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黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第三三話 錆びた鋏に映るもの
131/206

一 わたし、きれい?

「わたし、きれい?」

 少年の前に現れた背の高いその女は、唐突にそう問い掛けた。

 日も暮れ、深い藍色に染まった住宅街。家々から洩れる明りが道路をまばらに照らすものの、ずっと先まで続く街灯の光の下に人影はない。

 まだ十に満たない少年は女を見上げる。この夕闇の下にいるのは、自分とこの怪しげな女の二人だけだった。

 女は春も終わりに近付いたこの時期にしては暑苦しい赤いロングコートを羽織り、黒い髪を腰のすぐ上まで伸ばしている。そして何よりも顔の半分ほどを覆う白いマスクが特徴的だった。年齢は、二十歳を少し過ぎた辺りと言ったところだろうか。

「ねぇ、わたし、きれい?」

 マスクの下からくぐもった声で再度、女の問い掛けが発せられた。声自体は普通の成人した女の声のように思えたが、少年を真っ直ぐに捉える視線が彼をその場に縫い付けていた。

 これ以上にないというほど透き通ったその瞳が、逆に女の不気味さを増長させている。濁りのなさによって逆に歪さを孕んだ女の目は、この問いに答えなければきっとここから離れることはできないと、そう少年に予感させる。

「ええ……、きれいだと、思います……」

 少年は遠慮がちにそう言った。上半分しか分からないが、顔は整っている方だろう。

 きちんと相手の問いには答えたから、これで家に帰してもらえるのだろうか。それを期待して女を見るが、それはあっさりと裏切られた。

 女は右手を上げ、そして顔の半分を覆うマスクに手を掛けた。緩慢な動作で白いマスクは顔から外され、そして少年はそのマスクの下から現れたものを見て絶句する。

「これでも?」

 女は首を傾げ、少しだけ楽しそうな声で新たな質問を発する。その問いには答えず、少年は彼女に背を向け、逃げ出そうとした。しかし、その襟を女の手によって掴まれる。

 少年は咄嗟に女を振り向いた。どうにかして女の手から離れなければ。だが、そんな時間は与えられなかった。

 少年の恐怖に染まったその瞳が最後に映したものは、何年も手入れせずに使い続けたような錆だらけの(はさみ)と、笑みを作るように耳まで裂けた女の口。


第三三話「錆びた鋏に映るもの」


 住宅街の真ん中で見つかった少年の惨殺死体は、マスコミや人々の噂を盛り上げるのに十分な魅力を持っていた。

 直接の死因は体中を滅多刺しにされたこと。しかし何よりも世間の注目を集めたのは、被害者の少年の口の両端が、まるで笑顔を作るように耳の下へと向かって切り裂かれていたことだった。

 新聞やテレビを通して伝えられたその情報によって、人々は誰もがある名前を頭に思い浮かべ、そして噂し合った。

 都市伝説にて語られる怪異、「口裂け女」の名を。

 かつて日本中を席巻し、恐れられた都市伝説。その名は三十年以上経った現在においても人々の中で共有されていた。




 街角で、少年少女たちが口裂け女について話している。顔の半分をマスクで隠しているとか、「わたし、きれい?」と聞いて来るとか、逃げるためにはべっこう飴をあげれば良いとか、この三十年で語り尽くされたそのような話も、まだ子供である彼らにとっては新鮮なものなのだろう。

 そんな子供たちの姿を見て、そして目を伏せる女性がいた。年齢は四十代半ばだが、顔形は整っており、上品な印象を与える。

 子供たちは笑いながら口裂け女の話をして、彼女から離れて行く。本気でいるとも思っていないし、それ故にそこまで怖がってもいないのだろう。それぞれの家に帰って行くのであろう彼らの後ろ姿を眺めつつ、女、南条(なんじょう)弘子(ひろこ)はひとつ溜息をつく。

 また、口裂け女の噂が流行ろうとしている。皆何故か忘れているけれど、数年に一度、こんなことがある。そしてそんなときは必ず鋏で殺され、口を裂かれた死体が見つかる。

艶子(あやこ)……」

 弘子は夕闇の下、一人そう呟く。




 夕暮れの町を良介と恒の二人が歩いている。良介の方手には食材の入ったビニール袋が、恒の片手には高校の鞄がぶら下がっている。そして二人のもう片方の手には、先程屋台で買った鯛焼きが握られている。

