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黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第四一話 屍は謡う
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一 巣くうもの

狂骨きょうこつ井中せいちゅうの白骨なり

世の諺に 甚しき事をきやうこつといふも このうらみのはなはなだしきよりいふならん

鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より

 色は匂へど散りぬるを、我が世誰そ、常ならむ。

 私はそう口ずさんだ。誰に聞かせようなどとは思っていない。ただこれは、私が幸福だった頃に覚えた歌だから、あの頃を思い出すために私は謡う。もう、あの頃からどれくらいの時が経ってしまったのかは分からないけれど。

 ここから見えるのは、ただ色を変え続ける空のみだから。私は他に何も考えずに済んだ。ただ己の過去に浸ることができた。ここで密やかに暮らすことが私の幸せだった。誰にも邪魔されず、ただひっそりと。

 だがこの世にただ変わらずにいられるものなんてない。肉は朽ち、いつか骨が砕けるように。

 たったひとつの私の拠り所があの男たちに奪われた時、私は私を囲む石の壁に指を這わせていた。

 皮と肉の朽ちた両腕の指が、少しずつ私を上へと持ち上げて行く。


第四一話「かばねは謡う」


 その古井戸には、何かが潜んでいるのだという。大学生、愛宕あたごは同じサークルの友人四人とともに、季節外れの肝試しのためその場所を訪れていた。

 事の発端は、愛宕と同じ大学に通うある友人たちの体験談だった。怪談好きの馬場という女子と誰かもう一人の提案で企画された肝試し、その舞台になったのがこの一軒の廃墟だったという。

 そこには所謂霊感があるとか言う噂の新垣もいたようだが、彼女と一緒にいた男友達にことの詳細を聞いたところどうやら本当に出た、ということだった。

 彼は馬場に憑いている何か怪物のようなものに助けられたなんて言っていたが、それも新垣が話していたことらしい。そもそも自分で霊感があるなどという人物を愛宕は信じていなかった。

 友人が自分たちも同じ場所で肝試しをしようと提案した時、その話に乗ったのはそれを確かめてやろうと言う気持ちが湧いてきたせいもある。

 目の前に建つ人の住まない家には、特に変わった部分は見受けられない。精々三十年ぐらい前に建てられたものだろう。夜だから不気味な雰囲気はあるものの、昼間見ればただの汚い家にしか見えないように思う。

 だが、友人から聞いた怪談の舞台はこの家そのものではない。それはこの家の裏にある朽ち廃れた井戸だ。

 井戸はその家から少し離れた場所にぽつんと存在していた。愛宕がそこに辿り着くと、既に他の四人が地面に空いた人工の穴を覗いていた。

「あいつらが言ってた人形の家ってあれか?」

 人ひとりなら簡単に落ちてしまいそうな暗い穴の内側に、懐中電灯の光の束が当てられている。水はとうに枯れているようで、穴の底には捨てられたゴミが散乱していた。その中に小さな家の形をした物体がある。

 藁ぶき屋根の、古い日本の民家の形をしているようだった。誰かが落としたのだろうか。新垣の話によればあれが悪霊の拠り所になっているとか、そんなことを言っていたようだが。

 一人が井戸の中に梯子を下ろし始めた。どうやら事前に用意していたらしい。あまり話したこともない人間なので名前もおぼろげだが、愛宕の前でその男はするすると井戸を下って行き、そしてあの小さな家を片手に持って上って来た。

「これあいつらに見せたらびびるぜ多分」

 へらへらと笑いながら片手に家を持った男が言った。あいつらとは新垣たちのことだろうか。怖がるより怒る気もするが、自分には関係のないことだった。ただ何となく暇潰しに来てみただけだし、そもそも祟りなんて信じていない。

 愛宕はそう思いながら、はしゃぐ他の人間たちから井戸に視線をずらす。暗い闇の底からは、新垣たちが聞いたと言う金属音なんて聞こえては来なかった。大方、彼らが話を盛ったのだろう。

