二 文車の付喪神
刻は既に丑三つ。霊気が最も強くなるこの刻限、詩乃は一人江戸の町を歩いていた。その理由はひとつ、人がほとんど寝静まったこの刻ならば、誰か自分と同じ人ならざるものと出会うことができるのではと考えたためだ。江戸の町に現れるという怪異の噂は、そういったものにも興味を持つ常子のお陰で良く耳に入っていた。
詩乃は未だ自分以外の妖と言葉を交わしたことはなかったが、もし会えたのなら知りたいことがたくさんあった。そもそも妖という存在を、彼女はほとんど書物の中でしか知らないのだ。
しかし、そんな詩乃の前に現れたのは、幽霊でも妖怪でも無かった。江戸においては夜に無灯火のまま歩くことを禁じられている。詩乃もそれに倣って提灯を持っていたが、向こう側から明りを灯さぬまま歩いて来るものを見た。妖の目がある故暗闇の中にいるその男の姿も容易に捉えることができたが、どうやら腰に刀を差しているらしい。
武家の者のようだ。しかし明りを持っていないのは怪しい。普通の武士ならば己が家の家紋が描かれた提灯を持っていることが多い。詩乃の持っている提灯にも、常子の家の家紋が描かれている。これは同じ武家同士で相手の格式を見極めるために必要なのだという。その格式によって、挨拶の仕方を変えるのだそうだ。
ならば、明りを持たぬ相手も妖かと思ったが、彼から発せられる気は他の人と変わらぬものだった。それにその足元を確かめるようなぎこちない歩きを見る限り、闇夜に目が冴えているとも言い難いようだ。にも関わらず顔は詩乃の方を見てにやついている。
あまり関わり合いになりたくはない。詩乃は黙ってその若い武士の側を通り過ぎようとした、そのすれ違い様に、男は低い声でぼそりと呟いた。
「このような真夜中に女が一人。珍しきこともあるものよ」
詩乃が立ち止まり、訝しげに男を見る。その直後、若い武士は刀を抜いて切り掛かって来た。唐突な出来事に詩乃は一瞬固まった後、何とか横に倒れ込むようにして最初の一刀を裂けた。彼女の体を掠めた刀身は持っていた提灯を切り裂き、詩乃の周りから光が消えた。
妖力はあるものの、詩乃はそれを使って身を守る術など知らぬ。故に逃げるしかなかったが、目の前の男にはない闇夜を見通す目は持っている。詩乃は身を翻し、慌ててその男から遠ざかろうと走り出した。だが相手の男も刀を抜いたまま、何度も転びそうになりながら執拗に追って来る。
妖として身体能力に優れている訳でもない詩乃は、男に気を取られ、何かに躓いて転倒し、そして追い付かれた。男の不気味笑みが迫り、あの打刀のさっ先が向けられる。
妖となってからずっと常子の側に、表向きには人として仕えていた詩乃は、それまでそのような強い敵意を向けられたことがなかった。
恐ろしいという感情を初めて知った。そして自分がただの物から、命を持った付喪神に変化したということを今更ながら実感した。
そもそもは命のない器物。だが、生を受けたその時より死にたいなどと思ったことはなかった。朝になって自分の姿がなかったとき、常子はどんな顔をするのか、その光景が目の前にあるようにありありと、勝手に浮かんで来る。だが、武士の握る刀は無慈悲に振り上げられた。
思わず目を瞑ったその直後、金属音がし、次いで何かが倒れるような音がした。何も衝撃が訪れぬことに恐る恐る瞼を上げると、詩乃の目の前には尻もちをついて後ずさるあの武士の姿が見えた。その目は、詩乃ではない何かに向けられている。
その方向へと詩乃も視線を向ける。そこには、銀の蝶の刺繍をあしらった青紫の小袖を着た、紫色の瞳の女性が片手に太刀を持って立っていた。
「怪我はない?」
紫色の瞳をしたその女性は、柔らかな声でそう詩乃に問うた。詩乃は地面に尻を着いたまま、やっとの思いで頷く。
紫の女性の側には人間の男がへたりこむようにして座っている。詩乃へと向けられていた刀は既にこの若い武士の右手を離れ、刃を下に地面に突き刺さっていた。
「ほらもう行きなさい。でも次このようなことをすれば、命はないわよ」
