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黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第三一話 悪魔の戯れ
124/206

二 甦る大妖たち

 四日後、それらは同時に動き始めた。悪魔によって与えられた妖力を吸収し、地に封じられた妖たちはその怨嗟を糧に甦る。




 東北、宮城県。山中において木々を薙ぎ倒し、現れる獣の怪物。全身は白い毛で覆われ、唯一毛の生えていない皺だらけの顔は猿のようで赤い。腰を曲げたようなその姿勢は一見老婆のようにも見えるが、その身の丈は三メートル以上ある。

 低い咆哮とともに吐き出されるその息は濁り、不快な匂いを撒き散らしている。その息に混ざるは人の体を蝕む病の気。かつてこの地に疱瘡、つまり天然痘を流行らせ、その死肉を食らったと伝えられる妖怪、疱瘡婆(ほうそうばばあ)。江戸時代、陸奥国(むつのくに)で暴れ、そしてこの地に封ぜられた。

 辺りには食糧となる人の姿はない。怪物は飢えと怒りのために闇雲に病の気を撒き散らし、障害となるものを力任せに破壊する。

 そんな疱瘡婆を前にじっと立つ三つの影。その真ん中に立つ雪姫は袖の内より短剣のようなものを取り出した。

 自身の肌と同じように白一色に彩られた柄と、氷のように透き通る刃。その武器を一振りすると、剣の刃の下部に連なるようにして小さな刃がいくつも現れ、剃刀状の鞭と化したその武器の先端が地面に触れた。

 四日の時のうちに人払いの結界を広く張ってある。余程のことがない限り人がこの近くに現れることはないはずだ。雪姫は甦った妖を睨む。

 彼女の横には三叉の槍を握る河郎と、疱瘡婆と同じぐらいの丈を持つ鬼が立っている。三吉鬼という名のその鬼は、左の掌に右の拳を叩き付けた。

「疱瘡神の一種か?」

 三吉が問う。だが、雪姫は静かに首を横に振った。

「あんなものは神ではない。ただの、獣」

 白い指に握られた氷の鞭がしなり、伸びる。その横で三吉は短く笑った。

「なら、犬も赤いもんもいりゃせんな」




 関東、群馬県。地響きとともに大地に切り立った岩を割り、現れる巨人の姿。その大きさは八束脛(やつかはぎ)と名付けられる元となった、膝から足首まで八掴みする程の長さの(すね)という大きさを遥かに超えている。

 濁った瞳で地上を見渡しながら、八束脛は岩から体を引き出す。かつて人に追われ、洞穴の中で孤り封じられた妖怪。巨人は近くに転がった岩を持ち上げると、それを地面に向かって投げ付けた。

 その岩にぶつかり、粉々に砕く無数の黒い髪。その破片の向こうには髪を伸ばした朱音と、そのすぐ側に立つ美琴、良介の姿がある。

 月夜を背に巨人は唸り、三人の妖を睨みつける。

「大きいですね。詩乃さんやひさめさんを呼んで来た方が良かったんじゃないですか?」

 朱音が髪を縮めながらそう言った。だが美琴は首を横に振る。

「確かに大きいけれど、これぐらいなら私たち三人で十分でしょう。行きましょうか」

 美琴が太刀を抜く。同時に八束脛も拳を振り上げた。




 東海地方、愛知県。旋風(つむじかぜ)と共に現れる四メートルほどの大男。その風に当たった木々は枯れ、倒れて行く。男はそれを見て笑い声を上げながら尚も風に乗って走る。

 夜の闇の中で百の鏡を重ねたように目が爛々と光を放ち、風の中のそれは火の玉が不気味に浮かんでいるようにも見える。

 封印から逃れたこの妖、山都(みこしにゅうどう)にとって、目に見える生き物は皆獲物でしかなかった。何者かによって封印が解かれたのかは分かるが、その者に与えられた妖力では足りぬ。犠牲となる人が必要だった。生物に病を引き起こさせる妖気を混ぜ込んだ風を吹き散らし、尚も走る。

