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黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第三三話 錆びた鋏に映るもの
132/206

二 口裂け女の姉

 また二人、今度は少女が殺されたらしい。その口の両端が裂かれていたため、犯人は先に見つかった少年を殺したものと同一人物として調査が進められているようだ。弘子は目を瞑る。

 口の裂かれた死体。血で染まった真っ赤な部屋に、そんな無残な死体が何人も転がっている光景を思い出し、弘子は小さく首を横に振った。あれはもう、思い出したくはない。

 気分が悪くなり、弘子は公園のベンチに倒れ込むように座った。頭から過去の映像を追い出そうとしても、それが逆に記憶を呼び覚ます。

 木で作られた格子の向こう、耳まで裂けた口で笑い続ける妹の姿。両親は不気味がってあの子の近付こうとさえせず、妹の世話を任されていた家政婦の人たちも妹を恐れ、両親に言付けられた必要最低限以上のことはやろうとはしなかった。

 それなのに艶子はいつも笑っていた。この世に恐いものなどないように、怒ることも泣くこともしなかった。それが他の者たちの目には余計に奇異に見えたのかもしれない。だけど、あの子はずっと孤独だった。

「艶子、どこにいるの?」

 一人そう呟く。誰にも受け入れられず、あの家から消えた妹の名前。行方不明になったあの日から、恐らく艶子は罪を重ね続けている。可哀想な妹。あの子がこんなことを望んでいる筈がない。

 あんな風に生かされていたのだ。誰かを怨んでいたって仕方がない。しかし彼女に残された最後の血縁者として、弘子は覚悟を決めていた。

 艶子を探し始めたのはこの十年。それ以前は自分もいつか殺されるのではないかと恐ろしくて、あの子から逃げ続けていた。だが姉として、あの子を受け入れられるのは自分だけなのだ。強い使命感を胸に、弘子は再び立ち上がる。




 日はとっくに暮れ、夜の九時を過ぎた時間。灰色に染まったアスファルトの上に、一部だけ絵の具を零したように赤く染められた場所がある。

 口裂け女は少年に突き刺した血濡れの鋏を引き抜いた。錆びた刃から血と脂が滴り、血まみれの少年の服に垂れる。

 少年の手にはべっこう飴が握られていた。恐らく口裂け女が出ると言う噂から、自分なりに対策していたのだろう。その意味はもうなくなってしまったが。

 口裂け女はそのべっこう飴を少年の手からもぎ取ると、裂けた口に放り込む。

 甘く懐かしい味が口の中を満たす。昔良く食べていた甘い味。口角を釣り上げ、口裂け女は溜息のように息を吐く。

 そして、鋏を握ったまま背後の妖気に振り返った。

「わたし、きれい?」

「私はそれに答える言葉を持ちません」

 彼女の後ろに立った妖怪、針女である朱音は口裂け女に対し、そう冷たい口調で答えた。

 針女が髪を縛る紐を解き、口裂け女は口を覆うマスクを取る。口裂け女の奥歯がべっこう飴を噛み砕いた。破片が裂けた口から飛び散る。

 口裂け女が鋏を取り出した。同時に朱音の髪が伸びる。口裂け女は地面を蹴り、自分に真っ直ぐに向かって来る朱音の髪を避けた。

 そのまま大地を砕くような脚力で口裂け女が朱音に飛び掛かる。だが朱音はまた別の髪の束を生成し、口裂け女に向かって叩き付けた。

 脇腹に髪の束が直撃し、そのまま口裂け女がビルの外壁にぶつかる。だが彼女はそのまま朱音の髪を掴み、鋏の刃を食い込ませてにんまりと笑った。

「なっ……!?」

 錆だらけの鋏は、硬質化した朱音の髪をあっさりと引き裂いた。妖力を失った毛髪がはらはらと落ち、朱音が一瞬動揺する。しかしそれは隙となり、口裂け女の鋏の接近を許す。

 迫る鋏に朱音が首を背けるが、振るわれた刃は彼女の左目の下部分を深く切り裂いた。口裂け女は左腕を伸ばして尚も朱音の顔を鷲掴みにし、鋏を突き立てようとする。

 朱音は口裂け女の腹部を蹴り上げるが、びくともしない。それどころか奇声に近い笑い声を上げながら鋏を振り上げ、首に一度突き刺した。激痛に体の息が吐き出され、朱音は歯を食いしばる。

