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黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第二九話 散りぬる風のなごりには
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四 散りぬる風のなごりには

「そして、その男性が描いた絵は再びこの異界を訪れた。未だ完成せぬままに」

 昔話を終えた少女は、懐かしむような目で丘の上の桜を見る。

「ならこの絵にはその死んでしまった女性の魂が乗り移っているということなのかな」

「そうであるとも言えるし、そうでないとも言えます」

 少女は視線を絵に向け、僕に言う。

「確かにこの絵には一人の人と一人の(あやかし)の強い想いが込められています。でも、それらがそのまま絵に宿ったわけではありません。強い想いを受けた物の中には、やがて霊体(こころ)を持つようになるものがいる。この絵の場合は絵の完成を待たずに死んでしまった女性と、絵を完成させることのできなかった男性の強い想いを背負って妖となったのでしょう。同じように絵を描くあなたなら、ひとつの絵にどれだけの想いが込められるのか分かるでしょう?」

 少女に問われ、僕は頷いた。

「そんな想いを背負って妖となった絵は、画霊と呼ばれます。画の霊であるが故に彼らは言葉を紡げない。しかし、画霊となったからには、何か伝えようとすることがあるのです」

 少女は僕を見る。風が吹き、桜が舞う。

「この絵は、あなたに自らを完成させてもらうことを望んでいるのでしょう。同じ絵描きであり、かつて桜の下で愛するものを失ったあなたに」

 少女の髪を春風が揺らす。

「この絵を描いた人に、僕は似ているのか」

「ええ。だからこそこの絵は、あなたにその身を委ねた。あなたならばかつての(あるじ)の後を継ぐことができると思ったのでしょうね」

 僕は改めて桜の絵を見た。まだ影のようでしかない桜の下に佇む女性。心を持った絵は、この姿を借りて僕の前に現れ、そして伝えようとしたのか。

「分かった。僕がこの絵を完成させる。それがこの絵の望みならば」

 そう言うと、少女は優しげに微笑んだ。

「ありがとうございます」

 そう礼を言い、少女は再び僕の持った絵に触れた。淡い紫色の靄のようなものが絵に掛かったかと思うと、すぐに消えた。

 その直後、絵の中からあの女性がゆらりと姿を現した。今度は影のような覚束ない姿ではなく、桜色の和服を来て、黒い髪を春風になびかせている。

 彼女は僕の方を見て一度頷くと、桜の木へと駆け寄って行った。そして、絵の中と同じようにその下に佇む。

「お願いします。長い時を経たあの絵の想いを、完成させてあげて下さい」

「分かった」

 少女は言った。僕は筆を手に取る。そして桜満ちる空を見た。




 僕はただひたすらに筆を走らせ続けた。かつてこの絵に描かれた女性、そして描いた男性とのものともに、僕の想いが込められて行く。

 画霊はただ桜の下に立ち、僕を見つめていた。きっとこの絵が描かれた当時もそうだったのだろう。こうやって、二人はキャンバスを挟みながらも、互いの存在を感じていた。

 描いているうちに空は濃さを増して行った。もうすぐ夜が来る。僕は筆を動かす手を止めた。急いで描き上げるよりも、じっくりと描き上げた方が良い。そう思った。

 いつの間にか画霊の姿は消えていた。僕は絵画を持ち、そして夕闇の下を山坐(さんざ)の家へと帰って行った。




 山坐の家に辿り着いた頃には辺りはすっかり暗くなっていたが、山坐の母は僕を歓迎してくれた。山坐の姿はなかったが、どこかに遊びに行っているのだろうと思った。

 十数時間振りに暖かいご飯を頂き、そして布団を貸してもらって横になる。

 真夜中、布団に横になり、うとうととしていたとき、家の外から何か言い争うような声が聞こえて来た。少年の声と、少女の声だ。聞いたことがある声だったから、恐らく山坐とイコのものだろう。

