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黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第三九話 空の煙
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四 空の煙

「アタシもね、ずっと昔どんなことをしてでも会いたい人がいて、その人に会うために自分の家に火をつけたことがあるんだよ」

 蓮華は優しげな口調で語る。一ノ瀬は薄ぼんやりと瞼を開けていた。聞こえているのかは分からない。だが、飛縁魔は言葉を続ける。

「そんなことをしても、何にもならなかったけどね。人生そんなもんさね。だからあんたもこんな馬鹿なことはおよしよ」

 飛縁魔は火車に目で合図した。良介は頷き、一ノ瀬を抱き抱える。それを見つつ、飛縁魔は柔らかな声で言う。

「それにアタシはあんたに言ったじゃないさ。人は死んで煙になるさ。でも、それで終わりじゃないだろう?」

 一ノ瀬が微かに自分に視線を向けたように飛縁魔には思えた。蓮華は微笑みかける。きっと思い出してくれるはずだ。

「さあ良介、弘美ちゃんを頼んだよ」

「ああ、お前も早く出て来いよ」

 良介が一ノ瀬を抱えたまま炎を中に消える。あの男ならばあのまま無事に彼女を外へと連れ出してくれるだろう。

 飛縁魔は橙色に染まる室内を見渡した。彼女はもう少しこの炎の中にいる必要があった。飛縁魔は自身の妖力より生まれた橙色の炎に再び妖力を加える。

 この炎は、彼女を傷付けるためだけには使いたくなかった。それが一ノ瀬に燐寸(マッチ)を渡した理由でもある。もう炎が彼女から何も奪わないよう、蓮華は炎から物を燃やす力を取り除く。これで良い。しかし妖気を纏った炎からは燃やすものがなくとも煙は生じ続ける。そしてそれが一ノ瀬にとっては全ての元凶だ。

 飛縁魔は振り返る。陽炎に揺れる煙の向こうに、紫色の和装を纏った少女が立つ。




「来てくれたんだね、死神さん」

 美琴はただ黙したまま頷いた。蓮華は美琴の方へと振り返る。

 火の粉が舞い、二人の女妖の間で消える。飛縁魔と死神は炎の中で対話する。

「あの子はね、人が煙になった後、どうなるのか忘れちまってるんだよ。だから、それを思い出させてやって欲しいのさ」

 蓮華は灼熱の中、静かに、しかしよく通る声で口ずさむ。

「空の煙となりぬとも、さ」

 それは『源氏物語』において、柏木(かしわぎ)女三宮(おんなさんのみや)に送った歌の一節。美琴は蓮華の言葉に含まれた意味を察し、頷いた。

「夕べはわきて眺めさせたまへ、ね。分かったわ。あなたは弘美さんの側にいて、それを思い出させてあげて。煙々羅は私に任せて」

「恩に着るよ」

 飛縁魔が陽炎(かげろう)の向こうに消える。

 美琴は思う。人が人を激しく思い焦がれる様子を思ひの煙といった。煙は人の想いを映すものなのかもしれぬ。形の定まらぬ煙はその者の見たいものへと姿を変える。そうしてある一人の人間の心から煙々羅という妖は生まれたのだろうか。

