三 狂骨の夢
筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 生いにけりしな 妹見ざるまに
くらべこし 振分髪も 肩すぎぬ 君ならずして 誰かあぐべき
私は現世をさ迷っていた。井戸の底から見える景色からは、全く見えはしなかった人の世界。それは私の中に残るおぼろげな記憶の中にあった景色とは随分と異なっているように思える。だけどそれがどう異なっているのか、それはもう思い出すことはできない。そして異なっているという感覚さえも、私はもうすぐ分からなくなるかもしれない。
私の心から、次第に記憶が消えて行く。それに気付いたのはいつだったろう。あの、女郎屋の主人を殺した時だったろうか。それさえももう曖昧だ。自分が殺したその人間の姿さえ、もう思い出すことができない。
ひとつ歩を進める度、体が痛む。この原因は覚えている。つい最近、私の井戸に現れたあの化け物のせいだ。人間の娘の中に巣くっていたあの怪物に、私は傷付けられた。その傷がまだ私の体を侵している。
傷が痛む度、私の中に新たな憎しみが湧き上がり、そして古い記憶が塗り潰される。私の心は次第に怨みに支配されて行っている。だから、早く私はあの家を取り返さなければならない。あの小さな人形の家の記憶さえも失くしてしまったら、私は私でなくなってしまう。
狂骨と呼ばれる妖となった私の中に巣くう呪い。それは私の心を怨嗟に染め上げ、そして私の思い出を奪って行く。
「色は匂へど、散りぬるを」
私は口ずさむ。それは私が幸福だった頃、覚えた歌。私はまだその歌を忘れていないことに安堵する。まだ、私は澄でいられている。
私は自身の大切な記憶が残っていることを確かめるために、過去を辿る。
「いろはにほへと、ちりぬるを」
幼い私は、井筒に腰掛けて学校で習ったばかりの歌を謡いながら井戸の水面に自分の顔を映していた。直後水の上に揺れる私の隣に、もう人の姿が映った。隣の家に住む正治の顔だ。
「次何だっけ? わか……わか……」
「わかよたれそ、だろ」
正治が何やら木の棒を振り回しながら答えてくれた。そだった。そしてその次はつねならむだ。
「どういう意味なんだろ」
「あのお寺のお坊さんに聞いたら諸行無常を謡った歌だって言ってたけど」
「良く分からないね」
そう言って私が笑うと、彼もつられたのか笑ってくれた。
「今度聞きに行ってみようよ。あとそういえば俺こんなもの作ったんだ。お前にやるよ」
正治はそう言って、私に小さな家をくれた。小枝や木片を組み合わせて作られた、小さくて可愛らしい家だった。
私が以前、持っているお人形の家が欲しいなんて言ったことを覚えていてくれたのだろうか。私のお人形の家としてはちょっと小さかったけれど、私のために作ってくれたことが嬉しかった。
「ありがとう!」
私がその小さな家を胸に抱きかかえてそうお礼をすると、彼は照れ臭そうに眼を背けて頭を掻いた。
正治とは幼馴染だった。歳はひとつ彼の方が上だったけれど、家同士がすぐ隣だったから良く遊んでいた。あの頃は何も考えなくとも、ただ二人でいることが楽しかった。
時は明治の初め。私が生まれたのが明治になってすぐの頃だったというから、どれほど明治になって時代が変わったのか、それとも江戸と変わらない部分がほとんどだったのか、それは良く分からなかった。
いや、忘れてしまっただけなのかもしれない。あの井戸と正治の記憶以外、私の中ではどんどん曖昧になっている。
ただ子供の頃はそんな難しいことを考えなくとも生きて行けたのは確かだったろう。学校に行って学び、親の言いつけに従って手伝い、そして友達と遊ぶ。それだけで毎日は過ぎて行った。
私は幸せだったのだろう。あの頃は、そんなこと思いもしなかったけれど。それに、私の側にはいつも正治がいてくれたのだから。
正治とは良く学校の近くのお寺に遊びに行ったのを覚えている。いろは歌の意味を教えてくれたのも、そこのお坊さんだった。
「あの歌には色々な解釈があるのだけどね、一般的には仏教で言う諸行無常を表していると言うわれているんだよ」
私たちが良く分からないと言うように首を傾げると、お坊さんは優しく笑って教えてくれた。
「色は匂へど散りぬるを、我が世誰そ常ならむ。これはどんなに綺麗に咲き誇った花だっていつかは散ってしまうように、この世にはずっと同じのままでいられるものはないということを歌っているんだよ。そして次の有為の奥山今日超えて、あさき夢見じ酔ひもせず、というのは因果によって生じるこの世の全ての存在、つまり日々の出来事全てを越えて行き、儚い夢に酔い耽ったりはせずに生きて行くことで、人は仏様になれるんだと、そう歌っているんだよ」
