一 トミノの地獄
歌に古しへの文見し人のたまなれやおもへばあかぬ白魚となりけり かしこき聖のふみに心をとめしさへかくのごとし ましてや執着のおもひをこめし千束の玉章にはかかるあやしきかたちをもあらはしぬべしと夢の中におもひぬ
鳥山石燕 『画図百器徒然袋』文車妖妃より
満開に咲く梅の林の中、花々を見上げながら歩く文車妖妃、詩乃の姿。その横には十程の齢の少女がいる。
「どう?梅の花は綺麗でしょう?昔は桜よりも梅を歌った歌の方が多かったのよ」
「本当に綺麗ですわね、常子様」
詩乃は薄紅色の花たちに顔を輝かせ、朗らかにそう言った。常子と呼ばれた少女もその様子を見て嬉しそうに微笑む。
梅の合間を鶯たちが飛び、春の始まりを告ぐ鳴き声が澄んだ空を流れて行く。
「かつての人々は、この梅や鶯に春の訪れを感じていたの。紙に書かれた文字を読むのも楽しいけれど、こうしてそれがどんなものなのか実際に見るのもまた一興ね」
詩乃は頷き、そして二人は並び、ずっと梅林の中を歩いて行く。
第三四話「啼けよ、鶯、林の雨に」
「良いですか、『万葉集』の時代には桜の花を歌った歌よりも、梅の花を歌った歌の方がずっと多かったのです。その理由は、大陸、今で言う中国の文化の影響が大きかったからだと考えられておりますの。平安の『古今和歌集』の時代になると桜の和歌の方が多くなるのですけれどね」
黄泉国のある寺小屋、そこで詩乃がまだ幼い妖たちに教鞭を振っている。子供たちの数は五人、寿命が長く、滅多に子供を作らない妖怪の世界では、これでもひとつの寺小屋としては多いぐらいだ。
この数か月、寺小屋で教えている妖に頼まれ、週に一度だけここで文学に関しての知識を子供たちに教えている。元々出無精だったこともあり、外に出る良い機会になると思って引き受けたのだが、いざやってみるとどんな反応をするか予想の付かない子供たちの相手をするのは意外に楽しかった。それに自分の好きな文学について誰かに教えられるのはやはり嬉しい。
この子供たちが、少しでも詩歌や物語に興味を持ってくれれば良いのだが。
「さて、質問のある方」
詩乃が問うと、一人の少年が手を挙げた。
「先生、最近トミノのなんたらという詩を声に出して読んじゃったら死ぬって聞いたんだけど、そんなものがあるの?」
先程話していた事柄とは全く関係のない質問に、詩乃は苦笑いを漏らす。しかしその内容には気になる部分があった。
「それはきっと西条八十さんの、『トミノの地獄』という詩ですわね。トミノというある子供が無限の地獄を旅する、恐ろしくも美しい詩です」
詩乃はそこで一度言葉を切り、そしてふぅと溜めた息を吐いた。
「良いですか、皆さん。誰かを呪うために作られる詩や歌なんて滅多にはないのですよ。勿論『トミノの地獄』だってそうなのです」
子供たちは真剣な眼差しを詩乃に向けている。「トミノの地獄を音読すると凶事が起こる」という都市伝説は、現在この妖怪の国に急速に広まっているようだ。
「『トミノの地獄』が記された『砂金』という西条さんの詩集は、一九一九年に発表されました。それから八十年近くの間、誰もこの詩を読んだからと言って死んでしまった人なんていなかったのです。この詩を声に出したら死んでしまう、なんて噂が出始めたのはつい数年前のこと。これで、この詩が呪いを込められて書かれたものではないことが分かるでしょう?」
「じゃあ、音読しても安心なんだ」
先程質問したのとは別の子供が言った。今度は女の子だ。だが詩乃は静かに横に首を振る。
「そうとは限りませんよ。言霊というものについては、いつか皆さんに話しましたわね。『トミノの地獄』にも言霊の力が強く働けば、もしかして本当に人を呪う詩になってしまうかもしれませぬ」
子供たちは相変わらず真剣だが、詩乃はそれ以上に真面目な顔になっている。
かつて自分にも物語や歌に込められた想いは、言葉を通して未来のものたちへと受け継がれて行くのだと教えてくれた人がいた。それを思い、詩乃は子供たちにもそれを伝えようと自らも言葉を探し、紡ぐ。
