表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第三二話 幸せの白い球
129/206

三 もう一度立ち上がれる

 大崎が自宅であるマンションの扉を開けると、妻である舞が出迎えてくれた。夜に試合がある日はどうしても帰宅が深夜になってしまうが、いつも起きて待っていてくれていることには感謝せねばなるまい。

「お疲れ様」

「ありがとう」

 大崎はそう言い、笑い掛ける。幼馴染だった彼女とは、舞が大学を卒業してすぐに結婚した。妻を不自由させないぐらいにはプロ野球選手として活躍できるようになったことについては誇りに思っている。

「明後日からはホームでの試合だから毎日帰って来るよ」

「無理しないでね」

 明日は試合は無いが、明後日からはフォレスツの本拠地である東京での試合が三日続く。移動がなく家に帰ることができると考えると精神的には楽だ。

 大崎はソファに座ると、バッグからたくさんの葉書や手紙を取り出してテーブルに置いた。球団事務所を通して送られてきたファンレターだ。大崎は一枚一枚、それに目を通すようにしていた。

「今日も一杯来たね」

 隣に座った舞が言う。何十枚という数ではあるが、自分を応援してくれる人々が書いてくれている以上は無碍にはできないというのが大崎の信条だった。一枚ずつ手に取り、一文字ずつ目で追って行く。

 そんな彼の目が、一枚の手紙で止まった。そこに書かれている内容が他のものとかなり異なっていたためだ。

 そこには母を亡くしたことで野球をやめてしまった、大崎の大ファンだったらしい弟を元気付けて欲しいという高校生の少女の切実な思いが綴られていた。手紙に書かれた鈴原満春という名前は、その子のものなのだろう。

「そうかぁ」

 そう一人呟くと、舞が大崎の顔を見た。

「どうしたの?」

「いや、この手紙なんだけどさ」

 大崎は妻に手紙を見せる。舞はそれを一通り読んだ後、大崎の手に戻して言った。

「この弟さん、あなたに似てるね」

 大崎は頷く。大崎も子供の頃に母親を失い、男手ひとつで育てられて来た。それだけにこの勇樹という名の少年のことが気になった。

 自分が母を亡くした時はまだ小学二年生で、本格的に野球を始める前だったから野球をやめるということはなかったが、この少年と同じ立場に置かれていたらどうだったかは分からない。

 しかし、好きだったのならこの少年に野球を諦めて欲しくはないという強い気持ちはある。

「この子、あなたの大ファンだって書いてある。だからこんな手紙をあなたに送って来たんだね」

 舞は柔らかく笑い、そう言った。手紙によれば自分と同じセカンドで、自分に憧れて四番打者を目指す少年であるのだという。大崎は少年であった頃の自分を思い出した。自分もあるプロ野球選手に憧れ、セカンドを目指したのだ。変わり者だと言われたこともあるが、ひたすらに打撃も守備も練習して、自分が二塁手を選んだことをどんな人にも納得させられるように努力を積み上げた。

 そんな自分に憧れてセカンドを守る少年がいる。今その立場になれたこと、それだけで嬉しくなる。大崎は手紙を丁寧に畳み、封筒に戻した。

「行ってあげるんでしょ?」

 舞が確認するような言葉で大崎に問う。

「そうだね。俺ができることならやってあげたい」

 舞が大崎に便箋とボールペンとを持って来て大崎に渡した。大崎はその一行目にペンの先を当てる。




 私はアパートの集合ポストに入った手紙を見て、待ち切れずにその場で読んでしまった。その内容に思わずガッツポーズをしそうになって、誰が見ているかも分からないので何とか抑える。

 差出人の名は確かに「大崎秀一(おおさきしゅういち)」。返事が来るかどうかは本当に分からなかった。無視されても仕方がないと思っていた。だけど彼は返事を書いてくれた。しかもその内容は、勇樹に一度会っていただけるというもの。チームの四番を務めるプロ野球選手。プロ野球に詳しい訳ではないけれど、それでも凄い実力やたくさんのファンを持っている人だということは知っている。雲の上の存在だと思っていたから、本当に嬉しかった。

 ケセランパサランのお陰なのだろうか。それなら感謝しなければ、と言っても、白粉をあげる以外に何をすれば良いのかは分からないけれど。

 とにかく弟に伝えよう。きっとまた昔の勇樹に戻ってくれるはずだ。




「良いから、早く来てよ!」

 部屋から出ようとしない弟の腕を引っ張り、私はそのまま家のドアを開けた。春の暖かな空気を感じるとともに見上げる空は清々しい程に晴れており、常に曇っている弟の表情とは正反対だ。