 口裂け女は再び鋏を振り上げるが、朱音も口裂け女の両腕の髪を巻き付け、引き剥がした。そして口裂け女の胸部に髪の束で作り上げた槍を突き刺し、そのまま電柱へと釘打ちにする。

 それでも口裂け女は笑みを浮かべた顔のまま、自身を封じる髪を鋏で切り刻んだ。胸の真ん中にあいた大きな穴から血が滴るが、口裂け女が意に介する様子はない。

 ちゃきり、ちゃきりと鋏が鳴る。朱音は首に髪を巻き付けて出血を抑えながら相手の出方を見る。

 確かにそこらの妖怪より遥かに妖力は強い。だが、何よりその霊気が孕む感情が分からず、不可解だった。恨みでも怒りでも快楽でもない。一体何故その鋏で人を襲うのか見当がつかない。

 上に向かって裂けた口角をさらに釣り上げながら、口裂け女は再び朱音に飛びかかろうとして足に力を込め、そして不意に動きを止めた。

 口裂け女が朱音に背を向け、歩き出す。慌てて朱音が追うが、曲がり角の向こうで既のその姿は消えていた。

 朱音は首を傾げながら髪を元に戻し、紐で縛る。その直後、後ろから女の声が聞こえて来た。

「艶子!艶子!」

 朱音が振り返ると、中年の女性がそう誰かの名前を呼びながらこちらに向かって走って来ていた。その女は朱音のすぐ前で立ち止まると、息を切らしながら朱音に尋ねる。

「ここに、口裂け女がいませんでしたか?」




 彼女、弘子は自分は口裂け女の姉だと名乗った。とりあえず連れて来たファミリーレストランの席で、朱音はコーヒーを一口飲み、怪訝そうに弘子を見る。

「お姉さん、ですか」

 大分落ち着いた様子の弘子が、小さく頷いた。焦燥した顔を見ると嘘をついているようには思えないが、弘子からは妖気というものは感じられない。口裂け女がまだ人間だった頃の家族ということだろうか。

「何故あなたは口裂け女を探していたのです?妹さんだからでしょうか」

「はい。その通りです」

 弘子は膝に置いた手を見つめながら話始める。

「私は……、ずっとあの子から逃げ続けていました。三十年以上の間。あの子がああなってしまった過去を、知っているのは私だけだったのに」

「やはり、口裂け女は元も人間だったのですね」

 都市伝説でありながら実在する怪異の場合、その元となる存在がいる場合が多い。口裂け女の場合、それは人間の女だったのだろう。しかし彼女の場合その霊気からは憤怒も怨嗟も感じることができなかった。故に、何故彼女が殺人を犯すのか、それが分からない。ただ不幸な境遇故にとは思い難い。

 何らかの要因によって人が異形と化すことは珍しいものではない。朱音自身もそうだった。ならば、その原因は何なのか。

 都市伝説「口裂け女」の過去を、弘子がぽつりと語り始めた。




 弘子は岐阜県のある旧家に生まれた次女であり、五つ上に長女である冴子が、そして一つ下に末の妹である艶子がいた。

 弘子の父は代々医者の家系に生まれた子供で、早くに死んだ自身の父親の病院と大きな家を継ぎ、そこに母や娘、そして家政婦を一人住まわせて暮らしていた。

 しかし弘子にはあまり家族と触れ合った記憶はない。それは姉も妹も同じであったろう。それに、望んでいた男児が生まれなかったこともあって父は三姉妹に冷たく、またそれ故に義理の母や父に責められる母も次第に彼女たちを疎むようになり、三姉妹は数年ごとに変わる家政婦の手で育てられた。

