一 月よりの逃亡者
白き月影映ゆる地に、其の姫君は舞い降りし。
天に犯しし罪のため、人に拾われその姫は、人を慕ひ慕はれて、長き年月経る毎に、地への想いを募らせむ。
望月昇る或る夜に、月の天人降りし時、月の姫君羽衣を、纏い夜へと消え行きむ。
それより八千代の時を経て、姫は再び舞い降りし。
冬の終わりの澄みし空、夜陰を背負ひし満つ月の、輝く夜の物語。
第二六話「輝夜物語」
冬は終わりに近付き、春を間近に控えた黄泉国には、次第に新たな緑が芽吹き始めている。雪は降れども淡雪で、土に落ちれば消えて行く。
そんな晩冬のとある日。望月が浮かぶ宵に、美琴は霊力が空に走るのを感じた。縁側でひとり月を見ていた美琴は、それが境界が開いたことによるものだと気付いていた。
美琴は宵闇の向こうを見る。霊磁場の乱れは空から。しかもこの黄泉国の上空でのよう。ならば放置することもできまい。
美琴は縁側を降りると、一足跳んで屋敷を囲む塀を飛び越えた。そのまま着地と同時に跳躍を繰り返し、建物の屋根や木々を蹴りながら一気に進む。
やがて眼下に町は過ぎ、景色は森を抜けて平原となる。夜風に揺れる草叢の上にそっと降りたち、美琴は霊気の揺らぐ空を見る。
一瞬雷のような閃光が走り、そして空から何かが現れた。微かな輝きを放つ牛のいない牛車のようなその物体は、片羽を失った蝶のようにふらふらと空中をさ迷い、草の上に横向きに倒れた。
中から妖気の気配を感じる。それは誰かがその中にいるということを意味していた。美琴は走り寄り、その戸を開こうとするが、妖術がかかっているためか開こうとはしない。
「仕方ない、か」
美琴はそう呟き、戸に手を掛けるとそのまま引き千切った。壊してしまうことになるが、誰かが閉じ込められている以上は放って置く訳にもいかない。
中には気絶したように目を瞑ったままの、若い女の姿がある。妖気の強さからして人間ではなく異形だろう。
美琴は両手でその女を抱え上げると、とりあえず車の中から運び出し、草の上に横たわらせた。
浅黄色の小袿を来たその女の外見には特に外傷も見当たらず、霊力や妖力を見る限りも命に別条はなさそうだった。
一応仙太郎の診療所に運ぶべきか、そう考えていた時、再び美琴は霊力が空間に干渉するのを感じて空を見上げた。空間が裂け、一人の男の異形が現れる。
直垂を来たその異形は平原に降り立つと、美琴を睨んだ。
「姫様を放せ」
男は怒気を孕んだ声で美琴に告げる。
「むしろ助けたのだけれど」
美琴は抑揚のない声でそう答える。男は聞く耳を持つ様子はなく、怒りの滲んだ霊気が伝わって来る。
男が何かを発動した。その瞬間、美琴の体が重くなった。質量のあるものに圧し掛かられたと言うより、体の筋力を奪われたような感覚だ。そして、それが妖力を奪われていることによるものだと気付き、美琴は男を見た。あの異形は触れずとも相手の妖力を吸収することができるのか。
だが、これぐらいならば大した問題にはならない。美琴は右掌の上に妖力の弾を作り出すと、それを男に向かって投げつける。
男は片手を上げると、その妖力の塊をそのまま吸収した。だが、同時に美琴が走り出している。
男は向かってくる美琴に拳を突き出すが、美琴はそれを腰をかがめて避け、その腕を掴んで勢いを利用し、背負い投げで地面に叩き付ける。
「少し黙って話を聞けないのかしら?」
「黙れ!姫様を返すんだ!」
男は腕を振りほどき、美琴から離れると妖力を開放した。その体に光の粒子のようなものが集まり、その姿が巨大化して行く。
煙のようにおぼろげな姿で十尋ほどに巨大化したその異形は、同じく肥大化した拳を振り下ろす。だが美琴はそれを跳んで避けると、降下と共に踵を異形の頭頂部に叩き付けた。巨体がぐらりと揺れ、草原に沈む。
「まあ穢れはないようだから、殺しはしないけれど」
美琴は妖力を放出し縮んで行く異形を見て、そして先程の女性の方に目を向けた。
「姫様、ね」
空にできた境界に、望月、そして姫。その三つが重なる事象には心当たりがあった。
美琴は一人、月の満ちる夜を見上げる。
わたくしが目を覚ました時、最初に感じたのは眩しさというものでした。瞼を閉じているのに、その向こうに光があると分かる眩しさ。それはとても新鮮で、だけれど目に痛い。
わたくしは瞳を薄らと開け、その暖かな光に目を慣らして行きました。たったそれだけの行為がとても新しく、そして懐かしい不思議な感覚でした。
