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黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第三八話 影の中の記憶
154/206

四 記憶は継がれ行く

 それから少女は成長し、十の半ばになった頃、老いた母に代わり村の巫覡(ふげき)の中心となった。螺良様のために母や家族の巫女たちとともに神楽を舞い、祝詞(のりと)を奏上し、そして時には一人螺良様の住む山へと赴き、その言葉を村のものに伝える。それは母に教えられ、そして母を見て学んだ。

 母のその彼女の家には他に六人の巫女がいたが、最も若い彼女が螺良様に仕えることとなったのには理由があった。この家系の中でも螺良様に仕えるという意味で螺良官女と呼ばれる巫女たち。彼女は同時に一人しか存在せず、そしてそれには最も神の血を色濃く引いたものが選ばれる。それを決めるのは螺良様自身だった。少女は、村の神に選ばれたのだ。

 少女が幼いころから母や巫女たちが昔話を語るように聞かされていたある物語があった。それはこの村の歴史であり、そしてこの巫女の家の歴史に関わる話でもある。

 かつてこの村を囲む森には、一匹の大きな白い蛇が住んでいた。ある時人々がこの山に目を付け、その盆地に里を作った。蛇は己の森を、山を侵されたことに憤り、祟りを起こした。雨を降らせ、雷を落とし、病を流行らせる。人々は蟒蛇を祟り神として畏れ、そしてその祟りを鎮めるために一人の女性が立ち上がった。

 自ら神饌となることで女は大蛇の怒りを鎮めようとした。だが、大蛇は目の前に現れた人の女を愛してしまった。そして大蛇は言った。

「そなたが吾が伴侶となるのならば、祟りを収め、この村の守り神になろう」

 と。女はその言葉を受け入れた。大蛇は女のために美しい男の姿へと変化し、村人たちの手により彼らのための社が建てられた。

 そこで二人は仲睦まじく暮らし、たくさんの子宝にも恵まれた。それから大蛇が村に祟ることはなくなり、村人たちのためにその力を使うようになった。

 伴侶によって名もなき蟒蛇(うわばみ)螺良(つぶら)と名前が与えられ、そして彼女が死した後も螺良は村の守り神として生き続けた。干ばつになれば雨を降らせ、人や妖が村を襲えば神と呼ばれたその力を振った。彼は村の守り神となり、螺良様と呼ばれて慕われるようになった。

 そうやって千年以上も大蛇は神として崇められてきた。そして、その側には必ず巫女がいた。彼女たちは螺良官女と呼ばれ、その最初は螺良様とともに生きた女性、つまり村のためにその身を差し出し、螺良様の妻となった人だった。彼女がこの世を離れてからはその娘が官女として螺良様に仕え、そしてまた彼女は自身の娘にその役目を引き継いだ。

 それは、代々繰り返されてきた一族の歴史。神の娘として、螺良官女たちは螺良様とともにこの村を守り続けて来た。その子孫の末裔が、新たに螺良官女となった娘ということになる。

 娘はその話を幼いころから何度も聞かされ、その度に色々な想像を働かせた。いつか螺良様の元に仕える時が来たら様々なことを聞いてみようとそう思っていた。

 そして官女となった巫女が螺良様にその話をすると、螺良様は本当に嬉しそうに自分の祖先であるその人のことを語ってくれた。

「とても美しく、そして気高い人だった。彼女は望んで吾の元に来たわけではなかった。元々は吾に食われることで、己の身を犠牲にして吾の祟りを鎮めようとしていたのだからな。だから、最初は吾とともにいるだけで怯えていた。いつか食われるのではないかと、そう思うていたのだろうな。吾も彼女の気を引くために様々なことをしたよ。そのために人のことを学び、そしてどうすれば彼女が喜んでくれるのか、そればかり考えていた」

 千歳(ちとせ)の時を生きた大蛇はそう目を細める。巫女にはまだ伴侶となる者はいない。だから想像を想像するしかなかったが、しかし天候さえ操ることができる目の前の神が、一人の人間の女性のために四苦八苦していたことを思うとすこしだけおかしかった。

