表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第三四話 啼けよ、鶯、林の雨に
138/206

四 言霊は縁となりて

 それから詩乃は美琴を頼り、黄泉国へと移り住んだ。常子のいない人の世にもう執着はなく、それならば人にその身が妖であることを知らるる恐れの少ない異界で暮らしたいと、そう思ったのだ。

 幾年が過ぎた後、美琴から黄泉国の中心である御中町に新たなに造られた書庫の管理を任され、そこで書を読み、管理しながら日々を過ごすようになった。

 詩乃はほとんどの時をその薄暗い闇の中で過ごした。書の他に何もないその空間は、とても心を落ち着かせてくれた。

 だが、それでも書に溢れた大きな文庫のようなその場所を、常子に見せてやりたいと思わない日はなかった。




 そんな詩乃にも、幾月かに一度だけ書を読む以上に楽しみにしているものがあった。それが、常子から彼女の元へと届く(ふみ)

 まだ人の世にたくさんの妖たちがいたこの時代、人と妖が交流する機会も数多にあった。それ故、異界と人の世界との間に立ち、仲介役となる人や妖たちというものも存在していた。

 その中には人から送られてきた文を妖へと届ける役目を担っていたものたちもいる。紙に書かれた言葉は、人と妖、そして異界と人の世を繋げる際において重要な役割を担っていた。

 異界と人の世界を行き来するという都合上、江戸の外れ、黄泉国へと繋がる境界の近くに一度文を溜めておくための蔵が建てられ、そこから詩乃の元へと文が届けられた。

 文が届く度に、詩乃は常子の身を案じ、そしてその無事に安堵した。他の誰でもない、常子の言霊が込められた文は、詩乃にとって何よりも大切なものとなった。

 それでも妖の寿命は長い。やがて常子から文が届くこともなくなった。人の命は短い。詩乃の知らぬところで、常子はこの世を去った。




「常子様……」

 その名を呼んだのは、一体いつ振りなのだろう。詩乃は常子の墓を前に、そっと微笑した。

 ここは江戸は四谷の全勝寺。門前町も形成されたこの大きな寺の境内に、常子の墓があるのだと聞いた。それを確かめるため詩乃は珍しく昼間から江戸を歩き、ここまでひとりやって来た。明るい陽の光に照らされるのは、とても久々な気分だ。

 そして、詩乃の目の前には確かに彼女の名が刻まれた墓石がある。詩乃は胸の内に沸き上がる思いを押さえながら、その側にしゃがみ込む。

「久方振りで御座います。こうして貴女様に声を掛けらるるのが、私には嬉しくてなりませぬ」

 答えることのない相手に向かい、詩乃はそう語り掛ける。そして、その墓石の側にそっと数冊の本を置いた。

 この常子の墓は、誰が呼び始めたのかこの近くに住む者たちに「本姫の墓」と呼ばれているらしい。生前書を読むのを何よりの楽しみとしていたまだあどけない彼女の姿を思い出し、詩乃は目頭を抑える。

 詩乃の中では未だ、常子は本を手に喜ぶ少女のままだ。

「ほう、貴方も本姫様に本を借りに来たのですか?」

 不意に声を掛けられ、詩乃はゆるりと振り返った。見ると、人の良さそうな笑みを浮かべたこの寺の住職と思しき僧が立っている。

「いいえ、私は常子様に世話になったものでして……」

「ああ、そうですか。それはすみません。てっきりその堂の中の本を借りに来たのかと」

 住職の指す小さな堂を見ると、中には確かに何冊かの本が収められている。詩乃が首を傾げると、住職は低く穏やかな声で話し始めた。

「近頃は、良くここに本を借りに来る方がいるのです。何でもこの墓石に耳を近付けると、微かに本を読む声が聞こえるのだとか。ここに眠る常子様という方は、本がお好きだったのでしょうね」