難しいが、幼い私にも何となくは理解できた。同時に他の子供たちが知らないことを知っている自分が何だか誇らしくなったりした。いろは歌は、そういう気持ちを持つことの無意味さを歌っているはずなのだけれど。でも、その歌の意味は私の心に強く残った。
そう、どんなものだっていつかは変わり、滅びてしまうものなのだ。私と正治が、いつまでも同じ関係ではいられなかったように。そして私の人生が、転落に向かって行ったように。
少し歳を経てからはいつも一緒にいるのは気恥ずかしくて、前に比べれば共に時間を過ごすことは少なくなったけれど、それでも会えば話したし、彼と会話をしている時は他の誰とよりも楽しかった。
今思えば、それは淡い恋慕だったのだろう。あのままの日常が続いていれば、もしかすれば私と正治は結ばれていたのかもしれない。そんなことを夢見る希望だって、私には残されていた。
そんな私の生活が一変したのは、私が十五の頃のことだった。私の家は酒造を家業としていたが、いつの日からか父が女郎屋に通うようになり始めた頃から歯車が狂い始めた。
一人の女郎に熱を上げた父は碌に仕事もせず、女郎屋に通うようになった。そのうち店の金に手を出すようになるまで時間はかからなかった。
そして、瞬く間に店は傾いていった。母や兄や私がどんなに頑張っても、その現実は止められなかった。
そして私の父は巨額の借財を残したまま首を吊った。私たちに全てを残して、自分だけ逃げたのだ。本当にずるい男だった。
祖母も母も兄も私も、父を怨むような暇さえなくただ必死になって働き続けた。だけど借金は簡単に返せるような額ではなかった。働けど働けど終わりは見えず、そのうち過労で祖母は死に、兄も倒れた。父が廓狂いになった後も気丈に一人店を支えていた母も、もう限界のようだった。
正治に会うこともできぬまま私は働き続け、そして最後には、廓へとその身を売られることとなった。私は、私の日常を壊した女郎屋に身を捧げることとなったのだ。私にそれを告げる母は、今まで見たことが無いくらいに泣いていたように思う。もう、その顔だって思い出せないのだけれど。
女衒に連れられて家を離れるその前日の夜、私は正治にあの井戸の前に呼ばれた。それが彼と会う最後の日となると思うと、私の心は潰されるように痛かった。
久々に見る正治は、頬がこけて目の下に隈をつくって、とてもやつれたような顔をしていた。自分が売られる訳でもないのに、私のためにそんな顔をすることにまた心が痛み、同時に私のことを想ってくれることが嬉しかった。
「昔良くここで遊んだよな」
季節は冬だった。凍えるような空気に白い息を吐きながら、昔よりも幾分も低くなった声で、正治はそんなことを言った。
「あの頃は、楽しかった」
私は井筒に腰を下ろしてそう言った。あの頃二人で背を比べた井筒は、今はもう私の背よりもずっと低くなってしまった。
「本当に、私の人生って何だったんだろうね。もうここには帰って来られないのかな」
口に出すと本当にそうなってしまいそうで、私の目の奥が熱くなった。だけどそれは十分考えられることだった。女郎屋に売られて帰って来た女など、私は見たことがない。
私は終わりのない無間地獄に落ち続けるのだ。私はそう覚悟していた。
「俺にはお前がどんなに辛いか分かるなんて、そんな軽薄なことは言えないけど、でも絶対にいつか俺はお前を迎えに行くから」
正治は私の目を見ないまま、そう言った。そんなことが本当にできるなんて思わなかったけど、それでも私は嬉しかった。彼が私のことをそんな風に思ってくれていると知れただけで、救われた。
「いつかもし、私がここに戻って来られたら、またこの井戸で会おうよ。それまで待っていてくれる?」
きっと無理だと分かっていても、そんな甘い幻想に浸りたかった。絶望しかない未来の中に、たった一粒でも希望が見出せるなら、その方が絶対に良い。
そうでなければ、本当に私は何のために生きているのか、分からなくなってしまうだろうから。
私は昔正治から貰ったあの小さな家を、今度は彼に渡した。女郎屋に行ったら、失くしてしまうかもしれないから。いつかまた会えた時、改めて渡して欲しいとそう頼んだ。
それから正治とは昔のことを語らって、そして真夜中が来る前に別れた。
