三 下水道の怪物
懐中電灯の光が湿った壁や地面を映し出す。浩平がその光の束を動かすと、やがてあの丸っこい蛇の姿を捉えた。二人の足元から少し二メートルほど離れた場所にいて、彼らを見上げている。
「おいここ血の匂いがするぞ! やっぱり何かある!」
浩平は春樹と顔を見合わせた。ツチノコは暗闇に目を光らせ、そして何かを探しているように頭をゆっくりと動かす。ちろちろと舌を出しているようだ。蛇は舌で匂いを感じるのだと、いつかテレビで見たのを浩平は思い出した。
「危ない!」
ツチノコが叫んだ。思わず浩平と春樹が身を低くすると、突風が頭上に吹いた。何か巨大な物体が通り抜けたような、そんな感じがしたが、その方向へと光を向けても何にも当たらない。ただ湿った壁が照らされるだけだ。
だがツチノコは一点を見つめて唸っている。蛇が唸り声を上げるなど聞いたことはないが、その小さな体からは先程までの愉快な彼からは考えられぬ威圧的な気が発せられている。
ツチノコは牙を剥き、その見えない何かに向かって飛び掛かる。しかし彼の体は見えない何かに弾かれ、天井にぶつかった後落ちて来た。浩平は慌ててそれを抱き止める。
じゃり、と何かが地面を踏みしめるような音がした。だがいくら懐中電灯を動かしてもその何者かの姿は捉えられない。冷や汗が流れ、足が震える。
「に、逃げようぜ」
「でもどこに?」
震える声で春樹が問い返す。浩平にも春樹にも、何かがいることは分かってもどこにいるのかが分からない。これでは逃げようがない。
ツチノコの口からは息が漏れている。生きているようだ。だけどもう戦うことなんてできないだろう。どこからか荒い息使いのようなものが聞こえて来た。ツチノコのものでも、自分たちのものでもない。二人の少年は出口へと目を向けるが、もしかしたらあそこに辿り着くまでの間にあの化け物が待ち構えているかもしれない。そうでなくとも襲われればひとたまりもない。
水面が揺れた。何かが近付く。少年たちがとにかく逃げようと後ろを向きかけた時、紫が視界を遮った。
直後轟音とともに下水道の壁面が大きく抉り取られた。短い悲鳴のような声が聞こえ、蛍光色の液体が飛び散った。
「やり難い……」
静寂が戻った地下道に、そう女性の声が反響した。続いて紫色の二つの円が暗闇に浮かび上がったと思うと、青紫の和服を着た女性が彼らの前に現れた。
「あなたたち、怪我はない?」
紫の瞳が黒に戻り、青紫の和服が闇に浮かび上がるような臙脂と変わる。そんな死神を見て少年二人は何とか頷いた。こちらも刀を持っていておっかないが、あの見えない怪物よりは幾分か良い。目に見えるし、言葉も通じるようだ。
「う、うん」
「大丈夫……」
浩平と春樹がおずおずと答えた。その女性は優しげに笑みを浮かべ、そして刀を鞘に仕舞った。
「美琴!」
急に浩平の腕の中にいたツチノコが声を上げた。美琴と呼ばれた女性は彼の方を見て、驚いたような顔をする。
「ツチノコ、どうしてこんなところに」
「あんたがいるってことはやっぱりおっちゃんが大変なんだろ! 来て良かった!」
急に元気に、早口になってツチノコはそう言った。そして浩平の腕から飛び降りる。
「やっぱりあの変なのがおっちゃんを襲ったのか?」
「ええ、そうみたいね。彼は奥にいるわ。でも、この子たちはどうしてここにいるの?」
美琴は二人の少年を見てそうツチノコに問う。ツチノコは彼女を見上げ、そして答えた。
「こいつらがオイラをここまで連れてきてくれたんだ! 友達だ!」
「人間に捕まった、という話ではないようね。安心したわ」
美琴が改めてというように少年二人の方を見た。暗いせいで良く分からなかったが、凄く綺麗な人だ。浩平は先程までとは違う理由で心臓が早鐘を打つのを感じた。
「私の名前は美琴。あなたたちと同じくこのツチノコの友人よ。二人ともお名前は?」
「江村浩平です」
「中瀬春樹です」
二人がそう名乗ると、美琴は柔らかく微笑んだ。
「浩平君に春樹君ね。あなたたちも十分知っているでしょうけど、ここは今とても危険なのよ。だから一度外に出て……」
「ちょっと待て! あいつは開いてるあの開いてる蓋から出て行こうとしなかったぞ! それにこの穴にはあいつの匂いが染み込んでる!」
ツチノコが叫んだ。甲高い声が下水の壁と床にぶつかっては消えて行く。美琴は怪訝そうにツチノコを見る。
「匂い……。私は感じないけれど、マーキングということかしら」
「それだ! この穴に入ってきたやつは敵って言ってるみたいだ!」
美琴は顎に手を当て、首を傾げた。
「となれば地上に簡単に出してはくれないかもしれないわね。厄介ね」