紫の少女にそう冷たく言い放たれ、武士は慌てて刀を引き抜いて駆けて行った。詩乃はその後ろ姿が見えなくなったのを確認し、ひとつ安堵の息を吐く。
「あの、ありがとうございます」
詩乃は武士が去って行った暗闇から目を離し、そして立ち上がった。自分はこの女性に助けられたのだと、そう思った。
「近頃この辺りに辻斬りが出ると聞いてね、探していたのよ。あなたも身を守る術がないのなら不用心に出歩いてはだめよ、妖だからと言って」
紫だった瞳を黒に染めて、その女性はそう言った。詩乃は自分の正体を見抜かれたことに驚き、そして彼女をまじまじと見た。未だ詩乃には目の前の相手が人なのか妖なのか、区別が付かない。
「貴女様も、妖なのですか?」
「ええ。私の名は美琴、死神よ」
女性はそう名乗った。死神、書物で名を見たことはある。しかし詩乃にとって彼女は、初めて現で出会った自分以外の人ならざる存在だった。
「私は、詩乃と申します。書物を読む限りでは、恐らく文車妖妃と呼ばれる妖なのでしょう」
「付喪神なのね。文車妖妃と会ったのは初めてだわ」
美琴は小さく首を傾げ、そして問う。
「でも、名前があるということは、あなたにそれをくれた誰かがいるのかしら」
「はい、文車であった頃の私の主人です、いえ、今でも」
詩乃は常子の姿を頭に浮かべ、そして言った。
「そう。ならその主の元を離れてこんな刻限に一人で歩いているのには、何か理由があるのでしょうね」
美琴は冷えた夜空を見上げて問い、その言葉に詩乃は首肯する。
「私は、言霊というものについて知りたくて、私と同じ人ならざる方を探していたのです。人の世の書は読みましたが、どのようなものなのかが良く分からず。しかし妖の世であれば、それ以上のことが分かるのではないかと」
「言霊について知りたいのね」
美琴は考えるように右手を顎に当て、そして口を開いた。
「少しなら、私も手助けできるかもしれない」
その美琴と言う女性は、江戸に繋がる異界、黄泉国の主とのことだった。人の世で言う将軍のようなものかと問うと、もっと小規模なものでどちらかといえば大名に近いと教えられた。
この黄泉国の他にも日の本には様々な異界があるらしく、またそれぞれに長がいるらしい。そして江戸に近い異界の主である美琴が、今宵は江戸の町にふらりと現れたようだ。
そもそも詩乃は異界という世界を彼女の言葉によって初めて知ったが、どうやら人の世との最も大きな違いは同じ地の上に繋がる世界でありながら妖たちがたくさん住んでいることだということは分かった。そして、この江戸にも闇にまぎれて生きる妖たちが大勢いることも。
本当にただ書を読むだけでは分からぬことはたくさんあるのだと、詩乃は常子が言っていたことを思い出す。
「言霊自体は私も使いこなせはしないけれど、読んだことのある書から役に立つものを探すわ。妖の書いたものは見たことがないでしょう?」
異界に入ってすぐの現れた立派な屋敷。美琴の家だというその一部屋に詩乃は通されていた。どうしてまだ会ったばかりの自分に親切にしてくれるのかは分からなかったが、特に疑うこともせず詩乃はまだ新しい匂いのする畳上に正座した。そのまま部屋を出て行った美琴が帰って来るのを待つ。
まだ外は暗い。常子は眠っている筈だ。夜明けまでに戻れば家を抜け出したことはばれずに済むだろう。それでも常子に無断で一人外を歩くことに対する罪悪感で、胸が小さく痛む。
妖である詩乃にとって睡眠はそこまで重要なものではない。幾日かに一度眠れば十分な体力や妖力を回復できる。だが、彼女はいつも夜になれば常子の側に横たわっていた。
朝起きた時詩乃が側にいると、彼女はとても安堵した顔をするのだ。きっとかつて母がいなくなってしまった日のことが、常子の中で尾を引いているのだろう。
そんな主の心を少しでも軽くすることができるのならばと詩乃は思い、眠らぬ夜を過ごす日々を続けている。
「これぐらいかしら」
思案に耽っていた詩乃の背後から美琴の声が聞こえ、そしてその直後に詩乃の横に書物の山が音を立てずに置かれた。
