三 陰摩羅鬼の瑕
日は傾き始めていた。森に囲まれているにも関わらずこの館は鳥の声さえも聞こえない。不気味とも言える静寂に支配されている。
化け物が現れるのは決まって真夜中だという。その正体を確かめるため、美琴と良介はその晩も洋館に留まることとなった。奈菜の作ったという夕食を取った後、美琴は与えられた寝室の窓から沈み行く陽を見つめている。
元は使用人に宛がわれていた部屋らしい。窓から差す西日が無彩色の世界に唯一赤い色を与えている。しかし夜になればこの部屋は再び彩を無くすだろう。
静寂と無色に支配されたこの世界に憑いたものは、何なのか。
その静けさに罅を入れるようにドアをノックする音がした。良く知った気配だから、誰が壁の向こうにいるのかは分かる。
「どうぞ」
その言葉の後、ドアが開く。現れたのは予想の通り良介だった。良介は無言のまま部屋へと入り、そして美琴の座るベッドの横に腰を下ろした。
「美琴様、この館に巣食う鳥は何だと思いますか」
「もう大体予想が付いているわ。恐らく今宵、確信できるでしょう」
良介は黙したまま首肯した。彼も気付いているのだろう。この、たった二人に残された洋館に現れる化鳥の正体に。
美琴は自分の推測が間違っていることを心のどこかで願う。だが、恐らくそれは違わないのだろう。
夜気が館の壁を通し、室内へと染み込んで来る。夜がやって来た。
深夜二時。モノトーンの館の中は静まり返っている。風の音さえも聞こえぬ夜の帳の下、その化鳥は動き始めていた。
その羽毛は全て墨を零したような漆黒に染まり、瞳だけが燃える炎のように赤く輝いている。細長い首の先には鋭い嘴が覗き、その色もまた黒色。足の先に見える爪さえも黒く、そして鋭い。
鶴の化け物は甲高い声を上げ、広い館の中で翼を広げた。壁を蹴り、飛び上る。真新しい爪痕が洋館の壁に残った。
鶴が目指すのは一か所のみ。あの男が眠る部屋。化鳥は満足には動かぬ体をぎくしゃくとコマ撮りの映画のように動かし、少しずつ進んで行く。だが、そこへと辿り着く前に黒い鶴の目の前に少女が立ちはだかる。
赤く燃える瞳は、この洋館に似つかわしくない紫色の和服を睨む。
「やはり、陰摩羅鬼だったのね」
美琴は悲しげな瞳で化鳥を見た。この鶴に似た鳥は、しかし鶴とは違う。妖だ。そして、この妖が生まれるのにはある一定の条件がある。
そこから想察される化鳥の過去を思い、美琴の目を伏せた。
鶴は大気を震わせるような甲高い声を上げ、嘴で美琴を狙った。目前に黒が迫り、美琴は首を傾けてそれを避ける。
鶴の動きは全身の筋肉が統率を取れていないように緩慢で、ぎこちない。だがこのようにして、誠は目を失ったのだろう。人間相手ならばこれでも十分な脅威にはなる。
美琴は陰摩羅鬼の懐に飛び込むと、そのまま黒い体の真ん中に掌を当てた。途端に化鳥の動きが止まる。体に通う妖力が上手く作用していない。それ故、少しの妖力を注ぎ込むだけで簡単に動きを奪うことができる。
この洋館に付いた傷もそれ故か。不自由な体でもがきながらこの鶴は誠の部屋を目指ししている。その理由は、大体察しが付く。
あまり傷付けたくはなかった。この妖の場合は、殺しても何の意味もない。もっと別の解決を見出さねばならぬ。
それは、あの二人を悲しませる結果になるであろう。しかし彼らは知らねばならない。
陰魔羅鬼は倒れ、そして鶴のような姿が変化して行く。美琴はそれをじっと見つめている。
寂寥が再び館の内部を支配する。明日には全てが終わるだろう。
良介は館の中に発生した妖気が消えたのを感じ、そちらを見た。夏の夜とは思えぬひやりとした空気は、それで少し緩和された。