体の感覚から、わたくしが何か柔らかなものの上に横たわっていることにもやがて気付きました。車の中での感覚ではないことを考えると、誰かがわたくしを運んで下さったのでしょうか。
やっと光を受け入れた瞳を開け、わたくしは辺りを見回します。すると、わたくしは寝具の上で眠っていたことが分かり、また窓の側に座って外を見ている黒髪の女性の姿が見えました。
窓の向こうに見えるのは空。それは光に満ちた青い色に染まっていて、思わず見とれてしまうほど。さらにその向こうには白く輝く天日が見えて、わたくしは地の上にやって来たのだと実感することができました。
「あの……」
わたくしが声を掛けると、その女性は静かにこちらを振り向きました。お人形のように綺麗な顔をしたその方は、わたくしを見て微笑みました。
「目が覚めたのね」
わたくしは体を起こし、その方に頭を下げます。
「あなたがわたくしを助けてくだすったのですね」
「大したことはしていないわ」
そう仰り、その方は私のすぐ側に腰を下ろしました。
「私の名は美琴。あなたは?」
女性の言葉に、私も自らの名を返します。
「わたくしの名前はかぐや。夜の食国は月の都から参りました」
そう告げると、美琴と名乗られた女性は「やはりね」と小さな声で仰りました。わたくしのことを知っているのでしょうか。そう尋ねると、美琴様は頷かれました。
「恐らく、あなたのことを知らないこの国のものはほとんどいないのではないかしら。でも、実在していることを知っているものは少ないけれど」
美琴様はそう耳に心地よく染み入るような声で仰ります。しかし、どうしてわたくしの名がこの国で知られているのでしょう。
「だけれど、どうして月の姫君がこの黄泉国に?」
美琴様がそう疑問を投げかけます。
「とても、単純な理由なのでございます。ただ、わたくしは中つ国が見たかったのです」
それが、わたくしがこの地に降りた理由。わたくしは息を吸い、美琴様に話し始めます。
「ずっと昔、わたくしにはこの地に降り立ち、日々を過ごしました。その時わたくしはどんな想いで人々と関わり、そして時の移り変わりを見つめていたのか、どうしても思い出せずにいるのです。たくさんの記憶は残っているのに、そこから感情の記憶だけが抜け落ちている。だけれど、それは大切な想いだということだけは、心のどこかで分かっているのです。それを見つけるためにわたくしはやって参りました」
美琴様は黙したまま聞いておられましたが、最後にひとつ首を縦に振り、優しげな声で言いました。
「分かったわ。しばらくこの国に留まると良い。その記憶を取り戻すまでは」
美琴様のその暖かなお言葉に、私は胸が詰まりそうでした。すぐに出て行けと仰られても文句は言えない立場でありますのに、こんな空から落ちてきたわたくしのようなものを助けてくださった上にそのような言葉を掛けてく下さるなど、本当に感無量の想いでした。
きっと、あの時わたくしを見つけ、お家に置いて下さったあの二人にも同じ想いを持っていたのでしょう。その感情を忘れてしまったことが悔しくてなりませぬ。自分の記憶のはずなのに、他人の記憶を覗き見るような感覚になるのはもう嫌なのです。
わたくしが頭を畳につけるようにして礼をすると、美琴様は苦笑して「良いのよ」と仰りました。そして、それにこう続けました。
「そういえば、あなたを追ってきたであろう男の妖を保護しているのだけれど、心当たりはある?」
かぐやと名乗ったその異形を階下の部屋に連れて行くと、既に美琴を襲った妖は体を起こしていた。
「剛!」
かぐやがそう声を掛けると、剛と呼ばれた妖は彼女の方を振り向き、一瞬固まった後に立ち上がった。
「姫様!ご無事で!」
「ええ、こちらの美琴様が助けて下すったのですよ」
そうかぐやが告げると、剛は昨夜とは打って変わって美琴に向かって低く頭を下げた。
「それは、かたじけないことを」
「別に良いのだけれど、あなたも夜の食国の住人なの?」
美琴が問うと、剛は頷いた。
「私は桂男と呼ばれる種族のもので、姫様の護衛を任されていたものです。しかし、突然姫様が月の宮殿を抜け出してしまい、それを追っているうちにこの場所に……」
やはりそういうことかと、美琴は考える。そもそも夜の食国のものが地上にやって来ることはほとんどない。あっても公的な理由での訪問だった。
「しかし姫様、この光は一体何なのですか。それに空も見たことがない色に染まっている。何か起きているのですか?」
「いいえ、剛。これが昼間、というものなのです」