「だから、彼女が初めて吾に笑ってくれた時は嬉しかった。そして吾を夫として認めてくれ、吾と彼女の子を産んでくれた時、吾はその子たちが生きるであろうこの村を守ることに決めた。最初は、そんなことだったんだよ。今では、すっかりこの村にも愛着が湧いてしまったがな」

 巫女が螺良様の住む森、その中にある御社(おやしろ)へとやって来ると、螺良様は良くその屋根に登って村を眺めていた。何度か共に屋根に乗せてもらったこともあるが、そこからは小さな村の全景が良く見えた。螺良様は、そこで人々が平穏に暮らしているのを眺めるのが何よりも好きなのだと言っていた。

 巫女はそんな蛇神を尊び、そして慕っていた。彼女は村の巫覡としての任を全うしつつ、また色濃く蛇神の力を受け継いでいた彼女はその神通力を使い、時には村のために戦った。

 とても幸福な日々だった。いつか自分に娘ができたならば、その子にこの役割を引き継ぐのだろうかと、そんなことを考えていた。

 しかし巫女の一族は、彼女を最後に途絶えてしまうことになる。




 切っ掛けは村にやって来た歩き巫女の一団だった。一人の若い巫女を長とした葵と名乗る彼らは、旅の者として螺良村にて歓迎された。

 彼らは占術を得意とし、また旅芸人を兼ねていたこともあって芸能により村人たちを楽しませた。

 珂々村の巫女もまた同じ巫覡として彼らに親しみを持ち、良く話した。聞けば彼らは西は讃岐国の小豆島なる土地からやって来たという。そこである巫覡の家系であった葵らは、似た神通力を持った家系に迫害され、逃げるようにして島を出たのだと語っていた。

 不憫に思った巫女は彼らにこの村にしばらくいてはどうかと提案した。幸い螺良様のお陰もあって、村は栄えていた。だから少しぐらい人が増えても問題はなかった。

 そして、彼らが珂々村に留まり幾月かが過ぎた頃、村で奇怪な死体が見つかった。見た限り体に傷はないのに、口から大量の血を吐いて息絶えている。そんな亡骸だった。

 それから六人が立て続けに同じ死に方をしたため、村の者たちも不審に思い、その原因を探ろうと死体の一つの腹を裂いたところ、腹の中を何者かに食い荒らされたように滅茶苦茶にされていた。

 何かの呪いかと村人たちは噂し合った。螺良官女である巫女もその原因を探ったが、全く分からない。

 村の守り神である螺良様がいながら何故このようなことが起きるのか、村人たちは首をひねった。こんなことは村において起きたことが無かった。村にやって来た歩き巫女たちもその原因を探るべく村人たちを手伝ってくれたが、彼女らにもそれは分からぬようだった。

 そして村人たちの疑問は、ならば螺良官女が村を裏切ったのかという疑念へと変じて行くこととなる。犠牲者が増えるにつれて村人たちの間で噂が囁かれるようになり、螺良様の持つ強大な力が逆に彼らの想像を煽った。

「螺良様は珂々村の守り神です。そんなことは致しません」

 螺良官女と、彼女の一族である六人の巫女はそう訴えた。しかし犠牲者が増えるにつれ、村の者たちは一様に彼女らに不審の目を向けるようになっていった。その頃にはただ臓腑を荒らされた者の死体が見つかるだけではなく、神隠しのように唐突に消え失せる者も現れていた。

 ずっと、彼らが生まれるよりも遥か昔から螺良様はこの村を守っていた筈なのに。何故急に村を裏切ることがあろうかと村の巫女たちは訴えた。

「螺良様は元々は祟り神ではないか」

 村の者が言った。また螺良様が祟りを起こしているというのか。そんなことをする理由などない筈なのに。

「かつて螺良様は流行病はやりやまいをこの村の者たちに引き起こしたと聞いている。今回のそれは、違うのか?」

 村の長が巫女に問う。威圧的な言い方だった。もう螺良様のことなど信じてはいないのかもしれぬ。村人たちが何故螺良様へと疑いの目を向けるのか、巫女には分からなかった。たった一月前までは皆螺良様を慕っていたのに。巫女は拳を握り、そして言った。

