二 井戸の霊
「ほな青山はん、質問させてもらいます。よろしいどすか?」
小町が微笑みを見せて言った。このように、他者から情報を聞き出すのは、小町の得意分野だった。そのため、美琴に命じられてこうした仕事をするのは今回が初めてではない。今は恒がいるため、良いところを見せたいという気持ちもある。
青山はしばらく呆けたように美琴の出て行った襖を見ていたが、その言葉で正気に戻ったように、慌てて小町の方を見た。
「ああ、はい、どうぞ」
「まず、その幽霊というのは、生前あなたの知り合いだったということどすね?彼女のこと、詳しくお聞かせください」
青山は少しの間をおいて、ぽつぽつと語りだした。
「正子は、四年前、十八の時にこの屋敷に住みこみの女中としてやってきました。息子しかいなかった私は、実の娘のように可愛がっていたのですが、あるとき仕事でミスが続いて、私と妻は彼女を激しく非難しました。それがいけなかったのか、彼女は恋仲であった私の息子を殺し、自殺したのです」
「正子はんどすか。あなたの息子さんと恋仲であったというのは?」
「はい、どうやら私たちには秘密にしていたようなのですが、私の息子、純一郎と正子が二人で落ちあっている様子が他の女中に目撃されていますし、私自身もそれらしい場面を見ていました」
「そうどすか……」
小町はそう言ってから、恒の方を向いた。
「恒君は、何か質問ある?」
「ええと、では幽霊が出るようになったのはのは、いつ頃からなんですか?」
「確か、一ヶ月ほど前だったと思います。正子が死んで、一週間ほど経った頃です。正子は午前二時ごろになると毎晩のように現れ、『ひとつ、足りない……』と恨みがましい声で言うのです」
「ひとつ、たりない……?」
恒は何の事だかわからないという風に、首を捻った。それを横目に、小町が質問を続ける。
「まるで皿屋敷どすなあ。何か、彼女が壊してしまったものでもあるんどすか?」
「そんなこと、今となっては分かりません」
そう言って、青山は小町から目を逸らした。
「仕事の失敗をあなた方から非難され、最終的に自分の愛する者を殺して、自殺したんでしょう?そやけどそれだけで、人は殺人や自殺をするものでしょうかね?」
「そんなことは、私には分からん。だがしかし、責任感の強い娘だったのは確かです」
少し焦るような口調で、青山が言う。
「では、奥様の自殺の原因は、詳しくお聞かせできますか?」
青山は少しためらう様子をみせたが、静かに話しはじめた。
「家内、美香子は、毎日のよう言っていました。毎夜、枕元で、お正が私のことを見るんだと。それで息子のこともあり、精神的に衰弱してつい先日、首を吊ったのです」
「そうどすか……。では、私たちはこれで失礼します。おおきに」
小町が静かに立ち上がる。恒もそれを見て、慌てて立ち上がった。
「もう、いいんですか?」
安心したような、驚いたような不思議な声で青山が尋ねた。
「ええ、後は、実際に幽霊を見てみないことには対処法は分かりまへん。夜までは我々はなんもできまへんの」
小町はにっこりと青山に笑い掛けると、青山に背を向け、恒を後ろに引き散れて廊下に出た。
「何か分かったの?小町さん」
細く長い木の廊下を歩きながら、恒が尋ねた。
「多分、あの人は嘘をついてるやろうねぇ。何か隠したい事実でもあるんやないの?でも、それじゃあいくら質問しても意味ないわ」
「確かに、どこか様子が変だったけど。でもこれからどうするのさ?」
「とりあえず、美琴様の指示を仰ぐしかないやろうなぁ」
二人は、庭へと足を向けた。
美琴は、庭で井戸を覗いていた。傍から見れば、その光景は奇妙なものだろう。だが、今この庭には他に人はいない。高い塀に囲まれたこの屋敷では、外から覗く者もいない。
長い時を人の手に触れられずに過ごしたのであろう。石でできた表面には苔が生し、屋根はおろか水を汲み出すための釣瓶や桶もない。そんな、誰からも見放された狭い世界。境界は無くとも、それは異界だ。その中で、正子は一人その命を燃やしつくした。
地下へと掘られた暗い穴。人が落ちれば決してもう一人では戻れない深い穴。正子は、どのような気持ちでこの中で最後の時を過ごしたのだろうか。
美琴は紫に光る瞳で、暗い異界を見る。その闇に渦巻くのは怨嗟か悔恨か。穴の中にはどとらともとれない霊気が漂っている。そして、最も強いのは悲しみの念だった。ただ、穢れた霊気ではない。霊気の濃さからいってここに正子の霊が潜んでいるのは確かだ。だけど霊の数はひとつだけ。純一郎のものはない。それならば、答は二つに限られる。