 だが、その疾走を阻むものがあった。突如として目前に現れた岩の塊によって山都は走りを止めざるを得なくなった。

 もうすぐ人がたくさんいる里へと辿り着くことができるのに、何やら邪魔が入ったようだ。苛立たしげに山都は呻き声を漏らし、拳でその岩を砕く。その先に見えるは明りに包まれる人の町と、そして目の前に立つ男女二人の妖。

「何だぁ貴様らは」

 禿頭の入道はそう声を上げ、妖を睨む。そしてその腕を振って風を妖にぶつけようとするが、その風は隻眼の男、禰渡(ねわたし)の前で突風に吹かれたように雲散した。

「これより先に行かせる訳にはいかんのでな」

 片目の妖は言い、己の倍はある山都を睨みつける。

「たった二人に何ができるか」

 入道はそうせせら笑う。だが、それを挑発するように美祢が笑みを浮かべた。

「あら、試してみる?」




 近畿地方兵庫県。現在は舗装され、道路となってしまった和坂(かにがさか)と呼ばれる坂の下において、突如として大地が陥没して池が生じた。その水面を突き破り、巨大な黒い鋏が現れる。

 甲羅に覆われたそれは金属音のような音を鳴らし、続いて池の中から巨大な蟹の妖が姿を見せる。

 数百年振りに外の景色に晒された、甲羅の前部から飛び出た二本の複眼がまず捉えたのは、前方に立つ妖たちの姿だった。両開きの扉のような口から空気が漏れる。

 闇夜の中、ぼんやりとした光を纏う玉藻前(たまものまえ)と、その隣に立つ晴明。後ろには芸妓のように足元まで垂れた帯で赤い着物を締めた、若い女の人間の姿をした妖狐、お(さん)と、僧衣を身に纏い、錫杖を手にした老人の人間の男の姿をした妖狐、白蔵主(はくぞうず)が立っている。

「あれが千年以上前にあたしらの同族を殺したっていう蟹ですね、みすず様」

 お三は両手に(けん)と呼ばれる、外側が刃となった直径三十センチほどの金属の輪を握っている。

「はい。しかしそれを恨んでも仕方がありませぬ。今大切なのは、この地に住む方々が傷付かぬこと」

 玉藻前は両の手に薙刀を握る。敵意を察知して大蟹も行動を開始した。池の中から次第にその巨体が露わになる。

 体長は十メートルほど。振り回した両前足の鋏はいとも簡単に街路樹や電柱を切り裂き、薙ぎ倒す。

「争いは好みませぬが、(わらわ)にはこの近畿の妖も人も守る義務がある」

 薙刀の刃が山吹色の妖気を帯びる。玉藻前は大蟹を見上げた。




 中国地方、岡山県。雨が降りしきる中、川中より赤い目を光らせる青い鱗の大蛇。その頭部には二本の角が背に向かって傾く形で生えている。濡れた鱗はぬめぬめと鈍く輝き、二十メートル近い巨体が川から岸へと上がる。

「おお、おお、派手に出て来おって」

 笠を被った悪五郎は忌々しげに言い、大蛇を見る。横のおふじが暗闇の中、目を黄色に光らせながら悪五郎に尋ねる。

「総大将、あれが神話の時代に現れたって言う……」

「そうじゃ、(みつち)じゃ。大人しく眠っときゃあ良いものを」

 悪五郎は笠をすぐ後ろにいる小坊主のような妖怪に手渡した。

「チロよ、あいつのことはどう思う?」

 チロと呼ばれた妖怪、ちんちろりは虬をじっと見て、そして言う。

「あれは弱きものじゃ」

「じゃろうな。わしもそう思う」

 悪五郎は不敵な笑みを見せ、打刀(うちがたな)を抜く。銀の刃に雨粒が切り裂かれ、弾け飛んだ。




 四国地方、高知県。山を崩して現れる巨大な怪物。その姿は三つの目のある円形の体から、八つの太い触手のようなものが伸びているというもの。それぞれの触手の先には歯の生えた口のような器官があり、顔のようにも見える。

