四 屍は謡う
私は残された彼の着物を纏い、そしてあの井戸へと走った。再会を誓いあったあの場所へ、痛めつけられた体を引き摺ってひたすらに走った。
あの日女郎屋へ連れて行かれた道を、今度は逆に辿る。それで過去に戻れるのならば、どんなに良いかと思いながら。
井戸は、変わらずにそこにあった。子供の頃遊んだ景色がそのままにそこに残っている。私は立ち止る。何も恐れずに笑っていられたあの頃に戻ったような、在りもしない幻想が一瞬私の心を過った。
もう正治がこの場所に来ることは二度とない。彼との契りが果たされることはもう、叶わぬ夢となってしまった。
それでも私はこの場所にもう一度来たかった。子供の頃この井戸で背を比べた幼い記憶の中のように、正治が笑いながら現れるのではと、そう思いたかった。
子供の時に正治としたように、私はそっと自身の姿を井戸の水面に映す。彼の着物を纏った自分の姿に一瞬正治を幻視し、そして私は息を詰まらせる
「私の命はもう、残り僅かでしょう。ならばせめてこの場所で、あなたを想い、そして全てを怨みましょう」
追手はすぐにやって来るだろう。私は覚悟を決めた。幸い、手鎖には重りがついている。あの男たちが付けた憎々しい枷が。
このまま水の中に没すれば、もう二度と上がっては来られまい。それでも、あの者たちに殺されるぐらいならば。私はこの思い出の場所で死んでやる。
私は自身を追い詰めた人間たちへの怨嗟を、そしてたった一人の想い人への恋慕を胸に抱えたまま井筒の中へと身を投げる。
冬に凍える水は、身を切るような痛みにより私の体を苛む。だがそれもあと少し。この体はここで朽ち、やがて骨となるだろう。
だが私は骨髄に徹した怨みを決して忘れはしない。私と、あの人の全てを奪った彼らを、私はこの井戸の底で憎み続けてやる。
私の体からやがて感覚が消えて行く。私は静かに目を閉じた。
やがて肉は朽ち、骨となる。だが私はただ死にはしなかった。白骨を晒した体で私は地獄への通り道を遡り、そして再び現世に現れた。怨念のために。
私はあの女郎屋を呪い、そしてその主人を、私と正治を殺めたものたちを祟り殺した。それで私は満足の筈だった。なのに、私の中の怨嗟という名の巣くうものはそれでは到底消えはしなかった。掬っても掬っても湧き続ける井戸水のように、それは私の心を満たし続けた。
それが妖怪となった私への呪いだった。私は湧き上がる怨嗟を抱えながら生きて行かねばならなくなった。
だから私はあの井戸の中から出ようとはしなかった。外の世界を知ってしまえば、必ずこの怨みは抑えきれなくなるだろうから、あの井戸より掬われることなく、ただ狭い世界だけを見つめ続けていたかった。
ただ井戸の底で正治から貰った家を抱き、彼とともに覚えたあの歌を謡っていられれば、そうして幸せだった頃の甘い夢に浸っていられれば、それが私にとっての救いだったから。
時に私を呼び起こそうと、人はあの井戸を訪れた。でもただの人間ならば私は簡単に追い払うことができた。怨みを抱く間もなく、私は井戸の底に戻ることができた。あの時、彼がくれた家が奪われた時も、そうできれば良かったのに。
彼らがやって来る少し前に私の前に現れた異形の怪物、女の中に潜んでいたその怪物に、私は傷付けられた。
だから私は彼らがやって来た時、私は動けなかった。そして彼らにあの家と取られてしまった。追い返すことさえできれば私は眠り続けることができたのに。
だがその眠りを妨げられた以上、私はあの家を取り戻さねばならない。彼がくれたたったひとつの贈り物が、私の元から奪い去られるなんて許せなかったから。
でも眠りから目覚めた私の中に巣くう呪いは、井戸から出た後に私自身にもどうしようもないほど成長していた。家を奪った男たちへの怨みのせいもあったのだろう。
人を怨み続ける狂いし骨の呪い。それはきっと、私をもう静かに眠らせてはくれまい。
それが分かっていても、私は自分を止められない。
「我が世誰そ、常ならむ……」
私は無意識のうちにあの歌を口ずさむ。それはあの家を失った私にとって、怨みに呑まれ塗り潰されようとしている私の心の中で、澄と言う名の人の心を忘れないための唯一の抵抗の術だった。