 住職の言葉に、詩乃は黙したまま頷いた。文車であった自分を使ってくれたのも、常子が本を好きでなければ、文車であった自分と出会うこともなかった。

「この堂から本を借りた後には、二冊の本を持ってここに納めるのだそうです。本を返さねば、本姫様が枕元に立つのだとも聞いております」

「そうなのですか……」

 詩乃はただ一言そう答え、そしてそっと口元を緩ませた。

 常子は死してなお、書を読んでいるのだろうか。初めて文車としての自分を使ってくれたあのときと変わらずに。それを思うだけで、詩乃は救われた気持ちになる。

 本は人に読まれてこそのもの。常子は書に記された言霊たちを多くの人々に広め続けている。

 それは、本姫と呼ばれた彼女にとって、きっと幸せなことなのだろう。

 季節は春を迎えようとしている。境内に立った梅の木、その蕾が()った若い枝に、鶯が止まって優しげな鳴き声が響いた。




 あれから幾百の時が過ぎた。常子の墓はまた別の場所へと移されてしまったが、今でも本姫様の墓で本を借り、また二冊にして返していたという話は伝えられているという。

 かつての主が伝えたかった古の言霊。それは今でも多くのものたちの元を渡り歩き続けている。決して呪いとしてではなく、その時を生きたものたちの言葉を伝えるために。

 夜はその濃さを増している。月も雲に隠れた空の下、詩乃は両手に何を持つこともなくある家屋の前に立った。この向こうにトミノの地獄を黄泉国に呪いの詩として広めた者がいる。

 武器はいらぬ。彼らが広めた呪詛の言霊を、その身で思い知らせるのみ。詩乃はそっと、引戸に手を掛けた。




「おや、貴方も呪いを解きに来たのですか?」

 その丸眼鏡をかけた痩せた男は、詩乃の姿を見るなりそう口元を歪ませて言った。切り揃えられた髪の下に光る目は、詩乃に柔和な笑みを見せている。

 黄泉国へトミノの地獄の都市伝説を流布し、その呪いを解くと称して金銭を巻き上げる、この男はそんなことをやっていると聞いている。単純だが、噂というものは根拠を持たずとも広まるもの。そして広まれば広まる程に、言霊は力を持つ。

 詩乃は静かに右の手を左の袖に滑り込ませた。

 人の世では一笑に付されるような噂であっても、逆に妖の住む異界では大きな影響力を持つことがある。人の社会ほど情報伝達の手段が発達していないこと、そして厭魅や呪詛の存在が実在のものとして知られているこの世界では、「トミノの地獄を音読すると死ぬ」という都市伝説がより現実味を持って広まるのだ。

 このまま多くのものたちが信じ続ければ、トミノの地獄は本当に人を呪い殺す呪歌となる。それは詩乃の望むことではない。ひとつの詩がただ命を奪う呪いとなることを、詩乃が黙って見ていることはできぬ。

「いいえ。ここに酷く粗末な呪いを使う術者がいると聞きまして、確かめに来たのです」

 詩乃は袖の中から金色(こんじき)と黒に彩られた一冊の本を取り出した。その表紙には、『砂金』の文字がある。

「粗末な術者? はて、一体誰のことでしょうか」

 男はわざとらしく首を傾げ、そんなことを言う。詩乃の目は冷たくそれを睨む。

「人の世に広まるトミノの地獄の都市伝説。それがこの異界に広まると時を同じくして、言霊の専門家と名乗る貴方が現れた。トミノの地獄の呪いを解くと称して。分かり易いですわね」

「なるほど、その呪いを私が広めたのだと言いたいのかな? しかし私は仮にも言霊のエキスパートだ。どこで次に呪いの詩が流行るかぐらいは大体の見当が付く。私はそんな場所を回り、そして僅かながらの賃金をもらって治療を施しているに過ぎない。何も咎められる謂われはないよ」