「分かりました。私が螺良様の元に向かい、この村で起きていることが何なのか、問うて参りましょう」

 螺良官女は言った。この村で人が死ぬ以上、自身にも責はある。それに螺良様が罪のない村の者に手を掛ける筈などない。

 螺良官女は螺良様の無実を確かめるため、そして蛇神にこの村で起こっている怪異の正体を突き止めるため、山へと登った。

 しかしそこで彼女が遭遇したのは、白く大きな蟒蛇ではなく、同じ人間だった。

 彼女が村に受け入れた、葵と呼ばれる巫女だった。

「葵様、何故ここに?」

 初めは、自分を心配して共に来てくれようとしているのかと思った。だがこちらを睨むその敵意に満ちた視線からそうではないことを悟った。

「螺良の巫女様。申し訳ありませぬ。我らはこうせねばならぬのです。この村で生きるためには、あなたたちがいてはならぬのです」

 その直後、螺良官女の腹部を激痛が襲った。臓腑を掻き回されるような痛みに思わず膝を着く。そんな彼女の前に葵は近付き、そして仰向けに蹴り倒した。

 螺良官女は起き上がることもできず、葵に視線を向けることしかできない。彼女の後ろから斧を持った男が現れるのが見えた。

 彼は葵の夫だった。男は斧を振り上げると、躊躇なく螺良官女の脚の付け根へと振り下ろした。

 足が燃え尽きるような感覚が官女を襲った。見れば、彼女の腰から切り離された右足を男が持ち上げて脇に放っていた。

 そして今度は左足に斧が振り下ろされる。巫女は自身が歩く術を失くす音を聞いた。

 叫び声は、彼女の体に巣食う何者かによって喉を塞がれた。巫女の口からは細い声が出るだけだった。

 巫女は悟った。村に流行った病はこの者たちが起こしたのだと。

 足と腹部は彼女を黄泉へ誘うように痛み続ける。そこで村の巫女は一度意識を手放した。




「やはり、あの大蛇の祟りでした。螺良官女様はあの大蛇に襲われ、足を食われてしまった」

 葵の声で螺良官女は目を覚ました。ゆっくりと頭を動かすと、自分は村の中にいた。葵たちによって運ばれてきたのだろう。

 違うと言いたかった。だが声を出そうとすると腹部に鋭い痛みが走った。体の中に何かがいる。だがそれを弾き出すほどの力はもう彼女には残されていなかった。

「巫女でさえも敗れたのです。この祟りはいずれ村全体を襲うでしょう。しかし、それを防ぐ方法はある」

 葵の巫女は言う。違う、螺良様は祟りなど起こしていない、そう叫びたかった。この村を襲った怪異は、あの葵たちによるものだったのだと。

「その方法とは、一体……?」

 村の長が問う。葵は頷き、そして話し始める。

「かつてこの村を大蛇の祟りが襲った際、村から一人の巫女が人身御供として自身を差し出しました。ならばまた祟りが起きてしまった以上、誰かを人身御供に差し出すしかない」

 村人たちの間にざわめきが走る。螺良様はそんなものは求めない。巫女は悔しさから一筋涙を流す。この村に起きた怪異を螺良様の仕業にしようとしたのも、恐らく彼女らなのだろう。

「そして、螺良様はこの巫女様を生け贄へと選ばれた。しかし、それには一つ条件があるとの言です。彼女を神饌として差し出すためには」

 葵の巫女は螺良の巫女を指さした。そして言う。

「抵抗の術をなくすため、そして飲み込むために邪魔である故、彼女の両腕を斬り落とせと。あなたたちに、それができますか?」

 葵は村人たちを見回して問うた。村人たちが何やら互いに話しているのが螺良官女の耳にも届く。そして、一人の明瞭な声が彼女を暗い闇へと突き落とす。

「分かりました。わしがその役目、負いましょう」

 村の長の声だった。巫女は何とか顔を上げた。斧を握った長が近付いて来る。

 村人は自分たちの手を汚すことを自ら選んだ。

「これも村のためだ。堪忍してくれ。それにお前も、螺良様とともにわしらを裏切ろうとしていたんだろう?」

 長は巫女の視線から目を逸らし、そして罪の意識から逃れるためなのか、そんな言葉を発した。

 巫女の右腕が飛んだ。もう痛みなど感じなかった。巫女はただひたすらに悲哀に溺れる。千年以上村を守り続けていた螺良様は、そんなにも容易く彼らにとって(よこしま)の神と見なされる存在だったのか。自らの末裔の子を食らうような、そんな神と信ずるのか。それが、この村の出した答えと言うのならば、もうこの村の巫女などではいたくはない。

