表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第三六話 死者の園
144/206

二 黒い鶴の夢

「あら、伊波さん」

 奈菜はそう、近付いた美琴を振り返り笑顔を見せた。あの薄暗い灰色から出てきた瞬間に、世界は色を取り戻したようだった。美琴は何度か目を(しばた)く。

 紫に揺れる庭中に咲いた松虫草や、鮮やかな草木の緑と空の青に未だ目が慣れぬ。

「調査は良いのですか?」

「被害に遭われた方々のお話を聞くのも、調査の一環です」

 美琴は奈菜が先程まで向き合っていたキャンバスに目を向けた。そこに描かれているのは細く長い首や足、それに(くちばし)を持った、鶴のような鳥。だがその羽毛は白ではなく黒に染められ、目は赤く燃えるような色に塗られている。

「この鳥は?」

「ああ、この鳥は今回の事件とは関係ないものです。最近、この黒い鶴の夢を良く見るのです」

 奈菜は言い、キャンバスを美琴の方に傾ける。

「いつもとても悲しそうな目をして私を見るのです。私にはこの子が何を言いたいのかは分からない、それを必死で考えているうちにいつも目が覚めてしまう」

 美琴はじっとその黒い鶴の絵を見つめている。奈菜は色素の薄い唇を動かし、美琴に問い掛ける。

「鶴は千年なんて言うように、鶴は長寿の象徴のような鳥として良く言われますよね」

「ええ。この国では鶴は吉兆の兆しとして古くから尊ばれて来ました。仲の良い夫婦の象徴ともなっています。しかし、北欧の国ではその逆に、死を運ぶ鳥として恐れられてもいますね。ケルト神話の影響です」

 美琴の言葉に奈菜は僅かに首を傾げたようだった。

「では、この黒い鶴はどちらなのでしょう」

 奈菜はそう尋ねる。白い陽光を受け、黒く染まった鶴の絵はよりその存在を明確にしている。美琴は黒い瞳のまま、その絵をじっと見つめている。

「恐らく、どちらもでしょう。命を長らえさせ、そして死を運ぶ」

 美琴は言った。黒い鶴には、覚えがある。




 私は開けていた窓から風が入って来るのを感じた。あの不知火良介という人は先程この部屋を出て行った。見える訳ではないが、近頃は他の四つの感覚が敏感になっているように思う。気配で人がいるかいないかぐらいは分かるようになった。

 夏の風の匂いは不思議な懐かしさを感じさせる。子供の頃、夏という季節がとても楽しみな季節だったからだろうか。

 奈菜が来るのは、いつもこの季節だった。学校が夏休みになるというこの時期、彼女は良くこの館を訪れてくれた。

 私は何も見えない暗闇の中で思い出す。




 私は子供のころ、とても体が弱かった。いつもベッドの上に寝ていることしかできず、学校に行くこともなくこの洋館の中でほとんどの時間を過ごしていた。

 私にとってはこの館と、そして周りに広がる森が世界の全てだった。

 両親はキリスト教徒で、良く私に神の話をした。聖書の教えに従えば死んだ後救われるのだと、そう教えられた。だけどこんな狭い世界に閉じ込められるしかない生しかくれはしなかった神を、私は信じることはできなかった。

 そんな無味乾燥とした日々に彼女が現れたのは、私がまだ十になったばかりの頃だったと思う。その夏に私の祖母が亡くなり、たくさんの親戚が集まっていたのを覚えている。

 その中に彼女はいた。遠い親戚で、私より二つ年上だった。

 私はベッドから起き上がることができず、親戚の集まりにはほとんど顔を出さなかった。それに賑やかなところは嫌いだった。人がたくさんいると、自分がどれだけ脆弱なのかを否応なく思い知らされる。

 だから私は独りでいることを好んだ。いつ死んだって変わらないと思っていた。そのまま誰にも知られぬまま命の灯が燃え尽きれば良いと、そう思っていた。

「あ、いた!」

 そんな孤独な世界の静寂を何の前触れなく破ったのが、奈菜だった。彼女はノックもせずに私の部屋へと入って来ると、戸惑っている私の前までやって来て、私に声を掛けてくれたのだ。