 自身に満ちた表情で男は言う。詩乃はそれに、呆れた顔で答える。

「埒が明きませんわね。ならば、言霊使いの力、見せていただきましょうか。知っておりますか?」

 詩乃は砂金を開いた。そして『トミノの地獄』が記された頁でその手を止める。

「呪いは、術者に返るということを」

 怪訝な表情をする男に向かって、詩乃は小さく息を吸い、そして霊力とともに言葉を紡ぐ。




 姉は血を吐く、いもとは火吐く、

 可愛いトミノは宝玉たまを吐く。

 ひとり地獄に落ちゆくトミノ、

 地獄くらやみ花も無き。

 むちで叩くはトミノの姉か、

 鞭の朱総しゅぶさが気にかかる。


 詩乃の言葉がその家屋の中に響くと同時に、景色が黒に塗り変えられた。壁と床は消え、彼を支えるものがなくなった。

 全て色は無間の闇へ。男からは先程までの余裕は消え、体勢を崩しながら堕ちて行く。詩乃はそんな彼を見据えながら尚も詩を謡う。


 叩けや叩きやれ叩かずとても、

 無間むげん地獄はひとつみち。

 暗い地獄へ案内あないをたのむ、

 金の羊に、鶯に。

 皮のふくろにやいくらほど入れよ、

 無間地獄の旅支度。

 春が来てそろ林に谿たにに、

 暗い地獄谷七曲り。

 籠にや鶯、車にや羊、

 可愛いトミノの眼にや涙。


 男は果てのない道へと堕ち、そして幼い少年の姿となった。己の存在がなんであったかも忘れてひたすらに歩き始める。枯れた木々に、切り立った谷に挟まれた一本道を、馬のように車を引きながら歩き続ける。籠には鳴き声を上げない鶯が、車には眠り続ける羊が、無言のままに彼を苛む。


 啼けよ、鶯、林の雨に妹恋しと声かぎり。

 啼けば反響こだまが地獄にひびき、

 狐牡丹の花がさく。

 地獄七山七谿めぐる、

 可愛いトミノのひとり旅。

 地獄ござらばもて来てたもれ、

 針の御山おやま留針とめばりを。

 赤い留針だてにはささぬ、

 可愛いトミノのめじるしに。


 籠の鶯は啼かず、だが少年の喉からは啼き声が響く。それは無間の地獄に響き渡るも、闇の中に花を咲かすことはない。

 少年は目的も曖昧なままにひとり旅を続ける。血に染まった赤い針山に、自らの血の赤を重ねながら。




 詩乃が『砂金』を閉じる。彼女の目の前には体を両手で抱え、倒れ込んで震える男の姿がある。そこには、先程までの自信に充ち溢れた男の面影は消え、ただの無力な痩せた男がいるのみとなっていた。

 詩乃の体を通して語られたトミノの地獄の言霊は、この男にトミノという少年が旅した無間の地獄を体験させた。

 たったひとり、まだ幼い子供が、どんなに叫べども声も届かぬ無限に続く暗闇の地獄を進む恐ろしさ、無力感をこの男は知ったのだろう。

「死ぬことはありませぬ。これは、呪われた詩ではありませぬから。あなたの身に降り掛かったのは、あくまでも私の言霊」

 詩乃は男の側にそっとしゃがみ込む。

「しかし、安易に呪いを利用しようとすれば、それは自分自身に返って来るかもしれぬ、それを覚えておいて下さいませ。言葉は大きな力を持つのですから」

 詩乃の言葉を聞いた後、男は短い悲鳴を上げて走り去った。詩乃はその背を見送り、そして砂金を袖に仕舞う。

「本当は、美しい詩ですのに」

 トミノの地獄を呪いとして利用しようとしたあの男にとって、この詩は呪いそのものでしかなくなっていた。それ以外の視点でこの詩を眺めようとはしなかったのだから、当たり前だ。

 だからこそ彼の中の呪いは詩乃の言霊によって増幅され、そして彼を無間地獄へと叩き落とした。無間地獄は地獄の最下。大悪を侵した亡者の堕ちる地獄。死と結び付けられたトミノの地獄は、あの男に死の世界を体感させた。

 もうこの詩を使って呪いを流布しようなど思いはしないだろう。

 詩乃ば溜息を吐く。この詩からは、たったひとり無間地獄を往かねばならなくなった無垢な子供の悲しみが伝わって来る。かつてひとり家を去らねばならなった常子の姿を思い、詩乃は首を振る。

 かつてこの詩が書かれた時、作者は何を伝えようとしたのか。それを一言呪いで片付けてしまっては勿体ない。

 これで噂は次第に静まっていくだろう。その後、誰かがまたこの詩に興味を持ったものが読んでくれれば良い。そう思いながら詩乃はそこを後にする。




「終わったのね」

 御中町へと帰って来ると、美琴が待ってくれていた。詩乃は小さく頷く。

「ええ。相手は人間でしたわ。珍しいですわね、人がこの世界にいるなんて」

「たまにいるのよ。こちら側の事象に詳しい人間で、異界に入る術を知っているものがね。でも安易にその立場を利用して妖たちに関わろうとすると、こういうことになるのよね」

