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黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第三二話 幸せの白い球
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一 ケセランパサラン

 その日、数か月前から間病気で寝たきりだった母が、珍しく起き上がっていた。お医者さんにはもう長くは無いと言われていたから、久々に母親の立った姿を見た私は喜びつつも心配した。無理をしたらすぐにでも死んでしまうのではないかと、そう思ったのだ。

 しかし母は大丈夫という風に優しげに笑み、私を自室に呼んだ。春の日差しが届く明るい和室の中で、私は母の座る襖の前に同じように座る。陽の当らないその部分の畳は少し冷たく、しかし心地良い。

 母はそこに正座し、そっと押し入れの襖を開ける。そしてその奥から何か穴のあいた桐の箱を取り出し、娘に見せた。


第三二話「幸せの白い球」


「これはなに?」

 私がそう尋ねると、母は苦しそうに息をしながらも微笑して答えてくれた。

「ケセランパサランと言ってね。うちでは娘が嫁入りするときに母から娘へ渡すのが決まりになっているの。私も結婚するとき、おばあちゃんから渡されたのよ」

 私は桐の箱を受け取る。何か入っているはずのそれは少しだけ重く、質量のあるものが入っている訳ではないようだった。蓋にいくつか小さな穴が空いている。

 ケセランパサランという名前ぐらいは聞いたことがあるけれど、あれは人の願いを叶える白い毛玉がいるという都市伝説ではないのだろうか。そう言うと、母は曖昧に頷いた。

「そうね。ケセランパサランは飼っている人に幸福を与えてくれる生き物だとお祖母ちゃんは言っていたわ。月に一度、白粉(おしろい)をあげるだけで良い。ただし、一年に一度しか見てはいけない。そうしないと、幸せは逃げてしまうと言われているのよ」

 娘は半信半疑で桐の箱と母とを交互に見る。この中に本当に生き物がいるというのだろうか。だが、病に伏している母が手の込んだ悪戯をするとも思えない。

「信じられないのなら、見ても良いわ。ただし来年の今日が過ぎるまで、もう一度は見られないけれど」

 母が言った。私はそっと桐の箱の蓋を開ける。そこには確かに白いマリモのような物体。ふわふわとした綿毛を隙間なく生やした球体のような姿をしたそれは、四センチほどの大きさがあり、良く見れば箱の中をゆっくりと移動しているようだ。少し可愛いと思ってしまう。

 だけど本当に生きているのだろうか。そうだとしても、これが幸せを呼び込むようには思い難い。

「信じられないかもしれないけれど、私はこの子が幸せを呼んでくれたと信じているの」

 母は桐の箱に蓋を被せ、息を継ぎながら話し始める。

「お母さんは小さい頃から体が弱くてね。子供なんて産めないと言われていたわ。でもこうしてお父さんと結婚して、あなたと勇樹を授かることができた。それにこんなに大きくなるまで一緒にいることも」

 母が私の髪を撫でる。私は不安になって母を見つめる。

「お母さん……?」

「まだあなたはお嫁に行くわけではないけれど、このケセランパサランを渡しておきたいの。今日じゃないと、きっともう二度とあなたにこの子を渡す機会は無くなってしまうから」

「そんな、もう死ぬみたいなこと言わないでよ」

 私は潤み、熱を帯びた目で母を見、そして訴えるが、母は静かに首を横に振った。それが意味することを悟り、私の頬を涙が伝う。

「あなたも勇樹も、私と違って強い体に生まれてくれたこと。それも幸運だったと思う。そしてケセランパサランもね、長く世話をしてあげていると子供を生むの。本来はその子供を娘に渡すのが正しいのだけれど、私にはもうそんな時間はないみたい」

 母の言葉ひとつひとつが私の胸を締め付ける。病身である母が一番、自分に残された時間がどれ程なのか分かっているはずなのだ。

 母は私の頬を流れる涙を冷たい指で拭い、言う。

「だから、いつかあなたも自分の娘ができたとき、このケセランパサランから生まれた子を、私の孫になる子に渡してあげてね、約束よ、満春(みはる)