ツチノコも美琴に合わせるように三角形の頭を傾げるが、何か考えているようにはあんまり見えない。
「ツチノコは、あの変な怪物が見えたの?」
そう尋ねたのは春樹だった。ツチノコは短い胴を海老反りにするようにして後ろにいる彼を見る。
「オイラは目以外にも見えるからな! あったかさとかな!」
ツチノコは自慢気な言った様子でそう答えた。
「蛇にはピット器官というものがあってね、赤外線を感じることができるの。つまり熱よ。だから人間の世界で言えば、そうね、サーモグラフィーと言えば分かり易いかしら」
ツチノコの言葉少なな説明を美琴が補足する。
それを聞き、浩平はテレビ番組でたまに見る赤、青、黄、緑などで温度の高低が表現された映像を思い出す。あれならば、確かに暗い所でも透明な相手でも見えるように思う。
だからツチノコはあの化け物に気付いたのか。浩平は今更ながら感心した。
「でもそれならば、とりあえずは私とともにいた方が安全かもね。あの怪物は、どうにも執念深いみたいだし……」
美琴は下水道の中に視線を走らせる。その所々に蛍光色の液体がべったりと付着している。それは闇の中に奇妙な存在感を放っていた。
「血が出るのならどうにでもなるわね。相手は、間違いなく生き物よ」
「おっちゃん!」
ツチノコはその巨大な爬虫類が見えて来ると同時にそう叫び、乗っていた浩平の肩から飛び降りた。
浩平はその巨体を見て息を飲む。下水に横たわるその白い体は、どう見ても自分の身長の五倍以上はある。その巨体の所々に噛まれたような傷がある。傷口には薬のようなものが塗られているようで、血は止まっている。
これがツチノコの親友なのだろうか。ツチノコは転がるようにして白い鰐の頭の方へと這い寄り、その顔を見つめている。
それに反応したのか、鰐の目が僅かに開いた。
「おお、ツチノコか……。お前、どうしてこんなところにおる?」
「おっちゃんが危ないって聞いたからな! オイラが助けに来てやったんだ!」
ツチノコは胸、というよりも腹を張って答えた。微かに鰐が口を動かす。それは、微笑んでいるように浩平の目には見えた。
「でも、あれって下水道の白い鰐、だよね」
春樹が浩平に言った。浩平も頷く。あの姿はどう見ても噂で聞いた白い鰐だ。しかしツチノコの親友であるならば、噂のような恐ろしい存在ではないように思える。
「そう、だけど彼は都市伝説に聞くように人を襲うようなことはしていないわ。それは、先のあの見えぬ怪物の仕業みたい」
浩平の考えを裏付けてくれるように美琴が言った。ならばこの鰐もあの怪物に襲われたのだろうか。
鰐はツチノコと息を漏らすような声で会話している。
「それはありがたい、が、あいつは危険じゃろう。わしではどうにもならんかった。お前さんの小さな体では無理じゃろう」
「オイラには毒があるぞ!」
ツチノコは口を開けて牙を見せる。だが白い鰐は小さく首を横に振った。
「あいつは簡単には噛みつかせちゃくれんじゃろうて」
「不意打ちすればいいじゃん!」
ツチノコは譲らず、そんなことを言った。それでうまくいくものだろうか。そもそも姿を消せる相手の方が不意打ちは得意そうな気もする。浩平がそんなことを考えていると、美琴が前に出た。
「そうね。やってみる価値はあるかもしれない」
美琴とツチノコが何やら話している間、浩平と春樹は白い鰐の上に座って待っていた。もちろん許可をもらってのことだ。流石に下水の地面にそのまま座るのは憚られる。
「坊主たちは人間か。人間と話すの久々じゃのう」
少し元気になって来たのか、白い鰐はそんなことを言った。鰐の背は冷たいが、それが心地よかった。その体は全身が真っ白で、ただ目だけが赤い。
「八広さんは妖怪なの?」
春樹が尋ねた。八広とは、美琴に教えてもらったこの白い鰐の名だ。
「妖怪か、まあそうなのかもしれんな。わしはな、ずっと昔は神様として人間たちに祀られておったんだよ」
「神様?」
浩平が首を傾げる。鰐の神様というのは聞いたことが無い。というより、神様というものは人の姿をしているのだと漠然と思っていた。
八広は昔を懐かしむように赤い目を細める。
「ああ、わしは昔はただの鰐じゃった。じゃがな、そうやって人間たちがわしを神様として扱ってくれたお陰でわしは力を得て、こうして長い時間を生きることができた。人間には感謝しておるよ」
「白い動物というのはね、昔は神聖視されていたものなのよ」
また補足するように美琴が言った。もうツチノコとの話は終わったらしい。ツチノコは気合いを入れているのか、上下に高く飛び跳ねている。
