松田の御隠居様(前)
お小夜ちゃんのおじいさんの物語。
「あらぁ~、慶ちゃんやないの」
「よぉ、今日もお松はえらいべっぴんさんやなぁ」
「もぉ~、慶ちゃんみんなに言うてはるんやろ~?」
「お松が一等でべっぴんやわぁ~」
この男、名を慶二と言う。松田家の次期当主である。年の頃は二十二ほどであろうか。慶二という男は、酒と女にだらしがなく、大層多くの浮き名を流してきた。誰もが嘆息するほどの美丈夫で、男っぷりも良く、これでいてなかなか気がきくとあって、町娘の羨望の眼差しを一身に受けていた。子供のような八重歯が、笑う度にちらりちらりと見え、慶二を歳よりも若く見せる。女性からは可愛いと評判の八重歯だった。そして、今日もまた、ぶらりと町に出かけては、出会う町娘たちに声をかけるのだった。
「お松は本間にべっぴんやなぁ。どうや、俺の女にならへんか?」
「やぁよ。慶ちゃんみんなに同じこと言うてはるん知ってるもん」
慶二は女を見ればやれべっぴんや、やれ俺の女になれやと女を口説く。
「女の子はみぃーんな、可愛いんやもん。そん中から一人に選ぶやなんて……罰当たるわぁ!!みんなの慶ちゃんには出来へん……!!!」
女のように、顔に手を当てさめざめと泣き真似をする慶二にお松はケラケラと笑った。
『俺様』のような態度と子供のような言葉遣いが慶二にはぴったりだった。
「おぅ、慶ちゃん!取れたて新鮮の胡瓜や!持って行きぃ!」
「こりゃ美味そうやなぁ。おっちゃんおおきに!」
慶二はにかっと笑うと胡瓜を豪快にかじった。男も女も、子供のような慶二が大好きだった。
「けぇちゃん、今日は遊んでくれへんの~?」
小さな男の子がが慶二の裾を引っ張った。
「よっ、ため坊。今日はなぁ、遊べへんのやぁ。明日は一緒に遊ぼうなぁ」
ため坊は鼻を垂らしてにかっと笑った。
「けぇちゃん!!うちな、うちな、きょう、たまけり四かいもできてん!!」
ため坊よりも小さな女の子が小さな指を四 つ上げて慶二に見せる。
「お菊四回も玉けり出来たんか!そりゃすげぇやぁ!!次来たとき慶ちゃんに見せてやぁ」
お菊はにこぉっと笑い慶二にその小さな手を振った。
子供もみんな、一緒に遊んでくれる慶二が大好きだった。
慶二は町から愛されていた。みんなから愛されていた。
だが、家からは愛されていなかった。松田一の不作だと罵られた。唯一慶二を愛してくれた母は慶二が十五の頃に病であっさり死んでしまった。
最愛の母を亡くしてからだった。慶二が女遊びをするようになったのは。
「慶ちゃん、知っとる?最近噂の花魁の話」
お松は慶二に最近話題となってる花魁の話を持ち出した。
「えらいべっぴんさんで、気位が高くって、とにかく人気なんやってぇ」
「へぇ~。」
慶二は松の話に興味津々に耳を傾けた。顔には思わず笑みが浮かぶ。とにかく女の話に目がない。それが美人ときたらもう…慶二が気にならないはずがない。
なんかな、えらい若さで花魁まで上り詰めたらしいで。
番付けは常に上位やし、着てるもんも食べてるもんもな、格別なんやて。
古典、書道、茶道に和歌、三味線に囲碁、特に箏の腕前なんか、仕込んだ先生以上なんやて。
遊女につけるお稽古の先生って、本間に一流の人呼んではるらしいやん?
それ上回るって言うんやから本間に凄いんやろなぁ。
お松はうっとりと話題の花魁を思い浮かべた。
しばらく噂の花魁について花を咲かせていると、自分たちの周りから人だかりが消えた。
「ん?なんや騒がしぃなったなぁ」
何やら周りが騒がしい。男も女も子供も集まっている。何があるのかと慶二は首を傾げた。
「慶ちゃん!花魁道中やぁ!!ほら、さっきうちが言うた花魁、あれや。」
慶二はお松の指すほうを見た。
華雲と刺繍した帯をつけた可愛らしい禿たちを連れ、美しく気高く、しなやかに歩く美人。
「華雲………」
「花のように美しく華やか、そして雲のように掴み所がない、そういう意味なんやって」
一度も表情を崩さず、外八文字で歩く。洗練された動作と、きゅっと締まった真っ赤な唇。
ちらりと花魁が慶二の方を見た。すぐに視線は前へと向いたが、その一瞬で慶二の心は囚われてしまった。慶二の体は火がついたように熱くなった。
こんな気持ちになったのは初めてだった。