二 飛縁魔 蓮華
良介に手を引かれて火事現場の近くまでやって来た眞希は、何かに気付いて声を上げた。
「良介さん、一ノ瀬先生が!」
「君の言っていた教師か」
燃えるアパートには既に消防車が到着しており、ホースから噴射される水の束が火に勇ましくぶつかっている。しかし炎は勢いを保ったままに燃え盛るのみで、消えるどころか弱まる気配もない。
それも当たり前だろう。あの橙色の炎は妖力によって作り出されたものだ。ただの水では消えまい。しかしただあの一室のみが燃えて他へと燃え移っていないのを見ると、あそこの部屋の住人が標的だということなのだろうか。それともそこに燃やしたい何かがあるのか。
アパートの周りには既に人だかりができており、その中に眞希の言う教師の姿はあった。眞希に問わずとも分かる。人々が声を上げ、動き回る中で彼女はたった一人だけ微動だにせず炎を見つめていた。
顔に掛けた眼鏡に炎が反射し、赤く揺らめいている。その口元は微笑んでおり、火事を見つめる人間に似合うとは言い難い表情だった。
不意に橙色の炎は消えた。役目を終えたようにあっさりと炎は引っ込み、同時に煙も空に溶けた。ただ一部分のみ焼け焦げたアパートのみが残り、壁に向かって放たれていた水流もやがて消えた。
そこで一ノ瀬と呼ばれた女ははっとしたように辺りを見回した。眞希が自分に近付いて来ているのに気付いたようで、困惑したような表情をこちらに向けている。
彼女の周りの人間たちは唐突に消えた火に首を傾げているが、一ノ瀬はもう火事に関心はないようだった。眞希の隣にいる良介に向かってぺこりと頭を下げる。
「羽佐間さんこんにちは。そちらは?」
「ええと、親戚の不知火良介さん。ちょっと家に来てたから遊びに連れて行ってもらってたんだけど、そしたら何か火事が起きたみたいだから気になって」
眞希は咄嗟にそんな説明をした。一ノ瀬は眞希とは似ても似つかない無骨な背の高い男をぼんやりと見てから、もう一度会釈する。
「羽佐間さんの通う木久里中学校で教師をしております、一ノ瀬と申します」
「眞希の親戚の不知火です。いつもお世話になっております」
良介も眞希の話に合わせて挨拶を返す。そして相手に気付かれないように一ノ瀬を観察する。小柄で大人しそうな女性だった。しかし妖気は感じない。
この女性があの火事を起こした妖の正体であるか、もしくは何か異形に憑かれているかという可能性も考えたが、それはなさそうだった。ならば何故、あんな風に火事を見つめていたのかは気になるが。
「先生はどうしてここに?」
眞希が尋ねた。一ノ瀬は迷うような表情を見せた後、苦笑いを浮かべて答える。
「生徒の家が火事なんじゃないかって思っちゃって。でも違ったみたい。この近くに私のクラスの生徒の家があるのよ」
悪戯が見つかった子供が言い訳するような口調で一ノ瀬は言う。だがあの表情は生徒を心配しているようなものではなかった。
良介は眞希と一ノ瀬の会話に耳を傾けながら、ふと視線をずらした。彼の視線の端に何か見覚えのある姿が引っ掛かる。
良介は瞳をそちらに向ける。人混みのずっと向こうに若い女の姿が見えた。和傘を差したその女は良介を一瞬横目で見て、すぐに体を翻した。
「あいつは……」
まるで絵画に描かれた女のように調和の取れた整った顔をしていたが、あれは人ではない。そしてあの容貌は彼女の妖としての特性のひとつでもある。
妖怪、飛縁魔。その姿に魅入った男の心を惑わせ、その身を滅ぼし、家を失わせ、最後には命さえも奪うと伝わる妖。また火車である良介と同じく火を操り、更に人の精気を吸い取ってしまうとも言われていた覚えがある。
眞希と一ノ瀬に一言断り、良介は飛縁魔の後を追う。だが既に彼女の姿は消えていた。
ただそこに残った微かな妖気はあの火事の炎から漂うものと同じだった。ならば、やはり飛縁魔がこの火事に関与しているのか。
「何をしようとしてるんだ、蓮華」
良介はその場にいない女に向かってそう呼びかけた。
羽佐間さんとその親戚だという男性が去ってから、私も火事の現場を離れた。もう煙は見えなかったから、いる意味がなかった。
どうして羽佐間さんがあの場所にいたのかは分からなかったけれど、それはあちらも同じだっただろう。
本当はあの辺りに生徒の家などない。いや、もしかしたらあるのかもしれないが、少なくとも私は覚えていなかった。
私はただ、空へと立ち昇る煙が見たかっただけなのだ。いつの頃からか私は、煙の中に死んだ家族の顔を見るようになっていたから。
ずっと昔死んだ人が煙になると私に言ってくれた人がいたのは覚えているけれど、その頃は煙を見ても何にも見えなかった。小さい頃だったから、意味が良く分からなかったのかもしれない。