 やがてその悲しみは、巫女の中で怨嗟へと変わり行く。それは終わりのない、永遠に回り続ける螺旋のように深く彼女の心を支配する。

 巫女は怨む。自身を、村を、螺良様を騙した葵の一族を。そして自身を、螺良様を裏切り、人身御供として差し出すために刃を向けた村の者たちを。

 最早彼女は怨嗟を瞳に滾らせた、たった一人の娘だった。全てを失い、ただ憎しみに囚われた一人の人間だった。

 長の斧が再び振り下ろされ、今度は左腕が飛んだ。這うことさえもできなくなった娘は、ただ村人たちを睨みつけた。娘を見下ろしていた葵は、彼女の目を見てぞっとした顔をした。娘は小さく笑った。

 葵の後ろの木々が薙ぎ倒されるのが見えた。やがて白い蟒蛇(うわばみ)が村に現れる。人々は悲鳴を上げて逃げ出したが、螺良様は真っ直ぐに娘の前へと進んできた。

 葵も真っ青な顔で娘の父を見つめている。まさか本当に現れるとは思っていなかったのだろう。蟒蛇は葵に魂をも凍らせるような冷たい瞳を向け、そして娘に顔を近付けた。

「こちらへ来よ。吾が娘よ」

 螺良様はそっと娘の体を咥え、そして口の中に納めた。村人たちの声が消え、優しげな沈黙に包まれる。

 螺良様は娘にだけ聞こえる声で言った。

「吾はあの日からこの村のため、生きて来たつもりであった。吾が妻にこの村の守り神となると契りし日から、村の者たちには手を出さぬことも誓った」

 螺良様の声は愁いと怒りに満ちていた。

「だが、それももう終いだ。あの巫覡らの言葉に翻弄され、吾を憎むのならばまだ好い。だが、罪なき吾が娘に手を下すならば、あの村の者たちにもう守る価値などない」

 暖かな螺良様の口内で、娘はその言葉に同調する。彼女の中の蛇神の血が次第に甦る。

「我が娘よ。吾はそなたが死ぬことを望まぬ。吾の命尽きるともそなたは生きよ。手足なくとも生きらるる蛇となれ」

 その言葉とともに、螺良様は娘を呑んだ。

「吾を贄とし、その想いを遂げよ」

 それが巫女の聞いた螺良様の最後の言葉だった。そしてその日、珂々村を守り続けた神は死んだ。ただ娘の中に怨念のみを残して。



 延々と渦巻く怨嗟の中で娘は新たな生を得た。守り神は祟り神へ。かつて螺良様が住んでいた社の中で目覚めた彼女がまず目にしたのは、自身の一族である六人の巫女だった。

 まだかろうじて残っていた彼女の人の心は、巫女たちを見て安堵のようなものを覚えた。彼女たちは自身を裏切っていない。そう信ずることができた。

「螺良様が、あなたをお救いになったのですね」

 変わり果てた娘の姿を見た母は、驚くこともなくそう言った。彼女を含む六人の巫女たちが娘を見る。その誰もが小刀を持っていた。

「螺良様がいなくなった以上、我々の巫覡としての役割は終わりました。しかし、私たちにはまだあなたがいる」

 母は毅然と娘を見つめる。そして静かに言った。

「今村では螺良様があなたを人身御供として選んだのだと信じられています。それはあの葵の巫女たちの企ての通りなのでしょう。恐らく、真実を知る我々もすぐにこの命を奪われる。ならばこの命、あなたのために捧げましょう」

