四 死者の園
美琴は毅然とした声でそう問うた。奈菜は両の頬をそれぞれの手で覆い、そして目を見開く。
彼女はそこで自分が何者であるかを全て理解したのだろう。花嫁は死神に揺れる瞳を向ける。
「私が、私が化け物なのですか?」
そして奈菜は自分の青白く冷たい手を見つめた。その手は震え続けている。
「私は……、私は……、もう死んでいるのですね」
美琴は辛そうに奈菜から目を逸らした。彼女は知らねばならなかった。自分自身がもう、人ではなくなってしまったことを。
奈菜は悲鳴のような甲高い声を上げた。その慟哭はまるで鶴の鳴き声のように。美琴は花嫁の背に、黒い鶴の如き化鳥の姿を幻視する。
「呪いの花嫁……、陰摩羅鬼」
美琴はぽつりと、そう呟いた。そして誠を見る。
「この呪いは誠さん、あなたが作り出したものです。あなたは知っていましたね。彼女が既に死人であることを」
誠は無言のまま、静かに頷いた。
「陰摩羅鬼は、新しい死人の気から生じる妖。しかしきちんと供養される死体からはまず生まれぬ妖です。なぜならば、その亡くなった人の霊体と肉体とかこの世に留まり続けねば陰摩羅鬼とはならぬからです。それが生まれるためには、死体を葬らずに置いておく必要がある」
火葬されることも、埋葬されることもせずに置かれていた死体。それはつまり、奈菜の亡骸は死んだ後にもずっとどこかに安置されていたということになる。恐らくその原因となったのが、この誠なのだろう。
「やはり、彼女は死んでいるのですか」
誠は絞り出すような声でそう言った。光のない目が奈菜に向けられる。奈菜は彼へと手を伸ばしかけ、そして静かにその腕を下ろした。
「あなたは、彼女の死体を見ているはずです。それならば分かるでしょう。死んだものは生き返りはしない。それが動き出したとしても、それは別の存在でしかないのです」
美琴は陰摩羅鬼を見た。黒い鶴は悲しげに彼女を見つめ返す。奈菜は静かに頷いた。
「恐らく、あなたの念が彼女をこの世に縛り付け、妖怪化させたのでしょう。死してなお、生きて欲しい、側にいて欲しい、そう願ったことが彼女の霊体が天へと昇ることを阻害し、陰摩羅鬼へと変えてしまった。彼女を地へと縛り付ける呪いは、あなた自身なのですよ」
陰摩羅鬼は新しい死体の気から生まれる妖。それが生まれる背景には、救われて天へと昇りたい、この世を離れたいという死者の願いがある。
だが誠は死した奈菜を認めることができなかった。そして奈菜自身も、彼の元にいたいと願ってしまった。
「死者として救われたいという想いと、生者として救われたいという想い。二つの矛盾した感情が恐らく奈菜さんの霊体を分離させてしまった。一方は生者の記憶をそのまま受け継いだ人格に、そしてもうひとつは妖怪陰摩羅鬼としての人格に。前者は変わらず誠さんとの幸福な生活を続けようとし、そして後者は自身の魂の救いを阻害する誠さんを排除しようとした。だから、陰摩羅鬼は表の人格が眠りにつく真夜中にのみ現れたのでしょう」
生の暖かな光にも、死の優しい闇にも染まることができず、彼女はただ灰色のままに存在し続けた。それをいつまでも続けることは不可能だったろう。
死者は、元の生者に戻ることはできないのだ。
「私は、彼女が生き返ってくれたのだと、そう信じたかった。例えどんな姿になろうとも、彼女とともにいたかった。そのためならばこの目など、この体など幾らでも差し出そうと思っていた。でも、それでは駄目なのですね」
誠は優しげな声で言った。彼の閉じられたままの目は、しっかりと奈菜に向けられている。
「申し訳なかった、奈菜」
その言葉とともに奈菜の後ろに見えた鶴の姿は消え、黒い羽が散った。少しずつ彼女の元から生気が失われていることを、美琴は感じている。