青山の息子、純一郎が殺されたのは合意の上、つまり心中に近いものだったのか。それとも、正子は本当は、殺人なぞ犯してはいないのか。答は、二つに一つ。だがそれは考えるまでもない。
美琴はさらに井戸の奥へ意識を集中する。幽霊はこの世に強い思いを残して来たもの。霊力をし集中させれば、その記憶の断片くらいは読みとることができる。
正子の記憶が写真のような動かぬ数枚の画像のようにして、頭の中に流れ込んで来る。それを自分の記憶に留め、美琴は井戸の底から目を離す。
誰かがやって来る気配がした。美琴の瞳が紫から黒に戻る。美琴はそのまま気配の方に視線を向けた。良く知っている、二つの影が視界に入る。
小町と恒だ。質疑応答は終わったのだろう。
「お疲れ様。どうだった?」
「あの青山という男、嘘を付いていると思われますわ」
「やはりね。態度からしてそうだったもの。まあいいわ、とりあえず話したことを教えて」
小町が内容をおかいつまみ、短く先程の話を美琴に説明した。美琴は黙って聞いていたが、話が終わると、小さくため息をついた。人間は自分たちの保身のため、平気で嘘をつく。
その美琴に恒が話しかける。
「どうして、嘘をつく必要があるんでしょう」
「やましいことがあるのでしょうね。あの青山を見た時、穢れが見えたわ」
美琴はもう一度、井戸の暗闇を見つめた。
「やっぱり、悪いのはあの男の方どすか」
「そうね。この霊の魂を救い、嘘を暴くしかないでしょうね」
「穢れって、何なんですか?」
気まずそうに、恒が聞いた。
美琴は恒の方を向いて、静かな声で答える。
「穢れの霊気は恨みの記憶。誰かが恨みの念を持って、その恨みが正当な理由に基づくものであれば、恨みはね、その対象に取り憑くの。法律に背いたとかいう、人間界の罪とは別物なんだけど。私のような種族、つまり死神と呼ばれる種族は、それを第六感のようなもので捉える能力を持っている。そしてそれは、昔から穢れと呼ばれているわ」
美琴は屋敷の方に目を向けた。雲に陰り出した空を背景とするそれをじっと睨みつける。
「あの屋敷には、穢れが渦巻いている。正子という女性は大きな恨みを残してこの世を去った。だからこそ、幽霊となって現世に現れる。その魂が未ださ迷っている理由は、屋敷の中にある」
美琴が小町と恒の方に目を戻す。そして、落ち着いた声で、はっきりと命じた。
「小町、恒は聞き込みを続けて。ただしあの青山ではなく、この家に近いものたちにね。私はもう少しこの井戸を調べているわ」
小町たちと別れて、美琴は井戸の前でしばし思案していた。
この事件は、思ったよりも複雑なようだった。できるだけ情報を集めておいて損はない。もし正子が、以前の花子のように完全に妖怪化してしまえば、彼女の魂を救うことは不可能になる。
正子は殺人などしていない。美琴は心の中でそう確信していた。
青山は正子が息子を殺したと言ったそうだが、どうもその因果関係がはっきりしない。心中というわけでもなさそうだし、正子が殺すほどの恨みを息子に抱いていたとも思えない。単に青山が知らない理由があるのか、それとも何か隠しているのか。
そして青山の妻、美香子の自殺だ。なぜ、正子は毎晩妻の枕元に現れたのだろう。幽霊は基本、恨みの対象のもとに現れることが多い。つまり美香子が正子に対し、何か何か強い怨恨の対象になるようなことをしたということだ。どうも、生臭い匂いが纏わりつく。
この屋敷の白い壁は、赤い血の色を隠している。
美琴の命令を受けた小町と恒は、まずこの屋敷に住む女中たちに聞き込みを開始した。青山は今回の幽霊騒動で女中のほとんどが辞めてしまったと言っていたが、それでも四人の女中がこの屋敷にはまだ残っていた。四人とも年配の女性で、随分昔からこの屋敷に仕えているらしい。そのため、妻や子を失った青山への情もあるのだろう。
聞くところによれば、正子の父親は現在の社長である宗太郎の古い友人で、正子の父親と母親が事故で亡くなった際他に身寄りがなかった正子は、この屋敷に女中として引き取られた。まだ十代も半ばのころだったらしい。それが正子の過去のようだ。
それから数年間、正子は女中としてこの屋敷に仕えて来た。働きぶりは真面目で、物静かな女性だったようだ。女中たちからも評判は良かった。
そんな彼女が何故こんな事件を起こしたのか、それに答えられる女中はいなかった。ただ純一郎の母である美香子は息子を変質的なまでに溺愛していたようで、彼を巡って正子と美香子の間で小さな諍いはあったようだった。
