一 モノクロの館
彼女は灰色の空を背に微笑んだ。松虫草が咲く八月の庭、そこにキャンバスを持ち込み、彼女はその景色を描いている。
彼は、そんな彼女の様子を見て穏やかに笑む。森に囲まれた庭の真ん中にたった一本植えられた林檎の木。それ以外はただ緑の草々紫の花々に覆われた広い庭は、彼女のお気に入りだった。
そして、その情景は彼が光の中で見た彼女の最後の姿となった。
第三六話「死者の園」
「ようこそ、いらっしゃいました」
その男、萩野誠はそう柔らかな声で言った。口元には小さな笑みが浮かんでいるが、瞼は閉じられたまま開かない。色素の薄い肌には、真夏の太陽に晒されているのに汗ひとつ見えない。
そしてその片手には、彼が光を失ったことを示すように杖が握られていた。
「文を読み、参りました」
美琴は誠の後ろに聳える洋館を見上げた。真上から夏の日差しに照らされているのにも関わらずどこか冷たさを感じさせる。それはこの館が灰色に染め抜かれているせいかもしれぬ。
シンメトリーの建物の屋根は濃い灰色の、壁面は薄い灰色の一色に染まり、まるでモノクロの映像から抜け出してきたような印象を与える。館を支える柱も、その彫刻のような柱飾りも、バルコニーの手摺も、建物の大きさに比べ数が少ないように見える窓の枠も、そして正面に見える玄関の扉さえも濃淡の違う灰色に塗られている。
美琴の隣には良介が立ち、同じように灰色の洋館を見上げていた。
「この館には、化け物が出るのだそうですね」
美琴は淡々とした声でそう盲目の館の主に問い掛ける。色彩を失ったようなこの洋館の存在を、美琴はある文によって知った。差出人は、この館に住む女性。誠は穏やかな笑みを浮かべたまま首を傾ける。
「そうようです。この館には何かがいる、それは確かです。私も一度だけこの目で見ております」
そう誠は閉じたままの瞳を指す。その光はその化け物に奪われたのだろうか。
美琴は頷いた。確かにこの洋館の辺りからは微かな妖気を感じる。昼間であるためかその出所がどこなのかまでは分からない。
「とにかく、ここでは暑いでしょう。中にお入りください」
言って、盲目の男は灰色の屋敷へと消えて行った。
「お客様ですか?」
青白い顔をしたその女は、涼やかな声でそう尋ねた。エントランスホールから吹き抜けの二階へと繋がる両階段、その踊り場に立っていた女は、ゆったりとした足取りで一階へと下りて来る。白いブラウスと黒いスカートという出で立ちだった。
「うん、奈菜。お客様だよ」
誠がそう答える。奈菜と呼ばれた女は誠の横で立ち止まり、そして美琴と良介に礼をした。
「新坂奈菜と申します」
「伊波美琴と申します。文を下さったのはあなたですね」
人として行動する際に使う姓名を名乗り、美琴は言った。奈菜はゆるりと頷く。
「あなたが伊波美琴様、でいらっしゃいますのね。貴女様のことは古い友人から聞きましたの。どんな怪事件でも解決して下さると」
「そうなのですか。では、その期待にお応えしましょう」
美琴はそれだけ言い、洋館の内部を見渡した。
小さな家ならば一軒そのまま入るような大きさのエントランスホール。その壁紙は外と同じく薄い灰色に染められ、装飾となる壁の模様や床に敷かれた絨毯も白か黒、そして灰色のどれかしかない。やはり六十年前のスクリーンから抜け出して来たように錯覚しそうになる。日光のほとんど入らぬ広間の造りが、よりその印象を強くする。
その壁や床の一部に何か大きな刃物で抉られたような真新しい傷がある。まるで獣が暴れたかのようだ。
これが奈菜の文にあった化け物によるものなのだろうか。そう尋ねると、奈菜は頷いた。
「恐らくそうなのでしょう。どういう訳か、私はその化け物を見たことがないのです。どうやら真夜中にやって来るようなのですが、私が気付いたときにはもう姿はない……」
奈菜は首を傾げそして階段の手摺を切断するようにして付いた傷をなぞった。木片が露出し、白と黒に統一された世界に微かな瑕を生み出している。
館の中には化け物の気配は感じられず、それどころか他に人の気配さえしなかった。蒸し暑い夏の外気からは考えられぬような乾いた冷たい空気を孕んだこの洋館は、一体何を隠しているのだろう。
「この館に他に人はおらぬのですか?」
美琴と同様の疑問を持ったのだろう。良介がそう尋ねた。
