三 最強の対抗神話
時は戦後すぐの頃、東京にあった丁滝寺という寺に、除霊で有名なある坊主がいた。
寺島慎司という名のその男は、誰であっても助けを求めに来るのならば無償で悪霊を祓い、そしてその力を惜しむことなく使って人を襲う妖を倒した。その際には彼の腕は青白い光を発し、その力によってほとんどの怪異は退散して行ったという。
そんな力を持っていながら気さくで決して力を誇示しようとはしなかった寺島は、多くの人々に慕われていた。
そして、そんな彼は人々を守るため、例え勝ち目のない相手であっても立ち向かった。
「こいつはやばいな」
冷や汗を流しながらも、寺島は目の前の相手に対し不敵な笑みを見せる。彼の目の前にあるのは、黒い炎のようなもののなかに無数の異形の顔や手足が覗く化け物。
戦後、復興が始まり人々の間に活気が戻ってきたとはいえ、それで戦火に散って行った人間や動物たちの命が返る訳ではない。無念のままに死んだものたちの魂がそこら中に漂っていたこの時代、その無念の思いは互いを引き寄せ、ひとつの巨大な妖を生み出した。
それが今寺島の目の前にいる怪物。怨嗟、嫉妬、悲哀、負の念の塊のようなその化け物は、全てを呑み込むような黒い闇を広げながら町に現れ、そして多くの人々を食い散らかした。
闇から伸びた手は人々を捕え、闇に覗く口がその肉を食らう。その度にこの化け物は殺したものたちの霊を取り込み大きくなる。
寺島は歯を食いしばる。ただ無限に悲しみを増やして行くだけの怪物。許して置く訳には行かぬ。
「行くぜ親父……」
寺島は自分に寺を任せ、戦後の混乱とともに全国に溢れた悪霊や妖怪たちと戦うために旅立った父親にそう呼び掛ける。生きているか死んでいるかも定かではない。力を借りることはできない。
だが彼の後ろには、この化け物によって今までの日々を壊されたものたちがいる。それ故に、一歩も退く訳には行かぬのだ。
「破ぁぁぁぁ!」
寺島が両手に力を集めると、そのまま化け物に向かって突っ込んで行った。
黒い闇の中に青白い光が迸り、そして化け物とともに寺島の姿は消えた。
「寺島慎司……、そうか、それが俺の昔の名前か。いや、その化け物のことも覚えているな」
Tさんは頭を右手で押さえ、一度深く頷いた。
「すっかり思い出したよ、お嬢ちゃん。ありがとうな」
「いいえ。自分自身が何者か知りたかったみたいだから。それに……」
美琴は少しだけ表情を緩ませる。
「あなたがその化け物に立ち向かったお陰で、町の人々は全員救われたわ」
「俺が命を賭けた意味はあったって訳だ。ついでに言うと、お嬢ちゃんが俺を探していたのはその化け物が原因だろ?」
Tさんは口元を笑ませたままそう尋ねる。美琴は頷いた。
「ええ、やはり分かっていたのね。このところ頻繁に起こる悪霊に関わる事件。以前の海に現れた亡霊たちも、あなたが数日前天へと昇らせた亡霊たちも、何らかの力の作用によって一か所に集まろうとしていた。その中心にいるのが恐らく……」
美琴の言葉をTさんが継ぐ。
「あの化け物って訳か。お嬢ちゃんは色々と詳しそうだが、あいつは何なんだ?大勢の霊の塊みたいな奴だったから俺は霊団と呼んでいたが」
「あれは古くはあすこここと呼ばれる妖怪ね。人、獣、妖、様々な死者の霊がひとつに集まり、巨大な一つの妖となったもの。そしてその姿がそこかしこに化け物が現れるように見えることから名付けられた、強大な力を持った異形。怨嗟の塊みたいなものでもあるから、生者を見境なく襲うのよ。ただの人間であった数十年前のあなたが、たった一人であれを今まで甦ることができないほど弱らせたのが、信じられないわ」
あの妖怪は何十何百もの亡霊が集まって生まれる故、その霊力や妖力も桁違いに強い。それにまずたった一人で立ち向かったという事実が信じられぬ。多くの霊と戦っていた彼にその力が見抜けぬはずもなかったのに。
「男なら立ち上がらなきゃならないときもあるもんさ。それに俺は、あいつと決着をつけるために蘇って来たのかもな」
Tさんは拳を握り、そして天に掲げて「破ぁ!」と叫んだ。青白い閃光が空へと伸びる。
「……何してるの?」