このままでは私はあの人のことさえも忘れてしまう。ただ怨嗟のみを糧とする化け物になってしまう。夢さえも見られなくなるのは悲しいから、だから私は謡わねばならない。
澄としての記憶を、心を失ってしまわぬように。
「私の家を、返して……」
私は私から家を奪った五人の人間たちのうち、最後の人間にこの手を伸ばす。もしかしたら彼を殺さねばならない。私の中の呪いが囁き続ける。
それなのに、私の前には少女が立ちはだかった。青紫の小袖に身を包んだその少女は、その紫色の瞳を私に向けた。
美琴はあの井戸の前に立っていた。後ろには愛宕がいる。
彼はこの井戸から家を奪ったものの一人。実際に井中から家を持ち出した人間は既に殺されたようだが、しかしその前にそれが愛宕に渡ってしまったために未だ狂骨はこの世をさ迷い続けている。いや、もう手遅れかもしれないが。
「まだ半信半疑だけどさ、これをあの井戸に返したら俺はもう助かるのか?」
「さあね。それは本人に聞いてみないと分かりませんよ。あなたたちはほんの出来心で、彼女が何よりも大切にしていたものを奪ったのですから」
美琴は冷たくそう告げた。愛宕たちの前にも何人かのグループがあの井戸に行き、そして狂骨と遭遇したという。狂骨が簡単にただの人間に自身の住処への侵入を許すとは思い難いから、それも今回の事件に関わっているのかもしれない。
どうして人々は彼女を静かに眠らせてやらなかったのだろう。何もなければ、きっと彼女はずっとあの井戸の底で眠り続けていられただろうに。
「さあ、その家を井戸に返して下さい。まずはそれからです」
美琴の指示に愛宕は素直に従い、井戸の側に小さな家を置いた。だがこれで簡単に狂骨の怨念が収まるとは思えない。狂骨は、死ぬまで怨み続けねばならぬ呪いを背負った妖怪だ。
「我が世誰そ、常ならむ……」
霊体に直接響く歌が聞こえた。女の声だ。直後凄まじい怨恨の霊気が辺りを支配する。愛宕もその異変を感じ取ったのだろう。不安げな顔できょろきょろと周辺を見渡している。
やがて現れる、その霊気の根源。若い女性の姿をしたその妖は、空間の歪みが形を成すようにして現れ、そしてその目が死神を認識した。
女は片腕を前方に腕を伸ばして近付いて来る。もう片腕には手鎖が嵌められ、そこから伸びる鎖に大きな鉄屑が括られている。
狂骨がひとつ美琴らに近付く毎に、金属が大地に擦れる音が鳴る。
「私の家を、返して……」
彼女の伸ばした腕から皮と肉が剥がれ、やがて骨が露わになる。眼球は地に落ち、底の見えぬ二つの暗闇が頭蓋に刻まれる。
妖怪狂骨を目の前に、美琴は刀を抜いた。
「澄、私のことは、もう覚えてはいないでしょうね」
答えは無い。美琴は刀を正眼に構えて狂骨と対峙した。ぼろぼろの男性用の着流しを纏った骸骨という容貌だが、その頭部には頭髪のみが残っている。そしてその右腕に嵌められた手鎖。あれは人であった頃、彼女が受けた屈辱の名残なのだろう。
狂骨が美琴に霊気を向ける。同時に彼女の声が響く。
「あなたは誰。どうして私の邪魔をするの」
霊体に直接語り掛けて来る。後ろにいる愛宕にも聞こえたのだろう。びくりと震えたのが見えた。美琴は目で逃げるよう合図する。家を返した以上、もう彼がここにいる意味はない。
「あなたの家はもう返したわ。でも、それだけではもう止まらないのね」
「あの男は私の眠りを覚ましたの。生かしておけば、また私を夢から引き摺り出す。だから、殺すの」
澄から発せられる霊気からは怨念が滲んでいる。その怨嗟は、彼女が望み抱いたものなのか。
狂骨が一歩足を踏み出した。同時に金属の重りが大地に擦れ、鈍い音が鳴った。
「あなたの怨みは、彼を殺しても収まりはしないでしょう」
「……そうかもしれない。だって私はあなたも憎いもの。私の邪魔をするあなたが憎い。なぜ私を静かに眠らせてはくれないの! 私の中にすくう怨みは自分でも止められない。私は、全てが憎い……!」