「誠さん……、私は、あなたのことを傷付けてしまった……」
奈菜は震える足取りで彼の前へと歩み寄った。今にも倒れそうな彼女を誠が抱き止める。
「僕の方こそすまなかった。僕もどこかで、こんなことはいつまでも続かないと知っていたのかもしれないのに。でも、夢でも幻でも良いから、君と過ごす幻想の中に浸っていたかった」
誠は言った。彼もまた、矛盾した感情の中で苦しんでいたのかもしれぬ。彼女が死者であることを知っていながら、それを認められなかった。だから彼女を生者と信じようとした。
この洋館は、死したものが存在し続けることができた死者の園だった。しかしそれはもう、終わらせなければならない。
永遠の命を享受するエデンの園は、ここにありはしないのだから。
「君がどんなに遠くに離れても、また僕が会いに行く。君のためならどんな場所にだって」
誠は言い、そして奈菜を抱き締めた。奈菜は笑顔のままに涙を流し、そして頷く。
「いつまでも待ってるから」
死者の花嫁はそう言葉を残し、そして不意その体から力が抜けた。顔には笑みを残したまま、奈菜は静かに息を引き取った。
陰摩羅鬼は灰色の館に消え、そして彼女の命もまた夏の朝に消えた。
誠の喉の奥から嗚咽が漏れた。ずっと堪えていたのだろう。誠は奈菜の体を抱き締めたまま慟哭を上げる。
黒い鶴の羽根だけが、夏に降る雪のように館の中で舞っていた。
「彼女は、救われたのでしょうか」
館は夜の静寂に包まれている。その灰色の洋館の庭園で、私はそう呟いた。奈菜がいなくなって、この館は色だけではなく音さえも失くしてしまったような、そんな風に思えてならない。
「きっと、貴方に救われたでしょうね」
私の隣に立っていた不知火さんがそう答えてくれた。奈菜は最後、幸せそうな笑みを残してこの世から消えて行ったのだと言う。それがその証であるならば、少しだけ救われる。
「私は、どうしても奈菜が死んだことが信じられなかった。それで、私は死んだ彼女を……」
私は過去を辿る。結ばれることを約束した六月の頃、彼女は病に侵され、そしてベッドの上に眠っていた。昔の私のように起き上がることもできなくなり、次第に痩せ細って言った。
どんな医者に見せても原因が分からなかった。だから私は、最後の時をこの洋館で過ごしたいという彼女の希望を聞き、ともに時間を過ごした。
「彼女の最後を看取ったのは貴方だったのですね」
「はい。私は確かに彼女の最後の姿を見ていた。だけど、それを信じたくなかったのです」
彼女は絵を描くのが好きだった。ある日彼女はベッドから起き上がって、外に行きたいと私に言った。私は嬉しかった。もしかしたら彼女の病は治癒したのではないかと、そう思った。
だから一緒にあの庭に出て、そして絵を描く彼女を眺めていた。でもそれは彼女が陽の下を歩く最後の姿となり、数日後に奈菜は息を引き取った。
私は信じたくなかった。動かぬ彼女の体を死体だとは思いたくなかった。私は奈菜を誰にも渡したくなかった。
だから、私は彼女の亡骸をこの洋館に眠らせ続けた。きっといつか起き上がり、いつものように私に笑いかけてくれるのだろうと信じて。
私が子供の頃からこの洋館で働いていた人々は、死体とともに生活しようとする私を不気味だと思ったのだろう。皆この館を去ってしまった。洋館には、私と奈菜だけが残った。
不思議と奈菜の体は冷たくはなっても腐らなかった。私はずっと彼女の側にいた。それが、どのくらいの間続いたのだろう。
ある朝目を覚ますと、立ち上がって笑顔を見せる奈菜がいた。
「おはよう、誠さん」
彼女はそう、まるで昔と変わらぬように言ったのだ。