「初めまして!私は新坂奈菜!あなたは?」

「僕は……、萩野誠……」

 奈菜と名乗った少女は屈託のない笑顔を見せた。まるで太陽のような、白く眩しい人だと、そう思った。




 奈菜の話によれば、この館に集まった人々の中には子供の姿がほとんどなかったのだそうだ。だからこうして私の話を聞いてやって来たのだと言う。

 彼女は寝たきりの私に気兼ねすることなく、楽しそうに話をしてくれた。周囲から向けられる同情の目に慣れていた私にはそれは新鮮で、そして楽しかった。

 それから数日の間、彼女は私の部屋を良く訪れてくれるようになった。その内に私の心にもいつしかひとつ変化が起き始めていた。

「いいなあ、奈菜は。僕もみんなみたいに外を駆け回ることができるようになるのかな」

「諦めなければなれるんじゃない? 病は気からって言葉があるもの。死んじゃいたいって思わない限りそうそうは死なないわよ」

 奈菜はそう言った。そうなのかもしれないと幼い私も彼女の言葉だから思うことができた。彼女は、私にできた初めての友人だった。

「ねえ、来年もまた来てくれる?」

 僕がそう問うと、奈菜は笑顔で頷いてくれた。

「うん。来年の夏も来たいな。でも、いつかは誠君が私のところへと来てほしいかな」

 彼女のその言葉は、私にとっていつか叶えるべき夢となった。私は外の世界への憧れを初めて持つことができたのだ。




 それから学校が夏休みになると彼女はこの館を訪れてくれるようになった。私はそれを心待ちにし、そして少しでも彼女と長くいられるよう、そして彼女につまらない思いをさせないよう、体を動かすための努力した。

 病は気からというのも間違いではないのかもしれない。私は少しずつ、普通の、健康的な人間がするような生活ができるようになっていった。

 外へ出られるようになってその広さと色彩とを知った。この洋館の、そして周りを囲む森の外に何があるのかを私はこの目で初めて見ることができたのだ。

 私は、自らの意思と力で与えられた閉じられた世界に出口を見つけることができた。




 私は約束通り奈菜へと会いに行った。今度は私が自分の足で彼女の元へ。奈菜はとても喜んでくれた。あの頃は、もう私は一八になっていたろうか。

 それから私たちは今まで以上に頻繁に会うようになった。外の広い世界を知ろうとも、私の彼女への想いは変わらなかった。そして彼女もまた、私に想いを向けてくれていた。

 それから五年ほどの歳月が経ち、もうすぐ残りの人生を一緒に過ごすことができることが確約した直後に……。

 目など見えなくとも良い。私は、ただ彼女を失いたくはない。




 奈菜は筆をしまい、そして美琴を見た。

「伊波さん、この洋館に入った時驚かれたでしょう?」

 美琴は頷く。すると奈菜は小さく笑った。

「私も初めてあの中を見た時は驚きました。まだ子供の頃でしたけど、まるで色の付いたものがないのですもの。今では、あの中が落ち着くようになりましたけどね」

 奈菜は幸せそうな笑みを見せる。あの白と黒に支配された世界は、彼女にとっては誠とともに時を過ごせる空間でもある。

 そして、化け物が現れるのもまたあの館の内部のみ。化鳥さえいなくなればきっと、行く末の幸福が約束されると、彼女はそう信じている。

「誠さんとはいつの頃知り合ったのでしょうか」

 美琴はそう疑問を口にする。

「まだほんの子供の頃です。十歳ぐらいだったかな。あの時は、誠さんは体が弱くてあの洋館から出ることもできなかったんです。だから彼は、その頃あの白と黒の世界しか知らなかった。でも今では立って、歩いて、一緒に外に出ることができる。私はそれが嬉しいんです」