「良介さん、たまにこっちで食べ物買いますよね」

「黄泉国では基本的に夜しか店が開いてないからなぁ。それにこっちでしか買えないものも結構あるんだ。料理もこだわると面白いものだよ」

 良介は屋敷において厨房を任されている。恒があの屋敷に来てから一年以上経つが、朝夜に加えて昼の弁当まで毎日作ってもらっていた。これが当たり前になってはいけないと、毎日気を引き締めるよう心がけている。

「そういえば恒ちゃん、口裂け女という都市伝説を知っているかい?」

 唐突に良介がそんなことを尋ねた。恒は鯛焼きをかじろうとした口を止める。

「知ってますよ。マスクを付けた女の人が現れて、質問に答えるとそのマスクの下に隠された耳まで裂けた口を見せる、という話でしょう?」

「簡単に言えばそうだな。あの噂が流行ったのは恒ちゃんが生まれるより十年以上前だったけど、息が長いな」

 良介はそう苦笑した。恒はそんな彼に向かって単刀直入に質問する。

「出たんですか?」

 都市伝説や怪談等の噂が、ただの噂では済まないことがある、ということはこの一年で重々学んでいた。妖怪や幽霊と同じように、都市伝説も実在するものとして考えて置いていた方が良いのだろう。

「そうさな、七九年頃には確かに出たらしい。俺は遭遇してないが、確か岐阜県だったかな。そこで色々とやらかして、姿を消したと聞いているよ」

 良介は最後に残っていた鯛焼きの尻尾を口に入れ、噛み砕いて飲み込む。

「それじゃあ、口裂け女はそのまま死んでいないということですか?」

「いや、一度は他の妖怪の手で殺されたという噂は聞いているけど、本当かは分からないな。それまでに何人も妖怪を殺したらしいとも聞いているがね。しかし死んだからと言ってこの世から消え去るとは限らないのが都市伝説に語られる怪異の恐いところなんだよ」

 恒は黙って自分の鯛焼きを口に運ぶ。

「都市伝説というものは人々の間で語られ、言霊(ことだま)となる。言霊というのは霊力だから、自分に向けられた言霊を力にすることができるし、場合によっては死の淵から甦るということもある。特に口裂け女程有名な都市伝説ならば、そんなことがあっても何らおかしくはない」

 良介の口調は真剣だった。冗談ではないのだろう。ならば、良介がこんな話題を口にした理由にも予想が付いた。

「昨日の事件ですか」

 昨夜学校帰りに殺された小学三年生の少年。その死体の状態からか、恒も高校で口裂け女の噂は少なからず聞いていた。

「ああ、そうだ。もしかしたらまた現れたのかもしれない。しかも今度はこの東京に」

 今この時、何人もの命を奪った妖怪が町を徘徊している。そう思うと恐ろしいが、恒にはどうすることもできない。

「だから恒ちゃんも気をつけなさい。今美琴様が調査しているが、すぐに解決するとは限らない」




 美琴は冷たい地面に打ち捨てられた少女の亡骸を見つめる。まだその命が消えてから幾許も経ってはいないのだろう。細い首から流れた血は未だ乾かず、地面を濡らしている。

 致命傷となったのは首に横一文字に刻まれた深い傷だろう。しかし、それとは別にその口の両端が大きく裂かれていた。まるで誰がこの子供を殺したのかを知らしめるように。

「惨いことをします」

 美琴の後ろにいた朱音が呟くように言った。美琴も頷く。さぞ恐かったことだろう。瞳には涙を流した跡が見える。美琴はそっとその両の(まぶた)を閉じさせた。

「口裂け女、なのかしら」

 この少女ももうすぐ他の人間に見つかり、騒ぎになるだろう。美琴は朱音に合図してその場を離れ、そして呟く。

「微かな妖気は私も感じました」

 朱音の言う通り、あの場には妖気が残っていた。ならば人間の仕業とは考えにくい。口裂け女を模倣した殺人、という可能性もあるが、恐らく本人だろう。

 殺人の際に相手の口を裂くという趣味のものはあの女を置いて他には知らない。赤マントに続いて次は口裂け女がこの町にやって来たということか。美琴は考える。

 口裂け女は一九七九年の春に初めてその存在を確認されている。岐阜県において突如現れた彼女は、たった数か月の間に四十人以上の犠牲者を出し、口裂け女の噂は瞬く間に全国に広まった。人々は彼女の存在を口々に噂した。丁度、今のように。