私は夢を見ているのだと思った。それから、今までのことが長く悪い夢だったのではないかと思えてしまった。
だから、私はまた彼女とともに生きて行こうと、そう思った。
「しかし奈菜さんはもう人ではなかった。誠さん、貴方はそれを知っていたのですか」
「恐らく心のどこかでは気付いていたでしょう。認めたくはありませんでしたが」
私は知っていた。彼女があの鶴であることを。それでも、私は光を失うとともにその事実から逃げていた。
「貴方は、我々の来訪を断ることもできた。奈菜さんとともにもっと長く生きるという選択肢もあった。だが、それはしなかった」
私は頷く。
「はい。私は彼女があの化け物だということを信じたくはなかった。だから、それを証明していただきたかったこともあります。そして、もし本当に彼女があの鳥であったのならば、彼女にこの先どうするのかを選ばせたかった。私の、身勝手です」
彼女が目を覚まして、私はとても幸福だった。叶わぬと思っていた彼女の花嫁姿を見られるのかもしれないと思った。神を信じていなかった私も、この時だけはもしかたしたらいるのかもしれないと、そう思った。
だが異変はすぐに現れた。彼女が目覚めて数日後の夜、私は物音で目を覚ました。そして私は、最後にこの目に黒い鳥の姿を映し、光を失った。
それが奈菜であるという確信はなかった。だが、どこかでは彼女があの化け物ではないのかという疑いも持っていた。心のどこかで、私は彼女が生者ではないということを知っていたからだろう。信じようとしなくとも、彼女の死は消し去ることのない記憶だった。
「死した奈菜をずっと自分の側に置いておきたいと願うなど、私の狂気に過ぎなかったのでしょうね。それで、私はまた彼女を傷付けてしまった」
不知火さんは何も答えなかった。だが、人に話したことで私の心も少しだけ整理が付いた。
奈菜は自分が鳥であることを知らず、私を守るためにこの人たちをこの館に呼んだことを思う。彼女は、その先に幸せが待っていると信じていた。私は、奈菜に残酷な最後を再び与えてしまっただけなのかもしれない。
「これから私は、彼女を弔って生きて行こうと思います」
不知火さんは静かに頷いてくれた。私は彼女の死を受け入ればならないのだろう。それを乗り越えられるかは別として、いつか彼女の元に行く日が来るまでは。
あの日から一週間ほどの時が経った。黄泉国の縁側でぼんやりと煙草を吸っていた良介の隣に美琴が座る。
「奈菜さんの亡骸は、きちんとお墓に入ったそうよ。亡くなったのはあの陰摩羅鬼が消えた日として扱われるようだから、彼も死体遺棄の罪には問われないみたい。彼の心の中の罪の意識は別にしてもね」
「そうですか。少なくとも、奈菜さんは彼のことを恨んではいないようでしたがね」
良介は煙を吐く。誠という男はどうしても彼女を手放すことができなかった。しかしそれは、陰摩羅鬼という妖に彼女を変えてしまった。
それが間違いであるかどうかの判断は、良介にはできない。
「ええ、そうね。人、いえ生きしものは全て死に、腐るもの。二人はそれを望まなかったのでしょうけれど、それだけで変えられるものではないのよね。死んだものが再び生きるためには、別の存在とならなければならない。私もそうだった」
死者として救われたいという想いが生み出す妖怪、陰摩羅鬼。それは奈菜という人間に新たな生を与えたが、同時に二度目の死を与えることともなった。
いつかその傷を誠が乗り越えることを、良介は願う。
「だけど、僅かに長らえ生きた時間は、彼らにとっても幸福だったと、そう信じたいわ。大切なものの死を認めたくないという想いは、誰だって持っているものでしょうから」
美琴はひとつ息を吐き、そして続ける。