 母は力なく笑い、そしてそれから一週間の後、永遠の眠りについた。


 照明によって照らされた、緑色に光る人工芝の敷かれたフィールド、その地面引かれた白線の内部に、同じユニフォームを着た男たちが立っている。上部は高い天井によって覆われていて空は見えないが、現在の時刻は夜八時を回ったところだった。

 フィールド上の選手たちはそれぞれ同じ青い帽子を頭に被り、片手にはグローブを嵌めている。青を基調とするユニフォームを着た彼らはプロ野球チーム、神奈川オルカスの選手たち。六回の表、オルカスは守備についている。

 応援、罵声、嬌声、様々な声が飛び交う観客席と、実際に選手たちが立つフィールドの空気は厚い壁を隔てたように異なっている。選手たちはぴりぴりとした緊張感の中、次の打者を待っている。

「四番、セカンド、大崎」

 ドーム内の空気にそのアナウンスの声が伝わり、そして観客席からは歓声の雨が降り注ぐ。バッターボックスに入るのは深緑を基調としたユニフォームのプロ野球チーム、東京フォレスツの若き主砲、大崎秀一。

 フォレスツの若き主砲はプレッシャーを追い出すように肺の中の空気を吐き出した。

 現在、オルカスとフォレスツの点差はオルカス一点、フォレスツ〇点の一点差。オルカスが二回の裏に奪った一点を守ったまま六回まで来たという状況だった。

 現在の走者は一塁に一人。大崎の二つ前を打つ二番打者、松野がセンター前へのヒットで出塁し、続く三番打者が三振に倒れた形だった。

 大崎はマウンドに立つオルカスの投手、睦田は左腕で額の汗を拭うのを見る。二三歳の若造ではあるが、今年からフォレスツの四番を任されている身だ。睦田も六回までのフォレスツの打線をヒット二本に抑えている好投手だが、それだからと言って諦めるつもりはない。大崎はバットを握る手に力を込め、構える。

 睦田は捕手のサインに頷いたようだった。片足を上げ、そして右腕をしならせる。指先から白球が離れ、回転しながら真っ直ぐに飛んで来る。

 内角低めへの直球だ。大崎は左足のスパイクでバッターボックスの土を削ると、思い切りバットを振り抜く。その芯にボールが当たり、高い音が球場内に響いた。


「打った!これは大きい!左中間を抜ける長打コースだ!」

 テレビの向こうでアナウンサーが興奮した様子で実況している。白球はライトとセンターの間を二回バウンドして転がり、フェンスに当たって跳ね返った。

 その球が返って来る間に一塁のランナーが本塁に帰り、大崎は三塁へと進んだ。四番の一打にして同点となり、そして逆転のチャンスとなったことになる。観客達が一気に沸くのがテレビ越しにも伝わって来た。

「この緑色の方が恒ちゃんの好きなフォレスツって奴やったっけ?」

「うん、さっきからそう紹介されてるじゃない」

 頬杖をついた小町の質問に恒が答えた。夕食後の美琴の屋敷の居間では、恒と小町がテレビで流れる野球中継を、美琴がひとり座椅子に座って本を読んでいる。

「スポーツは良く分からへんのよ~」

 小町はそう言って、小さく欠伸をする。恒はその様子を眺めながら小町は昔から運動神経は抜群だったことを思い出す。妖怪なので当たり前なのだが、それで色々なスポーツクラブや部活に誘われていたにも関わらず小町は一度もそれに従ったことはない。中学、高校では茶道部に入った。

 理由を聞いたこともあるが、わざわざ人と競い合うのが面倒なのだそうだ。恒自身もそれはあまり好きではなかった。今は部活には入っておらず、余った時間はアルバイトをして過ごしている。