 美琴は一人炎の中、そっと呟く。

「さあ、あなたが彼女に見せたかったものを見せましょうか」

 死神は炎から立ち昇る煙を見る。煙に浮かぶ顔たちは、彼女を見て笑っている。

 そして、死神は彼らに不敵な笑みを返した。




「それにアタシはあんたに言ったじゃないさ。人は死んで煙になるさ。でも、それで終わりじゃないだろう?」

 朦朧とする意識の中に、そんな声が微かに聞こえて来た。

 誰かが私の体を抱える。ここから連れ出すつもりなのだ。どうしてそんなことをするのだろう。もうすぐ、皆と一緒になれるのに。何故邪魔をするのだろう。

 ほら、皆が怒っている。とても怖い顔をしている。私を連れ戻そうと腕を伸ばして……。

 その直後、硝子が割れる音とともに私の体は涼しい外気に包まれた。煙が、煙が離れてしまう。

 新鮮な空気が急に肺に入って来て、私は咳き込んだ。でもそのお陰で意識がはっきりとする。そして私は自分の家が燃えていることに気が付いた。

 覚えている。私が火をつけたんだ。みんなと一緒になりたくて。でも、それは邪魔されてしまった。どうして私なんかを助けるのだろう。

 炎の中から蓮華さんが出て来るのが見えた。私のためにあの火の中にいたのだろうか。どうして、彼女が。

 私の家だったものから立ち昇る煙に浮かぶ四つの顔は、とても恨めしそうな表情で私を見つめている。きっと彼らも悔しいんだ。また私と一緒に暮せたはずなのに。

 蓮華さんが近付いて来る。そして口の両端を釣り上げて、とても嬉しそうに私に笑いかけた。

「さあ、あんたの中を覆っちまって離れないその煙、あの死神が払ってくれるよ」

 蓮華さんが言った。何のことだかわからないまま、私は彼女の視線を辿る。

 燃え盛る家屋、その今にも崩れそうに思える屋根の上に、紫色の和装を纏った少女が立っていた。

 死神と呼ばれた少女はこちらを一度だけ見て、そして屋根を蹴る。炎と煙の中で死神の右手が刀を抜いた。そして、その刃は振り抜かれる。

 紫色の直線が煙々羅を切り裂いた。私の夫の、母の、父の、弟の顔はそのたった一振りの刀によって掻き消える。

 そして黒と灰色に覆われていた景色の向こうに、青く澄み渡った空が覗いた。




 ああ、思い出した。私が貰ったあの言葉の続き。幼い私は火事で家族を失って、それが受け入れられなくて、良く伯父と伯母の家を飛び出して一人で公園に走ったんだ。でも友達もいないし、遊ぼうとしても何も手につかなくて、一人でブランコに座ってばかりいた。隣のブランコはいつも空いていた。

 だけどある日、そんな私の隣にたったひとりだけ座ってくれた人がいた。とても綺麗な女の人だった。

「どうしたんだいお嬢ちゃん? そんな暗い顔をしていたら綺麗な顔が台無しだよ」

 私のお母さんぐらいの年齢に見えたその人は、私にそう微笑みかけた。何だかとても安心できる笑顔だった。

「お母さんはどうしたんだい?」

「……どこかに行っちゃった。火にね、焼かれちゃったんだって」

 母が死んだと言うことが良く分からなかった私はそう答えた。でも、その言葉でその女の人は察してくれたようだった。

「そうかい。それは寂しいねぇ」

 女の人は私の頭に優しく手を置き、撫でてくれた。知らない人なのに、不思議と嫌な気持ちはしなかった。

「お嬢ちゃん知ってるかい? 人はね、死ぬと煙になるんだよ」

「煙?」

 煙とは、あの火がついている場所から上がる白とか黒のふわふわしたもののことで良いのだろうか。そう尋ねると、女の人はそうだと答えてくれた。

「人でも物でもね、この世にあるものは燃えれば煙が出るだろう。でもね、人には魂というものがあるから、それが煙と一緒に空に昇って行くんだよ」

「じゃあ、死んじゃうってことはお空に行くってことなの?」

 私は空の見上げて尋ねた。薄く青を広げたような空に、ぽつりぽつりと雲が流れている。そこには誰の顔も見えなかったけれど、でも空はとても広いから、どこかにお母さんたちがいて、私を見ているんじゃないかと、そう想像することもできそうな気がした。

「ああ、そうだよ。だからね、もし寂しかったら空を見ればいいんだよ。今のお嬢ちゃんみたいにさ。そしたらさ、いつだって大好きな人に会えるんだ」

 それはもしかしたら子供だった私を慰めようとして掛けてくれた言葉だったのかもしれない。でも私と同じように空を見上げるその人の顔があまりにも幸せそうだったから、私はそれを信じたんだ。