 勿論妖たちも口裂け女を放置していた訳ではない。だがあの女は妖でさえも人と同じように惨殺し、犠牲者を増やして行った。彼女自身の本来の力に加え、全国を駆けた噂が言霊となり、彼女の力となったせいもあるだろう。口裂け女は長くを生きた(あやかし)以上の妖力を持ち、ただひたすらに殺し続けた。

 そして口裂け女は夏になると忽然と姿を消す。当時は何者かに殺されたと言われていたが、彼女は数年の時を置いて何度も現れるようになる。

 場所も時期も決まったものはない。突然現れては人々を襲い、その度に噂は広まる。かつてこの関東に現れたこともあったが、一度対峙したのみで殺すまでには至らなかった。

 これほど都市伝説として広まっている怪異だ。恐らく殺したところで甦るだろうが、現在の状況は飢えた肉食獣を放置しているようなものだ。野放しにはできない。

 美琴はかつて見たあの女の瞳を思い出す。

 硝子のように、ただひたすらに澄んでいて、何も読み取ることができなかったあの不気味な瞳を。




 ちゃきりちゃきりと音が鳴る。血濡れの鋏の音が鳴る。赤い鋏を片手に握り、マスクの女は現れる。

 口裂け女がやって来る。




 赤いロングコートを着た女の前に、その少女は立っていた。高校受験のために親に入れられた塾の帰り路。友達と愚痴を言い合いながら歩いて来て、ついさっき別れたところだった。

「わたし、きれい?」

 マスクを付けた女は少女に問うた。少女は青ざめた顔で女を見上げる。今まで友達と冗談半分に話していた噂の主が、目の前に立っている。

 口裂け女が現れた。数分前までは笑い話だったのに、今は笑うことなんてできそうにない。作りたてのビー玉のような生気のない目が少女を見下ろしている。

「ポマード、ポマード、ポマード!」

 少女の口から咄嗟にそんな言葉が発せられた。口裂け女を退散させる言葉として有名な整髪料の名前。だけど目の前の女は低く笑い声を洩らすと、首を傾げて目を細めた。

「あら、懐かしい……」

 女は言い、そしてコートのポケットから鋏を取り出した。持ち手は真っ赤で、刃の部分は赤褐色に錆びた()(ばさみ)。普通の鋏より大きなそれをちらつかせ、女は再び尋ねる。

「わたし、きれい?」

「なんで!?あなた口裂け女なんでしょ!?どうして逃げないの!?」

 口裂け女の弱点はポマード、誰もが知っている対処法。それなのに女はひとつも怯む様子を見せない。少女はパニックになりながら、女に叫ぶ。

「そう、わたしは口裂け女。他の誰でもない……」

 女は鋏の刃をマスクの紐に引っ掛け、静かにそれを外して行く。現れるのは、耳の下まで裂けた女の口。

「でも、ポマードが苦手だと勝手に決めたのは、わたしではなく貴方達人間じゃない?」

 大きな笑みを浮かべた女は、逃げようとする少女の口に鋏を突き立てた。右の刃は口の内側に、左の刃は口の外側に。女はそのまま、持ち手に力を込める。

 錆びて切れ味の落ちた刃が無理矢理に頬の肉に抉り込み、そして断ち切った。少女の悲鳴と共に血が迸る。口裂け女は満足そうにそれを眺める。

「答えられないのなら、同じ顔になれば分かるかしら」

 少女は痛みと恐怖で答えられない。口裂け女はそんな少女の髪を掴むと、地面に叩き付けた。そのまま顔を掴まれ、動かせなくなる。

 また、あの冷たい金属が口の中に押し込まれた。今度は錆に自分の血が混ざり、むせるようなねっとりとした味が片側を裂かれた口内に広がる。

 口裂け女は愉快そうに笑い声を漏らし、再び両の刃を閉じた。もう片方の頬肉も切り裂かれ、更なる激痛が少女の頭を支配する。

「これで、綺麗になったかしらね?」

 満足げな吐息とともに口裂け女は言った。耳に向かって口の両端を裂かれた少女の顔は、血と唾液と涙にまみれている。裂けた口からは嗚咽が漏れ、ごぽごぽと音が鳴っている。

 口裂け女は鋏を振り上げる。血と脂に塗れたそれは街灯の光を反射して鈍い輝きを放つ。

 そして口裂け女は少女の左目に向かって、鋏のさっ先を振り下ろした。



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