「『トミノの地獄を読んだら凶事が起こる』、そんなことをたくさんの人が信じて、噂として広めるとしましょう。そうなるとその言葉、意味自体が力を持つようになって、詩を音読した人に本当にその言霊の力が降りかかる可能性もあるのです。では皆さんは、詩を書いた西条八十さんが、自分の詩を読んだ人に不幸になってほしいと考えていたと思いますか?」
ちらほらと子供たちが首を横に振った。詩乃はゆっくりと頷く。
「でしょう?こういう噂は、その詩そのものを全く別のものに変えてしまう可能性を持っているのです。言葉というものは本当は恐ろしいものなのですよ。しかし、皆さんにも一度は読んでいただきたい詩ですわね。とても美しい詩ですから。あら、長くなってしまいましたね。今日はこれでおしまいですよ。あなたたちがご両親に付けてもらったそのお名前も言霊の一つなのです。お母さんやお父さんの付けたお名前に恥じぬよう、皆さん立派に過ごすのですよ」
子供たちが一斉に返事をし、そして一斉に立ち上がって待ちきれないとばかりに出口へ走って行く。詩乃はその様子を微笑ましげに見つめながら、自分も持って来た書物を袖の中に入れて寺小屋を出る。袖の中に無限に書を収納できるのは、文車の付喪神としての能力だ。
「お疲れ様、詩乃」
寺小屋を出てすぐ、太陽の眩しさに眠たげに垂れた目を細めていると、そう声を掛けられた。そちらを見ると黄泉国の主である美琴が立っている。
「あら美琴様、おはようございます」
「ええ、おはよう。寺小屋での授業も慣れてきたみたいね」
「はい、お陰さまで。子供たちも可愛いです」
詩乃は小首を傾げて笑む。美琴も小さく笑って返した。
「ところで、ぶしつけで悪いのだけど、あなたに頼んだ仕事は進んでいるかしら?」
「はい、勿論。既に彼の居場所は突き止めましたわ。隠れる気もないようで、簡単でした」
詩乃は真面目な顔をしてそう答える。美琴は目を閉じて頷いた。
「仕事が早いわ。不安なら私も付いて行くけれど、どうする?」
「美琴様のお手を煩わせる必要はありませんわ。私ひとりで大丈夫です」
美琴から受けた依頼。それは先程子供たちが噂していた『トミノの地獄』に関わることだった。人の世の都市伝説であるはずのあの噂が、近頃こちらでも流行っている。それと時を同じくしてある怪しい影が黄泉国に入り込んだ。その調査をしてほしいということだった。恐らく何者かが『トミノの地獄』の都市伝説を利用し、この異界で何かをしようとしているのだろう。
人の世とは違って呪術が当たり前のように存在するこちら側の世界では、そういった都市伝説が逆に信じられやすい傾向にある。霊気の強い異界において、噂が広まり続ければ『トミノの地獄』が本当に呪いの詩となってしまうのは時間の問題だった。
物語や歌、それに詩など文学として残されたものには、それを作り上げたものたちの想いが込められている。書いた本人がいなくなってしまった以上は、それに様々な解釈が施されるのは仕方がない。しかし、それに纏わる噂を悪戯に利用するのは別だ。
「そう言うと思ったわ。じゃあ任せるから、あなた流にこらしめて来て頂戴ね」
「はい。ありがとうございます。私のために」
「良いのよ。あなたが最も相手がしたことを分からせてあげられると思うから」
そう美琴は意味ありげに微笑んだ。
その夜、詩乃は一人黄泉国を歩いていた。昼間とは違って活気に溢れる黄泉国の妖たちの間を詩乃は一定の足取りで進んで行く。
今宵にも決着を付けるつもりだった。どうやら相手は人間らしい。金銭が目的なのだろうが、そのたった一人の人間が原因でこの異界に都市伝説が広まったようだった。そして、その人間は自らを言霊使いと名乗っているという。
言霊という言葉を使うのならば、その恐ろしさについてもきちんと知ってもらわねばならぬ。言葉の中から生まれた妖として、そして言霊を使うものとして、詩乃はそう思う。