本当は夜が明けるまで一緒にいたかった。少しでも長い間、迫る現実から目を背けていたかった。眠ってしまえば明日が来る。それが嫌だったから。
しかし時が止まることはない。次の日、女衒がやって来て、私は女郎屋に売られた。そして父の拵えた借財を返すために、ひたすら働き続けた。この無間地獄の中で。
好きでもない男のために芸をし、体を売り、心と体を摩耗させながら働いた。自由なんてものはなく、店には物のように使われた。
私は憎い父の借金を返すため、そして家族のために何もかもを捨てたのだ。最初の頃は悔しさと虚しさが心を支配し、そして一年も経つ頃にはそれさえもなくなった。私は無心のままに、ただ店のために客を取った。
それでも、正治のことだけは忘れなかった。声も姿も鮮明に思い出すことができた。
「色は匂へど、散りぬるを。我が世誰そ、常ならむ」
私は一人になるといろは歌を謡った。この店では幾つも歌を教えられたけど、いろは歌はまだ私が幸福だった時、彼と一緒に覚えた特別な歌だから。彼を思い出すために私は謡った。それに世の無常を謡ったその言葉が、私には相応しように思えた。
いつかはこの店を出られると店の主人は言った。だが私は信じなかった。何にもの遊女たちがこの店から出ることなく死んで行くのを私は見た。病に侵されても満足には治療させてもらえず、そのまま息絶えるもの。客の男と駆け落ちしようとして捕えられ、折檻の末に命を落とすもの。
そんな女たちを見続けていて、私だけは希望を持つものかとそう固く誓った。そう、誓っていたのに……。
なのに、私はまた夢を持ってしまった。正治が、彼が本当にやって来たのだ。私が二十になってすぐの頃だった。
彼の家だって決して裕福な訳ではない。だが彼は自分で働き溜めた金を持って、客として私の元へ訪れた。
久々に正治の姿を見たときは、喜びよりもまず驚きが勝ったことを覚えている。もう二度と会えないと思っていたし、何より汚れてしまった私を見てほしくないと、いつの間にかそう思うようになってしまった私に気が付いた。
当たり前のことだが、正治は記憶の中の姿よりも成長し、大人びていた。それでも昔の彼の面影はそれに比べて私はどうだったろう。身も心も擦れて、全くの別人のようになっていたのではなかろうか。でも私は正治の姿は思い出せても私自身の姿はもう覚えていない。嫌な、残して置きたいとは思えない記憶から、私の憎しみに潰されて行っているのかもしれない。
「私を抱きに来たの?」
私が問うと、彼ははっきりと首を横に振った。そして「あの日の約束を果たしに来た」と、そう言った。
どこまでも愚直な人だと思った。そんなことができるはずがないのに。それでも私は嬉しかった。嬉しくて、嬉しくて、それで、私はうたかたの夢を持ってしまった。
彼と一緒に、この地獄から出たいと、また新しい日々を歩みたいと、望んでしまったのだ。そんなことは叶わぬ夢だと知っていたはずなのに。
正治と色々な話をした。子供の頃の話。それから、ここを出た後の話。過去の話も、未来の話も、その中の私はこの地獄にはいなかった。
そして彼はそんな明るい世界で一緒になろうと言ってくれた。私も彼と一緒になれるのなら、砂浜の砂一粒程の望みにだって賭けてみたいと、そう思った。
「行こう」
彼が言った。力強い言葉だった。私は彼に手を伸ばした。その手を正治が握った。
二階の窓を正治が開けると、その向こうから風が舞い込んで来た。この先に自由がある。私は正治とともに窓枠を超えた。
夜の風はとても心地よかった。私はそれまでの人生で一番と言えるほど必死に走った。足が千切れても良いぐらいの覚悟だった。
「もしはぐれたら、時間を置いてあの井戸の前で会おう」
彼は走りながらそう言った。あの女郎屋から私たちの生家は遠い訳ではない。見つからないという保証はなかったが、長い間を全く別々の世界で生きてきて、そして再会した私たち二人が知っている場所といえば、あそこぐらいだった。
それに井戸は、他界とこの世界を繋げる場所なのだから。
あの時は、本気で逃げられるのだと信じていた。今思えば何と愚かなことだったのだろう。それでも私はあの時だけ、数年ぶりに人間でいられた。
だけれど、私のうたかたの夢は、すぐに割れて散ってしまった。
私たちは手を取り合って逃げ続けた。とにかく遠くへ、店の人間たちの手の届かないところへ。そう思って走り続けた。
だが相手には駆け落ちする女郎を捕えるなど慣れた仕事だったのだろう。すぐに私たちは見つかった。正治は私を庇おうとして散々に殴られ、そして私は女郎屋に連れ戻された。
