三 啼けよ、鶯、林の雨に
「我が園に、梅の花散るひさかたの、天より雪の流れ来るかも」
詩乃は万葉集を片手に開き、そしてそう歌を紡ぐ。その言葉は言霊となって彼女の口から発せられ、そして梅の花びらが粉雪のように彼女の周りに舞い落ちる。
言霊は発せられた言葉を現のものとして引き起こす力。言葉によって現に生まれた花びらは、地に触れる前に虚ろへ消えた。
少しずつ形になって来た。詩乃は緊張を吐き出すように小さく溜息を吐いた。
言霊を扱うのにはこつがいる。ただ言葉を口から出せば良いという訳ではなく、まずはその言葉によって頭に描かれるものを強く念じること。それが第一段階だ。
そして言霊の名に霊の字がある通り、ここで霊力と呼ばれる力が必要になる。
元々言語というものは、そこに人や妖が意味を見出すことがなければ声はただの空気の震えに、文字はただの墨の染みにしかならなぬもの。多くのものたちがそこに共通の意味を見るからこそ言葉として機能する故、それは形のない概念なのだ。
だが霊力そのものにも形はない。よって霊力のみでは言霊を現に生み出すことはできぬ。いや、元々はそれで良かったのだろう。
最初の言霊は神への祈願のひとつであった。神へ自分たちの願いを聞き入れてもらうために言葉というものが必要なのだから、心へと働きかける霊力があればそれでよかったのだ。
だが、次第に言葉そのものに力を宿らせる方法を知るものたちが現れた。それでも初めは相手の霊体に働き掛け、言葉の通りに行動させるぐらいが限界だったようだが、古の言霊使いたちはこれを自らの体を媒介にすることで乗り越えた。
この世に生きているとされるものたちには、基本的に三つのものが備わっている。霊力を宿らせる霊体、妖力を宿らせる肉体、そしてその二つを繋ぎ止める幽体。
言霊の霊力を、このうち肉体を通して妖力として発することで具現化する。その場合、霊力と妖力とを互いに置き換えることができる幽体を上手く利用する必要がある。
心から身へ。力の種を変えつつ移動させることは容易にできることではない。最初はただ口から言葉が放たれて終わりだった。だが、ようやくその方法が分かって来た。
それは文字を書き出すのと同じ。何も書かれておらぬ紙の上に、己にしか紡げぬ物語や歌を描いて行くような、そんな感覚と言霊を発することは似ている。
自分の中に生まれた言霊を、三つの体を通して外へと発するのだ。そして詩乃はその言霊の源として歌を選んだ。
「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」
詩乃はそう一人呟く。常子が彼女に言霊というものを教えてくれた際、口にした古今和歌集に綴られた言葉。歌の持つ力を、自分自身の手で常子に見せてあげたいという思いもある。そして「乃は詩なり」という名をもらった詩乃にとって、詩歌は特別なものでもある。
己の名をも言霊と考えた時、自分が使うに最も相性が良いのは詩歌であろう。言葉の中から生まれた自分が同じように言葉の中に生まれた歌を現に呼び出せることが、詩乃にとっては喜びだった。
古の歌の景色を目の前に甦らせた時、常子はどんな言葉を掛けてくれるだろうか。詩乃はぱたりと万葉集を閉じ、そして袖の中に仕舞う。
「見事なものだわ」
後ろで見ていた美琴がそう声を掛けた。未だ微かに宙を舞う梅の花びらに美琴が手を伸ばすと、それは彼女の手に触れた瞬間、淡雪のように溶けてしまう。
「もう言霊を扱えるようになってしまった。私も昔試したことはあるのだけどね、あなたほどに上手くは行かなかったわ。相性が悪いのかしらね」
美琴は苦笑しつつそんなことを言った。詩乃は首を傾げ、そして問う。
「美琴様は言霊を使わずとも十分に強いではありませぬか」