 一通り友人たちが馬鹿騒ぎしているのを見届けてから、つまらなくなって愛宕はその場を後にした。




 すぐ隣の町で、立て続けに三人の男子大学生が不審な死を遂げたらしい。それだけなら悲しいことにさほど珍しいことでもないし、学校で少々噂になるぐらいなのだろうけど、今回は少し違っていた。下校のため鞄に教科書を詰めながら、小町の耳は同級生たちの噂話を拾っている。

「隣のクラスの男子がさぁ、あの井戸行ってみるとか言ってた~」

「ヤバくない? だって死んだ三人の共通点ってあの噂になってた井戸で何かやらかしたってことなんでしょ?」

「そうそう。それ話したらじゃあ俺が確かめてやるってさ。まあどうせ行かないんだろうけどね」

 けらけらと笑い声が聞こえる。彼女たちもその男子も、怪談を本気にはしていないのだろう。

 小町は右肩に鞄を掛け、一人席を立った。今日は恒と玄関で待ち合わせしている。少しだけ気分を弾ませながら、上靴で廊下の表面を叩いて進む。

 恒は約束通り正面玄関で待っていた。小町が近付いて行くと気が付いて手を小さく上げる。

「お待たせ!」

 小走りで駆け寄り、そう笑い掛ける。屋内とはいえもう季節は冬。碌に暖房なんて効いていない玄関は、息が白くなりそうなぐらい寒い。

 今日は特に冷える。小町は右手に嵌めた手袋を引っ張り、手に馴染ませる。狐の姿ならば毛皮があるが、人の姿に変化している時は何か身に纏わねば防寒せねばならない。

 恒とともに外に出ると、木枯らしがひとつ吹き去った。小町はマフラーに自身の顔を埋め、くぐもった声で恒に問う。

「恒ちゃんのクラスでは井戸に行った人たちが殺されてる、って事件噂になっとる?」

「井戸の幽霊だとか怪物だとかがいるって話? 今朝飯田が熱く語ってたよ」

 苦笑いを浮かべながら恒が答えた。飯田は恒の友人で、妖怪やらオカルトやらという類のものが滅法好きらしい。

「飯田君なら知っとるかぁ。今回の事件が起こる前から心霊スポットとして有名みたいやったし」

 そんな話をクラスメイトがしていた。何でも明治時代に自殺したんだか殺されんたんだかした女郎の霊が出るという。あり得ない話ではないが、今の時点では何とも言えない。

「そうそう。水場は霊が出やすいだとか、井戸は冥界に繋がっているとか言ってた」

 話していると突然冷たい突風が吹き込んで来て、思わず身を竦める。ここからバス停まではそこまで距離はないが、この季節だと結構堪える。

「水場は昔から彼岸と此岸の境界だなんて言われることは多いものね。それに井戸に出る幽霊なんて、私は去年ことを思い出すわ」

 去年の六月、小町は恒とともに井戸に纏わるある怪事件に関わった。

 井戸に夜な夜な女性の幽霊が現れるというとある豪邸。美琴とともにそこを訪れた二人は、その女性が死した本当の理由を探り出し、そしてその魂が天へ昇るのを見届けた。

「うん、僕も覚えてる。今回も何か成仏できない理由がある幽霊なのかな」

 恒はしんみりとした調子で言う。そうだとしたら、彼は件の井戸へと赴くのだろうか。幼ない頃彼が初めて出会った幽霊、その子が恒に自分のように他の人には見えない幽霊たちを救ってほしいと、そう言ったそうだ。