でも今は見える。炎の中で死んだ私の家族。父や母や弟、それに夫が煙となって私を見つめているの姿が。弟の顔なんてもう覚えていないと思っていたのに、煙の中に見えた顔がはっきりと弟のものだと分かった。
それと同時に、ずっと忘れていた小さな頃の記憶も最近は蘇って来るようになった。訳も分からずたった一人この世に取り残されてしまった頃の記憶を。
あれはまだ小学校に入る前のことだから、私は四歳か五歳だったと思う。後から伯父と伯母に聞いた話だけれど、私はその日祖父母の家に泊っていたそうだ。祖父母の家は近所だったから、これまでにも幾度かそういったことはあったらしい。
そして事件はその日の深夜に起こった聞いている。私の家が火事になったのだ。出火は深夜二時頃。私の住んでいた家は全焼し、家族の誰も助からなかった。
みんな眠っていたせいで逃げ遅れたらしい。私を生み、育ててくれた両親も、まだ二歳だった弟も火の中に消えてしまった。
私は訳も分からず一人残された。初めは人が死ぬと言うことがどういうことなのか、きちんとは理解してはいなかったと思う。
ただ三つの袋を見せられて、これが君の家族だと言われ、理解の及ばないまま私の家族は再び焼かれた。そして彼らは白い骨壷になって私の前に帰って来た。
今思えば、私の家族は炎の中で死んだのだ。とても遺体を見せられるような状態ではなかったのかもしれない。しかし私はそんなよくわからないものを見せられてみんな死んでしまったなんて言われても信じることはできなかった。
ただ、火葬場の煙突から上がる白い煙だけはとても鮮明に私の記憶の中に焼き付いている。その中に顔など見えはしなかったけれど。
それでも、その日から私の家族は私を迎えに来ることはなかった。私は子供のいなかった伯父夫婦の家に引き取られた。新しい環境にも、新しい家族にも中々馴染めず、良く一人で外に出て公園で遊んでいた。誰とも話したくなかったから、いつも一人だった。
しかしいつの間にか伯父と伯母を新しい家族として受け入れ、真っ当に生活できるようにはなっていた。その切っ掛けが何だったのかは覚えていないけれど。
中学生になった頃にあの火事は放火だったのだと伯母から聞かされた。犯人は捕まらないままであるらしい。それを聞いた時は悔しかったが、自分に出来ることはないということは分かっていたから何も言わなかった。
それよりもきちんと前を見て歩かねばとそう考えていたはずだ。そう、私は克服したと思っていたのだ。だけど、夫が炎の中で死んだ時どうしようもない恐怖と無力感が私の心を支配した。
結局私は炎から逃れられないのだと、そう思った。お葬式が終わってからしばらくは指一つ動かせない程の無気力感に襲われていたけれど、ある日夫のために線香に火を灯した時、私はそこから昇る細く白い煙に魅入ってしまった。
そのひどく頼りなげな煙の中に、私は確かに夫の顔を見た。もう動く姿を見ることが叶わないと思っていた彼の姿を見てしまったのだ。
最初は幻覚だと思った。しかし彼は度々現れた。しかし幽霊のように唐突に私の前に現れることはなく、姿を見せる時は必ず煙の中だった。
勿論人に話せば私の頭が疑われることは分かっている。だから誰にも話そうとは思わなかった。ただ蓮華さんに煙の中に顔が浮かぶなんて不思議な話はあるかと尋ねた時、煙々羅と言う妖怪がいると教えてくれた。彼女はどうしてか、色々なことに詳しかった。
私は彼と会いたくて、もう使うことはないであろう彼の着ていた衣服を炎にくべた。大きな炎はたくさんの煙を吐き出す。夫はやはりその煙の中で揺れていた。
炎に包まれた彼は、煙になってしまったのだろう。でも妖怪煙々羅となって今も生きている。そう思うと心が軽くなった。そしてその内に、同じように炎の中で死んだ私の家族も煙になったのではないかと、そう思うようになった。
私はもっと煙が見たくて、家の庭で様々なものを焼いた。炎は怖かったけれど、しかし火がなければ煙は生まれない。古い本や新聞、それに服や家具。一人になって広くなった家の中で、もう使わないものを選んでたくさん燃やした。
炎は燃え続ける程に煙を出し続け、燃え盛る程に煙の量を増やす。そして煙が増える程、私は黒煙の中に複数の顔を見た。
夫の隣に浮かんだのは小さな子供の顔だった。その顔を見た時、私はずっと忘れていた弟の顔を思い出したのだ。
写真もビデオも全て焼けてしまって弟の顔は二十年以上の間見たことが無かった筈なのに、私はそれが弟だと確信した。
とても懐かしくて、そして幸福な気分に満たされた。