「別に力が欲しかった訳ではないのよ。ただ私も書を読むのが好きだから、言葉の霊力というものに興味を持っただけ。あなたのお陰でそれがどんなものなのか見ることが出来て満足したわ」
美琴はそう微笑む。自分より妖力も霊力もずっと強い彼女にそう言われ、詩乃は照れ臭そうに笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。これも美琴様のお陰ですわ。私が何かひとつでも貴女様を楽しませることができたのなら、幸いでございます」
丁寧に詩乃は頭を下げる。美琴は静かに首を横に振った。
「あの本たちも、ここに埋もれているよりはあなたに読まれて嬉しかったと思う。書かれた言葉は、誰かに読まれてこそだものね」
きっとそうなのだろう。文字として残された言葉は、文であれ本であれ、他者にその言葉を伝えたいがために書かれるもの。日の目を浴びず暗闇の中に放置されていたら、自分のように妖となってしまうかもしれない。
それはそれで会ってはみたいのだけれど、やはり本は本として扱われることが一番だと詩乃は思う。
「改めて色々とお世話になりました。礼をすることしかできませぬが、誠に感謝しております」
「良いのよ。私はあなたの言霊を見させてもらっただけで十分。さあ、夜が明ける前に帰りなさい」
そう、もうすぐ夜明けだ。まだ空は黒のままだが、あと一刻もすれば空は白に染まり始める。詩乃はもう一度美琴に礼をして、黄泉国を後にした。
「何よ、詩乃。あなたの方から外に誘うなんて珍しい」
常子はそんな風に言いながらも、嬉しそうに詩乃の後をついて来る。
夜の静寂が嘘のように昼間の江戸四谷には活気がある。老若男女の人々がそれぞれの表情を浮かべ、時には忙しなく、時にはゆったりと踏み固められた地の上を歩いている。
この四谷も、かつて人影もまばらなすすき原であったという。現在では様々な店や家が立ち並び、その頃の様子は伺えない。
目の前にあるこの景色もいつかは変わるのだろう。そう思うと儚いが、だからこそ人や妖はその時代を文や絵に残すのかもしれぬ。
しばらく歩き、かつて常子とともに来たこともある梅林へとやって来ると、人の影はまばらになった。既に梅の花は散り、緑色に染まった木々の影から漏れた火の光が詩乃と常子の二人を照らしている。
詩乃が立ち止ると、常子もまた立ち止った。
「ここで何かするの?」
「はい。昨年、常子様は春の初めに私をここに連れて来て下さいましたわね」
詩乃は思い出す。彼女はその時初めて、歌の中の花でしかなかった梅花を、初めてその目に見た。その薄紅に囲まれた美しさは未だ詩乃の心に焼き付き離れない。
「うん。でももう花は散ってしまっているけど。まあこの景色も嫌いじゃないけどね」
「私がもう一度、この木々に花を咲かせて見せましょう」
詩乃は言い、そして袖の中から万葉集を取り出した。
「梅の花、咲き散る園に我れ行かむ、君が使を片待ちがてら」
詩乃の口から言の葉が流れ、それは霊力を持って梅の木々に降り注ぐ。やがて僅かな合間の後、浮かび上がるように梅の木々に赤みを帯びた雪のような白い花々が、一斉に花開いた。
常子は突然のその光景に息を呑み、そして林を見回してから詩乃を見た。
「なにこれ!? 梅が!」
「以前常子様が仰っていた、言霊の力です。私も一介の妖ですから、これぐらいは朝飯前ですわ」
そう詩乃は胸を張るが、常子は「詩乃がたまに夜中に抜け出してたのはこの練習をしてたんだよね」と口元を緩ませた。
「ご、ご存知だったのですか……?」
「分かり易い。そりゃ私だって毎日毎日一晩中寝てる訳じゃないもの。厠にだって起きるし、寝付けない夜もある。詩乃のことだからばれてないと思ってたんだろうけどね」