「ええ。あの化け物が出るようになってからでしょうか。この洋館を気味悪く思ったのか、皆出て行ってしまいました。残ったのは、ここの主である私と、婚約者である奈菜だけです」
誠はそう良介から少し外れたところへと顔を向けて言った。覚束ぬ足元から考えても、視力を失ってからまだあまり時が経っていないのだろう。
「あなたは、その化け物を見たことがあるのですよね」
美琴がそう尋ねると、誠は首肯した。
「ええ。私の目が使い物にならなくなったその夜、私は確かにその化け物を見ました。そうは言っても、暗いところであったので参考になるかどうかは分かりませんが……」
「どんなことでも良いので、話してみて下さい」
美琴が促すと、誠はぽつりぽつりと話し始めた。
「大きな、鳥でした。暗闇の中であったためどんな種類の鳥であったのかは分かりません。しかし、私の背丈よりも大きく、二メートル以上はあったと思います」
巨大な鳥の妖。それだけならば幾らでも思い付く。西洋の魔物を含めればより数は増える。だが、そんな巨大な鳥がこの屋敷にずっと潜んでいれば恐らくすぐに分かる。
だがそんな獣の気配など感じない。美琴よりも鼻が利く獣の妖である良介も同じのようだ。
「そして、その鳥は私を襲い、この目を啄みました。私が視力を失ったのはその時です。今は命があっただけでも良かったと、そう思うようにしています」
そう語る誠の口調には恐怖も、怒りも感じられなかった。ただ淡々としていて感情の起伏に乏しい。元来そういう人間なのだろうか。
「本当は、六月に式を挙げるはずでした。しかしその化け物により彼は目を傷付けられ、人々も館からいなくなり、私たちはまだ夫婦になることができないでいる。その化け物がいる限りは、きっといつまでもできはしないでしょう」
奈菜は悲痛な面持ちで美琴を見た。異形の存在によって挙式を妨げられている新郎と花嫁。日常に現れた異物がいなくなることで、日々の生活は元通りに戻ると信じているのだろう。少なくとも奈菜は。
この事件は、もしかすれば残酷な形で終わるかもしれぬ。美琴はそう予感した。
「まずはこの館の内部を調べましょうか」
美琴は良介にそう言った。館の主であるという誠には既に許可を取っている。美琴は良介にとりあえずは自分は西側を調べると告げた。
「ならば俺は東を調べましょう」
良介は言い、そしてホールの中心に伸びた階段を見上げて問う。
「美琴様は、この館に妖がいると思いますか」
「きっと、いるでしょうね」
美琴は短く答えた。そして、良介に背を向けて館の西側へと歩き出す。良介もその背に頷き、東側へと歩を進める。
洋館の東側、一階。中央部に比べて壁を抉るような傷はあまりない。その分ほとんど妖気も残留してはいないようだった。
黒い絨毯の敷かれた廊下の右側の壁には、扉が間隔を空けて設置されている。左側にはランプ以外に何も設置されていない。
それは二階に登っても同様だった。ただその扉の中に、ひとつだけ破壊されて取り外されているものがあった。その周りの壁にもあの引っかき傷のような痕がいくつも残っている。
良介が中を覗くと、今度は白い部屋が広がっていた。窓からは陽光が入り込み、白に統一された無機質な部屋の一部で光を拡散させている。
窓にはカーテンが引かれているが、所々が引き裂かれている。それが部屋の中に影と光の模様を作り出していた。廃墟というには新しく、しかし人が生活しているという匂いが希薄な部屋だった。
鳥の妖はこの部屋を襲ったのだろうか。妖気は既に感じられぬが、恐らく間違いない。微かに残る血の匂いを良介は感じた。
「どなたかいらっしゃるのですか」
そう声が聞こえた。部屋の主が帰って来たのだろう。良介が振り返ると、そこには誠が立っていた。
美琴は紫色の目で館の内部を観察しながら歩いている。妖力を通わせたこの目は、他者の穢れの他にも妖気や霊気をより強く感じさせることができる。
館に残った微かな妖気を辿るにつれ、壁や天井を抉った傷は増えて行った。それが最も深く、また数を増やした場所で美琴は立ち止る。
そこにあったのは一つの扉だった。鍵は掛けられていない。美琴がそこに手を掛けると、灰色に染められた部屋が現れる。壁や床は勿論、ベッドから机、本棚等の家具まで様々な濃度の灰色に塗られている。
必要最低限のものしか置かれていない印象ではあるが、ドレッサーやクローゼットから覗く衣服を見るに女性の部屋のようだった。