狂骨の慟哭が響いた。美琴は一度目を閉じ、そして開く。彼らが何もしなければきっと狂骨はあのまま、井戸の中で謡い眠り続けていたのだろう。だが彼女は目覚めてしまった。そして怨嗟のままに人を殺し続ける。きっとそのうちに彼女は自分が何故怨んでいるのか、何を怨んでいるのかさえも忘れてしまうだろう。
狂骨は怨みから生まれ、そして湧き続ける怨みにその体を蝕まれる妖。もう彼女の中に沸き上がる怨嗟を、自身でもどうすることもできない。せめて、その前に。彼女が澄であるうちに。
その魂を鎮めるため、死神は刃を振り上げる。
この少女は、どうしてか私の名を知っていた。ずっと昔に捨てた筈の人としての名を。
少女は刀を振り上げた。それは私が伸ばした腕に向かって振り下ろされる。
刀はいとも簡単に私の腕を切り飛ばした。そして腕とともにあの手鎖が私の体から離れる。私を縛り続けたあの重りは、こんなにも簡単に、消えてしまった。
「色は匂へど、散りぬるを」
少女が謡う。私が大好きだったあの歌を。私が彼女に伸ばしたもうひとつの腕は、彼女の細く白い首に触れる前に止まった。
「我が世誰そ、常ならむ」
その声に反応して、私の中で澄が謡う。
咲き誇る花もいつかは散ってしまうように、この現世にずっと同じままでいられるものはない。人の肉は朽ち、いつかは骨となるだろう。
少女の目は、とても悲しそうに私を見つめていた。
「有為の奥山、今日越えて」
翻った死神の刀が、狂骨の体を切り裂いた。私は痛みとともに、不思議な安堵感を覚える。ああ、もうすぐこの呪いは終わるんだ。私の心を苛み続けたこの狂骨の呪いが。
私は少女に感謝する。最後に、私を澄として認めてくれた紫の死神に。
「浅き夢見じ、酔ひもせず」
現世に存在するもの全てを越えて、諦観することができたのならば、私は仮初の夢に酔うこともなかったのだろうか。
そうしたら、私は妖になんてならずに済んだのかもしれない。こんなにも誰かを怨み続ける必要なんてなかったかもしれない。
体から力が抜けて行く。この感覚は知っている。私はもうすぐ、今度は二度とは醒めぬ眠りにつくのだろう。
澄という名の屍が、大好きだったあの歌とともに。
狂骨の体から次第に妖気が消えて行く。澄は美琴を見て、小さく笑ったようだった。
「これからは、ずっと夢を見ていられるのかな。誰も怨まなくて良いのかな」
狂骨はそう問う。美琴はそっと頷く。
「ええ」
「ふふ……、ありがとう。やっと、私はすくわれるんだ」
狂骨が静かに倒れる。大地に当たった骨は砕け、乾いた音が鳴った。
小町がその場所にやって来た時、美琴にひとつ礼を残して、そしてひとつの骨が砕けた。美琴はやりきれないという顔でそれを見つめ、それから小町に目を向けた。
あれが澄という女性だったのだろう。もう、全ては終わってしまったのか。
「彼女の呪いは、終わったんどすね」
小町は風に吹かれる狂骨の欠片を目で追いながら、そう言った。美琴は頷く。
「そう。終わったのよ。彼女はもう歌を謡わなくても、ずっと澄でいられるの」
美琴は刀を収める。狂骨の呪いは死神によって解かれ、彼女はここに眠り続ける。この、思い出の井戸の側で。
数日後、小町は恒を連れてあの井戸を訪れた。
井戸の様相は相変らずだが、もうそこに妖気を感じることはない。主を失い、ただの水の枯れた穴となったそれはどこか寂しげにも見えた。
百年以上もの間、澄はここで歌を謡っていた。もうその歌を誰かが聞くこともない。いや、もう謡う必要はなくなっのか。
「私、澄はんがどうしてこの井戸に拘り続けたのか、分かる気がするわ」
小町はそっと指先で井戸側の石組に振れる。冬の風に凍えた石は、痛いくらいに冷たかった。
最後に澄が残したあの小さな家は、小町が頼んで明願寺の住職に供養してもらった。彼には詳しいことは伝えなかったけれど、全て分かっているようだった。
「この場所で死んだから、というだけじゃないんだろうね」
恒がそう言い、小町は頷いた。
「ここが正治さんとの思い出の場所やったから、なんやろうね。子供の頃に一緒に遊んで、最後の時にもここで会おうと誓った場所なんやから」