聞き覚えのある声にふと黄泉国の真ん中を流れる川の岸に目を向けると、寺小屋で教えている子供たちのうち二人の少年の姿が見えた。それぞれが作った笹舟を水面に浮かべ、競争させているようだ。
詩乃が彼らに近付くと、二人は彼女に気付いて顔を上げた。
「先生」
「楽しそうですねぇ」
笹舟は川の流れに身を任せ、ずっと流れて行く。一人がそれを眺めながら詩乃に尋ねる。
「ねえ先生、先生って付喪神なんだよね?」
「そうですよ。私は文車妖妃ですからね」
書物や文、それに文車などといった言葉に関係するものが妖怪化した存在。それが詩乃の種族である文車妖妃という妖。
「じゃあさ、先生にはお父さんやお母さんがいないんでしょう?その詩乃っていう名前は、自分で付けたの?」
昼間、授業の最後に言った言葉を覚えていてくれたのだろう。詩乃は柔らかく笑んで、そして静かに首を横に振った。
「いいえ、私にこの名前を付けてくれた人がいたのですよ。だから私も、この名前を大切にしているのです。とても大切な方がくれた名ですから」
「ふ~ん、恋人?」
「いいえぇ、私がまだただの文車だった頃、私を使ってくれていた方なのです。とても書物が好きな方でした。彼女がいなければ、私は妖として存在していなかったかもしれませぬ」
せせらぎの音が心地よく耳に届く。その音を聞きながら、詩乃は思う。数百年前自分が仕えた、誰よりも言葉を愛していた主のことを。
「あなたの名前は詩乃。そう決めた!」
常子という名のその少女は、妖である文車妖妃を前にそう告げた。
「しの、ですか」
文車妖妃はきょとんとした顔で主である少女を見つめる。そんな付喪神に、常子は優しく笑い掛ける。
「そう、乃は詩なり。書や文の文字に溢れた文車から生まれたあなたは、まるで言葉から生まれた詩歌みたい。だから、詩乃」
常子は言い、そして頷いた。詩乃は改めて、目の前にある鏡でまじまじと自分の体を見る。梅の描かれた小紋を身に纏い、頭には被衣を被っている。姿は、若い人間の女性のようだ。
付喪神である詩乃が霊体を持って自分を見つめたのは、それが初めてのことだった。
彼女は江戸は四谷のある武家において、ひとりの少女が愛用していた文車の付喪神として生まれた。ただの文車であった頃の記憶もあり、自分が何者で目の前の少女が誰なのかも知っていたが、妖となった己の体に戸惑っているのは確かだった。
文車とは書や文を入れて運ぶために、移動用の文庫として作られた車のこと。江戸の世ではほとんど使われることもなかったそれを、常子は愛用していた。
元々は馬や牛が引くほど重く、また大きいものであった室町の世の文車は、常子のために彼女一人でも引いて歩けるほど小さなものとして作り変えられ、そして常子はいつもそこに何冊もの書を入れて引き歩いていた。
その故は、誰もが認める程常子が書を好いていたから。家のものも外のものも愛称として彼女を本姫と呼ぶほどに、彼女は常に書物とともにあった。
その常子の書に対する想いが文車に乗り移り、そして生まれたのが詩乃だった。人の形となった詩乃に最初は常子も驚いたようだったが、古い絵巻ものなどの知識からすぐに彼女が妖であることを理解し、そして受け入れた。
「特に危なそうでもないし、それに文車の妖なら何か書に関する力があるんじゃない?」
それどころか、そんなことを目を輝かせて言ったものだ。そして詩乃が自らの袖に幾つでも書を収められることを見せると、ひどく喜んだ。そして、唐突に目の前の文車妖妃に向かって名を付けたのだ。
「百年に、一年足らぬつくも髪。元々は『伊勢物語』で年老いた女の人を詠んだ歌だけど、あなたはそれよりもずっと長い時を経ているのに、若い姿なのね」
悪戯っぽく笑い、常子は詩乃に言う。
「私は、妖ですから。きっと常子様の思い描いた姿がこの姿だったのではないのでしょうか」
「確かに!私あなたみたいに綺麗で、一緒に書の話ができる人が欲しかったのかも」