かつてこの館に住んでいたものの部屋か。それとも奈菜のものか。
美琴は窓際に近付く。その窓から、庭でキャンバスを前に座っている奈菜の姿が見えた。
「不知火さんは、ご結婚なさっているのですか?」
手探りでベッドに座った誠が唐突にそう問うた。不知火は良介が人間として活動する際使っている姓だ。
「いや、今はしていません。昔は妻も娘もおりましたが、死んでしまってね」
良介は立ったまま会話する。相手の目が見えぬとはいえ、許可なく座るのは憚られた。
「そうだったのですか。すみません……」
「いや、良いんですよ。ずっと昔のことですから」
そう、ずっと昔の話だ。何百年も前の。だが二人のことは一度だって忘れたことはない。忘れられるはずもない。良介は懐かしさに目を細める。
「不知火さんは、もしその奥様と娘さんが甦るというのなら、何でもするでしょうか」
誠は落ち付いた声でそう問う。良介は少し考えてから頷いた。
「恐らく、できることならばするでしょう。そんなことはありえないとは思いますが。しかし、何故そのようなことを」
「私も、奈菜を失うことが怖いのです」
誠は俯き、そう言った。
「私はこうして視力を失った。それ以来、私は彼女の姿を見ることはできなくなった。この永遠の闇の中で思うのです。この光を失った日のように、いつか、奈菜は私の手の届かぬところに行ってしまうのではないかと。私の知らぬ世界へ旅立ってしまうのではないかと」
あくまで穏やかな声だった。だがその両手は微かに震えていた。
光を閉ざされた永久の闇。どんなに見たいと願っても見ることができぬ。それは、どんな不安であり、またもどかしさを生みだすのだろう。想像はできても実感はできぬ。両の瞼を閉じようとも、それを開けられるという選択肢がある限りは。
「もしも永遠の命があるのならば、私は彼女にそれを得て欲しい。そう思います。私は彼女の側にいたい。だけれども、彼女が生きているという保証があるのならば、それだけでも満足でしょう」
永遠の命。そんなものは勿論存在しない。人より遥かに寿命がながい妖であっても、それよりも更に強い肉体を持った神族でさえも、死というものは訪れる。
それは避けられぬものなのだ。死を運ぶ死神や火車がいなくとも、命はやがて消えて行くものなのだ。
「人は、永遠の命を自ら捨てたという話がありますね」
「岩長姫と、木花咲耶姫の話ですか」
誠の言葉に良介は問うた。日本神話の中に、瓊々杵という神は、嫁いできた岩長姫という醜女と、木花咲耶姫という美女の二人の女神のうち岩長姫のみを親元へと返した。しかし岩長姫は岩のような永遠を、木花咲耶姫は花のような繁栄を司っていたために、それ以降の天孫の寿命は短くなったとされる話がある。
だが誠は首を横に振った。
「あれはあくまでも長寿の話であり、神の話でしょう? 私が思い付くのは、神によって作られた初めの二人。アダムとイブです」
「失楽園ですね」
旧約聖書の初めに記された創世記。その中に原初の人間であり、永遠の命を捨てた二人の姿は描かれている。
古事記や日本書紀に書かれた神々の話よりも、旧約聖書に書かれたこの話の方がこの洋館には似合うような気がした。
「はい。彼らはどうして禁断の果実を食べたのでしょう。それを手に取りさえしなければ、二人は永遠にともにいられたのに。神はなぜ、悪魔の蛇の侵入を許してしまったのでしょう」
楽園での永遠の命を捨て、アダムとイブはエデンの園を追放された。悪魔の化けた蛇がイブを唆し、神が口にしてはならぬと命じた果実を口にさせた。それが人が永遠の命を失った原因だとされている。
全知全能の神なのだから、その始まりも結末も知っていたのだろう。全ては神の掌で起きた出来事だったのかもしれぬ。
「神は、元々人に永遠の命など渡す気はなかったのかもしれませんね」
「そうだとしたら、とても悲しいことです」
誠はそう、愁いを帯びた笑みを見せる。聖書の神は全能の神。結局は人も悪魔も、神には逆らえぬ。楽園を失うことは予定調和でしかなかったとそうも考えることができる。
「アダムとイブが消えた楽園には、誰かが住んでいるのでしょうか。人に死を背負わせるだけの役割しか持つことはなかったのでしょうか」
誠は眉根を顰める。そして、呟くように言う。
「それではまるで、死者を生み出すために作られた園のように、そう思えてしまいます」