 それ故なのか、彼は救われない霊を自分から助けに行こうとすることが多い。困っている人がいれば助けようとするから生来の彼の性格もあるのだろうけど。

 もうこの世にはいない、けれど恒に大きな影響を与えた美樹と言う少女を思い出して少し嫉妬している自分に気付き、小町は小さく頭を振った。

「そうやねぇ。美琴様に聞けば何か知っとるかもしれへんね。この辺りで起きたことやし」

 もう三人も死者が出ているのだ。何か関連があるのだとしたら、確実に美琴が動くだろう。

 バスが来るにはもう少し時間があるようだ。まだ四時になっていないが、黄泉国に着く頃には空が暗くなっていそうだ。最近は陽が落ちるのも早い。

「井戸と言えば、私たちも小さい頃よく遊んでたお寺にあったの覚えとる?」

「そんなのあったね。明願寺だっけ? あそこにはもう何年も行ってないけど」

 小学校の近くにあった古い寺。そこで良く恒と一緒に遊んだのを覚えている。あまり有名な寺ではないのか、人がいるのはほとんど見たことが無かった。ただたまに住職と思しき人と話したり、お菓子をもらったりした。子供好きの人だったのかもしれない。

 その寺には古い井戸があった。少なくともその頃にはまだ使われていたようで、井戸の中には水が湛えられていた。

 異界には井戸なんてそこら中にあるから、小町は別に何も思わなかった。だが恒には珍しかったようで、良く興味深そうに眺めていたのを覚えている。

「あの井戸には幽霊はいなかったけど」

「まあお寺の井戸やしね。何かいてもお坊さんが成仏させてたんやないの? あそこのお坊さん優しそうやったし」

 全ての坊主に霊感があるとは思わないが、少なくともあそこに霊がいなかったのは小町も知っている。

 井戸は確かに霊が集まり易い場所の一つだ。水場は霊気が溜まり易いのと同時に、井戸は古くから怪異譚の舞台にもなっている。そういった人々の思いが霊気となり、井戸に幽霊を呼び込むのかもしれない。

 そんなことを考えているうちにバスが来た。扉が開くのを待ち、二人で乗り込む。




 寒風の中、白いセーターに身を包んだ少女が古井戸の前に立っている。風に乱れた長い黒髪を撫でつけながら、少女は井戸を覗き込む。

 黒い瞳が紫に染まり、井戸の底に溜まる妖気を捉える。だがそこに妖の姿はない。この井戸の中で眠っていた彼女は、やはり目覚めてしまったのか。

「井戸を、出てしまったのね」

 美琴は自身を映す水さえもなくなってしまった古井戸に向かって、そう言葉を落とした。

 この井戸の中に眠っていた妖はよく歌を謡っていた。美琴も聞いたことがある。あれはいろは歌だった。この井中せいちゅうで死に、妖となったある女性が好きだった歌。

 彼女は何を想い、この井中から這い出したのだろう。美琴は井戸に背を向け歩き出しながら、紫の瞳を黒に戻した。




 ずしゃり、がしゃりと鉄の塊が何かに引き摺られるような音がする。その音を聞いて坂本はがたがたと身を震わせた。

 坂本は借りているアパートの押し入れの中で息を顰めていた。玄関の鍵は掛けたはずなのに、あれは確実にもう室内に入って来ている。

「色は匂へど、散りぬるを……」

 低く唸るような女の声が微かに聞こえた。男は悲鳴を上げないよう自分の口を押さえる。

 あの声を初めて聞いたのは一週間程前だった。友人と大学構内を歩いている時、耳の中に直接注がれるように女の声が聞こえたのだ。

 隣にいた友人も、同じ声を聞いたようだった。二人で顔を見合わせて、その時は真昼間だったこともあり、二人一緒に空耳でも聞いたのかと笑っていた。

 だが次の日、その友人が死んだ。外傷はなく、病気の痕跡もない不審な死だったらしい。勿論その時は驚いたが、まさかあの声が関係しているなんて考えなかった。だがそれが悪夢の始まりだった。

「勘弁してくれよ……」

 押し入れの外に漏れぬよう、囁くような声で呟く。化け物がまだ部屋の中をうろついている気配がある。

 あいつは自分を殺そうとしている。坂本はそう確信していた。自分の三人の友人があの化け物に殺されたように、自分も狙われている。

 友人が不審な死を遂げたその次の日、今度は別の友人が死んだ。先に死んだ友人と同じように外傷でも病気でもなくただ死んでいた。更なる問題は、その友人も同じように不可思議な女の声を聞いた話していたことだった。