 父の記憶と言えば、異常にプライドが高く、それでいて世間体を常に気にする人だったということぐらい。その性格故かいつもきっちりとした髪型をしており、常にポマードの臭いを漂わせていたことだけは印象に残っている。

 その分、弘子は姉や妹とは長い時間を共に過ごした。冴子は弘子を随分と可愛がったし、弘子も艶子のことを大切にした。しかしその中で、艶子は最初からどこか違っていた。

 父も母も娘たちには冷たく、たまに会っても優しい言葉を掛けることもなくあしらうように接した。機嫌が悪い時には意味もなく怒鳴り声を上げられたこともある。実の両親でありながら、冴子も弘子も常に緊張と恐怖とを伴って二人の前に立たねばならなかった。

 しかし艶子は違った。彼女は両親に何を言われようとも何事もないように笑みを浮かべていた。冴子も弘子も、末の妹が泣いたところを一度も見たことがなかった。

 それは両親にとっては気味の悪いものだったのだろう。やがて父や母は艶子をほとんどいないものとして扱うようになる。怒ることもしない代わりに、話しかけることもなくなった。

 弘子はそれが可哀想で彼女を良く世話したが、冴子は母や父に辛く当られることもなくなり、また自分の唯一の味方だった弘子を奪った女として艶子を憎むようになった。そして、その歪みは次第に彼女の表に現れるようになる。




「何で笑ってんのよ!」

 冴子が艶子に対して父や母のように怒鳴り散らす光景は、すぐに日常的になった。次第に暴力も当たり前になって行った。

 冴子が艶子の頬を平手で打っても、艶子は怒ることも泣くこともなく、ただ首を傾げていた。弘子はそれを見て慌てて姉を止めるが、姉は彼女の手を振りほどいて背を向け、一言も発さずに去る、というのが常だった。

「大丈夫、艶子?」

「何で冴子姉さまは怒ってるんだろうね?」

 艶子は本当に不思議そうにそう姉に尋ねる。元々理不尽な怒りだ。分からないのも仕方がないのかもしれない。

 この子には味方がいない。だから自分がそうなってあげよう。弘子はそう思い、艶子を抱きしめた。




 艶子は裁縫が好きだった。小学校用に買ってもらった裁縫箱を良く取り出しては布を切り、中に綿をつめてクッションや人形を作って並べていた。

 三姉妹にはほとんど玩具等の娯楽品は与えてもらえず、専ら勉強しろとしか言われていなかったせいもあるかもしれないし、他の子供たちのように母親が裁縫で何かを作ってくれるということがなかったせいかもしれない。艶子は裁縫に夢中になって行った。




「何を作ってるの?」

 茶色の布を切っている艶子に、弘子が尋ねる。

「狼。ねえ弘子姉さま。人と人じゃないものの違いって何か知ってる?」

「二本の足で歩かないこと、とか?」

 弘子は艶子の横に腰を下ろし、そう答えた。だが艶子は首を傾げ、答える。

「それもあるかもね。でもね、あたしはやっぱり口が大きいかどうかだと思うの」

「口?」

 艶子は切り終わった布を横に置き、頷く。

「だっていろんな人が怖い、強いって言う動物は皆口が大きいでしょ?狼も、熊も、鰐も」

「それは、その動物たちが肉食動物だからじゃない?」

 弘子が言うと、艶子は首を傾げた。

「じゃあ、人間の口が大きくなったら、強くなれるのかな」

「それは分からないけれど、でも怖いとは思うわよ。赤ずきんの狼みたいに、人を食べちゃうかもしれないと思うもの」

 そう言うと、どうしてか艶子は楽しそうに笑っていた。弘子はその頭を撫でる。この子も自分こうして笑っていられる時間がずっと続けば良い、そう思った。




 それから、長い時が経ち、弘子は高校一年生に、艶子は中学三年生になった春先のこと。最初の惨劇が南条家を襲うこととなる。

 第一の発見者は、その日のつい一ヶ月前から雇われていた家政婦だった。いつものように姉妹に軽食を届けるため、そっと部屋の扉を開けた若い家政婦は、突然凍ったように動きを止めた。