「あの園に咲いていた松虫草。その花言葉は「不幸な恋」「恵まれぬ恋」「わたしはすべてを失った」「悲しみの花嫁」「喪失」「悲哀の心」なんて悲しいものが多いの。でもね、あの紫の花は「再起」という花言葉も持っている。それはきっと……」
「……きっと、奈菜さんが望んでいるこのなのでしょうね」
良介は美琴の言葉に自分の言葉を続け、そして頷く。蝉時雨が屋敷の外に響いている。
今日の空は雲一つない晴天だ。この青空の向こうで奈菜の魂は救われたのだろうと、良介はそう思う。
私は雲一つない空に、奈菜のことを想う。目は見えないが、照りつける日差しで恐らく晴れ渡った空なのだろうということが分かった。
奈菜がいなくなり、かつてここに住んでいた人々も私を心配して戻って来てくれた。音がなかったこの館にも賑やかさが戻る。だけど、私は満たされぬ心の瑕を抱えたままだ。
この瑕はいつまでも埋まることはないのだろう。しかしそれで良い。これは奈菜がここにいてくれた証であり、私が彼女を弔い続けねばならないがための痛みなのだから。
庭では彼女の好きだった松虫草が、誇らしげに花を咲かせているはずだ。
私は暖かな夏の空気を吸い込んでひとつ、空に向かって奈菜の名前を呼んだ。
※この紹介の中に一部水木しげる『ゲゲゲの鬼太郎』と京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』のネタバレが含まれています。ご注意ください。
異形紹介
・陰摩羅鬼
陰魔羅鬼とも書く。中国や日本の古書にある妖怪で、中国の書としては『大蔵経』や『清新録』、日本の書としては江戸時代の『太平百物語』や『今昔画図続百鬼』に見える。いずれも新しい死体の気が変化して現れる妖怪として描かれており、黒い鶴のような姿で燃えるような赤い目をしているとされている。また、『今昔画図続百鬼』の鳥山石燕の絵には人に似た顔を持ち炎のようなものを吐く陰摩羅鬼の姿が描かれている。
妖怪研究家の多田克己氏は中国において「鬼」の字は死者の霊を表し、また仏教では陰は「五蘊」、色、受、想、行、識の五つの集まりで、身体のことであり、煩悩や行為によって悟りを妨げるものでもある。そしてこれらを悟りから遠ざける魔として「陰魔」という存在として見なすことがあること、また摩羅は悪魔、魔王を表す言葉であること(仏教で言う悪魔は悟りを妨げる存在)を指摘し、陰摩羅鬼という名は人の五蘊(五陰)から生じた悪魔であり、かつ死者の霊のことであると考察している。
また人の新しい死体から生まれるという妖怪であるためか、近年では十分に供養されない死体が化ける妖怪として紹介されることも多い。
陰摩羅鬼を扱ったフィクション作品としては『ゲゲゲの鬼太郎』が有名であり、ここでは死体に取り憑く三つ目の蝙蝠のような姿で描かれた。またこの物語にて語られた生きていると思っていた花嫁は実は陰摩羅鬼に取り憑かれた死体だったという設定は京極夏彦氏の小説『陰摩羅鬼の瑕』において「実は死んでいた花嫁」というテーマとしてオマージュされている。
また同じく死者の気から生じる鳥の妖怪として中国には「羅刹鳥」というものがおり、『子不語』に書かれた話によればこの鳥は墓場の陰気によって生じるのだという。話の概略を書くと、清の頃、ある婚礼において花嫁が二人現れる。新郎は花嫁が二人になったと内心喜ぶが、しかしその婚礼の日の夜に偽の花嫁はその正体を現し、花婿と本物の花嫁の目を嘴で抉り取ってその視力を永遠に奪ったと伝えられる。この鳥は羅刹鳥であったといい、黒鷺のような姿をしており、黒みがかった灰色の羽毛を持つという。余談だが羅刹は鬼神の総称ではあったが、摩羅とは違い、仏教においては守護神とされる。