高く、しかし丁寧に積み上げられたそれらは目の前の華奢にも見える少女の手に収まるものとは思えないが、人外のものにそんなことを考えることに意味はないのかも知れない。
「ありがたく、拝読させていただきます」
詩乃は丁寧に頭を下げ、そして手前の綴じ本を右手に持った。たくさんの本を集めて来る常子の元にいても見たことがないその書の表紙には、確かに「言霊」の文字が見える。
詩乃はぱらりと紙を捲った。その瞬間に彼女の目が素早く動き、書かれた文字を一気に頭に吸収して行く。そのままほとんど流し見のようにして背表紙へと辿り着き、ぱたりと本を閉じる。
「もう読んでしまったの。流石は文車の妖ね」
すぐ近くで様子を見ていたらしい美琴が目を丸くしてそう言った。詩乃は「はい」と笑み、そして少し得意になって詩乃は次の書に手を伸ばす。
美琴の言っていた通り、彼女の読ませてくれた本たちには、人の世にはない情報に溢れていた。これらには具体的に言霊という力により起こせる現象が幾つも記されている。
多くの妖たちがこの言霊という力を研究し、そして力としていたようだ。そしてその中でほんの僅かなものたちが、こうして書にその記録を残してくれて行ったのだろう。紙の上に宿る言霊として。
夜が明ける前に、詩乃は積み上がっていた最後の本を読み終え、そして丁寧に床に置いた。これでほとんど頭では理解できた。だが、実践できるかは別だ。
「一晩掛からないとはね」
緩く腕を組んだ美琴がそう呟くように言った。その美琴に対し、詩乃は深く頭を下げる。
「襲われているところを救っていただいた上、こんなにたくさんの書物まで読ませていただいて。本当にありがとうございます」
「いいのよ。私もね、本を読むのは好きなのよ」
言い、美琴はひとつ本をその手に取る。
「だけど私の周りには他に読もうとするものがいなくてね。あなたに読んでもらえて嬉しかったわ」
美琴は口元を緩める。彼女はひとりでこの書を集め、読んでいたのだろうか。詩乃はいつも常子と本の共有をしていたからその内容を語りあう相手には困らなかったが、誰もいないとなるとやはり寂しいかもしれない。
「私も様々な書を読むことができてとても楽しゅうございました。美琴様のご都合が良ければ、またこんな機会を設けていただいてもよろしいですか?」
「ええ、もちろん。待っているわ」
死神の少女はそう、白み始めた空を背に笑んだ。
詩乃が常子の家へと帰る頃には、既に空は青く染まっていた。冷たい空気を切るようにして帰路を急いだ詩乃だったが、彼女を待っていたのは既に目覚めた常子だった。
不安げに部屋の中をうろつき、今にも泣き出すかという表情をしていた常子は、詩乃の姿を見るなり一瞬安堵した顔をして、その直後怒りに眉根を寄せた。
「一体どこに行ってたの!?」
今まで聞いたことのないような大きな声が常子の口から発せられ、詩乃は思わず縮こまる。
「ご、ごめんなさい……」
「あなたまで、私の前からいなくなったのかと思った……」
謝る詩乃の前で、今度こそ常子の目尻に涙が溜まり、そのまま突進するようにして抱きついてきた。詩乃はおろおろとしながらも、自分よりも小さな主の体を抱きとめる。
自分の存在が常子にとってどれほど大きなものなのか、人として生きたことのない詩乃にも分かった。他者を思う心は妖も同じだと、詩乃はそう思う。
「私はどこにも行きませぬよ。必ずあなたの元へと帰って来ます」
詩乃はそっと常子の体を抱きしめ、言う。常子はしばらく詩乃の小紋に顔をうずめていたが、やがて鼻の先を赤くしたその顔を詩乃へと向けた。
「誓ってくれる?」
「はい。誓いましょう」
そう詩乃が言うと、やっと常子は彼女から離れた。
この契りもまた言霊。詩乃は両手を自らの胸の真ん中に当てた。
それから詩乃は、月に数度、真夜中を選んで美琴のいる黄泉国と呼ばれる異界へと通うようになった。
言霊を使おうとする場合、人の世よりも霊気や妖気が濃いこちらの方が適していたことや、また人に見つかる恐れがなかったことが理由であったが、朝日が昇る前には帰ることと決めていた。