 そして母は、娘に悲しげな笑みを見せた。

「私たちの腕を持って行きなさい。我らは家族。これからもずっと共にいましょうね」

 娘が止める間もなく、母は小刀をその胸へと突き刺した。残る五人の巫女たちも躊躇うことなく自害した。やがて、そこで生きているものは人ならざるものと化した娘一人となった。

 娘は慟哭した。そして、母の遺言を守り彼女たちの腕を一つずつ、口に咥えた小刀で切り取って行った。

 左腕を三つ、右腕を三つ。合計六本の腕を、娘は自身の体へと押し付けた。それはすぐに彼女へ癒着し、そして死んだ六人の巫女たちの怨念もまた、彼女の中へと流れ込んで来た。

 娘は全てを奪われた。もう村に怨むべき者はいれど守るべき者はいない。祟り神は月夜の下へと現れる。

 六本の腕と蛇の半身、そして娘の体を持った怨念の怪異。彼女の中で八つの怨嗟が呪詛を囁き、故に彼女の内には邪悪の心の他はあらず。その怨嗟は彼女らの心で渦を捲く。


 (かしま)しく、(よこしま)に、蛇のうらみは螺旋のごとく。


 そうして姦姦蛇螺は生まれた。その怨嗟は、山の麓の村へと向けられる。

 和魂(にぎみたま)荒魂(あらみたま)へ。村人たちの裏切りは、守り神を祟り神へと変えた。怨念の塊と化した巫女は、次々と村人を襲い、彼らを呪い死に至らしめ、時にはその体を六の腕で引き裂いた。

 村の者たちは彼女を恐れ、多くの者が村の外へと逃げ出した。かつて螺良様の力により守られた村は、その一族の力により容易く廃れた。

 しかし何人殺そうと巫女の怨念は鎮まりはしなかった。何故ならば、最も憎むべき葵の一族の中で、たった一人生き残っているものがいたから。

 あの時自分を騙し、螺良様を侮辱し、そして村人たちを扇動したあの巫女が。

 そしてその巫女は、村に残ったたった三人の他の者たちとともに姦姦蛇螺を封ずる方法を見つけてしまった。姦姦蛇螺は自分たちの全てを奪った巫女を殺すことができず、森の中で長い時を過ごした。