狂骨はこの井戸が好きだったのだろう。再会を誓ったこの場所で、来ないと分かっていてもずっと恋人を待ち続けていたかった。好きだった歌を謡いながら。
決して訪れることのない夢だと知っていても、その甘美な幻想から逃れたくなかったのだろう。
肉が朽ち、骨だけとなったとしても、その想いだけは捨てたくなかった。
「この井戸は澄さんを狂骨にすると同時に、澄さんをその呪いから守り続けたんだね」
恒がそう言った。矛盾しているようだけど、きっとそうなのだろう。あの井戸は澄が死した冥界への入り口であったとともに、彼女が人として幸福に生きた日々の証でもあったのだろうから。
だからきっと、この井戸は澄の願いを叶え続けていたのだ。
冬の風が一陣駆ける。それは井戸の中を吹き抜けて、寂しげな音を鳴らして空へと帰って行った。
異形紹介
・狂骨
江戸時代の妖怪絵師、鳥山石燕の著作『今昔百鬼拾遺』に描かれた妖怪。井戸の釣瓶から現れた白骨の幽霊の姿をしており、足はなく、手の先は曖昧にぼやけている。また頭部には白髪が生えており、両手をだらりと垂れた幽霊らしいポーズで描かれている。絵に添えられた文には「狂骨は井中の白骨なり。世の諺に 甚しき事をきやうこつといふも このうらみのはなはなだしきよりいふならん」と記されている。「キョウコツ」は激しい、けたたましいという意味を持つ神奈川県の方言で、狂骨の名を持つ妖怪の伝承はなく、石燕が創作した妖怪である可能性が高いことから、文章とは逆にこの言葉から妖怪「狂骨」が生み出されたのではないかと考えられることが多い。また『化物尽くし絵巻』において計宇古都奈之と言う名で、『怪物画本』には釣瓶女という名で同じ姿をした妖怪が描かれている。
京極夏彦『狂骨の夢』においてもタイトルに使われた白骨の妖怪。同作品内で中禅寺秋彦は狂骨は釣瓶火や釣瓶落としのような「上下する妖怪」、皿屋敷のお菊のような「井中の怨む妖怪」、煩悩から解き放たれ、謡い踊る野晒しの骸骨のような「骸骨の妖怪」の三題噺となっていると考察している。また妖怪研究家多田克己氏によれば、狂骨は軽忽とも掛けられており狂骨は死んでから粗忽に扱われた骨が怨んでいる妖怪であるというようにもとれるし、また胸骨が粗忽者であれば底つ者という洒落になるという。また甚だしいという意味を表す「きょうこつ」という方言から狂骨を一念無量の鬼になった死者であり、掬っても掬っても掬い切れぬ井戸水のように、救っても救っても成仏できない怨霊なのだろうと考察している。近年の妖怪を扱った作品においても狂骨は登場しており、テレビアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』(第五期)においては子供たちの名前の頭文字をいろは歌の順に襲い、その魂を食らう妖怪として描かれ、椎橋寛氏の漫画『ぬらりひょんの孫』においては京都妖怪の一体として登場し、活躍した。
また石燕は狂骨のほかにも「骨女」、「骸骨」といった骨の妖怪を描いており、骨女はお菊と並ぶ江戸の幽霊、『牡丹灯篭』のお露がモデルとなっている。また骸骨は仏性の邪魔になる五官を司る肉体を脱ぎ捨て、煩悩から解き放たれた存在として描かれているとされ、先述した煩悩から解き放たれた「骸骨の妖怪」を表しているとも考えられる。一方で骸骨の妖怪全てがこの世への執着を捨て去ったものであるとは言い難く、自分の怨みを果たすために歌う場合もある。鹿児島県や新潟県、また『黒甜瑣語』という書物に伝わる「歌い骸骨」と呼ばれる骸骨の怪異はある男の目の前で歌い、歌う骸骨を珍しがって金儲けに利用しようとしたその男が人前(身分の高い人間の前である場合が多い)にその骸骨をもって来て歌わせようとすると決して歌わず、それにより男は人を騙したという理由で殺されることとなる。するとその死を確認した骸骨が歌い出し、実は骸骨はその男に殺された人間のなれの果てだったと分かる、という筋書きになっている(骸骨が歌で男の罪を知らせることもある)。また先に挙げた骨女、お露もまた、生前に愛した男の元に死して骨となった後も執着し、通い続ける話である。