良介が立っているのは誠の部屋の前。美琴は屋敷の中では線対象の反対側に位置する奈菜の部屋の前にいた筈だ。ならば、化鳥はあちら側に現れたということか。
美琴の予想通り、となるのだろう。良介は眉根を顰めた。そして、この部屋の主のことを思う。
彼の想いがあの妖を引き寄せている。良介はそう考える。この館に二人で住み続ける限り、あの妖は現れ続ける。それを解決するために呼ばれたのが自分たちだ。
解決はできる。この怪現象が起きた理由さえ分かれば簡単だ。だが。しかしそれが、二人の望む未来となるとは限らない。
良介はかつて失った妻と子を思い出す。自分の目の前で失われてしまったあの悔しさ、悲しみはもう経験したくはない。
良介は拳を握り、それをどこかにぶつけたい衝動を堪えた。どうしようもない虚しい怒りだった。
ふと見れば、すぐ側に美琴がいる。
「やはり、予想通りだったわ」
美琴は一言そう告げた。良介は口をきつく結び、頷く。
「もう我々に救うことはできないのですね」
「ええ。諦めねばならない。私たちにできるのは二人に真実を知らせることだけ。私たちは唯一神にも救世主にもなれないのよ」
美琴はそう呟いた。死神も火車も、死の匂いに包まれて生きる妖。この館が生み出す空気は、あまりにも二人に似合い過ぎていた。
朝の陽光が窓から差し込む。それで私は目が覚めた。時刻は六時過ぎ。やはり夏の朝は早い。もう空は青く澄んでいる。この洋館は森に囲まれているせいかとても涼しいけれど、やはり今は八月なのだと実感する。
本当は、六月に式を上げるはずだった。あれは、私が六月の花嫁になりたいなんて、わがままを言ったら彼が許してくれたのだっけ。もうそれは叶わなくなってしまったけれど。
昨夜もあの鳥の怪物は現れたのだろうか。あの鳥が現れたせいで、私たちは未だ一緒になれずにいる。しかも誠さんの視力まで奪われてしまった。
私は見たことがないけれど、誠さんが傷ついている以上は必ずその化け物はこの館にいるのだろう。どうしてその鳥は私たちの幸せを奪おうとするのか、私には分からない。
でもきっと、伊波さんと不知火さんが解決してくれる筈だ。二人とも不思議な雰囲気を持った人で、私たちではできないことをしてくれるような、そんな気がする。
もしこの洋館がいつもの通りに戻ったならばここを出て行った皆も戻ってくれるだろうか。彼らがここを出て行って数か月、子供の頃から知っている人たちなのに一度も会えていない。
私は首を横に振った。でも、結婚式には皆きっと来てくれる。式の日には伊波さんや不知火さんにも来てほしい。私はその日を想像し、つい笑みを浮かべてしまう。
きっともうすぐだ。私はベッドから立ち上がる。少しだけ胸の辺りに痛みがあって、私は顔をしかめた。
昨日まではなかったのに、何だろう。私は不思議に思ったが、あまり気にはしなかった。
朝が来てもこの洋館の内部は薄暗い。元々窓が少ない造りになっているから、陽光が入って来ないのだ。そのせいで外の比べてもここは気温が低いのかもしれない。
誠さんの話によれば、彼の祖父母は色の付いたものをどういう訳か拒んでいたのだという。だから時間によって色を変える陽の光が入って来る窓の数も最小限にしたのだと聞いている。
ここまで徹底したモノトーンにしているのだから、何か理由があったのだろう。でも、この統一感は嫌いではない。子供の頃は少し怖かったけれど、それで、私は自分と同じぐらいの子供がここに住んでいることを知って何故か安心したんだ。
私は灰色のワンピースを選び、着替えた。そしていつものようにホールへと向かう。調理場へはあそこからしか行けないから。今日は伊波さんや不知火さんもいるから、いつも以上に気合いが入る。誠さんと私しかいなくなった今、食事の支度は私の仕事になっていた。