 丁度学校から帰って来て、その家政婦が部屋へと入ろうとしていた場面を見ていた弘子は、彼女の腕から盆が滑り落ちたのを何故だか良く覚えている。

 食器が割れる音がした直後、家政婦の悲鳴が響き渡った。その彼女に駆け寄り、そして部屋の中を覗いた弘子は絶句した。そこにあるのは口を裂かれ、首から血を流して倒れた冴子の亡骸と、同じく裂けた口を晒しながら、いつものように裁ち鋏で布を切っている艶子の姿だった。ただ彼女の切る布地は、部屋と同じように赤黒く変色していた。

 その日冴子が死に、そして艶子は顔に消えない傷を負った。

 その異様な色と匂いとに支配された部屋に平然と座っていた艶子は、すぐに姉殺しの犯人だと疑われた。そして両親が問い詰めると、彼女はあっさりと自分が冴子を殺したと白状した。

 しかし何故殺したのか、という問いには答えず、ただ笑顔を見せるだけだった。それには流石に弘子も恐ろしさを感じ、また両親は世間の目を恐れて警察に連絡することさえなく、家の中だけでそれを処理しようとした。

 姉の亡骸は弘子の知らぬところで処理され、そして艶子は座敷牢に監禁された。勿論最初から家に牢屋があったわけではない。父親は屋敷の一室を改築して、艶子を閉じ込めるための部屋を作り出したのだ。

 弘子の反対にも耳を貸さず、艶子は十五の頃から学校にも行かせられることなくその木の牢の向こうで暮らすようになった。

 日に三度食事は与えられ、厠も部屋の中に作られた。しかし牢から出されることは滅多になく、また弘子の背よりも高い位置に座敷牢が作られ、その出入りには取り外し可能な梯子が使われたため、弘子も滅多にその姿を見ることができなかった。




 艶子に会えるのは月に三度、十日に一度、三の付く日のみ。その度に弘子はべっこう飴を彼女に持って行った。嗜好品など与えられるはずのない艶子に対し、唯一許されたのが弘子が自分自身で作った、砂糖と水のみでできたべっこう飴だったためだ。

「艶子」

 呼びかけながら座敷牢の戸を開けると、艶子は裂けたままの口で笑みを作りながら近付いてきた。父は外科医であるにも関わらず、艶子にまともな治療を受けさせなかった。そのまま死んでしまっても構わないと、そう思っていたのだろう。

 だが艶子の傷は不思議とそれ以上悪化することもなく、裂けたままに塞がった。それ故彼女は裂けた口のまま、座敷牢の中で暮らしている。

「痛くない?」

「大丈夫」

 艶子はいつもそう答えた。泣いたところを見たことがない妹だったから、ずっと我慢しているのかもしれないと弘子は心配していた。

 そのような状況だったから、艶子には必要最低限の食事しか与えられていないようで、勿論甘いものなどほとんど食べてはいなかった。そのため、弘子の作った歪な形のべっこう飴でも妹は夢中で舐めた。

 この子が姉を殺したことは事実だ。だが、姉の行動が目に余るような状態だったことも知っている。今はもう姉はいない。だから自分は残された妹を助けねばならないと、弘子は思う。

 この子にも味方が一人ぐらいいても良いはずだ。あんな風に人に不気味がられるようになったのもきっとこの家庭の環境が影響しているのだろう。

 家のものたちは影でこの子は狂っているとか、おかしくなってしまったとか好き勝手に言っている。艶子を追い詰めた自分たちのことは顧みようともしない。

 弘子は夢中でべっこう飴を舐める艶子を見て、微笑む。いつかこの子をこんな狭い世界から出してあげようと、そう誓った。



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