 どうして争っているのか、それは分からなかった。そのまま僕の意識は闇に落ちた。




 朝、僕が起きた時、山坐もまた起きていた。部屋の隅に座り、何やら蹲っている。僕は明るい顔をした彼の顔しか知らなかったから、その表情には少し驚いた。

「どうしたんだい?」

 僕が声を掛けると、僕の存在に初めて気づいたように彼は静かに首を上げた。その両目には、たくさんの涙を流したであろう跡がある。

「イコちゃんと喧嘩したのかい?」

「知らないよ、あいつのことなんか」

 やはり、喧嘩したのか。妖怪と言っても子供同士は変わらないのかと、少し微笑ましくなる。

 僕は山坐のすぐ隣に座った。そして、かつてのことを思い出す。

「僕もね、昔幼馴染がいたんだ。里奈という名前でね」

 山坐が顔を上げ、僕を見る。

「子供の頃から一緒だったんだけどね、死んでしまった。事故だった」

 まだ幼稚園にも上がる前から出会い、同じ学校に通い、そして共に上京した。そして、大学に入ってすぐに交通事故で死んでしまった。

「里奈が死んでしまって以来、僕は全てのものが色を失ってしまったようになってね。ただ時間が過ぎることに身を任せて生きていた。楽しいとも、辛いとも思わずにね。だけど、そんな僕を救ってくれたのもまた、里奈だった。彼女は最後にもう一度だけ僕の前に現れて、昔の僕を思い出させてくれた」

「人間なのに、幽霊が見えたの?」

 山坐の問いに、僕は首を横に振る。

「違うよ。僕と里奈とを引き会わせてくれた人がいたんだ。きっとその人も妖怪だったのだろうけど、それをきっかけに僕はまた昔の気持ちを思い出すことができた。感謝してもしきれない」

 僕は山坐の肩に手を置く。

「僕には偉そうなことは言えないかもしれないけれど、だから、君たちも後悔をしないようにいて欲しいんだ。いつかは必ず別れは来るものだから、その時に後悔しないように」

 山坐は黙っていたが、頷いた。

「兄ちゃん、話が重いよ」

「ごめんごめん。つい昔の僕たちを思い出してね。でもイコちゃんもきっと、仲直りを待っているはずだよ」

 そう言って僕は立ち上がる。今日もまた、あの絵を描きに行かなければ。




 僕は再びあの桜の丘へとやって来た。画霊はいつの間にか桜の下へと佇んでいる。

 僕は頷き、また筆を取る。集中すれば今日のうちには完成させることができそうだった。

 色褪せた空や桜に再び色を付け、そして画霊の姿を描き込んで行く。影でしかなかった姿は、やがて桜色の着物を纏った女性へと形を成す。

 もしかすれば、僕なんかよりずっと上手くこの絵を完成させられる人がいるのかもしれない。でも画霊は僕を選んだ。それならば、それに全力で応えるだけだ。

 枝に揺れる花、空に泳ぐ花びら、元の絵がそうであるように、それらひとつひとつを丹念に濃い水色をした空の上に描き込んで行く。

 そして最後に、画霊の姿を詳細に描いて行った。着物の柄、皺から、瞳の中の光、風に揺れる髪先まで。僕が出来得る限りにその姿を絵の中に閉じ込める。

 春風が吹いて、僕は深く息を吐いた。絵はこれで完成した。自分のできることは精一杯やったと、そう思う。

 ふと見ると、いつの間にやら画霊は僕の側に立っていた。

「これで良いかい?」

 僕が尋ねると、画霊は柔らかく笑み、そして頷いた。その姿はやがて霧のように春の下に消えて行った。

 僕は絵を見る。そこには桜の下に佇み、こちらを見て笑う女性の姿がある。画霊は、積年の想いを遂げることができたのであろうか。

「さくら花、散りぬる風のなごりには、水なき空に、浪ぞたちける」

 昨日と同じように後ろから声が聞こえた。僕は振り返る。死神の少女は、僕のすぐ側までやって来て立ち止った。

「古今和歌集の、紀貫之の歌です。あの桜のように、風に散る桜を空の波に例えた歌」

 少女は言い、そして僕の持った絵に目を向けた。

「散ってしまった桜花でも空に波のようになごりを残すように、命を散らしてしまった女性も、その絵の中になごりを残す。描いた男性はそれを望み、そしてその想いを受け継いだ画霊もまた、それを望んでいたのでしょう」