「何、気合いを入れただけさ。さあて化け物のことも思い出したことだし、修行でもし直すか!じゃあな、お嬢ちゃん。また会うかもな」
Tさんはそう明るく言うと、背中越しに手を一度振って離れて行った。
美琴は何も言わずその後ろ姿を見送る。恐らく彼は、もう一度あすこここへと立ち向かう気だろう。しかし今度はみすみす死ぬことはない。
人や妖に仇を成す化け物を許さないのは、彼だけではないのだから。
「寺生まれのTさんかぁ、私も聞いたことはあるわ」
高校からの帰り道、隣を歩いていた小町がそう恒に言った。二人は今、黄泉国の境界門へと繋がる山道を上っている。
「美琴様の話によると、人間ではないみたいだけど」
「都市伝説の一種なんやろかね」
「都市伝説と戦う都市伝説、何か漫画みたいだね」
「隣に妖狐が歩いてる状況でそんなこと言うって、面白いね恒ちゃん」
小町はそう笑った。どうやら一年以上妖怪の住む異界で暮らしていたせいか、妖怪がいることは恒の中で当たり前になっていたようだ。恒はそれを改めて実感する。
その一方で都市伝説は主に人間の世界に現れる怪異。それならばより身近な存在となりそうでもあるが、恒にとって今の日常生活の中に当たり前に存在する妖怪たちに対し、都市伝説は日常の中の非日常に現れる存在のように思える。それが、まだ恒に隔たりを感じさせているのかもしれない。
「でも人間からはTさんについての悪い噂は聞かないから、この前の口裂け女とかに比べたら安心だと思う」
「どうやろかね~私たちはどっちかと言えば怪異側やからね」
そう言って、小町は何故か楽しそうに笑った。
「対抗神話というものは知っている?」
唐突な美琴のその問いに答えられず、恒は首を傾げた。その代わりに、Tさんの話を聞きにと美琴の屋敷にやって来ていた小町が答える。
「あの、都市伝説を打ち消すために作られる都市伝説みたいなやつのことどすか?」
「そう。例えば、昔あるファーストフード店がミミズバーガーを使っているという都市伝説が流れたでしょう?それに対し、その噂はライバル店が流したもので、そんなものは実際にはないという、その噂を嘘として根本から否定する都市伝説も流れた、それが対抗神話。対抗神話自体も事実に根拠を求めたものとは言い難いから、元の都市伝説と信憑性は変わらないのだけどね」
美琴はほとんど知らないであろう恒のため、具体例を挙げて対抗神話を説明する。
「都市『伝説』に対するものなのに、対抗『神話』なんですね」
恒が疑問に思ったことを素直に口にすると、美琴は小さく頷いた。
「そうね。元々対抗神話という言葉はフランスの社会学者、エドガール・モランという人が提唱した概念でね。この人が人々の間に広まるうわさのことを伝説ではなく神話と表現したの。それ故に、その神話に対抗する形で生まれるものが対抗神話と表現されるようになったのね」
美琴は「神話と伝説は詳しく考えれば全く別の概念だけれどね」と付け加え、そしてひとつ息を吐く。
「そして、言葉というものは広まるほどに意味を拡大したり、増やしたりして行くものよ。対抗神話はその名前故か、次第に都市伝説を否定する噂だけではなく、都市伝説に対する対処法をもその意味に含むようになっていった。例えば、紫鏡という言葉を二十歳まで覚えていると死ぬ、というものに対し、白い水晶という言葉を覚えていれば死なない、といったようなもののことね。怪異に対立する力として、対抗神話はその意味を広げて行った」
美琴のその言葉に、恒も彼女が何を言おうとしているのか薄々と気が付いてきた。怪異に対立する力、それはまるで……。
「寺生まれのTさんですね」
「そう。彼は恐らく、かつて人々のために怪異と戦っていた男の魂に、現代の人々の助けてほしい、救ってほしいという希望が霊力となって集まり、形を成したもの。言わばどんな怪異にも強い最強の対抗神話の具現化」
美琴はそこでひとつ言葉を切り、首を微かに傾げた。
「それに、人々の希望の具現化だからこそ彼は怪異の前にすぐに駆け付けることができて、そして自分たちの思いが呼び寄せたものであるが故、彼は誰もが知っている人物として現れる。それが彼の特性なのね。対抗神話は知っていなければ意味のないものだから。故に、自分で戦おうとした恒はすぐに彼が誰であるのかに疑問を持ったし、助けられる必要のなかった私は彼の名前が浮かばなかった。何故寺生まれのTさんというのかは分からないけれど、それにも何か理由があるのでしょう。私たちのような怪異と呼ばれるものに対する天敵ね、まるで」