 土曜日だから学校はない。明日も休日だから、普通の中学生ならば自分の時間を自由に使える楽しくて仕方がない日のはずなのに、弟の表情はいつものままだ。

「何だよ姉ちゃん。悪戯はやめてくれよ」

「悪戯じゃないって。手紙見せたでしょ?」

「あんなの、いくらでも捏造できるだろ」

 不貞腐れた顔でそんなことを言う。確かにそれはそうなのだが、自分からは全く行動しようとしない弟に少し苛立って来た。このままで良いはずがない。そんなことは本人が一番分かっているはずなのに。

「いつまでそうしてる気なのよ!」

 私の声に弟が私を睨むのが見えた。それでも私は続ける。今まではただ可哀想だと思って遠くから見ているだけだったかもしれない。しかしもうそれだけでは駄目だ。一度ぐらい説教をかましてやっても許されるだろう。

「お母さんが死んで悲しいのは分かるよ、私のお母さんでもあるんだから。でも、そうやってずっと引き籠ってれば居心地は良いかもしれないけど、それじゃあ何も変わらないでしょ?」

「姉ちゃんに何が分かるんだよ」

「あんたのそんな状態を私も、お父さんも、それにお母さんだって良く思ってないことは分かるわよ!」

 勇樹は何か言おうとして、そして口籠り、目を伏せた。勇樹だってこんな状態は嫌なのだろう。笑顔さえ作れない生活が続くなんて、本人が一番辛いに決まっている。

 だから、そこから一歩でも踏み出せる切っ掛けを与えるのが姉である私の役割だ。

「あんたのことを見捨てる程私は薄情な姉ではないってこと!大丈夫、私たちにはケセランパサランがついてるから」

 私はとりあえず胸を張ってみる。

「何だよ、それ」

 少し笑顔になって勇樹が言った。久し振りに見た弟の笑顔だ。こんな風に最後に一緒に話したのも、遥か昔のように思える。だけどまた戻って来た。

「知らない?毛むくじゃらの白いたま。飼ってる人を幸せにしたり、願い事を叶えてくれるっていう」

「聞いたことはあるけど……」

「とにかく、私がケセランパサラン飼ってるんだから何事も上手く行くようになってるの!ほら、あの公園が待ち合わせの場所だから、行っといで!」

 私は勇樹の背中を押した。本当に大崎選手は来てくれるだろうか。今でも一抹の不安は残る。それでも私は、母がくれたケセランパサランを信じている。母が私たちを助けてくれているような気持ちになって、俄然勇気が湧いて来る。

「よし!」

 私は気合いを入れるように自分の頬を軽く叩くと、次の行動を開始した。




「本当に、ケセランパサランの力だけで上手く行くんでしょうか」

 座布団に胡坐を掻いて座った恒が、縁側から庭に足を下ろす美琴に尋ねた。

「ケセランパサランだけの力ではないわ。その子は、自分も行動を起こしているのでしょう?」

 美琴が首を回して恒の方を見、そして言う。

「恒、ケセランパサランは天から降って来るという話を知っている?」

「ええ、鈴原さんから聞きました。彼女の遠い先祖が最初に見つけたケセランパサランは、空から雪のように落ちてきたと」

 恒の言葉に美琴が頷く。

「そう、あの妖はどんな人間の元にでも現れる妖ではないの。詳しいことは不明だけれど、自分たちの力を悪用しようとしない、心の清らかなものの元にのみ現れると言われているわ。そしてね、あの妖は肉体を維持するのに白粉を食べるけれど、それ以上に霊体を維持するのにある感情が必要なの」

「感情ですか」

「ええ、身近な人間の幸福がね。飼い主が嬉しい、楽しいと思う程ケセランパサランは力を得る。そして飼い主が幸福になるようにその力を使う。そうやって少しずつ霊力と妖力を集め、成長し、子孫を残す妖なのよ。そして、その力を悪用して幸福を得ようとする人間の元には現れない。そんな者たちには遅かれ早かれ破滅が訪れるということを知っているのでしょうね。でも、だからこそずっと昔から人間と共存関係を築き上げることができたのでしょう」

 美琴はひとつ息を吐き、続ける。

「それにね、そうやって人の感情によって生きている妖怪だから、飼っている人間の想いにも影響を受けるの。その子のケセランパサランは、元々は母親の飼っていたケセランパサランなのでしょう?」

「はい、そう言っていました」

「なら、その母が子供たちの幸せを願っていたのなら、ケセランパサランもその想いを継いでいるかもしれないわね。そしてその場合は恐らく、鈴原という子が弟のために行動するのならケセランパサランは最大限にその力を発揮する」

