意にしろ、己一人で迷い込むか、それとも天狗や鬼、狐等の怪異によって迷い込ませられるか。あなたの話も含め、マヨイガ譚は大体前者ですね。柳田氏のマヨイガ譚だけでなく、佐々木喜善氏の『中学世界』でも『聴耳草紙』でも、人は自らの足でマヨイガへと向かっています」

「そうそう、人が迷い込むから迷い家。でもその話に出て来る人々はマヨイガでは誰にも会わず、すぐに帰って来る。私の記憶と違うのはそこなのよ。私はマヨイガに迷い込んだ後に出ることなく、人に会っている。そしてマヨイガの向こう側まで見てしまった。マヨイガの向こう側なんて話は伊波さんも知らないでしょ?」

 私も自分の記憶は、幼少の頃に知った物語を自分の体験として錯覚してしまったのではないかと考えたこともある。だがマヨイガの話にはない続きを私は知っている。それまで私の妄想だとすれば、私の脳みそは大したものだ。きっとその才能を何かに活かせる。

 それに隠れ里が、マヨイガが実在しなかったら、私が持っているあの赤いお椀は一体どこから来たというのだろう。

「そうですね。マヨイガの話にはない現実の時間との差異も考えると、まさに隠れ里に迷い込んだという印象を受けます」

 私は頷いた。隠れ里は山奥や岩窟の先、また海の底や海の向こうにある別世界と言われており、そこは争いもなく、人々が平和に暮らす理想郷なのだと伝えられている。そんな隠れ里に迷い込んだものたちの話は異郷譚として語られるが、その世界の中は時間の流れが外の世界とは違う、ということが多い。

 マヨイガも隠れ里に纏わる話の一つとして語られることは多いが、滞在する時間が短いせいか出た後に凄い時間が経っていたとか、逆にほとんど時間が進んでいなかったとか、そういう話は聞かない。そしてもちろん、マヨイガの向こう側に行ったという話も。

「そう。そして私はもう一度その隠れ里に行こうと切望している訳。ただ自分からマヨイガを探そうとして探し出せた人の話って見たことないから、不安だけど」

 初めて会う人にこんな話をするのも変かもしれないけれど、マヨイガや隠れ里の話が通じる嬉しさで、つい口が良く動く。

「そうですね。彼らはマヨイガを見つけて富を得ようという欲を持っていた故にマヨイガを見つけられなかったのかもしれません。しかしあなたは既にその象徴である赤いお椀を持っている。だから逆に、見つけられるかもしれませんね」

 伊波さんは言って柔らかく笑んだ。お人形さんのようだと思ったけれど、これは口に出さないでおく。

「そうかなぁ。そうだったら嬉しいけど。私もこれまで何度も探してるんだけど、どうも見つからなくて。でも、小島は、マヨイガはどこかにあるんだって私は信じてる」

 それで遭難しかけたこともある。だが私は懲りないであの山に足を踏み入れ続けている。

 隠れ里は夢ではなかったのだと確かめるために。そして翁との約束を守って再びマヨイガに帰るために。

「この世には、誰もが空想の産物だと思った不思議なものが、ふと実在しているものです」

 池上君がそんな意味深なことを言った。彼もまた、そんな体験をしているのだろうか。ならば私も心強い。

「そうだよね。はあ、マヨイガ見つかるかな」

 一人で見つからなかったマヨイガが、三人なら見つかるとは思い辛い。だけど一人で雪の中を探し回るよりは心強い。

 隠れ里は私を迎え入れてくれるだろうか。私の心は不安と期待でいっぱいになっている。

「お腹減っちゃった、ご飯食べよっか」

 喋り過ぎたせいで、私のお腹も喉も何か寄越せと文句を言っている。私は新幹線に乗り込む前に買ったため、もう温くなってしまたお茶缶の蓋を開けた。



異形紹介


・マヨイガ

 マヨヒガとも書く。『遠野物語』に登場する怪異のひとつで、迷い家の意とされる。『遠野物語』には六三、六四章にて二種類のマヨイガに纏わる話が記されている。どちらも山中にある不思議な家で、紅白の花が咲き乱れ、何羽もの鶏が庭で遊んでおり、家の裏手には牛小屋や馬屋があって何頭もの牛馬がひしめいている。家の中には火鉢が設えてあり、湯が沸かされていたという。六三章においてはこれを見つけた女は何も盗らずに家を出、後日川から流れて来た穀物を掬っても穀物が減らない不思議な赤い椀により長者となったとされ、座敷童子などと同じく長者の起源譚として伝わっていることが伺えるが、六四章にてマヨイガを見つけた男は長者になろうという欲のもと他の者たちとともに再びマヨイガを探そうとして結局見つけられず、富を得ることもなかったという。

 柳田國男氏はマヨイガについてこう書いている。マヨイガとは行こうとして行ける場所ではないが、幸運なものは偶然に辿り着くのだという。マヨイガに行き着いた者はその家にあるものを持ち帰るのが良いのだとされ、そうすると幸福が訪れるのだという。マヨイガは行き会った者に幸福を授けるために現れる異界の家であり、何者が幸運を授けてくれるのかは分からない、と。


 マヨイガの話は『遠野物語』が有名であるが、この『遠野物語』の元となった遠野に纏わる話を柳田氏に語った佐々木喜善氏の著作『中学世界』、『聴耳草紙』の中にもマヨイガが描かれている。『中学世界』の中の一編「山奥の長者屋敷」は『遠野物語』六四章と筋書きはほぼ同じだが、より描写が詳細になっている。『聴耳草紙』の中の一編「隠れ里」においては『遠野物語』とは別のマヨイガの話であると断りが入り話が記されているが、ある男がマヨイガに迷い込み、恐ろしくなって逃げるという話の筋は大体同じである。

 また佐々木氏がマヨイガ譚の題に「隠れ里」と付けたように、マヨイガは隠れ里の一種として見なされることが多い。また椀が川から流れてきたという話から、特定の塚や淵、洞窟や岩などの場所で貸して欲しい人数分の椀や膳を頼むと、翌日には希望しただけのそれらが用意されているという椀貸伝説との関連が語られることも多い。この椀貸伝説に出て来る場所は、竜宮や鼠浄土などの理想郷とされる異界に繋がっていると語られることがある。

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