三目八面(みつめやづら)とは、尤もな名前を付けるもんだ」

 金長(きんちょう)は狸の姿で直立し、そう言った。それ自体が小さな山にも見えるほど巨大な三目八面だが、長期間封印されていたせいか動きは鈍い。

「こりゃ先代に感謝だな、三助」

「その名前で呼ぶのはやめてくれ」

 同じく狸の姿で玄翁と呼ばれる鉄の槌を肩に担いだ隠神刑部狸(いぬがみぎょうぶだぬき)、三助が言った。

 三目八面は先代の隠神刑部狸、つまり三助の父によって封じられた過去がある。あの戦いには三助も参加したが、何人もの同胞がこの化け物が伸ばすあの口によって食われてしまったのを覚えている。

 あの時は封ずることで限界だった。だが、今はそのお陰で弱っている。三助は玄翁を握る両手に力を込めた。




 九州地方、熊本県。淵の中から泡とともに浮き上がる、濡れた髪の女の姿。だがその腹部から下は蛇のように細長く、吸盤のような器官が並んでいる。肌は細かな鱗に覆われ、虚ろな目が淵の側に立つ妖たちを捉えている。

「イデモチ……、これを選ぶとは厄介なことをしてくれたな」

 淵の側に立った海松橿(みるかし)が淡々とした調子で言い、横の瀬菜乃(せなの)が頷く。

「淵の中で大人しくしていればこちらからは干渉しませんのにね」

「ああ。しかし異国の悪魔が干渉したとも聞いている。ならばもう一度淵に沈めるしかないだろうな」

 かつてこの淵の支配者として多くの妖や人を襲い、その生気を食らったと伝えられる妖怪。イデモチが淵の中から吸盤の付いた蛸の足のような尾を伸ばし、二人に向かって薙いだ。海松橿と瀬菜乃はほぼ同時に跳んでそれを避ける。

「さて、始めるか」

 海松橿は背に負っていた和弓を掴んだ。




 光に満ち、地が雲のような白い気体に覆われた世界。天宇受賣(あまのうずめ)は鏡の中に写し出される地上での戦いを見ている。

 時を同じくして現れた七つの強大な妖と、それぞれの地方に繋がる異界の長たちが戦っている。

 あの妖怪たちは、彼らに任せれば心配はないだろう。残る問題は一つ。あの妖たちを蘇らせた異国の悪魔。

 七体の妖たちは皆同じ妖気を僅かに発している。赤黒く、悪意を具現化したように不快な妖気。これが恐らく悪魔の妖気であろう。

 神鏡は様々な景色を写し出す。そして最後に写し出されたそれは、黒い洋装の男の姿。あの妖気を元にこの鏡が導き出したものだ。恐らくこれがあの悪魔、メフィストフェレスに間違いはないだろう。