三人は事件の晩にはもう部屋で休んでいたため、事件に関してはほとんど伝聞という形でしか知らないらしい。
正子は純一郎を殺し、自殺した。そしてその後美香子が自殺。青山の話とそっくり同じ話の筋書きだ。警察もそのように断定しているという。
しかし四人目からは、重要な情報を得ることができた。四人の中で最も古株の彼女は、事件当日、正子と美香子が争っている様子を見たという。
「その時のこと、詳しくお聞かせ下さいます?」
小町が尋ねる。
「はぁ、警察の方々にもお話しましたけど、それでいいのなら」
年老いた女中は、静かに語り始めた。
「静かな夜のことでした。私は仕事を終え、部屋で休んでいたのですが、微かに争うような声が聞こえて、心配で見に行ったんです。声はお正ちゃん、私や奥様は正子さんのことをそう呼んでいたのですが、と奥様の声でした。それは純一郎様の部屋から聞こえてきたのです。近付くほど、尋常な状況ではないことが分かりました。恐ろしかったのですが、私は声を掛けて、戸を開けました。すると、血だらけのお正ちゃんと奥様の姿がありました。お正ちゃんは血に濡れた包丁を持っていて、二人の奥に倒れた純一郎様の姿が見えたのです。私が悲鳴を上げると、お正ちゃんは包丁を落とし、私の側を走り抜けて逃げて行きました。それが、私がお正ちゃんを見た最後です」
「そのあとは、どうされたんどすか?」
「ええ、私は急いで警察に電話をして、それから様子を見に戻ったときにはもう、お正ちゃんは井戸の中に……」
そう言いながら、女中は表情を曇らせる。あまり思い出したくは無い出来事なのだろう。ずっと知っていたものが、ある日突然殺人犯になる。その現場を、彼女は見てしまったのだ。
「では、何かその日に至るまでで、正子はんの周りで変ったことなどは、ありまへんでしたか?」
「はい……、特に目立ったことはありませんでしたけど、ただ少し、奥様と揉めているようでした。純一郎様のことで。だから多分あの日、お正ちゃんは奥様の本に何かこぼしてしまったようで、奥様から執拗に攻められていました。それで、耐えられなくなったんじゃないですかね。だから、純一郎様を殺して、自分も自殺した。それが彼女に残された最後の解決方法だったんじゃないでしょうか」
「奥様は、正子はんのことを、あまり好きではなかったんどすかね」
「さあ。ただ、奥様はただ一人の子である純一郎様を溺愛なさっていましたから、我々のような下女の一人であるお正ちゃんと、純一郎様が深い関係にあるのを快くは思っていないようでしたが。それで、純一郎様とも時折喧嘩するようになって。そのためか、お正ちゃんを理不尽に怒ることもありました。お正ちゃんは、辛かったでしょうねぇ」
「随分、正子さんを擁護するんですね」
恒が静かに言った。彼女の話を聞く限り、正子は殺人犯だ。だが、女中の話振りからは、正子を責めるような様子は見受け得られない。むしろ同情しているようだった。女中は、目線を伏せる。
「ええ、正直に言って、私はお正ちゃんがあんなことをしたとは信じられないんです。あの子は本当に良い娘でした。よく働くし、気が付くし、それに何より心が優しい娘でした。早くに親を亡くして、ここに住み込みで働くためにやって来て、そんな彼女を私は娘や孫のように可愛がっていた。だから、お正ちゃんと純一郎様がお付き合いするようになってからはひそかに応援してたんです。ここに来てからお正ちゃんは、ずっと、どこか悲しい顔をしていた。きっと寂しかったんでしょう。そんな彼女が、やっと幸せになれそうだったのに、こんな形で終わるなんて」
年老いた女中は、涙ぐんだ声でそう言った。
「あなたは、正子さんが犯人だと信じているのですか?」
恒が尋ねる。
「そりゃあ信じたくはありません、でも、私はお正ちゃんが血まみれの包丁を持っているところを見てしまったし、警察の調査でもそうなっています。私個人では、そう信じる以外にはありません」
弱々しい声で女中は言った。恒はそれ以上何も言わずに黙り込む。
「ところで、正子はんの部屋はまだ残ってます?」
そう発言したのは小町だった。
「はい、そのまま残っておりますが……」
「ほな、案内をお願いいたします。よろしいどすか?」
「ええ、こちらです」
三河が歩き出す。小町と恒もそれを追って廊下を進む。
大きな屋敷の奥、女中の部屋が並んだ一角の一番隅に正子の部屋はあった。