 ずっと、自身を囲うこの忌々しい結界を壊すものが現れると信じ、行き場のない怨嗟を飲み込み続けた。




 そしてかつての巫女は近付く妖気に目を開いた。

 自分と似た過去を持ち、自分と同じように人を辞めた化け物。それが少しずつ近付いて来る。

 姦姦蛇螺は笑みを浮かべた。同じ境遇にいるものと向き合うのは初めてで、嬉ししいというような、そんな姦姦蛇螺にとってはひどく歪な感情も覚えた。

 例えそれが殺し合いだとしても、何故自分たちがこのような化け物になったのか互いに分かり合えるから、初めてただの化け物として相手と対峙できるような気がした。

 姦姦蛇螺は目覚める。そしてその怨念を背に負い、死神へ向かって進み始める。




 死神は終止符を打つべく、十六夜(いざよい)の柄を握る。同じ怨嗟の渦に生まれた化け物として、他の誰でもない、彼女の痛みを知る自分が決着をつけたい。そう望んでいた。

 それは自分の身勝手かもしれぬ。しかし彼女の過去を何も知らぬ誰かに殺させるのは嫌だった。

 死神は立ち止まる。視線を向ける闇の向こうから、音もなく姦姦蛇螺は現れる。

「私もあなたと同じ。人であった頃、人に裏切られ、人に殺められ、そして人ではなくなった。怨みだけを糧にして」

 死神は一歩踏み出した。姦姦蛇螺は表情を変えない。ただ笑みを浮かべ、死神を見つめる。

「同情なんて最も必要のないものかしらね。さあ、終わりにしましょう」

 美琴が刀を抜いた。それが合図だったように姦姦蛇螺が迫って来る。美琴は擦れ違い様にその左腕を三本斬り飛ばした。同時に美琴の脇腹の肉が抉られる。

 美琴は振り返った。右の腕の一つに肉片を握った姦姦蛇螺が美琴を見つめている。美琴は湿った大地を蹴った。

 姦姦蛇螺の腕が伸びる。美琴は身を低くしてかわし、そして今度は右の腕を二本切り取った。姦姦蛇螺の尾が美琴の体を打つ。美琴は巨木にぶつかって下に落ちる。

 抉られた脇腹から血がこぼれる。視界の端に姦姦蛇螺が迫るのが見えた。美琴は反動を付けて立ち上がり、そして姦姦蛇螺の残る一本の右腕を切り裂いた。

 腕を失くした姦姦蛇螺の瞳から血の涙が流れる。六人の家族をうしなった悲しみか。しかしその悲しみもすぐに終わる。

 美琴は十六夜を両手で握った。刀身は紫色の妖気を帯びる。

「眠りなさい。安らかに」

 美琴は太刀を横に薙いだ。その一撃は巫女の上半身を蛇の下半身から切り離す。たった一人の巫女に戻った娘は、もう動くことはなく大地に沈んだ。




 珂々村を襲った怪異は消えた。美琴は鳥居の先に広がる森の入り口を眺めている。隣には葵がいる。

「全て終わったのですね。ありがとうございます。本来ならば、私は姦姦蛇螺様に人身御供として捧げられる身でした。あなたのお陰でこの命、拾いました」

 葵は沈んだ表情のまま続ける。

「しかし私は姦姦蛇螺様のことを何も知らなかった。私たちの祖先が彼女をあんな風に変えてしまったことを。綺麗事かもしれませんが、私は彼女を弔って生きて行こうと思っています。今までの名ばかりの供養ではなく、きちんと」

「そう。私もあの世で彼女たちが幸せに暮らせることを祈っているわ」

 美琴はひとつ息を吐く。

「姦姦蛇螺という名は、姦の字で六人の巫女の家族を、蛇の字で巫女の祖先であった大蛇を、そして螺の字が螺良官女と呼ばれていた巫女を表していたのかもしれないわね。誰がその名を付けたのかは知らないけれど、恐らく姦姦蛇螺の正体を知るものだったのでしょう」

 そして死神は死した姦姦蛇螺にとってはもう無駄なことかもしれぬと思いつつ、葵の巫女に言う。

「彼女たちはもうこの世にいないけれど、せめてあなたは覚えていて。この村の影の記憶を」

「はい。決して忘れはしないでしょう」

 美琴は頷いた。姦姦蛇螺は消えた。しかし彼女がこの村に残した記憶は消えない。

「あなたたちはこれからも、姦姦蛇螺になった巫女の代わりにこの村を守り続けて行くのでしょうね。同じ蛇の力を持つ巫覡として」

「ええ。姦姦蛇螺様はそれを望まぬかもしれません。それでも、この村は私が生まれ、育った場所です」

 葵の声は穏やかだったが、その言葉は力強かった。美琴は小さく笑んだ。姦姦蛇螺が死んだ今、もう自分はこの村に干渉する言葉は持たない。

 あとは、この村のものたちが決めることだ。

「分かった。そして私の役目はもう終わり。私も家に帰るわ」

「本当にありがとうございました。あなたがいなければ私はこの村の過去を知ることもなかったし、もっと多くの人々が死んでいたかもしれません」

「どういたしまして。じゃあ、またいつか」

 そう言葉を残し、死神は歩き出した。

 来た時とは逆に道を辿り、村を出る。そして一度だけ村を振り返った。

 何故葵の巫女はこの村で祟りを起こしたと見せかけようと思ったのだろう。この真相ははっきりとは分からぬが、予想はできる。

 葵の巫覡は、この村の誰かを憎いと思ってしまったのではないだろうか。

 憎いと思ってしまったならば、自身の意思に関わらずいつかは蛇蠱がその村の者へと向かい、憑いてしまう。そうなればまた憑きもの筋であることがばれ、迫害が待っている。それならばいっそそれをこの村の神のせいにしてしまおうと、そして同時のここに安寧の地を得ようと、そう思ってしまったのではなかろうか。