「アルビノという言葉は分かるかしら? 生まれた時から体の色が抜け落ちる症状でね、滅多にないことなのだけど、彼はそれだった」
テレビで見たことぐらいならある。白くて珍しい動物ぐらいの印象しかなかったが、この八広という鰐もそうなのか。浩平は改めて八広の姿を見る。
「今はそういうのかい。美琴さんは色々なことに詳しいのう」
白い鰐はそう、笑むように口を動かした。
「あなたの種は、今ではマチカネワニと呼ばれているらしいわね。更新世の頃の化石が見つかったそうよ」
「更新世って、恐竜の時代?」
春樹が美琴に尋ねた。浩平はそういうことには詳しくないが、何となく言葉の響きから古い時代のような気がした。
「それよりは大分後ね。原始人やマンモスがいた時代。氷河期よ。八広は学者たちの間で何十万年も前に絶滅したと思われている鰐の種類なの」
そこで美琴はひとつ言葉を区切った。浩平や春樹が言葉を飲み込むのを待っていてくれているようだ。
「だけれどもね、彼らの種族はそれよりもずっと後、つい千年と少し前にも生き残っていた。数は少なかったのでしょうが、その中にこの八広というアルビノの鰐が生まれた」
ということは、少なくともこの鰐は千年以上生きているということだろうか。途方のない数字で、想像がつかない。
「人は彼という白い鰐を見て、神様だと思ったの。さっきも言ったように白い動物というのは、蛇でも狐でも神聖視されていたからね。それに鰐なんて馴染みのない動物だったでしょうから、余計に畏怖の念を抱いたのでしょう。彼は神として扱われるようになり、人々の信仰を一身に受けたことで特殊な力を持つ存在となった」
白い鰐は息を漏らすような音を鳴らした。同意の表現なのだろうか。美琴は八広に視線を向ける。
「ただそれは昔の話。今鰐が人の世界にいればただ捕まえられるか殺されるかするだけ。だからあなたが済むために異界を探したのに」
「あんたと出会うまで、ここは昔わしが住処としていた場所じゃ。だからたまに遊びに来ていたんじゃが、その時にあの化け物を見つけての。まあ見えはしなかったが、音は聞こえた。それで退治してやろうと思うたらこの様じゃよ」
「おっちゃん強いのにな!」
いつの間にか近寄っていたツチノコが叫んだ。甲高い声は暗闇に良く響く。
「ありゃ妖怪でも神でもない。あんな化け物初めてじゃよ。どうすりゃいいのか分からん」
「それで、あの怪物はずっと下水道にいるの?」
美琴が尋ねると、八広は同意した。
「ああ、あいつはこの下水道を縄張りにしているようじゃ。ものを食うのかはどうかは知らんが、ここからは出て行かん。その代わり、あいつがいる限りわしらも出ることはできん」
「そのようね。出たければあれを排除するしかない、か。ならば迎え撃つのが早いわね。ツチノコ」
美琴に呼びかけられたツチノコが彼女の方へと跳んだ。美琴はそれを両手で受け止め、そしてそっと袂に潜り込ませる。
「これで目ができたわね」
美琴は口の片側を釣り上げた。その袖の中からくぐもった声が聞こえて来る。
「友達は大事だからな! おっちゃんも浩平も春樹も待ってろよ! オイラがここから出られるようにしてやる!」
異形紹介
・透明な怪物
フィリピンに現れたという姿の見えぬ怪物。具体的な名前は持っていない。話の概要を以下に記す。
1951年5月、フィリピンのマニラにて、ある女性が何者かが自分に噛み付いて来ると警察に訴えた。相手の姿も性別も分からないという女性を警察は訝しむが、女性の腕には八箇所の噛み傷があり、警察は女性を保護することとした。
そして警察署にて、女性は再び黒い何かが迫って来ると訴える。だが警察には何も見えない。にも関わらず、女性の肩や腕に次々と噛み傷が現れ始めた。警察は彼女の証言を信じ、その夜は署に泊めた。
しかし翌日三度怪物は女性に襲いかかる。警察は見えぬ怪物に掴みかかるもまるで手応えがない。その襲撃の後警察は女性を守るため彼女を独房に入れるが、それでも怪物は襲って来た。怪物は5分ほど女性を噛み続け、その襲撃を最後に現れなくなった。結局、その怪物の姿を見たのは襲われた女性一人だったという。
唐突に体に傷が現れる超常現象として聖痕現象と呼ばれるものがあるが、これはカトリック教会においては奇跡の顕現とされ、決して黒い怪物に噛み付かれて現れるものとはされていない。またマニラに出た透明な怪物の場合、噛み傷に唾液が付着していたという証言があることから、生物であったのではないかと思われる。ちなみにフィリピンの神話においてはアマランヒグ、アスワン、チャナック等、人に噛み付く、人を食う怪物が語られている。