 美琴と詩乃は並んで夕方の黄泉国を歩く。美琴の履く下駄が、石畳を叩くたびに心地よい音が鳴る。

「人と妖は違うけれど、分かりあえることは多い。そもそもここに住む妖同士だって皆種が違うものばかりなのだからね。それをしようともせず妖を利用しようして、上手く行くわけはない。当たり前のことよね」

「そうですわね」

 かつて妖となった自分を受け入れ、名前をくれた人がいたことを思い、詩乃は美琴の言葉に首肯する。

「言霊とは不思議なものです。たとえ霊力のない人の言葉だって、誰かの心を動かし、そして行動させることもある。今回のこともそうでした」

「そうね。私たちは言葉の中で生きているもの。記憶も情報も未来も過去も、全て言葉として置き換えられる。だから、皆が思っている以上に言霊の力は強い。それは、あなたが一番知っているわね」




 美琴とは、彼女の住む屋敷に続く長い石段の前で別れた。空は既に彼女と初めて会った時のように暗闇に染まり、赤と青の人魂たちが町を照らし始める。

 書庫への道を歩きつつ、詩乃は思う。文車の付喪神として、本姫の元に生まれた妖として、言葉や本に纏わることに関わるのは、自分の役目でありたい。

 言霊というものはその言葉を話し、そして書き記したものがいなくなった後にも残るもの。私に付けてくれた、詩乃という名前が、今もあの人と私を繋ぐ(えにし)としてここにあるように。

 詩乃はそう思いながら、書庫の戸に手を掛けた。



異形紹介


・本姫

 書籍姫(しょじゃくひめ)とも呼ばれる。東京の四谷にある雄峰山全勝寺の境内にかつてあったある墓に纏わる話。この墓には本姫と呼ばれた女性が眠っており、墓に耳を当てると本姫様が本を読んでいる声が聞こえる、墓の前にあるお堂からは本を借りることができたが、本を返さなかった場合本姫が夢枕に立ち催促するなどという話が残り、また本を借りた場合にはまた別の本を一冊添えて返すことが習わしとなっていたようだ。

 この本姫の生前は一切経を二度通読したほどの読書家であるとされ、御堂にも仏教に関する本が多く保管されていたようだ。

 また生前の名前には松と常子という二つの説が存在しており、松に関しては実在した人物で、徳川綱吉の御側用人だった牧野成貞の娘であある。そしてこの本姫の墓を作ったのは成貞の内室であり、後に綱吉に見初められ大奥へと入った阿久里(あぐり)である、つまり母が建てた娘の墓だという話もあり、実際に碑には松という名が刻まれていたという記録もある。

 常子に関しては詳細は分かっていないが、現代この本姫を扱ったサイトなどを見ると多くの場所でこの名前が使われている。また本姫には姉がいたという話があり、その場合成貞の長女である松では辻褄が合わなくなる(ちなみに松には安という妹がいたが、彼女も母と同様綱吉の目に止まり、大奥奉公に出されたという説が存在している)。

 また、さらに阿久里その人が本姫のではないかという説もあるが、彼女の墓は本所の弥勒寺にあるためやはり辻褄が合わなくなる。このように本姫の生前についてはあまり分かっていない。

 本姫の墓は大正時代に茨城県へと移されたため、現在四谷には存在していない。この移された墓からも本を読む声が聞こえるのかは確かめてはいないが、もしそこに耳を近付ければ、本姫の声が聞こえて来るかもしれない。



また、最後に本文中に出てきた和歌とその訳をここに記しておく。


百年(ももとせ)一年(ひととせ)たらぬつくも髪我を恋ふらし面影に見ゆ


 あと一つ年を取ればで百歳という九十九歳の老婆が、私を恋い慕っているという。その姿が幻に見えるようだ。


『伊勢物語』六十三「つくも髪」より 



・我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも


 私の園に梅の花が白く舞い散っている。天から雪が流れて来るのだろうか。


『万葉集』巻第五 八二二番歌 より



・梅の花、咲き散るそのに我れ行かむ、君が使つかひを片待ちがてら


 (うめ)の花が咲いては散る(その)に、私は参りましょう。あなたからの使いを待ちかねて。


『万葉集』巻第十八 一九〇〇番歌 より



・梅の花今盛りなり思ふどちかざしにしてな今盛りなり


 梅の花が今満開です。さあ友よ、髪かざりにしましょう。今が盛りです。


『万葉集』巻第五 八二〇番歌 より


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