かぐやがそう微笑する。剛はまだ戸惑っている様子で曖昧に頷いた。
「美琴様はご存知かもしれませぬが、わたくしたちの住む夜の食国には昼間というものが存在しないのです。ずっと淡い光に包まれた夜の世界、それが夜の食国」
かぐやはそう美琴に説明した。美琴は静かに頷く。
「しかし姫様、早く月の都に帰らねばなりませぬ。とにかく境界へ向かいましょう」
剛が言うが、かぐやは首を静かに横に振った。
「それはできませぬ。望月の夜はもう過ぎてしまいましたから。次の都への境界が開くのは一月の後のこととなりますの」
その言葉を聞き、剛は表情を固めた。夜の食国の地上への境界が開くのは満月の日のみだと美琴も聞いたことがあった。
「そんな……、貴方は月の都の姫君なのですよ!?それが無断で一月もいなくなるなどと……」
「あら、断ってしまったらわたくしに境界を抜けさせることなどさせてくれなかったでしょうに」
月の姫はそう悪戯ぽい笑いを見せる。図星なのか、剛は何も言い返そうとしない。
「わたくしはずっと昔この地の上で長き時を過ごしました。その記憶は残っています。ですが、その想いがどうしても思い出せないのです。だけどそれはとても大切なものである筈なのです……」
かぐやはそう遠くを見つめる。『竹取物語』の中において、月の姫君は物語の終わりに羽衣を纏い、人間らしい想いを無くして月の世界へと去って行く。
そのことを言っているのだろうと美琴は推測する。物語が全くの架空のものと断言できないのがこの世界だ。
「でも、天界からお客が来るなんて本当に久し振り」
美琴はそう言った。天界はこの黄泉国のように地上に繋がる異界とはまた別の、特殊な異界だ。
「その、天界とは?」
剛が布団の上に座ったまま尋ねる。意外とくつろいでいる。
「そう、剛はこの世界が異界、境界、人間界と三つの世界に分けられていることは知っておりますね?」
かぐやの言葉に剛が頷く。
「その中でも異界は、天界、地界、冥界の三つの階層に分けられているのです。ですよね、美琴様?」
かぐやに確認するように問われ、美琴はその言葉を引き継ぐ。
「ええ。その通り。この国で言えば天界と呼ばれるものは高天原と、あなたたちのいた夜の食国の二つ。冥界と呼ばれるものは根の国、常世の国の二つね。それ以外は全部地界。もっとも、この黄泉国もかつては冥界の名前だったのだけれど」
美琴は一度息を吐き、そして続ける。
「天界や冥界は、基本的に神族と呼ばれる種族によって支配されている異界。この国の地界は私たちのように妖怪によって支配されている異界であることが多いわね」
神族、それはかつて神話の時代より語り継がれてきた神と呼ばれた種族。時代的には恐竜の時代よりも後、そして妖怪や人間の時代より前にこの星に現れ、世界を支配していたと言う。
人や妖に関わり、知恵や力を与えたものもいたようだ。だが、ある時外宇宙からやって来たという外なる神たちとの戦いが勃発し、それによって力を失った多くの神たちは天界や冥界と呼ばれる特殊な異界へと身を隠した。
そうして神々は人と妖の世においては伝説の存在となった。だが彼らはいなくなった訳ではない。地上にほとんど干渉しないとは言え、天冥二つの異界の中に存在している。そして、神族や他の異形のものたちとそこで生活しているのだ。
天界や冥界のような異界は境界の開き方や環境が普通の異界と異なっているため、ほとんど隔絶した世界と言っても良い。だが、稀にそれらの異界の住人達が互いの異界を行き来することがある。そう、今回のように。
「この場所に降りてきたの本当に偶然でした。天界の境界は、どこに繋がるのかが不確定ですから。わたくしには境界を固定する力もありませぬし。だから本当に、美琴様には感謝しております」
「この国に攻撃してくる相手でなくてよかったわ」
美琴はそう言って笑った。行き場もないのだろうし、しばらくはこの地に留まらせてあげたいと思う。二人とも今の地上についてはほとんど知らないのだろうし、そんな状態で放り出すのは危険だ。
「ここにいるのは構わないから色々と見て回ったら良いわ。一月もあれば、昔の感覚だって取り戻せるでしょう」
「はい、ありがとうございます」
かぐやはそう頭を下げる。天界の住人が中つ国と呼ばれるこの地上に降りて来たということは、並々ならぬ決意があったからなのだろう。それを無碍に否定する気にはなれなかった。
「この国の中は安全だから、まずはここで地上に慣れると良いわ。人の世界に行くのはそれからね」