 それは過去に戻らねばはっきりとは分からぬことではあろう。美琴はまた足を進める。

 久し振りに、人であった頃を思い出した。自分もひとつ間違えばあの姦姦蛇螺と同じような存在になっていたかもしれぬ。そうなっていたならば、きっと今帰ろうとしている黄泉国の存在など知ることもなかっただろう。

「あなたが人を辞めた時、出会えれば良かったのに」

 もう叶わぬ願いを一つ残し、死神の少女は村を去る。

 その背には十六夜の月が浮かんでいた。

 


異形紹介


・姦姦蛇螺

 生離蛇螺、生離唾螺、姦姦唾螺とも呼ばれ、単にだらと呼ばれることもある。上半身に六本の腕がある女性の姿をしているとされ、下半身の形は不明だがこの下半身を見てしまうと姦姦蛇螺の怨念を浴び、命が助からないと伝わっている。基本的に山か森の中の一定区画の中で封印されており、周期的にその封印の場所は移されるらしい。またその過去についても詳しく言及されている。

 姦姦蛇螺は元々は人間であり、神の子として様々な力を代々受け継いで来たある巫女の一族の一人だった。ある時人を食らう大蛇に悩まされていた村人がその巫女の一族に大蛇の討伐を依頼し、依頼を受けたその巫女の家は特に力の強かった一人を退治に向かわせる。

 巫女は大蛇を倒すべく懸命に立ち向かうが、隙を突かれて下半身を大蛇に食われてしまう。それでも巫女は村人たちを守るため大蛇に立ち向かうが、勝ち目がないと判断した村人たちは巫女を生け贄にする代わりに村の安全を保障してほしいと大蛇に持ち掛ける。

 大蛇は強い力を持っていた巫女を疎ましく思っていたため、それを承諾。食べ易いように村人たちに巫女に腕を切り落とさせ、巫女を呑んだ。

 そして村人たちは一時ほ平穏を得、この計画は巫女の家の者たちが思案した計画だったと明かされる。

 しかし異変はすぐに起きた。大蛇が姿を見せなくなったはずの村で次々と人が死んで行く。右腕、左腕のどちらかを失くした死体が一八現れ、村に残ったのはたった四人だけだった。

 残った四人の村人は巫女の家を調べ、姦姦蛇螺となった怪異を鎮めるための方法を編み出した。それが以下の方法と伝えられている。死んだ村人に見立てた六本の木に同じく死んだ村人に見立てた六本の縄を張り六角形の空間を作り、ひとつの箱の中に巫女の家族に見立てた六本の棒を姦姦蛇螺の姿に見立てた/\/\>という形に置き、そして箱の中の四隅に生き残った四人の村人に見立てた四本の棒を置く。そうやって森や山の一定区画に放し飼いのようにして姦姦蛇螺を鎮め、また年に一度神楽を舞う、祝詞を奏上するなどして供養しているという。

 普段は姿を見せない姦姦蛇螺だが、先述した棒の形を崩す、注連縄によって形作られた六角形を崩すという行為をすれば封印を解かれ、人を襲うこともあるとされる。


 ネット上に書き込まれた怪談から生まれた都市伝説の怪異の一つ。初出は2009年3月26日に「ホラーテラー」という投稿型サイト投稿されたものと思われる。村に封じられた怪異の封印を少年たちが解いてしまうという内容で、棒の形を崩してしまった一人の少年は両手両足に激痛を発していたという。これは巫女が両手両足を失って怪異と化したことと何らかの関係があるかもしれない。また怪談中には姦姦蛇螺の伝説を語る存在として「あおいかんじょ」と名乗る巫女とその伯父が出て来るが、その素性はほとんど明かされなかった。ただし姦姦蛇螺を神として祀る巫女がいることは示唆されている。

 下半身の形は怪談中では明確には記されていないが、蛇に食われたという伝説からか蛇の半身であると語られることが多い。

 巫女を人身御供とする伝説は古くからあり、そそれを元にした神事の中には巫女を官女と呼称するものがある。例としては大阪府の野里住吉神社における「一夜官女神事」がそれで、これも元々は白羽の矢が立った家の娘を神にささげねばならないという人身御供の神事に基づいたものである。


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