 そうなのだろう。僕が少しでもその手助けができたのなら、それでいい。

「言葉を話せぬ画霊に代わり、私が礼を言わせていただきます。ありがとうございました」

 少女は言い、僕に頭を下げた。

「そして、今すぐにでもあなたを元の世界に戻すこともできますが、何かここでやり残したことはありますか?」

「うん、少しあるかな」

 僕は言った。まだ山坐やイコに別れを告げていない。そのままいなくなってしまうのは寂しいと思う。

「分かりました。では、それが終わった後にまたここに来てください。その後に、あなたを人間界へと送りましょう」




 僕は山坐の家へと向かった。時は夕暮れで、水田を夕陽が赤く染めている。

 僕が現れた時、山坐とイコは二人仲良く山坐の家の前で遊んでいた。イコの頭には、山坐が買っていた(かんざし)が見える。

「あ、お兄さん!」

 イコが僕に気が付いて駆け寄って来た。後ろから山坐もやって来る。

「仲直りできたようだね」

 僕が言うと、二人とも照れ臭そうに頷いた。僕はひとつ呼吸を置いて、そして話し始める。

「実はね、僕はもうすぐこの世界を出ることになったんだ」

「え、帰っちゃうの?」

 そう言ったのは山坐だった。僕は頷く。

「僕は人間だから、人間の世界に帰らなきゃならない。だからさ、僕と君たちが出会った証に、君たちの絵を描かせてくれないかな?」

 僕が問うと、二人とも嬉しそうに同意してくれた。

 そして僕は縁側に座り、遊ぶ二人の姿をスケッチブックに写して行く。夕焼けの下、楽しそうに笑い合う二人の姿を。

 鉛筆で下書きし、色鉛筆で彩を与える。一時間もあればそれは出来上がった。これは僕がここに来て、二人と出会った何よりの証だ。僕が描いた絵は僕に嘘を()けないから。

 そして僕はもう一枚スケッチブックを捲り、再びを描き始めた。それは手を繋ぎ、共に縁側に座る山坐とイコの姿。これは二人にあげようと決めていた。

 空が全て夜に染まったころには、二枚の絵は出来上がっていた。僕は後に描いた方の絵をスケッチブックから切り取って置く。

 手を繋いだ絵だから、山坐に渡しても素直に受け取ってくれないかもしれない。だから僕はイコを呼び、そしてその絵を手に乗せた。

「いつまでも君たちが仲良くいられるように、僕からの贈り物だ。もう喧嘩なんかしちゃダメだよ」

 そう言うと、イコは少し顔赤らめながらも頷いた。

「ありがとうお兄ちゃん」

「うん。こちらこそありがとう。こっちに来た時に君たちが見つけてくれなかったら、僕もどうなっていたか分からない」

 たった数日の間だったが、様々なことがあった。しかし色々な景色を見て、色々な心に触れることができて、良かったと思う。

「何してたんだよー」

「なんでもなーい」

 イコは再び山坐との遊びに戻って行く。僕は微笑ましい気分でそれを見つめながら、自分も昔はああだったと思い出す。

 もう昔には戻れないけれど、懐かしむぐらいは良いだろう。




 翌日、僕はこの黄泉国と呼ばれる世界を回っていた。僕の見た景色をひとつずつ、絵として残して行く。僕がこの世界を訪れ、そしてこの目で見た証として。

 大地を流れる川を、風に揺れる草原を、妖たちの住む町を、そしてどこまでも続く田畑を。ひとつひとつ、僕の目を通した景色としてスケッチブックの中に描き出す。

 満足が行く頃にはもう日は暮れ始めていた。僕はそのままあの桜の下へと向かう。ずっとこの場所にいると、未練が大きくなってしまう。