 声を聞いた者たちの共通点。それは、ある心霊スポットに赴いたことだった。幽霊の祟りなんて非現実的なことを頭から信じている訳ではなかったが、死んだ二人が怪奇現象を体感した直後に不審な死を遂げたことを思うと、どうしても繋げて考えずにはいられなかった。

 あの日心霊スポットを訪れたのは五人。全員同じ大学の同じサークルに入っていた友人だ。そしてその時に生き残っていたのは自分を含めて三人。一人では不安が増すばかりだったため、坂本は彼らと連絡を取り合い、大学の食堂で会うこととなった。

 あまり話したことが無かった愛宕という男は幻聴のことを話しても鼻で笑うような態度を取っていたが、もう一人の友人は自分も聞いたと言い出して、それが益々坂本を不安にさせた。

「耳元でいろは歌が、昨日から何回も何回も聞こえて来るんだ。それに混じって許さないとか、返してとか、そんな声が聞こえて来るんだよ」

 そう友人は震える声で話していた。長身で体格の良い彼が子供のように震えている様子は、とても冗談を言っているようには見えなかった。

「それでさ、俺考えたんだけど、あいつが返してって言ってるのはあの家のことなんじゃないかって」

 そう言って、彼はテーブルの上に小さな家の模型のようなものを置いた。あの井戸の底に落ちていたものだ。

 汚れにまみれたそれが、その時は酷く禍々しいものに見えて坂本は目を背けた。

「あいつはこれを欲しがってんだよきっと。だからこれ返してこようぜ。そうじゃなきゃ俺たちまで殺されちまうよ」

「バカバカしい。幽霊に殺されるなんて本気で信じてるのかよ。二十も超えた大人がさ」

 愛宕が初めて口を開いた。本気で呆れている口ぶりだった。彼だけはあの恐ろしい声を聞いてはいないようだった。

「なら、お前がこの家持っててくれよ。そしたらあいつはお前のところに行くだろうから」

 そう言って友人は愛宕の方へ小さな家を押しやった。愛宕はじっとそれを見つめてから、また鼻で笑った。

「分かった。これを持ってればいいんだな? こんなもので震えるほど怖がるなんて、笑えるよ」

 そんな愛宕の言葉なんて聞こえていないように、友人はほっとした顔をしていた。余程あの家を持っているのが怖かったのだろう。同時に坂本もまた幾分か安堵していた。

 もし本当にあの家を幽霊が探しているのならば、もう狙われるのは愛宕だけになるだ。巻き込まれなくて済む。

 その時はそう思っていた。だがその翌日、あの家を愛宕に押し付けた友人が死んだという知らせを聞いた時、その安堵は吹き飛んだ。

 まだ幽霊は何かを探している。あの家が探しているものではなかったのか、それとも虱潰しに探して回っているのかは分からなかったが、あの恐ろしげな声は何度も彼の耳を苛んだ。

 次は自分の番なのだ。一体どうすれば良いのか分からなかった。寺や神社を尋ねてみても、皆怪訝な顔をするだけで助けてはくれなかった。今のご時世、神主や住職だからといって誰でも霊が祓えるなんてことはないのかもしれない。

 金属音が近付いて来て、坂本は我に返った。鉄の塊を引き摺るような音が次第に距離を縮めて来る。

「私の思い出を、返して……」

 押し入れの襖が開く。明りが点いたままの部屋に立つ人の影。

 男物の着物を羽織ったその女は、細い腕を坂本に向かって伸ばす。その腕から次第に皮が崩れ、肉が落ち、白骨が外気に晒される。

「私は許さない。私から奪うと言うのなら、そんなことはさせない……」

 骨の手が坂本の顔に触れる。氷を当てられたような感触とともに女の顔が迫る。

 肉が剥がれ、眼球が零れ落ち、ただの穴となった眼窩がんかが彼を見つめていた。もう逃れられない。抵抗することさえ無駄だと坂本は悟った。やがて意識が薄れて行く。坂本は化け物の怨念をその身に浴びながら、その命を手放した。



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