図星のため詩乃は何も言い返せない。同時に、常子を置いて出て行った罪悪感が改めて襲って来た。恐る恐る再び常子の顔を見ると、笑顔のままで少しほっとする。
「まあ、夜が明ける前には必ず帰って来てくれるみたいだったから何も言わなかったけど、この梅が見れたから良しとしましょう。ありがとうね、詩乃」
常子は舞落ちる花びらの下、一度くるりと回ってからそう詩乃に言った。詩乃は目を細め、「はい」と答える。
常子からの礼は、一際大きな言霊となって詩乃の胸に響いた。
それから、詩乃はその体を通して和歌を言霊として口ずさみ、常子とともにそこから生まれるものたちを眺め、楽しんだ。時には彼女たちに近寄って来る賊の類を言霊の力で追い払ったこともある。
五年の間、そんな平穏な日々は続いた。だが、予想もしないところからその平かな時は壊された。
「すまない、常子……」
そう涙ながらに娘に頭を下げる常子の父親の姿を、詩乃は柱の影から見つめるしかできなかった。
将軍による突然の大奥奉公の命、それが十五になったばかりの常子に下されたものだった。幕府に仕える彼女の父にそれを聞かされた時の常子の青ざめた表情は、長年共にいた詩乃も見たことがない表情だった。
この時代、娘の大奥奉公は多くの家にとって憧れのものだった。立身出世を叶え得る場であり、そして将軍の寵愛を受け、側室となれば己の子が次の将軍となることもあり得る。そうでなくとも、娘が大奥へと召されればその家のには多くの恩恵が与えられる。
本来ならば喜ぶべきことなのだろう。だが、この家の内に明るい顔をしたものはひとりとしていない。
その故を詩乃は知っていた。常子の家には、かつて同じように大奥へと召されたものがいる。
それが常子の母だった。常子がまだ幼いころ、彼女は将軍の命に従い、夫と娘を置いて城へと立たねばならなかった。
断れば家は潰され、受け入れれば家は栄える。選択肢などないに等しかったのだろう。そして、それと同じことが今常子の前に迫っている。
「父上様、そんな顔をしないで。これでこの家ももっと栄えるのですから、喜ばねば」
胸の奥の感情を押し殺すようにして常子は強張った笑みを浮かべ、そう言った。だが手の震えは隠し切れていない。
詩乃は見ていられず、そっとその場を離れ、長い時を過ごした常子の部屋へと向かった。
いつもと同じ見慣れた部屋の景色は、まるで伽藍堂のように酷く寂しいものに見える。かつてここに文車として運ばれてきた頃のことを思い出し、詩乃は俯く。
部屋の隅には常子の集めた書たちが積み上げられている。これらは彼女の特に気に入っていた本たち。読んでしまったほとんど書籍は、詩乃の袖の中に納められている。
「詩乃……」
後ろから自分を呼ぶ声に、詩乃は振り返った。
一晩で何十里もの道を歩んだように疲れた顔をした常子は、崩れるようにその場に座り込んだ。
「常子様……」
妖はそれ以上言葉を紡ぐことができず、人である主の側に腰を下ろす。常子はひとつ乾いた笑いを漏らして、そして詩乃に言う。
「ごめんね、あなたが昔、一晩だけどこかへ行ってしまったことを、私はあんなにも責めたのに。私はもうこの家にはいられない」
いつかは彼女がいなくなることは知っていた。常子ももう十五、どこかに嫁として迎えられてもおかしくはない齢。しかしそれならば詩乃も一人の妖として生きて行こうと思っていた。
それなのに、彼女は自身の母を奪った大奥へと召されようとしている。きっと幼心に何度も呪ったであろうそこへと、たった一人で行かねばならぬ。
そうなろうとも、もう常子と会うことも叶わぬ訳ではないだろう。妖の寿命は長い。いつまでも詩乃は常子を待ち続けることができる。