そう明るく笑う常子を見ながら、詩乃は思う。それだけではないのだろう。常子はこうして笑っているが、いつも文車の中に幾枚かの文を忍ばせていた。
それは離ればなれになった彼女の母から届く、娘への文。常子の母は数年前、徳川幕府の将軍、綱吉に見初められ、城へと去ってしまった。それによって家は豊かになったが、まだ幼い常子の中には寂しさもあったのだろう。
詩乃は鏡で見た自分の姿に、微かに彼女の母の面影を見た。常子は自分と共にいてくれる、自分より年を経た女性が欲しかったのかもしれない。
常子がいなければ詩乃はずっと忘れ去られ、いつかは捨てられ朽ち果てるただの文車でしかなかった。こうして人の姿となり、そして言葉を発することができるのも彼女のお陰。
その日、詩乃は自らの主とともに生きることを決めた。
それからは穏やかな日々が続いた。詩乃は世話係として常子に仕え、そして様々な書物とともに彼女と時を過ごした。
常子は書であるならば何でも読んだ。学問書も物語も文字さえ書かれていれば彼女にとって読むべきものとなった。
詩乃もその隣に座り、良く本を読んだ。文車の妖という性質上読むということには長けており、読むだけならばすぐに済んでしまう。だが、書の中身について常子と語らうのは楽しかった。
詩乃が妖となってから、彼女は文車を引くことをやめた。その代わりに詩乃の袖の中に彼女の書は収められた。だから、どこに行くにも常子と詩乃は一緒だった。
「あなたは書のことは良く知っているけれど、他のことは知らないから」
そう言って、たまに常子は詩乃を外へと連れ出すこともあった。多くの人が集う江戸の町。文や絵として書かれたそれは良く知っていても、実際に自らの足でそこを歩くのは大違いだった。
書を読むだけでは分からないものは多かった。肌に触れる熱や冷気。耳に聞こえる人々の声や様々なものが織りなす音。鼻を通して感じる空気の匂い。そして瞳を通して見える、様々な色。
ただの文車であった頃には知ることのなかったその全てが、新鮮で、そして刺激となる。書の外にあることを、詩乃はたくさん常子に教えてもらった。
そんなある日、七夕と呼ばれる夜に、常子は詩乃を誘って屋敷の外に出た。夜空は晴れていて、天の川が大きな流れを作っている。
「詩乃は、笹舟の作り方を知ってる?」
詩乃は首を傾げる。言葉自体は知っているものの作ったことはない。それは子供であった頃のない詩乃にとっては、仕方のないことではあった。
「なら、教えてあげる」
そう言って、常子は水路のすぐ側に生えている、たくさんの短冊が飾られた笹から葉を二枚取ると、一枚を詩乃に渡した。
「こうして葉の両端を折ってね、それぞれに切れ目を二つを入れて、左右の折り目を重ねれば、もう出来上がり」
そう言う常子の右の掌には、緑色の小さな舟が乗せられていた。詩乃も彼女の真似をして、小さな笹の舟を作り上げた。
「これをね、こうして水の上に浮かべて、流すの」
「競わせるのですか?」
「いいえ。こうして静かに流れて行くのを眺めるの」
常子が笹舟を水路に浮かべると、星空を映した水面を笹舟が静かに進んで行く。何を運ぶ訳でもなく、笹の舟はただ漂う。
「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」
ふと常子がそう口にした。詩乃は自らの笹舟を水の星空に乗せようとしていた手を止め、常子を見る。
「『古今和歌集』ですわね」
そう詩乃が言うと、常子は首肯した。
「そう。言葉は言の葉。色々な季節に繁る葉のように豊かだから、昔の人はこの語を作ったんだと思うの」
常子は自らの流した笹舟の行方を目で追いながら、言う。
「書に記された言葉は、こうして遥か遠い人たちに、ずっと未来の人たちに想いを伝えることができるのだから凄いと思うんだ。古の人たちもそれを知っていたのかも。それを私がこうして受け継いで行けるのは嬉しいし、だからちゃんとこれをまた次の人たちに繋げなきゃ、って思うの」