 テレビでは、丁度続く五番打者がヒットを打ってフォレスツがオルカスを逆転したところだった。相変らず興奮した声でアナウンサーが実況している。

「野球って人気ありますねぇ、美琴様」

 小町が本の間に栞を挟もうとしている美琴に間延びした調子で言う。美琴が小町に視線を移す。

「そうね。明治時代にはもう広まっていたから、日本には馴染み深いスポーツなのでしょう」

 美琴は閉じた本を卓袱台の上に置いた。

「そういえばサッカーやテニスはあんまり蹴球とか庭球とは言わへんのに、野球は日本語どすね」

 野球を見るのに飽きたのか、小町がのんびりとした口調でそんなことを言う。

「テニスもこの国に入ってきたのは野球と同じ頃なのよ。ベースボールを野球と訳した中馬庚ちゅうまんかなえ)という人は、テニスは庭でやるから庭球、野球は野原でやるから野球と説明したらしいわ。その前はそのままベースボールと呼ばれていたのに、今では野球と呼ぶ人がほとんだと思うと、言葉の力というのは大きいわね」

「ほ~。明治時代はまだ私良く知らないどすけど、美琴様はその時代を生で見とるんどすものね」

「色々大変な時代だったわ。あの頃は」

 そんな女性二人の話を聞きながらも、恒の視線はテレビ画面に向けられている。試合は六回裏のオルカスの攻撃に移り、逆転された一点を取り返そうと先頭打者がバットを構える。

 野球経験は草野球とも言えない、ただ近所の子供たちと集まって試合に似た何かをしたぐらいのものしかないが、ルールは知っていた。

 野球を見始めたきっかけは、祖父が東京フォレスツのファンだったからだ。自分たちの地元である東京に本拠地を置いていたためだろう。あまり強い球団とは言えなかったが、恒も祖父に倣っていつの間にかフォレスツを応援していた。

 そこまで熱心なファンという訳でもないけれど、こうして試合を見ていると祖父と一緒にテレビに向かって応援していた小さな頃を思い出す。祖父の膝の上に乗せられて、読めない選手たちの名前を教えてもらって、緑色のユニフォームを着た選手たちが守り、攻めればビールを飲みながら喜ぶ祖父を見て喜んでいた。

 懐かしい気分に浸りながら、恒はテレビ画面をぼんやり都眺めている。


 父が一度手を叩いたということは、テレビの向こうで野球の試合に何か変化があったのだろう。

 私は洗剤の付いた皿を水で注ぎながらそう思った。母が死んでから一年近く。それに母が病気を患った時からずっと任されているから、もう家事をすることには慣れた。

「おーい勇樹、お前の好きな大崎選手出てるぞー」

 父が弟に向かってそう呼びかける。それから一分ほどして、弟の部屋のドアが静かに開いた。中から沈んだ表情をした弟が現れ、私の方をちらと見た後、重い足取りで名前を呼ぶ父の方へと歩いて行く。

 母が死んでから弟はずっとこの調子だった。今ではもうかつての明るい弟の様子を思い出すのにも時間がかかるようになってしまった。

 一年前までは宮城県の仙台市で暮らしていた私と弟は、母の死を切っ掛けにして父の出張先である東京に引っ越して来た。生まれた時から宮城で暮らしていたから、その環境の変化によるものもあるとは思う。しかし、やはり弟を変えてしまった一番の要因は母の死だろう。

 病弱で最後の数か月はほとんど寝たきりだったとは言え、私も母が死んでしまった時は今までにない程胸が苦しくなった。私を高校生になるまで育ててくれた、そして昨日まで一緒に話し、笑っていた人がもう動かないという現実を認めたくなくて、家を出るために引っ越しの準備を始めた時に不意に母がいない実感が沸いて来たのを覚えている。

 私より二つ下の弟は尚更に悲しかったのたろう。勇樹は母が起きられないようになってからは、良く世話をしていた。そして、朝方冷たくなった母を発見したのも勇樹だった。そのショックは私が想像できるようなものではないのかもしれない。