人の世において自分が妖であることがばれてしまえば、常子の元に帰ることはできなくなるかもしれぬ。人の世において妖は疎まれる存在であることを、黄泉国において他のたくさんの妖たちの話を聞いて詩乃は理解していた。
この異界と呼ばれる世界には、人に追われて人の世から逃げ出したものたちも多くいた。勿論全ての人が妖を憎んでいる訳ではないことは知っている。しかし、何をせずとも人ならざるという理由のみで敵と見なされることもまた事実。
自分の存在そのものが常子を危険に晒させるかもしれぬということに、詩乃は気付いていた。人でありながら妖とともに生活する彼女もまた、それを知られれば誰かに狙われることとなるのではないかという恐れがある。
だからと言って、彼女の側を離れることは常子自身が許そうとはしないだろう。それに詩乃もそれを望んではいない。
「私はどうすれば良いのでしょう」
一度、そんな風に美琴に問うたことがある。あの夜から彼女には色々と良くしてもらっている。黄泉国に自由に出入りできているのも、その長である美琴の許可があってのこと。
明るい太陽の光の温かさというよりは、柔らかな月の光の穏やかさを思わせる、そんな女性だと詩乃は思う。
「絶対にあなたの正体がばれないように過ごすことができれば、それが最も良いのでしょうけど、人と妖の寿命の違いを考えると難しいわね」
美琴の言葉に詩乃は頷いた。妖は年を経ても人ほどにその容姿が変わらない。変化を得意とする妖でもなければ、それはどうしようもないことだ。
「だから、最も簡単な方法はあなたが彼女を守れるぐらいに強くなれば良いのよ。単純だけれど、確実な方法」
「強く、ですか」
「言霊は、形のない言葉というものを現の力とするものよ。それを使いこなすことができれば、腕力に自信がなくたって彼女を守ることができるわ」
自分が、常子を守る。そんなことができるだろうか。妖となってから今まで、詩乃は誰かと争ったことがなかった。だが、常子のためにいずれそれが必要になるときが来るのかもしれぬ。
「私にできるでしょうか」
「強い意志があれば、きっとね」
美琴の言葉に、今度は詩乃は力強く頷いた。元々は言葉から生まれた妖としての純粋な興味と、また言葉を愛する常子にその力を見せてあげたいという思いで探していた言霊。それが常子を守る力となるならば。詩乃はそれを己がものとする決心を強くする。
異形紹介
・トミノの地獄
1919年に自費出版された西条八十氏の詩集『砂金』の中に収録された詩のひとつであり、またそれに纏わる都市伝説。内容はトミノという名の子供がたった一人で地獄を旅するというもの。不気味さも感じさせるが、美しい日本語で書かれた詩である。西条氏はほとんどこの詩について語ることがなかったため、現在でも一体どういう意味を持つものなのか、謎が多い詩でもあるようだ。
この詩に纏わる都市伝説は「トミノの地獄を音読すると凶事が起こる」というもので、一躍この詩を現代に有名にした。現在では凶事ではなく「音読すると死ぬ」とされることも多い。「検索してはいけない言葉」のひとつとして挙げられることもある。
この噂の初出は2004年に出版された『心は転がる石のように』という書籍だと考えられており、作者である四方田犬彦氏が「トミノの地獄を音読すると凶事が起こる」と記したことが発端だとされている(ちなみに氏は丁寧にもこの話を「みんなに教えてあげよう!」という言葉で結んでいる)。またマルチ作家である寺山修司氏が「この詩を音読した為にしばらくして亡くなった」という話がこの都市伝説を裏付ける具体例として語られることもある。寺山氏はトミノの地獄を意識したと思われる「姉が血を吐く 妹が火吐く」という言葉で始まる『惜春鳥』という歌の作詞をしており、それがこの噂の発端となった可能性もある。
このように都市伝説として有名になったトミノの地獄であるが、実際にこれを音読して気分が悪くなったなどの報告がネット上でも散見されている。ちなみに筆者もこの詩を何度か音読してみたことはあるが、特に何もなかったため個人差が大きいと思われる。