 西洋の悪魔をこの国で好きにはさせぬ。そう考えた時、鏡の内に悪魔とは別の妖たちが写り込んだ。その最も前に立つ、二本の打刀を差した鬼の姿。

 天宇受賣は興味深そうにそれを見つめる。




「この国のデーモン、いやゴブリンですか、貴方達は」

 悪魔は嘲りを混ぜた声でそう茨木童子に尋ねた。だが、彼に対峙した茨木は表情を変えず、左右の腰に差した刀を抜いた。

「異国の言葉は知らぬ。だが、貴様の存在は気に入らん」

 妖も人もいない荒廃した異界、広がるのはただ岩肌と砂地のみ。各地方の妖たちが戦っている隙を突き、更なる行動を起こそうと異界を移動していた悪魔の前に鬼たちは現れた。

 茨木童子の後ろには刀を逆手に持った鬼童丸、竹筒を持つ朱雀門の鬼、そして眠気を抑えたような表情をした清姫がいる。

「貴様、この国の妖たちを目覚めさせているようだな。目的は何だ?」

「目的?そんなものはありませんよ」

 言葉を区切り、悪魔はわざとらしく顎に手を当て、上に視線を向けて考えるような仕草を見せる。

「強いて言えば、それでこの国の民が嘆き、悲しみ、混乱する様を見ることでしょうか。その結果がどうなろうと別に構いません」

 西洋の悪魔は満足げに笑う。だが、茨木の握る刀は灰色の(いかずち)を纏う。

「他のものたちがどうなろうと構わぬが、この国ごと好きなようにされるのは気に入らんな。俺たちにも障りがある」

「同感だな」

 茨木の言葉に朱雀門の鬼が頷く。メフィストフェレスは甲高い笑い声を上げる。

「ならば、貴方達にも付き合っていただきましょうか、私の戯れに。ジャバウォック!」

 メフィストがステッキで地面を叩くと、その部分から赤黒い妖力の沼が広がって行った。そしてその沼は泡立ち始め、直後妖気を突き破って西洋の竜が現れる。緑色の体色に燃えるような眼をした、細長い体の魚のようにも見える頭部を持ったそのドラゴンは翼を広げ、鋭い爪を振り上げた。

「なんだよこの間抜け面は」

 鬼童丸は言い、振り下ろされた爪を後ろに跳んで避けた。狙いを外したその爪は簡単に岩を切り裂き、大地に食い込む。まともに食らえば怪我は免れない。

「見た目で油断しない方が良いようだな」

 茨木が言い、刀を振った。ジャバウォックと呼ばれたドラゴンはその斬撃を避けるために飛び上がり、そして蝙蝠のような翼を羽ばたかせて空へと逃げる。

「羅城門、さっさとそやつを倒せ。その間こやつの相手は私がする」

 朱雀門の鬼はメフィストフェレスを前にそう言った。茨木は頷き、清姫と鬼童丸と共に空に留まるドラゴンと対峙する。

「一介のゴブリンごときが、悪魔である私を止められるのですか?」

 メフィストフェレスは甲高い声でそう朱雀門の鬼に笑いかける。そして、胸ポケットから一枚のカードを取り出した。

「Hansel und Gretel,avaritia」

 ドイツ語で『ヘンゼルとグレーテル』をラテン語で「強欲」を表す言葉を囁かれた悪魔のメルヘンカルタは、言霊を具現化してマントを羽織り、黒いフードを目深に被った老婆の姿へと変化する。悪魔のメルヘンカルタは七つの童話にキリスト教の七つの大罪を象徴させた七枚のカードであり、メフィストによって作られた呪具。具現化されればそれぞれの悪を解放する。

「甘い、甘いお菓子のお家に興味はないかい?」

 老婆はそうしゃがれた声で尋ねる。朱雀門の鬼は無視しようとするが、その言霊は鬼の霊体を揺さぶる。不意に何もしなくても良いという欲望に駆られ、何とか押しとどめる。

「奇妙な技を使う。ならばこちらも」

 完全に霊体が支配される前に朱雀門の鬼は竹筒の栓を抜いた。中身の液体を地面に撒くと次第に形を取り、大きな猪の姿と化した。荒い鼻息を上げ、猪は蹄で地面を叩く。

「そんなものを出したところで、言うことは聞きませんよ?」

 メフィストフェレスは笑んだままに言う。この周辺はメルヘンカルタによって呼び出されたヘンゼルとグレーテルの悪役、魔女によって支配されている。強欲を象徴するこの魔女の力により、霊力の弱いものは欲望に従うこととなる。そしてここでメフィストフェレスが命じた欲望は、しがらみから解き放たれ、全てをやめてしまえば良いというもの。霊体さえ抗えないようにしてしまえば肉体も動けはしない。

 だが、鬼の竹筒より現れた猪はそうはならなかった。一度体を大きく震わせ、真っ直ぐに魔女に向かって突進する。

「それは、霊体があるものならばだろう?」

 中国神話に現れる怪物、豕希(ほうき)を模して造られた鬼の傀儡(くぐつ)は、その鋭い牙で魔女を突く上げ消失させた。カードに戻ったメルヘンカルタが地面に落ちる。

「ほう?」

 悪魔は興味深そうに首を傾げ、そう呟く。




「気ぃ付けろ~。あいつの息にゃ毒があるぞ」

「そういうことは!初めに言ってくださいよ!」

 悪五郎の声に正面から飛び掛かろうとしていたおふじが急ブレーキをかけ、横に跳んだ。その直後大蛇は咆哮を上げ、白い息を吐き出す。辺りに異臭が漂い、草木が一瞬にして朽ち果てる。