 それからというもの、弟は笑うことさえもほとんどなくなってしまった。こちらに越して来てからの友達もいないようで、学校が終わればすぐに家に帰って来て部屋に籠っている。

 洗いものを終え、私は父と弟が座るソファに並んで座った。テレビ画面には七回表という文字が書かれている。父の言っていた大崎という選手の活躍は、とっくに終わったようだ。

「どうだ、また野球やってみる気はないのか?」

 父がそう尋ねるも、勇樹は虚ろな目で画面を見つめているだけで何も答えない。昔は私には良く分からないほど、体を乗り出して野球中継に夢中になっていたはずなのに。

 勇樹は小学校に入った頃に地元の野球チームに入団し、野球をしていた。最初は人気のあるピッチャーを志望していたようだけれど、体があまり大きくなかった弟は他の子たちに身体能力で敵わず、代わりにそのすばしっこさを買われてセカンドを任されるようになったと聞いている。

 最初は弟はそれが不満だったようだ。体が小さいというだけでどうしてピッチャーを諦めなければならないのだと、良く母や父に愚痴を言っていたのを覚えている。そんな勇樹の意識を変えたのが大崎という選手だった。

 彼が世間に知られるようになったのは七年ほど前、まだ高校二年生の時だった。当時北海道の高校の野球部に所属していた彼は甲子園に出場し、守備の負担が大きいセカンドをこなしながら四番打者を担っていた。

 その姿が、小学生だった勇樹の憧れとなった。甲子園では惜しくも準優勝で終わったが、弟は自分と同じ守備位置であり、四番という大役を担う大崎選手の大ファンとなって彼を追い続けた。

 その後大崎選手は東京フォレスツに入団し、勇樹もそのままフォレスツのファンとなった。いつか、自分もセカンドでありながら四番を打てるような、そんな選手になるのだと私に目を輝かせて言っていた。

 その面影は、もう勇樹にはない。あんなに好きだった野球も、引っ越して来てからはやめてしまった。野球道具は納戸に眠っている。

「勉強するから」

 無機質さを感じさせる声で弟は言い、ソファを立った。父と私は声をかけることもできず、その寂しそうな背を見つめる。

「どうしたら……良いんだろうなぁ」

 父が持っていたビールの缶を置き、そう沈んだ声で言う。私も父も、弟の傷は時間が癒してくれるものだと考えていた。しかし一年近く経つのに、勇樹は変わらない。母が死んだ日のままだ。

「野球をしてる勇樹、また見たいね」

 私が言うと、父は口を結んだまま頷いた。

 やがて野球中継が終わると、父が立ち上がり、寝室へと向かって行った。明日も仕事だ。もう眠るのだろう。

 私は誰もいなくなったリビングの中で、一人座っていた。リモコンの電源ボタンを押すと全ての音が消え、急に寂寞とした雰囲気が部屋を包む。それが嫌で、私はリビングの電気を消して自分の部屋へ向かった。

 仙台にいた頃より少し狭くなった部屋の中で、私は小学生の頃から使っている学習机の引き出しを開く。そして筆記用具や小物が並ぶ中から穴のあいた桐の箱を取り出した。

 母が最後に私にくれた、言わば形見とも言えるもの。この中には、白い毛玉のような生き物、ケセランパサランが住んでいる。

 母はこの生き物は幸福を呼ぶのだと言っていた。その効果なのかは分からないが、私はこちらに来てすぐに友達もできたし、母の死も乗り越えることができた。だけれど、最近は私が弟の幸福を奪ってしまっているのではないかと、そう思うことがある。

 弟が得るはずの幸せを私が享受してしまっているのなら、そんな幸福はいらない。

「ねえ、そうなの?」

 私は桐の箱に向かって問いかけるが、ケセランパサランが答えることはない。

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