だが、それだけだ。詩乃は常子を救うことはできない。人の世界の理に、妖が手を出すことは許されぬ。
「常子様……、私はあなたの元で付喪神となることができ、幸福でした」
疲労した笑みに固まっていた常子の表情は、静かに崩れ、そして温かな涙を流した。
「ここにある本たちは、みんなあなたにあげるわ詩乃。この本姫の宝物を、ずっと守っていてね」
本姫と呼ばれた文車妖妃の主は、詩乃に柔らかな笑みを見せてそう言った。
常子がくれた言葉の束たち。それが彼女の最後の贈り物となった。
常子がいなくなってからも、季節は変わらず巡り行く。
詩乃はあの日のように緑色に染まった梅の木々の間を、一冊の書を片手に歩いていた。
花のこぼれ落ちた梅林の中、常子の残した万葉集を開き、詩乃はひとり立ち竦む。
「梅の花、今盛りなり思ふどち、かざしにしてな、今盛りなり」
葉に覆われた梅の木たちに向かって詩乃は歌を詠んだ。それは彼女の体を通し、言霊となって木々の枝に梅の花を蘇らせる。まるで過ぎ去った春の初めが帰って来たように。
だが、たったひとりとなった文車妖妃の喉の奥に嗚咽が漏れたとき、梅の花々は弾けるようにして枝を離れ、虚空に舞った。
林から降り注ぐ薄紅の雨のように花びらは地へと落ち、そして土に触れる前にうつろへと消えた。梅の花を髪飾りにする友は、詩乃の側にはもういない。
啼けよ啼けよと願えども、花の咲かない梅の木に、鶯たちは訪れぬ。告ぐべき春の初まりは、あの日に過ぎしもの故に。
詩乃がどんなに鶯の啼き声を求めても、暖かな日々はもう来ない。
人の世の定めに妖が手を出すことはできぬ。伸ばした手はうつつに飲まれて消えるだけ。
花が消え行く林の雨に、たったひとりの妖は、空を見上げて立ち竦む。
異形紹介
・文車妖妃
文車妖妃、文車妖妃と読まれることもある。鳥山石燕の著書『百器徒然袋』に描かれた付喪神のひとつ。文箱から手紙を引き出す妖女とし描かれており、彼女の周りには動き回る小さな妖怪たちの姿も描かれている。
石燕は「歌に古しへの文見し人のたまなれやおもへばあかぬ白魚となりけり かしこき聖のふみに心をとめしさへかくのごとし ましてや執着のおもひをこめし千束の玉章にはかかるあやしきかたちをもあらはしぬべしと夢の中におもひぬ」と書いていることから、文車と名に付くものの、手紙に込められた執心や念によって生まれた妖怪とされることが多く、江戸時代の怪談集『諸国百物語』に書かれた「艶書の執心、鬼と成りし事」という話の中において、ある寺の稚児が自分に宛てられた恋文を放っておいたところ、その恋文に込められた執念によって稚児を鬼へ変えたという事件が語られており、この鬼も文車妖妃の同種として紹介されることも多い。
ちなみに恋文に込められた執念が人を鬼へと変える話は、大江山の鬼、日本三大悪妖怪として有名な酒呑童子の出生譚の中のひとつとしても存在している。
また、その名前から文車の付喪神として紹介されることもあり、文車が手紙だけではなく文書や書籍を運搬して運ぶための移動式の文庫であったことからか本全般に関わる妖怪として描かれることも多い。
また、卜部兼好(吉田兼好)の『徒然草』第七十二段において「賎しげなるもの、居たるあたりに調度の多き、硯に筆の多き、持仏堂に仏の多き、前栽に石、草木の多き、家のうちに子孫の多き、人にあひて詞の多き、願文に作善多く書き載せたる。多くて見ぐるしからぬは文車の文、 塵塚の塵」と書いており、石燕は文車妖妃を塵塚怪王に続けて書いていることから、この二種の妖怪は『徒然草』から発案されたのではないかと想像される。
現在多くの本とともに描かれる事が多い文車妖妃であるが、元々文学作品の中から生まれた妖怪でもあったのだろう。