美琴の言葉に恒が反論する。
「でも、彼は無差別に僕たちのようなものを倒そうとする人には見えませんでしたよ。僕に対しても何もしてこなかったですし」
「そうね。それは私も知っているわ」
恒の言葉に美琴は微笑する。
「それが彼がただ対抗神話が具現化したものではないが故ね。調べて分かったことだけれど、彼は元々人間だったみたいなのよ。人々を害する怪異に生身で立ち向い、そして命を投げ打ったような。そんな人間だったからこそ、危険な怪異でなければ滅したりはしないでしょう」
恒は先日会った寺生まれの男のことを思い出す。彼は死して甦ってからも尚、人として生きていたころと同じように人々のために戦っている。
寺生まれの男は凄い。恒は改めてそう思う。
かつて丁滝寺が建てられていたある山の中腹。その地中で、闇の塊のような異形は再び目覚めた。
長い時を掛けて地上をさ迷う亡霊たちを吸収し、かつての姿よりもより強大な姿となった妖怪・あすこここは地上へと黒い泉のように噴出し、そしてその範囲を広げ始める。
生者たちを食らい、その身の一部とするために。
美琴は夜の帳の下、紫色の瞳で急激にその範囲を拡大して行く闇の塊を睨む。
かつて一人の男の命と引き換えに丁滝寺の地下に封ぜられた妖怪あすこここ。だがそれは消えることはなく、この六十年以上の時を掛けて地上で死んでいったものたちの亡霊を集め、再び異形として蘇った。
沸き続ける黒い地下水のように沸き続けるその黒く濃い霧は、簡単には消えることはない。人を車ごと、家ごと飲み込み、そして闇の中からは様々な化け物たちが現れる。
その中には、美琴がかつて倒した妖たちの姿を象ったものもいる。この辺りに残っていた彼らの亡霊の霊気が、あすこここの中に取り込まれて再び肉体を得たということだろう。だが彼らは蘇った訳ではない。あくまであすこここという妖怪の一部となった、個々の心を持たぬ亡霊に過ぎぬ。
闇に轟く怨嗟の声は、眠りについていた人々を起こし、そして人々はその化け物たちの姿を見て逃げ惑い、また闇に食われる。
町は地獄のような光景に支配されていた。その地獄絵図の中に、死神の少女は舞い降りる。
彼女の振るった太刀が霧の中から這い出てきた化け物を四体一度に切り裂いた。その亡骸は再び広がる闇に取り込まれ、そして中から新たな化け物が現れる。
美琴は自分の首へと巻き付く根のような腕を切り飛ばし、そして再び形を得たかつての敵、女の姿を取った古椿の体を切り裂く。別の存在となっているとは言え、元々自分が殺したものたちの霊体を元にしているものの姿も多く見える。
良介や朱音も別の場所からこの怪物を相手にしているが、殲滅するのはかなり時間が掛かりそうだった。だが、このあすこここの相手は美琴たちだけではない。
この町にはかつてこの妖怪と命を賭して戦い、そして同じように現代に甦った最強の対抗神話がいる。
異形紹介
・あすこここ
熊本県の松井家に伝わる古文書、美術工芸品を収録した松井文庫の中にある『百鬼夜行絵巻』に登場する正体不明の妖怪。黒い煙とも炎ともつかないもののなかに四体の妖怪の顔とひとつの手が覗いている姿で描かれている。
名前のあすこここは「彼処此処」であり、辺り一面を意味していると思われ、そこら中に妖怪が隠れている様子を描いたのではないかと考えられている。
・霊団
霊に関する都市伝説の一つ。一体では非力な悪霊たちが、大勢で合体してひとつの巨大な塊として合体した化け物であり、何十何百の霊が重なっているため除霊はかなり困難な存在だそうで、その上凄まじい祟りを起こすという。
漫画家つのだじろう氏の漫画『恐怖新聞』等には悪霊が他の霊を取り込んでは成長を続ける霊団という存在が出てきており、これが都市伝説化した可能性もある。
山口敏太郎氏は著書『本当にいる!現代妖怪図鑑』の中で妖怪「あすこここ」もまたその姿から複数の人霊が合体したものではないかと述べている。