 母から娘へと託された妖は、母の願いと意思も受け継いでいるということか。

「だから安心なさい、恒。ケセランパサランは人の際限のない欲望を叶える妖ではないけれど、本当に強い想いならば、叶えてくれる妖だから」




 今日のチームの集合時間まではまだそれなりに時間があった。大崎はスポーツバッグを片手に歩いている。

 確か公園までの道はこれで合っているはずだ。ちゃんと鈴原勇樹という子に手紙は届いているだろうか。自分のファンだという少年に会うのに、自分が緊張してどうするのだと、一人苦笑する。

 公園の入り口が見えて来た。中を覗いてみると、小学一、二年生ぐらいの子供たちがサッカーをしている他には人影が見えない。

 やはり来なかったかと少し落胆しつつ、それでも遅れているのかもしれないと公園に入ってみる。すぐに諦めるのは何事においても好きではない。

 すると、丁度反対側の入り口から入って来ようとしている少年の姿が見えた。歳は十代の前半だろう。そしてその思いつめたような表情が、大崎に彼が鈴原勇樹だということを確信させた。

 地面へと目を向けたまま歩いている勇樹は、まだ大崎に気付いていないようだ。大崎は少年の方へ自分から近付いて行き、そして声を掛けた。

「鈴原勇樹君かい?」

 勇樹は顔を上げ、そして目を見開いた。彼の方こそ本当に自分が来るとは思っていなかったのかもしれない。大崎は微笑んで勇樹に右手を差し出す。

「初めまして。大崎秀一です」




「まさか本当に大崎選手が来てくれるなんて思いませんでした」

 公園のベンチに座った勇樹が言った。その足がそわそわと落ち着かないように揺れている。大崎はできるだけ気さくな声で勇樹に語りかける。

「うん、君のお姉さんから手紙をもらってね。勇樹君を元気づけて欲しいと」

「それで、来てくれたんですか?」

 少しだけ笑顔になって勇樹が言った。大崎は頷く。

「俺もずっと昔母親を亡くしているから、他人事には思えなくてね」

 大崎は空を見上げ、そして自分の過去を頭の中に浮かべながら話し始める。

「まだ小学校の低学年の頃でさ。俺も何もやる気が無くなって、一度野球をやめようかとも思ったよ。だから野球が俺を救ってくれたなんて格好良いことは言えないけどね。でも、周りの人たちのお陰で俺も立ち直れた」

 大崎は思い出す。自分に野球を教えてくれた父親や、あの頃から隣に住んでいて、幼馴染だった舞、そして同じ少年野球チームにいた仲間たちに励まされて何とか立ち直った。

 この少年には母親の死からすぐに生活の場を変えなければならなかったことも影響しているのだろう。母親だけでなく、家族以外の親しい人々と離れねばならなかったのだろうから。

「それでこうして今まで野球を続けて来れたけれど、俺はそれを感謝しているよ。母さんが死んでから初めてボールを握った時、俺はやっぱり野球が好きだったんだと思った」

 大崎はバッグから一つ白球を取り出し、それを勇樹に見せる。

「偉そうなことを言うつもりはないけど、たった一つのボールが誰かを喜ばせたり、幸せにすることもできるんだ。このボールがバットに当たり、スタンドに向かって飛んで行くとき。投げられたボールがキャッチャーミットに吸い込まれ、打者を三振に取った時。そのプレーひとつひとつで人を、何より自分を楽しませることができるんだ」

 大崎は勇樹の手に白球を乗せた。勇樹はゆっくりとそれを握る。

「君もそれを思い出してくれれば嬉しい。そして、その楽しみを伝えるのもプロ野球選手としての俺たちの役目でもある」

 ボールを見つめていた勇樹が大崎に視線を向け、大崎はかつての野球少年に笑い掛けた。

「今日の試合、見ていてくれよ。きっと君がまた野球を始めても良いと思うような、そんなプレーをして見せるから、期待していて欲しいな」

 大崎は言い、立ち上がった。そろそろ行かなければチームの集合時間に間に合わない。

「あの、ありがとうございました!」

 勇樹がそう頭を下げる。大崎はその肩にぽんと手を置いた。

「これも俺の仕事だよ。それに、君だってその白球で、自分や家族、それに他の人たちを幸せにできる可能性を持っているんだから、胸を張って生きなさい」

 大崎はそう言い残し、照れ隠しのように一度だけ親指を立ててから出口に向かって歩き始める。

 似合わないことを言ってしまった気がして少し気恥ずかしい。しかしあの少年の目の奥はまだ死んではいなかった。きっともう一度立ち上がれるだろう。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