 それから、私は前を向いて再び歩き始めることができたんだ。ずっと忘れていた。人は煙になるけれど、それは空に昇るためなんだ。決して煙のままでいることなんてない。

 私は蓮華さんを見た。あの日、私にそれを教えてくれたあの人と同じ笑顔がそこにはあった。




 それから、私が煙の中に人の顔を見ることはなくなった。

 私が火をつけてしまった家は不思議と中のものはほとんど無事だったから、すぐに新しい生活を始めることができた。

 あれから蓮華さんとは一度会っただけだ。聞きたいことはたくさんあったけれど、あの時助けてくれたお礼をして、それから他愛のない話を少ししてから別れた。

 私は何も聞かなかったけれど、蓮華さんはひとつだけ自分のことを教えてくれた。

「アタシもさ、ずっと前に好きだった人を亡くしてね、それから空を見りゃ会えるって自分を慰めてたんだ」

 そう言う蓮華さんの顔は懐かしさと寂しさが複雑に混ざったような表情で、何だか頼りなげだった。

「そうだったんですか。蓮華さんも……」

「そうさね。だけどね弘美ちゃん。恋草ががんじがらめに絡んじまうのは厄介だけど、誰かを恋しいと思うことは駄目なことじゃないよ、きっと。アタシたちは修行僧じゃないんだからさ」

 そう言って、蓮華さんはいつものように笑ってくれた。私はそれを見て安心する。

 ふと窓を見れば、今日の空も晴れている。今度はあの白い雲と青い空の中にみんなの姿を探してみようか。でも空はとても広いから、見つからないかもしれない。

 だけどそれでも良い。私もいつかそこに昇って彼らと会えると信じられるのなら。それまで精一杯に生きようと、そう思う。




「アタシがまだ幽霊だった時、あの人はさ、毎日空を眺めてたんだよ」

 飛縁魔は自身も夜の空を見上げながら、そうしんみりとした調子で言った。黄泉国の美琴の屋敷。その縁側から連なる庭に蓮華は立っている。その横では良介が庭石に腰かけていた。

 縁側に座る美琴はただ夜風に当たりながら、二人の対話を聞いている。

「アタシはさ、焼かれて死んだから、きっと煙と一緒に空に昇ったんだって言ってるのを聞いたことがある。わざわざアタシのために坊主になったのにさ。そんなこと言われたらこっちも成仏なんてできないってものさ。今じゃこうして、人だった頃の名前も身も捨てちまったけどね」

 まあ成仏なんてしたいと思えばできるもんでもないけどね、と蓮華は言い、そして良介を見た。

「それにしたって死神さんがいてよかったよ。あんた源氏物語なんて読んだことないだろ?」

「読んだことぐらいはあるさ。内容はちゃんと覚えているとは言い難いが。そもそもそのまま言いたい内容を具体的に言えばいいだろ、ああいう時は特に」

「頭が固いね、あんたはさ」

 蓮華は呆れた顔をする。美琴はそんな二人の様子を眺めながら小さく笑んだ。

 良介の言う通りかもしれないが、伝わったのだから良いのだろう。

 源氏物語における柏木は光源氏の姪であり、正妻でもあった女三宮に思いを寄せ、ついには子をなしてしまう。そしてそれを光源氏に知られたことで病みつき、ついには命を手放す。

 その死の淵で女三宮に送った歌。それが「行方なき空の煙となりぬとも思ふあたりを立ちは離れじ」というものだ。柏木は自らが死ぬことを空の煙になると歌った。そして、それに続けて女三宮に対し夕方には特に空を眺め、煙となった私を忘れないで欲しいと歌とともに書き綴った。

 その歌は柏木の最後の歌となり、彼は病により命を手放す。

 人は死なば火に焼かれ、煙になる。だが柏木はその後も自分は空にいて、ずっと貴女を想っていると女三宮に伝えたかったのだろう。そしてその歌を通して蓮華は美琴にあの一ノ瀬と言う名の女性に取り憑いた煙々羅を落とす方法を伝えようとした。

 美琴は蓮華を見る。人であった際、その体を炎に焼かれて死に、そして妖となった彼女は、今は朗らかに笑っている。

 彼女が柏木の歌を選んだのは、その美貌によって男を破滅させると伝わる飛縁魔の属性に、女三宮という一人の女性によってその身を滅ぼした柏木という一人の人間の物語が合っていると考えることもできるかもしれぬ。だが、美琴はそれが理由だとは思わない。