 雨の中、飛沫(しぶき)を散らしながら襲い来る大蛇。その尾が日影郷(にちえいのさと)領主を打つが、彼の体は瞬時に液体化し、衝撃を受け流した。

「神話の時代の化け物が。今更好きにできると思うとったら大間違いじゃぞ」

 再び老人の姿へと戻った悪五郎は言い、刀を振う。だが、巨体の割に素早い虬の体を捉えることができず空を切る。

 虬の現れた川からは虬を小さくしたような青い鱗の蛇たちが何匹も現れ、地を這っている。小さいと言っても五メートル以上はあり、どれも牙の生えた大口を開けて妖たちを丸呑みにしようと迫って来る。

「何匹いるんですかこの蛇!」

 鋭い爪の生えた手を振り回し、蛇の体を引き裂きながらおふじが言った。爛々と光る目は苛立ちで血走っており、両手は土砂降りにも関わらず血に赤く染まっている。

「あのでかいの叩かんと無理じゃな。あいつの妖気から生み出されとる」

「じゃああれ早く倒してくださいよ総大将!」

 アッパーで蛇の顎を打ち砕きつつおふじが悪五郎に言った。悪五郎は腕を組み、考えるように目を瞑っている。背後から虬が彼にが迫るが、それはチロの殴打で狙いを逸らされ、頭から濡れた地面に突っ込んだ。

「仕方ない。あれで行くしかないか。おふじ、チロ、時間稼ぎ頼むぞ」

「分かりました、よ!」

 起き上がった虬の攻撃を跳んで避け、おふじは空中で妖力を開放した。灰色の毛に覆われた化け猫の姿へと戻ったおふじは、雨の中を疾走する。

 人の姿をしていた時の何倍もの速さを得たおふじが走る。その駆け抜けた後には切り裂かれた蛇たちの残骸が残り、おふじはそのまま虬へと突っ込み、跳び上がった。

 擦れ違い様に虬の体を爪で抉り、牙で噛み付く。致命傷は与えられないが、大蛇の注意はおふじに向いたようだった。怒りの咆哮を上げ、おふじを殺そうと頭と尾を振り回す。だが猫の素早さ、身軽さに妖怪の肉体を得た化け猫には掠りもしない。

 悪五郎の周りには蛇たちが集うが、すべてチロによって打ち倒されていた。蛇たちの死体が積み重なる中、悪五郎は目を開ける。

「行くぞ、おふじ」

「待ってました!」

 おふじが悪五郎の方へと走って来る。虬も当然それを追う。だが、おふじは悪五郎の後ろに回った。

 不意に天から地へと降り注ぐ雨の動きが変わった。雨粒たちは軌道を変え、渦を巻くようにして悪五郎へと集まって行く。やがて悪五郎は原型を失くし、雨水と一体化した。

 悪五郎の種族、ぬらりひょんとしての能力、それが自身の体を液状化し、そして周囲の液体を吸収して己の体とするというもの。ある程度妖力を集中するのに時間が掛かるのが難点だが、上手く行ったようだった。突進して来た虬は自分の倍以上の大きさとなった悪五郎の体の水圧によって弾き返された。

 毒の息を吐こうが水によって守られる体に効きはしない。水の巨人と化した悪五郎は拳を振り上げ、そして虬の脳天目掛けて振り下ろした。

 妖力によって強化されたその打撃は簡単に虬の頭部の角をへし折り、そのまま体を潰した。虬の死とともに蛇たちも倒れ、動かなくなる。

「でかい奴とやるときゃこれが一番ええんじゃ」

 その言葉とともに悪五郎を覆っていた水は大地に流れ、彼は再び老人の姿に戻った。側に人の姿に変化したおふじが駆け寄って来る。

「何とか無事に終わりましたね~。こんなのがあと六つも出て来てるんでしょう?大丈夫でしょうか」

「大丈夫じゃよ。あいつらもこれぐらいの修羅場、何度も(くぐ)って来とるわい」



異形紹介


疱瘡婆(ほうそうばばあ)