駆け落ちした遊女に待っていることは決まっている。私はひたすら折檻を受けた。普段も折檻を受けることはあったが、体が売り物である遊女の場合には体を傷付けないため、針やくすぐりなどで痛めつけられることがほとんどだった。
だが今回は違う。私の骨は砕かれ、爪は剥がされ、皮と肉は切り裂かれた。自分でも生きているのが不思議なぐらいに痛めつけられて、そして。
「これはあんたの情夫のもんだってさ。どう? お前があんなことをしたせいで。そいつも殺されちまったんだろうにね、可哀想に」
私の折檻を担当していた遣り手がそう投げやりに言った。彼女が投げてよこした布は、霞み目で良く見ればあの日正治が来ていた和服だった。
所々に刃物で切られたような跡があった。それにこびり付いた血の跡も。
私はそれに縋りついた。泣きたかったのに、消耗した私の体は涙を流すことさえも拒否していた。私のために彼は死んだ、それなのに。
私は彼の着物を探った。そしてその懐に、かつて彼が私にくれたあの人形の家が仕舞われていたのを見つけた。幸いにも壊れてはいないようだった。それを取り出して、私は涙を出せぬままに泣いた。
そしてその刹那、私の中で消えかけていた意思が甦った。絶対に、絶対にこの店を出てやるのだと。こんなところで死んでやるものかと。
彼らは私から自由も、正治も奪って行った。私の命まで奪わせてなるものか。
私の両手は手鎖で縛られ、そこから伸びる長い鎖の先には重い古金が括りつけられていた。ここから逃げないようにというよりも、ただ何をするにせよ動くことを不自由にさせるがために付けられたような、嫌がらせのような重りだった。私はその憎々しい重りを両手で何とか持ち上げた。腕が軋むように痛い。だがそんなことはもう些細な問題だった。
自分にこんな力が残っているなんて思ってもいなかった。今思えば、もうあの時の私は人を辞めようとしていたのかもしれない。憎しみは人を鬼へと変えるのだから。
私はそれを頭上に掲げると、遣り手の女の脳天に叩きつけた。骨と肉が砕け、汚らしい液体が飛び散った。
女は何度か震えて、そのまま動かなくなった。私は重りを抱えたまま、女郎屋を出た。もう自由になろうなんて思っていない。ただあのものたちの思い通りにはならない。
私は女郎としては死んではやらぬ。ただ澄という一人の人間として死に、そしてこの世を怨むのだと、そう心に決めていた。
異形紹介
・巣くうもの
2ちゃんねるの「洒落にならない程怖い話を集めてみない?」スレッドに投稿された怪談のひとつ。後にいくつか続編が投稿されるが、今回は最初に投稿された「巣くうもの」と呼ばれる怪談と、そこに現れる怪異について解説する。初出は2009年2月28日。
この怪談においては二種類の怪異が出現する。ある地方大学の学生であった語り手と、その友人であり霊感を持つA、怪談好きのB、そして友人のC他6人のグループが、ある心霊スポットとされる空き家を訪れる。そこで彼らは古井戸を見つけ、その中に小さな和式の人形の家を見つけることとなる。
ひとつめの怪異はその井戸を一人が覗きこんだ時その直後に現れたもので、井戸の中から金属音を鳴らしながら彼らに向かって近付いてきたという。姿は描写されてず、具体的な正体についても怪談中では特に語られない。そしてもうひとつの怪異は先に紹介したBの体の中に潜んでいた物で、白いんだかグレーなんだか透明なんだか、煙なんだか人影なんだか、何か良く解らない「何か」と表現されている。その何かはBの方へと近付いてきた古井戸の怪異と戦い、足止めをしている際に語り手たちはその場所から逃げたと語られている。AによればBを自分の家のように扱っており、その住処を壊されないためにBを守ったのだとされる。
この怪談中では巣くうものという名称は出て来ず、古井戸に巣くっていた怪異を指しているのかBの中に巣くっていた怪異を指しているのか、それともどちらも含めた名称なのかは不明。また井戸の怪異に関しては、Bの口から「神様が最悪の状態になったみたいな感じだった」と表現されている。
井戸神と呼ばれる井戸に住む神の存在は古くから民俗社会上では伝えられており、神聖なものであると同時に人を井戸に引き摺りこむなど恐ろしい存在として語られることもある。また、井戸は河童や小豆とぎなど、妖怪が出現する場所としても語られていた。
そして井中の白骨と称される狂骨もまた、井戸に纏わる怪異のひとつである。