「アタシは飛ぶ魔縁さ。空の向こうと土の上との縁を繋ぐなんて朝飯前だよ」

 飛縁魔が良介にそう言うのが聞こえた。魔縁は仏教において信心を妨げる存在を指す。死者に想いを向け続けることもその一つと考えられる。

 しかし空との縁を繋ぐこと、それは蓮華自身が最も望んでいることであるとも思う。。

 女三宮は柏木の死後、俗世も夫も子も捨てて出家する。柏木と同じように現世うつしよを離れた。蓮華が人として死んだ時、彼女の想い人がそうしたように。

 蓮華は女三宮に自身の想い人を重ねたのかもしれぬ。それは本人に聞かねば分からぬことではあろうけど、それは野暮であろう。

「明日の空も晴れるかねぇ、死神さん」

 蓮華が美琴を振り返り、そんなことを尋ねた。美琴は夜空に視線を向ける。雪でも降っているようにたくさんの星が瞬いている。

「星がたくさん見える夜の次の日は晴れるというから、きっと晴れるわ」

 蓮華は嬉しそうにそうかい、と言って、そして短く息を吐いた。

 美琴も頷いた。今日は夜風が気持ち良い。秋が来たのだなと、何となく考える。

「曇りよりも雨よりも、晴れてる方が空の向こうは見えるからね」

 誰にともなく飛縁魔は呟く。その吐息は少しだけ白みを帯びて、だけれどすぐに星の光の中に消え、やがて夜空の一部となった。



異形紹介


煙々羅(えんえんら)

 煙羅煙羅(えんらえんら)とも呼ばれる。江戸時代後期の画家鳥山石燕の著作『今昔百鬼拾遺』の中で描かれた煙の妖怪。絵には漂う煙が人の顔を形作るような妖怪が描かれており、絵とともに「しづが家のいぶせき蚊遣の煙むすぼゝれて、あやしきかたちをなせり。まことにうすものの風にやぶれやすきがごとくなるすがたなれば、烟々羅ゑんゑんらとは 名づけたらん」と文が書かれている。


 蚊遣の煙がたなびき様子を風に吹かれる(うすもの)に見立て、更にそれを妖怪と見なしたものとされる。煙々羅についての具体的な伝承はないため、石燕による創作だと考えられているが、近年では煙の精霊と紹介されることもある。

 妖怪研究家、村上健司氏によれば煙の妖怪は他に例がなく、珍しいものだという。

 『今昔百鬼拾遺』には同じように煙に纏わる怪異を描いた「反魂香」が載せられている。ただしこれは煙の妖怪ではなく、霊薬を焚いた煙の中に死者の姿が見えるという伝説上の香である。この他にも死者を煙と表現する和歌や文芸作品が多くあるが、これらにおいては火葬において身を焼かれることを煙となる、と表現していることが多い。近世以前の葬儀は土葬が主流であったものの、日本においては8世紀頃には既に火葬文化が普及しており、武士や公家の間で葬儀として火葬が行われた。

 また妖怪研究家、多田克己氏は蚊遣は古くは密かに思い焦がれる恋の歌の序に使われていた言葉であり、恋い焦がれる情を「恋の煙」、人を激しく思い焦がれる情を「思ひの煙」と言ったことから、煙々羅は恋い焦がれるあまりその片思いの面影を、あやなす煙の中に見つけ出し、その者の胸をも象徴的に表現しているようだと書いている。また煙羅は閻羅(閻魔大王)とも読め、死後の世界の支配者で焔魔天ともいうと述べ、「焔」は炎または陽炎の意で心の迷いの働きを象徴しているようだとも書いている。

 また煙の妖怪は煙々羅の他に例が見つからないものの、死者が霧になったという話はいくつか例がある。和歌山県には河原で首を打たれた60人の侍の亡魂が霧となったという伝承があり、北海道には殺人を犯し死刑に処せられた玉男という男や玉男に殺された老人の魂が霧となって現れる「ドンドン橋のガス」という怪談が伝えられている。

 人は煙や霧に昔から多くのものを投影させてきた。煙々羅はそんな人の心を映した妖怪なのかもしれない。

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