 丘へと辿り着くと、既にそこにはあの死神の少女が待っていた。

「もうよろしいのですか?」

 僕は頷く。

「いつか里奈さんに魂を救われたあなたは、今度はひとつの絵の魂を救いましたね。きっとこれは、あなたにしかできないことでした」

「それなら僕も嬉しいな」

 少女は優しげに笑み、そして僕に言う。

「あなたなら、ここで起きた出来事も忘れはしないでしょう。それでは、さようなら」

 少女は僕の頬に人差し指と中指を触れた。ひんやりとした感触があり、そして僕の意識は遠退いて行った。




 気が付けば、僕は自分のアパートのベッドに眠っていた。起き上がり、目を擦る。

 まるで夢を見ていたような感覚だったが、僕の右腕にはしっかりと、画霊の姿が描き込まれた桜の絵が抱えられていた。そしてスケッチブックを開けば、僕の描いた山坐とイコの絵もちゃんとある。

 僕は伸びをした。久々の人の世界の空気は濁っているようにも思ったが、同時に懐かしくもあった。僕はベッドから下り、余っていた額縁を持って来ると、まず桜の絵をそれに入れ、壁に立て掛けた。

 そしてスケッチブックを捲った。夕暮れの下で笑う山坐とイコの絵、そして黄泉国の景色を描いたいくつかの絵。それらは全て、僕があの場所にいたという確かな証だった。

 絵は人の想いを一身に受けるもの。だから、これらの絵は形のある思い出として、僕の側にあり続けてくれるのだろう。

 僕は日付を見る。ちゃんと黄泉国にいた時間は経っている。もうすぐ里奈の命日だ。

 今年の墓参りでは、この世界とは違う世界に行った、不思議な話をしてやろう。そう思いながら、僕は窓から外を眺める。

 空は、まだまだ明るく春風を照らしているようだ。



異形紹介

画霊(がれい)

 江戸時代に書かれた藤原家孝の随筆『落栗物語』に登場する妖怪で、画の中の女性が現実に現れたという怪異。

 勧修寺という宰相家に、女性の絵が描かれたぼろぼろの屏風があった。穂波殿にその借用を依頼された勧修寺はそれを快く貸し出すが、穂波殿の屋敷近辺で怪しげな女性が出没するようになった。その女性の跡を付けると屏風の元まで移動して姿を消したと言う。

 気味が悪いと屏風は勧修寺に返されたが、その勧修寺においても女性の姿は目撃されるようになる。そこで絵に描かれた女性に紙を張り付けたところ、その女性も紙を付けて現れた。

 屏風を怪しんだ勧修寺が絵師に調査を依頼したところ、その屏風の絵は土佐光起のものであり、貴重なものだということだった。そこで絵を修復し、大切に保管することにしたところ、以降その女性は現れなくなったという。

 「画霊」という名前で呼ばれる妖怪はこの一例のみだが、絵の怪異は昔から多くいる。秋田県には「絵紙女房」という絵から出てきた女性と夫婦になる男の話があり、また『太平記』には尊良親王が絵合せで披露された絵の中に描かれた女性に恋し、最終的にその女性を現実で見つけて結ばれる話が語られている。

 また、現代においても都市伝説や学校の怪談において音楽室の音楽家の肖像画の目玉が動く、光る、モナリザの絵が動く、絵の中から抜け出すなどの怪異が語られている。

 このように、かつてから人は絵というものには不思議な力が宿ると考えていたのかもしれない。

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