昨夜の夕食はおいしいと言って食べてくれた。だから余計に力が入る。やはり人がたくさんいた方が賑やかで楽しい。
私はいつか自分の子供たちのために食事を準備することを想像し、幸せを噛み締める。
でも、私がホールに辿り着いた私を待っていたのは、どこか深刻そうな表情をのぞかせた伊波さんと不知火さん、それに誠さんだった。それに、私は伊波さんの服装が気になった。
黒に染め上げられた、模様のない和服。それはまるで喪服のようだった。
何か胸騒ぎがして、また少し胸が痛んだ。
美琴は館の中心に立ち、そして階段の上に立つ奈菜を見上げた。不思議そうな顔で奈菜は階段を下りて来る。
「皆さま、どうかしたのですか?」
「この館の怪異の正体は、分かりました。これよりそれが何であるか確かめます」
美琴は感情を抑えた声でそう告げた。
「怪物を退治して下さるのですね!」
奈菜は嬉しそうにそう笑った。美琴は頷く。
この館に憑く鳥を退治し、物語は終わらさなければならない。例えそれがどんな結末となろうとも、死神はそのためにここに呼ばれたのだ。
美琴は一度目を伏せ、そして奈菜を見る。
「その前に、少しだけあなたに質問をすることを許して下さい」
奈菜は首を傾げる。
「それは、怪物を退治することに関係があるのですか?」
「ええ」
美琴が答えると、奈菜は真剣な表情で首を縦に振った。
「それならば、こちらからもお願いいたします」
美琴は一度小さく息を吸い、そして吐き出した。この問答の先に結末は訪れる。
美琴は淡々とした声で奈菜に向かって問いを投げ掛ける。
「最初の質問です。あなたの名前は何ですか?」
「新坂奈菜です」
奈菜はそう素直に答えた。
「あなたがこの洋館に住むようになったのは、いつ頃からですか?」
「確か、春先だったと思います。林檎の花が咲いていましたから」
美琴は頷く。そして質問を続ける。
「ここであなたは何をしていましたか?」
「何って、今と同じように誠さんの元で生活していました」
そこで奈菜は首を傾げる。疑問を持ち始めているのだろう。
質問の意図ではなく、自身の記憶に。
美琴は誠をちらと見る。彼は、じっと死神と花嫁の会話に耳を傾けている。
だがその握りしめられた拳は微かに震えていた。
美琴は奈菜に視線を戻す。この灰色の洋館が生み出した物語に決着を付けるべく、美琴は問いを紡ぐ。
「あなたが、黒い鶴の夢を見るようになったのはいつ頃からですか?」
「六月の初め頃、だったと思います」
「では、あなたはその直前の記憶がありますか?」
「記憶……?」
奈菜は自身の記憶を辿ろうとする。しかしそこに到ることはないだろう。彼女にはその記憶など存在していないのだから。そしてそれは、彼女自身を少しずつ真相へと近づけて行く。
「わ、私は……」
狼狽する奈菜を見据える。だがここで問答を止めることはできない。美琴は問う。そして答えを待つ。
「夜中、寝室ではない場所で目が覚めたことはありますか?」
「はい……」
僅かに届く朝の陽光が、奈菜の青白い顔を照らす。色素の薄い瞳が揺れる。
美琴はじっとその瞳を見る。
「あなたは、人の血の味を知っていますか?」
「そんなもの……」
そこで奈菜の言葉は途切れる。口元を押さえ、瞳が縮小する。
思い出したのか。美琴は毅然とした口調で続ける。
「あなたは、体が消えて行くような恐ろしい寒さを、全てを否定されるような孤独を、知っていますね?」
美琴の問いに奈菜はただ頷いて答える。その体は震えている。真夏の太陽の下なのに、それは真冬の月の下のように。
美琴は口を一度きつく結んだ。そして、しっかりと奈菜を見据える。
「ではもう一度問いましょう。あなたは、誰ですか?」