 夏の太陽を見上げるようにして、奈菜はそう言った。青白い肌が陽光を反射させる。不思議なことに、森に囲まれたこの庭には蝉の鳴き声が聞こえない。しんとした静けさに包まれ、どこか寂しい。

「あそこに、一つだけ木があるでしょう?」

 奈菜が差す先に美琴も目を向ける。庭の真ん中に植えられた一本の木。そこには林檎と思しき赤い実が生っている。

「あの木は、誠さんの祖父母が植えたのだそうです。この庭をエデンの園に見立てたのだと聞いています」

 ならばあれは、知恵の樹だということだろうか。知恵の木の実は林檎の形をしていると語られることは多い。もうひとつ、創世記には特別な樹として知恵の樹とともに楽園の中心に植えられた生命の樹というものが記されていたはずだ。しかしそれは見当たらない。

 知恵の樹と生命の樹、原初の二人の人間は知恵の樹を選んだために生命の樹の実を口にする機会を失ったとされている。だが、そもそもこの園には永遠の命を得るための生命の樹は存在してはいないのか。

ならば、ここでは人は永遠には生きられまい。

「熱心なキリスト教徒の方ならばこんな庭は作らないのかもしれませんが、誠さんのおじいさん、おばあさんはそこまで神を信じている訳ではなかったみたいなんです。この館を造る時、ただ何か庭の元となるモチーフが欲しかったのだとか」

「奈菜さんもキリスト教を?」

 美琴が尋ねると、奈菜は首を横に振った。

「いいえ、私は聖書を読んだことがある程度で。誠さんのお父様、お母様が熱心な教徒の方だったようで、それで誠さんは良く聖書を読んでいたようです。もっとも、彼もキリスト教徒という訳ではないようですけれどね」

 奈菜は小さく溜息を吐いた。

「この洋館にたった二人で取り残されていると、まるでアダムとイブにでもなったような気がします。ここにはほとんど人が訪れないんです。私はたまに、彼らは幸せだったのかと思うことがあります。知恵も授けられず、外の世界も知らず、ただそこで生き続けることだけを許されているなんて」

 奈菜は林檎の木に目を向ける。夏の赤い林檎が陽光を照り返している。

「私は今幸せですよ。でもそれは、彼とともにどんなところにでも行ける自由があり、何かを知るための知恵があるから。でも、アダムとイブは善悪も知らないまま、どこにも行けないままだったのでしょう」

 美琴は頷く。創世記に描かれた彼らがどのような心情で世界を見つめていたのかは想像するしかない。だが、その与えられた世界しか知らぬ故に、彼らは幸福だったのではないかと、そうも思う。

 知識を授けられ、純粋さを失えば自ずと自分たちにとって不快となるものを知ってしまう。永遠に生き続けられることができる生命の樹の実も安楽の園も失えば、より大きな苦悩を背負うこととなる。

 その方が人らしいと言えばそうなのだろう。だが、幸福という尺度はそのものたちの中にしか存在しえない。他人がそれを理解し得ることは恐らくない。

「あなたは永遠の命を望まないのですね」

「ええ。私は限りある命で良い。その間に様々なことを知り、多種多様な場所に行き、そして満足して死ねればそれで良いと思います。だって……」

 奈菜は美琴を見る。その瞳はとても澄んでいる。

「何も知らぬまま、何の苦難もなくただ存在し続ける。それは最初から死んでいることと何が違うのでしょう。それではまるで、楽園は死者に与えられた世界のように思えてしまいます」

 それもまた、ひとつの考え方ではあろう。彼女は楽園での生を望まない。誠とともに、限りある世界を生きて行くことを望んでいる。

 奈菜は灰色の洋館に視線を向ける。

「この家にはもう私と誠さん以外に人は残っておりません。化け物がいなくなればもしかすれば皆帰って来てくれるかもしれないけれど、そうでなくとも私は彼の目となって一生を過ごすことも構わないと思っています」

「それはあなたにとっては幸せなのでしょうね」

 美琴が言う。奈菜は柔らかく笑み、「はい」と答えた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