しかしそんな簡単に炎や煙が見られる訳ではない。燃やすものが無ければ炎も煙も生じはしない。煙がなければ私は家族と会えない。
私は煙々羅に取り憑かれているのかもしれない。煙が見られない日が続くと次第に焦燥が心を支配して行くようになった。
そんな時、近所で火事が起きた。私の家族を奪った火事。だけどそれは大きな大きな煙も生み出してくれていた。空を隠してしまうような大きな煙。
そこで、私の家族はみんな笑っていた。夫も、母も、父も、弟も。私が夢見た世界がそこにあった。
「飛縁魔、蓮華。懐かしいわね。最後に会ったのは明治の頃じゃなかったかしら」
美琴は自分の髪を弄ぶようにいじりながらそう言った。指に巻き付いていた髪がふわりと床に落ちる。
「ええ、恐らくその頃でしょう。しかし今度は何をしようとしているのか」
美琴の隣に腰を下ろした良介が言った。縁側の向こう側から初秋の澄んだ空が見える。
「その、木久里町で起きているという火事は恐らく蓮華の仕業なのでしょう?」
「恐らくは。しかし問題はその理由です。一体何を目的として火をつけるのか」
ここ最近起きた飛縁魔によるものと思われる火事には特徴がある。近隣に炎が燃え移らず、唐突に炎が消えるのだ。そして、誰ひとりも死者を出していない。
そのため無差別に人や人の世界を攻撃したいという感情は薄いように思える。炎を操る蓮華ならば、やろうと思えば簡単にこの町を火の海にしてしまうことも可能だろう。しかし彼女の性格からしてそんなことをするようには思えない。
ならば特定の個人が標的なのだろうか。しかし彼らは誰ひとり死んでいない。軽い火傷をしたぐらいなそうだ。しかしそれに関してはもう一つ奇妙な点がある。
「ただ気になるのは、既に放火の犯人が特定されているところよね。今まで飛縁魔が起こしたと思われる火事は二件だけれど、どちらもその家に住んでいた男が自家に火を付けたと判明している」
既に調べていたらしい美琴がそう言った。彼女の言う通り、飛縁魔とは別に放火の犯人は見つかっているのだ。
「彼らがそもそもの標的なのか、それとも利用されたのか、それも気になりますね」
「そうね。死人が出ていないから良いものの、このまま放置という訳にも行かないわ」
美琴はひとつ、小さく頷いた。そして良介を見据える。
「私も調べてみるから、あなたも蓮華を探して。それと、あなたの言っていたその教師。その人も何か関わっているかもしれないわね」
一ノ瀬のことだろう。彼女が火事を起こした訳ではないのだろうが、しかし良介も気になっていたのは確かだった。
「了解しました。では、早速人間界に向かいます」
「気を付けて。私も後から向かうわ」
美琴の言葉に頷き、良介は席を立った。同じ炎に関わる妖として、今回の事件は見逃せない。
飛縁魔は自身の足元に這いつくばる男に軽侮した視線を向けた。足に触れようとした男の指から素早く足を引く。
「それが、あんたのしたことなんだね?」
飛縁魔が目を細め、そう問うと男は何度も頷いた。何日も洗っていないようなジャージを上下に着て、無精髭を伸ばした汚らしい男だった。
「そうだよ。正直に話しただろ? だから早く……」
今度は抱きつこうとして来た男を体を横にずらして避け、飛縁魔は小袖の胸元に手を入れた。その中から一つの長方形の箱を取り出す。
そして掌にすっぽりと収まる程の小さなそれを、バランスを崩して前のめりに倒れた男の側に放った。
「明日の午後一時、この燐寸を使って火をつけてごらん。それが、アタシへの合図となるんだ。燃やすものは、そうだねぇ……」
飛縁魔は口元を微笑ませ、男の住む家を見た。風呂もないような町営の古い長屋の一室。木造の室内には、床一面に空のビール缶だの、スープが残ったままのカップ麺の残骸だのが散らばっている。甘ったるい不快な匂いが鼻を突く。
「この家が良い。ここならよく燃えるだろうさ。炎と煙が上がればアタシもすぐ分かる。本気なら、出来るだろう?」
飛縁魔は艶然に微笑んだ。男は惚けたように一度頷き、そして自分の横に転がっていた箱を大事そうに胸に抱える。
「絶対、絶対来てくれるんだよな!?」
「ああ。あんたがきちんと火をつければね。じゃあ、また明日」
女は玄関に立て掛けられていた和傘を握り、ドアを開いた。部屋の中の異臭から解放され、飛縁魔は安堵のため息を吐く。
これで三人目。今のところは順調だ。ただ先日昔馴染みの火車の姿を見かけたのが気になるが。
彼のことだから今頃自分のことを探しているかもしれない。わざわざあの男の前に現れるつもりもないが、隠れる気もなかった。
「あとはあんただね、弘美ちゃん」
飛縁魔は目の前にはいない相手に向かってそう呟いた。