詩乃が笹舟から手を話す。青々とした笹の葉は、水の流れに逆らうことなく遠くなって行く。
「さっきの言葉の続き、詩乃は分かる?」
常子に問われ、詩乃は先の常子の言葉に繋げる形で、落ち着いた声で答える。
「世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」
「その通り。流石だね、詩乃」
文車妖妃である詩乃は一度読んだ書の内容は、一語一句全て覚えている。それは妖としての能力だが、それでも褒められて悪い気はしない。
「歌に限らず、言葉というのは凄い力を持っていると思うんだ。たった一つの言葉が人を生かしも殺しもする。ずっと昔、まだ神様が人の前に現れていた時代の人たちは、こういう力を言霊と呼んだみたい」
この国は言霊の幸はふ国。『万葉集』に書かれた言葉だ。この日の本という国はずっと昔から言葉に特別な力が宿ると信じていた。
人の心を時に和ませ、時に猛らせることができる力は確かに言葉にはある。しかし、かつて神話の時代の人々が考えたように口から発した言の葉が現実のものとなる、そんな力が実際にあるのだろうか。
詩乃は水面を眺める常子を見る。もしそんなことができるのならば、私はこの人にそれを見せてあげたい。古に生きた人々が歌に詠んだ景色を、ここに再現することもできるだろうか。
「どうしたの、詩乃?」
そう常子は悪戯ぽく笑った。詩乃は首を小さく傾ける。自分は言の葉の中で生まれた妖。詩乃という名前もそこから付けられた。
言霊というものが本当にあるのならば、きっとそれは私の力となってくれるかもしれない。詩乃はすっかり見えなくなってしまった笹舟の行方に目を向けた。
・異能紹介
言霊
『万葉集』において「言霊の幸はふ国と」と記されているように、日本に古くから存在する言葉に不思議な霊威が宿るという思想。発した言葉通りの現象が現実に起こる力として説明されることが多い。
古くは「言霊」という語は先に挙げた『万葉集』に三例見えるほか、『古事記』や『風土記』、『日本書紀』にも言葉の力が現実に影響を与えていることが伺える描写がいくつか散見される。ただし、上代における言霊の思想は近世以降のものとは多少異なっていた。
上代文学における言霊の使用例の特徴として、それが基本的に神の力として描かれていることが挙げられる。神が言霊を直接発する場合においてはそのまま力が発揮され、一方で人が言葉を発する場合においては、言葉を神が聞き入れ、そして力を発揮するという形で言霊と呼ばれる力が振るわれていたと上代の文献からは伺える。つまり古代日本においては言葉が直接力を持つ、という考え方は薄かったと思われる。
それ以降の時代においては本編に挙げた『古今和歌集』序文のような、言葉が力を持つという考え方は僅かながら見られるものの、言霊思想そのものに大きな変化が起きたのは近世、つまり江戸時代だったと考えられている。
一七九〇年代に書かれた橘千陰の『万葉集略解』において初めて言霊について歌そのものに神霊が宿る解釈がなされ、また「五十聨声」という、日本語を構成する五十音は神によって与えられたものであり、各音それぞれに固有の意義があるという「一音一義説」、各行にも一定の意義があるという「一行一義説」という考え方が広まり、「五十連音」という当て字が使われるなど新たな言霊思想が出来上がっていた。
現代における言霊思想もこの近世における考え方の影響が強い。そしてこの科学が発達した時代においても、人々は受験前に「落ちる」「滑る」という言葉を使わない、「ムラサキカガミ」「イルカ島」などの言葉を二十歳になるまで覚えていたら不幸になる、「トミノの地獄」を声に出して読んだら凶事が起きるなど、様々な言葉における俗信や都市伝説が囁かれている。
言霊というものは、現代においても形を変えて行き残っているのだろう。