 宮城県に出現したという妖怪。江戸時代の女流文学者・只野真葛の著書『奥州波奈志』に伝わる。奥州に疱瘡(=天然痘)を流行させ、病死した人間の死肉を食らったという。

 文化年間の初期、七ヶ浜村大須で疱瘡が大流行し、多くの死者が出た上に、その死者を埋葬した墓が荒らされ、遺体が盗まれたり食い散らかされたりされるようになり、人々は疱瘡婆という化け物が出たと噂された。村の名手三人の息子が病死した際に、名手たちは息子だけは食わせまいと塚の上に一七人で運んだ大岩を乗せ、夜には猟師に番をさせて厳重な警備を行った。二、三日の間は何も起こらなかったが、化け物をおびき寄せようと松明を弱めたある夜、土を掘り返す音が聞こえて来た。猟師が忍び寄ると、相手は轟音と共に木々をなぎ倒して駆け去った。遺体は無事であり、それきり墓荒らしが起きることはなかった。

 それから数年後のある市の立つ日、中年の女房と年老いた女房が買い物に出かけたところ、山の方を見た老いた女房が恐怖のあまり失神した。人々に介抱されて気がついたものの、何事があったのかと訊ねられても何かを恐れている様子で、決して理由を話そうとはしなかった。

 それから三年が過ぎた後、やっと老女が打ち明けたことには山に化け物の姿を見たということだった。それは顔が赤く、頭が白髪で覆われ、身長が一丈(約3メートル)もある獣で、老婆のような容貌をしていたといい、あれこそ疱瘡婆だと老女は語ったという。



八束脛(やつかはぎ)

 群馬県利根郡月夜野町後閑に現れたと伝えられる巨人。夜、畑の作物が根こそぎ盗まれる事件が起きたので見張りを立てたところ、この巨人が現れて畑を荒らして行ったという。そこで見張りが巨人を追うと、垂直に切り立った大きな岩の洞窟に藤の蔓を伝って入って行った。そこで村人たちは相談の結果その蔓を切ることにしたが、その後巨人が現れなくなった代わりに疫病が流行ったとされる。その後、洞窟を見に行くと巨人の骨が散乱しており、脛の骨などは足首の部分まで八掴みするほどの長さであったという。そのため骨を丁寧に葬ったところようやく疫病は収まったと伝えられる。


 ここで見たのは妖怪としての八束脛だが、この八束脛の名前は日本神話にも登場しており、土蜘蛛や蝦夷と同様中央にまつろわぬ地方民の蔑称として使われていた。『常陸國風土記』には「(くにびと)(ことば)都知久母(つちくも)、又、夜都賀波岐(やつかはぎ)といふ」とあり、土蜘蛛と並んで八束脛が書かれている他、『越後国風土記』逸文においても「越後の國の風土記に曰はく、美麻紀の天皇の御世、越の國に人あり、八掬脛(やつかはぎ)と名づく。其の脛の長さは八掬、力多く太だ強し。是は土雲の後なり。その属類多し」とある。また群馬県には上に紹介したものの他にも八束脛の伝承が残されており、それによれば羊大夫という人物に仕えていた足の長い男とされる。その八束脛の脇の下には黒い羽があり、それによって空を飛ぶことができたとされ、その羽を主人の悪戯により抜かれたためにその力で大和へと通っていた羊大夫は大和へと顔を出せなくなった。そしてそれが原因となり、謀反の疑いをかけられ滅ぼされたという。また、その際八束脛は金の蝶となって洞窟に隠れ住んだという。ちなみにその洞窟は上に挙げた群馬県利根郡月夜野町後閑であるため、上の話の前日譚である可能性もあるが、八束脛という存在に対して同じ地に伝わる別の伝承が作り上げられて行った可能性もある。

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